池の辺の婚約破棄騒動~主役は誰?
『これが最後の試練だ。あの花はすぐそこにある。透き通るような大きな花びら。あれを煎じて飲めば彼女を救うことができる。だが、この深い谷をどうやって越える? 谷底は水ではない。マグマだ。これを越えてあそこで薄ら笑いを浮かべている最強の悪魔と戦えるか? 俺なら出来るはずだ。自分はこの国一番の魔法使いではないか。少し距離があるが飛べないこともないだろう。自信を持て! 俺の大切な人が待っているのだ。さあ、一気に済ませよう!』
アンリエッタが次のページをめくろうとした時だった。
「アンリエッタ、君との婚約を破棄しようと思う」
ラミロの声が頭の上から響いてきた。アンリエッタは思わず舌打ちをした。もちろん周りに聞こえないようにだが。
まともに答えるのも面倒なので、本を持ったまましばらく動かずにいた。
「アンリエッタ! 聞いてるのか!?」
アンリエッタは読みかけの本を閉じて大きなため息を吐いて、ゆっくり顔を上げた。
「もう、何事かと思えば、そんなことですか。今、丁度良いところを読んでいましたのに。その話は別の所でお願いします」
「社交界の頂点に立つと言われる今を時めくシェルドン侯爵夫人のお茶会に招待されているというのに、こんな端っこで本ばかり読んでいるのは、夫人に失礼じゃないか?」
「お言葉ですが、お茶会はまだ始まっておりません。それにシェルドン侯爵夫人が、お茶会が始まるまでここでゆっくり本を読んで良いとおっしゃったのです」
目の前の小さな池の向こう側は。ちょっとした木立ちになってい。る。鳥のさえずりが心地いい。それもラミロの声で台無しだ。
「相変わらずありもしないことを言うんだな。いいか、婚約破棄は何が何でも受けて貰う」
ラミロは意気揚々と隣にいる小柄な女の子の肩を抱いて、少し伸びて来たダークブラウンの前髪をかき上げ、何やら自慢げに婚約破棄を叫んでいる。彼は自分が主役になるのが好きな人だというのをアンリエッタは知っている。
「別にかまいませんよ。ラミロ、やっと現実を受け入れる時が来たのね」
「ああ、俺は隣にいるリリナと結婚する。彼女は君と違って優しく気が利き、俺の気持ちを良く分かってくれるんだ」
「それは良かったですね」
彼は、意外なことを聞いたというように目を見開き、不思議そうに首を傾げた。
「君は本当にそれでいいのか? 君は俺を好きだったろう」
「何故その発想になるのですか?」
ラミロは不機嫌なアンリエッタの様子には頓着しない。主役はそんなことをする必要はないからだ。
「なぜって、君は僕が君の屋敷に行くといつも笑って迎えてくれた。君の好きなバラ園の一角でお茶と茶菓子を振舞ってくれた」
「まあ、あの社交用の笑顔を好意と思うなんて驚きだわ。それにバラ園は別に特別でも何でもありませんし、来訪したお客様にお茶をお出しするのは当たり前のことですわ。私自らは淹れたこともありませんよ」
「傍にいるだけでいいからと言ってくれた。君はいつも本を読んでいるかレース編みをしていたが君の僕を思う心は伝わっていた」
「そこにいて口を開かないで欲しいとは言いましたが、いてくれるだけでいいとは言った記憶がありません。それからあなたの言う伝わる気持ちって何でしょうか?」
「そっけない態度を取って、僕の気を引こうとしていただろう?」
相変わらずのラミロの思い込みにアンリエッタはこめかみを手で押さえた。
「なんだか、いろいろ行き違いがあるような気がしますが」
「それに、俺が君の家を去る時に涙を浮かべていたこともある」
「あれは、あまり長く居座るあなたがやっと帰ってくれたので嬉しかったのですわ」
「そんな心にもないことを。俺だって小さい頃からの婚約者を大事にしたいという気持ちはあった。特に君は小さい頃は可愛かったしね」
「そうですか」
今に始まったことではないが、自分に酔っているこの人には何を言っても無駄らしい。
