スローライフは紅茶と共に
王都での婚約破棄から、数か月が過ぎた。あの舞踏会の出来事は、翌朝の新聞を賑わせたらしい。まるで他人事みたいに笑ってしまった。あの夜の喧騒がまるで遠い夢のように思える。
私はいま、郊外の小さな屋敷でのんびりと暮らしている。朝は小鳥の鳴き声で目を覚まし、街を散歩する。領地の貧民街の再建も終わり、子どもたちが飢えや寒さに震える心配もなくなった。アメリアが建てた慈善院も私が買い取って、子供達の拠り所となっている。
事業も順調に軌道に乗り、今度は学校のような施設を作ろうと考えている。カイと一緒に、私のペースで少しずつやりたいことを実現していく。
「本日の紅茶はアールグレイでございます。デザートには焼きたてのアップルパイをご用意致しました」
「ありがとう……ねえ、もうお嬢様なんて呼ばなくてもいいのに」
「習慣ですので」
カイは少しだけ穏やかになった表情で笑った。
「それと、こちらはお嬢様へのお手紙です」
差出人は……ユリウス。封を切るとそこには短い謝罪の言葉と、アメリアが国外追放になった知らせ。彼は「愚かだった」と書き、最後に一言添えていた。
“もしリリアナが許してくれるのなら、もう一度僕の元に戻ってきてくれないか?”
「……遅いのよ、色ボケ王子。甘い夢ばかり見てきたツケよ。私が処理していた職務に手が回らなくなったってことかしら」
私は封筒を破り捨て、紅茶を一口飲んだ。
「まあ、少しは王子として国を守ってくれればいいわ」
そう呟くと、カイが少し悪戯っぽく微笑んだ。
そういえば原作でのカイは、リリアナが処刑されたその日を境に姿を消していたわね。その後の行方は一切描かれていなかった。「処刑の混乱の中で命を落とした」「実は国外に逃げた」「リリアナを愛していた」など、読者の間ではさまざまな憶測が飛び交ったが、真相は不明のままだった。
――だが、この世界で彼はリリアナ……私の側にいる。
優しくも鋭い眼差しを持ち、リリアナを支え続ける執事として。私が全てを変えてしまったのだろうか――カイの運命さえも。
「カイ、さっきも言った通り私はもうお嬢様じゃない、公爵の家紋を捨てて平民になったわ」
そう、あの騒動の前、両親に婚約破棄を伝えると家から追い出された。もちろん、私がそう仕向けたんだけどね。今後、別の貴族の男と政略結婚なんてことになったら、ここまでの苦労が水の泡だもの。
「だから、あなたはもう自由になっていいのよ」
「……わたくしはお嬢様にお仕えした時から、すでに自由の身でございます」
私が不思議そうに首を傾げると、カイはいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「そういえば、お嬢様にひとつだけお話ししていなかったことがありましたね」
「え? なに?」
「わたくし、あの色ボケ王子の兄でございます」
「…………は?」
カップを落としかけた私に、彼は楽しげに肩をすくめる。
「かつてのわたくしは、第一王子カイウス・アーデンという名でございました。王宮のしがらみに耐えられず逃げ出したんですよ。力尽きてお嬢様のお屋敷の庭で倒れていたところを助けられた――お嬢様はわたくしの命の恩人です」
「もし、お嬢様のそばを離れないといけない事態があれば、私はその元凶をこの世から消す覚悟でございます」
ふふ、と悪い笑みを浮かべるカイを見て、背筋がぞくりと凍った。
ま、まさか原作で姿をくらました後、王子を消そうと動いてたなんてことは……いや、そんな。実の弟を……まさかね。
「お嬢様は昔も今も、お優しいところは同じですね」
「え!!!」
「以前は我慢ばかりしていたお嬢様が、今ではご自身の道を選べるほどに強くなられた。本当に喜ばしいことでございます」
「……そ、そう」
ば、ばれてなさそうね……?
カイは優しく微笑み、静かに紅茶を注ぐ。窓の外では春の風が畑をやわらかく揺らしていた。
「本日の紅茶は、すこし香りが甘いですね」
「そう? ……きっと、平和な味がするのね」
ふたりは微笑み合う。午後の陽光がそっと差し込み、カップの中の金色がやさしく光った。