主役は、さらに科白を続ける。観客も遠巻きではあるがぽつりぽつりと集まってきているから、彼はますます調子に乗っていくだろうとアンリエッタは思った。
「でも、今、俺は本当の愛を知ってしまった」
「まあ、真実の愛の対象とは、その横にあなたに寄り添っている女性のことでしょうか?」
「そうだ。可愛いだろう。心根も美しい。君も知っているだろう? 彼女はレッシャ―男爵家のリリナだ」
「いいえ、初対面ですわ」
「そんなわけはない。君は嫉妬に駆られて彼女に嫌がらせをしていたのを知っている」
「嫌がらせ? どんな?」
「リリナ、言うといい。僕が付いている怖がることはない」
「え、えーと王立公園でひどく睨まれました。遠くからでも私を良く思っていないことが分かりました」
「へーえ。私と会ったことがないのになぜあなたを睨んだのが私だと思ったのかしら?」
王立公園とは王宮の側にある公園で。元はと言えば四代前の王の側妃の離宮だった所だ。今は貴族達の社交場となっている。美しい泉には小さな船が何艘も浮かび、夏場は特に人気が高い。もちろん広い庭園には小径が張り巡らされ、四季折々の花木が咲き乱れる。
「私は時折、アンリエッタ様を見掛けていたの。その特徴のあるストレートの淡い金髪と碧い目は確かにアンリエッタ様だった」
「ふーん。ところでその王立公園はいつのこと?」
「だいたい一週間前です」
「王立公園にはこの二か月の間、足を運んでないわ」
「嘘をつくな! 他にもあるんだぞ」
「嘘などついておりませんが。他ってなんですか?」
「リリナが愛人の子だとか行儀作法が貴族の子女ではないという噂を流しただろう!」
「あら、男爵の愛人の子なのですか? 知らないことを噂にはできませんが。でも愛人の子なんて貴族には別に珍しいことでもないような気がします。ということは彼女は平民?」
「今は正式な男爵令嬢だ! 君はここのところリリナと僕が一緒にいることが多いのを妬んでそんな噂を流したんだ」
「仲良きことは良きことです。でも私は最近とても忙しくてあなた達を見かけたことはありません」
「ああいえば、こういう。そんな風だからお前とはやっていけないと思ったのだ。見ろ。リリナの天使のような佇まいを」
リリナは両手を胸の前で神に祈るように合わせた。桃色の髪をきれいにカールさせ、白いドレスを着て儚げな風情を漂わせている。少し潤んだ紫色の目でアンリエッタを見つめる姿は、天使とまではいかないが自分の見せ方を知っているようだ。
「アンリエッタ様。ラミロ様を自由にしてあげてください!」
「えーと、ラミロはいつだって自由だわ」
「婚約者と言う立場で束縛しているのではないですか?」
爵位の上の令嬢に対してのリリナの作法には若干問題があるが、つい先ごろまで平民だった彼女に、行儀作法を解いても仕方がないとアンリエッタは会話を続けることにした。
「束縛などした覚えはないし、ラミロは私の婚約者では......」
「アンリエッタ様。私と彼には『真実の愛』があるのです」
「人の話はきちんと最後まで聞いてほしいわね。まあとにかく『真実の愛』は、はぜる火花のようなものと小説には書いてあったわ。たとえそうでも『真実の愛』を実感できるのなら幸せだわ。よかったわねラミロ」
「アンリエッタ、この愛は一時的なものではない。永遠に続くものだ」
「それは素晴らしいですわ!」
ラミロは、『婚約破棄』と宣言しても、『真実の愛』と言っても、思ったような反応のないアンリエッタに対して、もう少し言葉を重ねないといけないのだと考えた。主役なら当然のことだ。
「知っての通り俺が十二、君が十歳の時から婚約している。君はずっと僕を慕っていたはずだ。その君に背を向けるのは心苦しいが」
「そんな気を遣わなくても大丈夫ですわ。愛などどこにも存在していませんでした。そして私は何度も言いましたよね。私たちは婚約していないと」
「それは、僕が好きすぎて照れていたからだろう。婚約者ではなく早く結婚したいという意味だったんだろう?」
「なぜそう言う解釈になるのか分かりませんが。ラミロ、私たちは婚約などしていませんよ。したこともありません」
ラミロは大げさに両手を広げ、肩をすぼめた。
「また、そんな強がりを言う」
強がりも何も事実なのに、なぜ受け入れようとしないのかアンリエッタにはさっぱり分からない。
「いいかい。僕は両親に十歳の頃から アンリエッタが僕と結婚する人だと両親に聞かされていた」
「お二人が勝手にそう思っただけです。私たちは釣り合いが取れるからと。私の家は繊維業で成功して裕福ですが、これといった産業のないラミロのデイトン伯爵家は、いまでも現在を生きるのにやっとですから、ご両親が願いを込めてラミロに私が婚約者であると刷り込んだのですよ」
「そんなばかなことがあるか」
「あなたとは正式な婚約は結ばれておりません。私はデイトン家に勝手に婚約者などと言われ、それを否定するのに大変な思いをしているのです。私たち家族はずっと迷惑しておりました」
「嘘だ! そんなでたらめ誰が信じるか」
「では、デイトン家の屋敷に帰って、正式な婚約の書類があるかどうか捜してくださいませ。それよりも貴族籍管理事務所に行った方が早いかもしれません」
そこに意外と冷静な声がした。リリナだ。
「ラミロ、今すぐに確かめた方が良いわ」
「そんなの必要ない。リリナ、俺とアンリエッタは婚約していたんだ!」
「ラミロ、なぜそこに拘るの? ......あ、そうなのね。分かったわ」
アンリエッタは黒ぶちの眼鏡を外し、立ち上がってラミロを真っ直ぐに見すえた。春の日差しが彼女を柔らかく包み、その美しい髪が風に僅かに揺れる。それを見てラミロは思わず呟いてしまった。
「う、美しいな。やっぱり婚約破棄はやめて......」
とても小さな声だったが、傍にいるリリナにははっきりと聞こえた。
(それが本音? 彼女の気を引きたかっただけ?)
リリナは、自分はただの道化だったということを確信した。
アンリエッタが周囲を見渡すと、また少し人が集まってきている。これはそろそろこのくだらない劇を止めなくてはいけない。
「ラミロ、私たちは婚約していない、それが真実なの。どうしてわかってもらえないのか不思議だけれど、これ以上ここに居て注目を浴びるのは嫌だわ。そろそろお茶会のメンバーもあちらに揃ってきたようなので、私はこれで失礼しますね」
そう言って本を右手に持ち、ラミロの横を通り過ぎようとした時、ラミロがアンリエッタの右腕を掴んだ。
本がばさりと音を立てて地面に落ちた。
「待ってくれ。七年間共に過ごした仲ではないか。もう少し言いようがないのか? 婚約破棄と言われて心が張り裂けそうだとか」
「あなたの独りよがりにはもううんざりです。主役を演じたいのなら他でやって下さい」
その時だった。地面に落ちた本を拾った者がいた。そしてアンリエッタを掴んでいるラミロの腕に衝撃が走った。叩かれたのだ。
「女性に無闇に触るな!」
「婚約者に触って何が悪い」
「アンリエッタは君の婚約者ではない!」
脇から現れた身なりの良い背の高い男が、ラミロから庇うようにアンリエッタの腰を自分の方に引き寄せた。
「お前こそ、なぜアンリエッタの腰を引く」
「ああ、私は彼女の婚約者だからいいのだ。アンリエッタ遅くなって済まない」
「いいえ、ちょうど良いところに来てくださいました」
「アンリエッタの婚約者だと? 嘘だろ! 貴様は誰だ?」
ラミロは怒りのこもった目でその男を睨んだ。
「ラミロ、やめてください。彼はこの侯爵家の長男であるネストール・シェルドン卿ですよ。会ったことはない?」
「どっかで会ってるかもしれないが良くは知らん。ネストールとやら、お前はアンリエッタのことを婚約者だと言ったな」
ラミロは主役を交代される危機をはらんでいるというのは分かった。なにせネストールは爵位も上、体格も上、顔は俺の方が良いとは思っているが、今は不敬よりも疑問を解消するのが先だ。
「ああ、二年前から正式な婚約者だ」
「はっ、二年前?」
ネストールはアンリエッタを優しい顔で見つめながら言った。
「ある夜会で法律関係の本の話で彼女、アンリエッタ・メルビン伯爵令嬢と意気投合した。容姿も教養も知識も素晴らしい彼女に私はすっかりほれ込んだ。すぐにも婚約を申し込もうとしたが、ある筋から彼女はすでに婚約をしているという話を聞いた。それでもあきらめきれずに彼女の父親に婚約のことを聞いてみたら、君とは婚約などしていないというではないか。そこですぐに彼女の気持ちを確かめて婚約を成立させた」
「なんだと!」
「まあ、その噂のお蔭で彼女を他の男に取られなくて良かったのだが」
ラミロは慌ててアンリエッタに尋ねた。
「俺は君と婚約してなかったというのは事実なのか?」
「そうよ、ラミロ。だからあなたの言う『婚約破棄』は、まったく意味をなさないの」
ラミロの目が彷徨い始めた。アンリエッタとネストールの親しげな様子。長い黒髪を後ろで束ねた美丈夫の男、ネストールがアンリエッタを見る熱い眼差し。アンリエッタの輝くような笑顔。全て自分との間にはなかったものだ。これはアンリエッタの言うことが正しいと認めざるを得ない状況だ。
主役を維持していくにはどうしたらいいのだろう。
「ラミロ、やっとわかってくれたようね。私とネストール様の結婚式は八か月後なの。ここ最近の二週間は侯爵夫人と結婚式の準備のためにほとんど毎日外出していたわ。王立公園など行けるわけがないの。リリナ様、嘘はいけませんよ」
「あらー、本当にごめんなさい。私の勘違いだったみたい」
リリナは両手を頬に当てて、目を瞑り、膝を曲げて謝罪の様子を見せた。アンリエッタはリリナに柔かな視線を向けた。
「リリナさん、あなた達の真実の愛を貫くための障害は無いのだから、私を貶めなくてもラミロと結婚できるのよ」
すると、全く予想しない答えが返って来た。
「いいえ、お言葉ですが、ラミロとの結婚はやめにします。こんなに鈍くて馬鹿な人と結婚したら苦労することが目に見えていますから。ああ若く美しい時期はそんなに長くはないのに、貴重な時間を費やしてしまって残念だわ。とにかく気を取り直して次に行かなくては。候補は何人かいるから、まあ大丈夫ですわ」
ラミロは、それを聞いて慌ててリリナに詰め寄った。
「なにを言っている! 俺たちの愛こそが『真実の愛』だと言ったのは君だぞ」
「真に受けないでよ。胡散臭いと思わなかったあなたが悪いわ。『真実の愛』と口にしたら、詐欺だと思った方が良いの。たいていは心の中で思うにとどめるものよ。だいたいアンリエッタ様の話をきちんとあなたが聞いていれば、私はこんな馬鹿げたことに加担することはなかったのよ。慰謝料が欲しいくらい!」
一陣の春の風が四人の間を吹き抜ける。前髪が払われ露になったリリナの顔は、儚げな風情は何処にもない。毅然とした乙女の顔がそこにあった。
「ラミロ、もうあなたに会うことはないでしょう。この勘違い婚約破棄騒動であなたがどうなるか分からないけど、私にはもう関係のないこと。じゃ、元気でね!!」
リリナはそう言うと、白いドレスをひるがえして颯爽とその場を退場した。小柄ながらその姿は美しくなかなかに見ごたえがあった。
残された三人は呆然と彼女の後姿を眺めていた。
ただアンリエッタは心の中でこう思った。
――この劇の主役はラミロではなく、彼女だったのね。外見に似合わず、強かでなかなか興味深い女性だわ。彼女のことをもっと知りたい!――
アンリエッタがリリナをモデルにして小説を書くのは、もう少し後のことになる。
終
お久しぶりです。体調を崩し、昨年いっぱいは何も手を付けられない状況でした。まだ万全ではありませんが、気力も体力も少しずつ戻って来たので、また書きたいと思っています。今年もよろしくお願いします。




