第20話 逃避行
【シルヴァン視点】
『アストリア歴 千二百三十一年 十二月二日 夜 曇り』
王都オルティスを脱してから、丸一日が過ぎようとしていた。我々は馬を乗り続け、一度もまともな休息は取っていない。当初こそ、腐敗した王国兵士の追跡を振り切るのは容易いと踏んでいた。だが、甘かった。
初日の夜、馬を休ませるために森の中でほんの少しだけ足を止めた。その油断が、命取りになりかけたのだ。闇の向こうから、軍用犬の唸り声と、馬の蹄の音が聞こえてきた。追手は、我々が思うより遥かに速く、そして執拗だった。
グラハム軍務大臣が放ったのは、ただの兵士ではない。獲物の匂いを嗅ぎ分ける、手練れの猟犬たちだ。
そこからは、まさに不眠不休の逃避行だった。速度を稼ぐため、二日目にはバルト卿の紋章が入った重い胸当てを脱ぎ捨てた。三日目には、もはや無用の長物となった金貨の袋さえ投げ捨て、ひたすら馬の負担を軽くすることだけを考えた。
食事は鞍の上で干し肉をかじり、革袋の水を呷るだけ。仮眠も許されず、背後には常に追手の気配が付きまとっていた。バルト卿の顔には疲労が刻まれ、リックの目には焦りが浮かんでいる。
「くそっ、グラハムめ。まだこんな精兵を囲っていたとは!」
私ことシルヴァンも苦い顔をしている自覚があった。グラハムに対して頭の中で悪態をつき舌打ちしつつも、どこか冷静な自分もいた。
「私にも兵があれば……」
『アストリア歴 千二百三十一年 十二月五日 昼 晴れ』
ドドドドドドドド……。
三日三晩、我々は走り続けた。追手との距離はじわりじりと縮まっている。
クレアの街へと続く最後の平原に出た時、我々の馬は、もはや限界だった。そして、ついに地平線の向こうにいた、十数騎の黒い影が、少しずつ大きくなりはじめる。馬蹄の響きから、追手はこちらの十倍はいるだろう。彼らは、我々をクレアの街へ入れる気など毛頭ないらしい。
「くそっ、ここまでか……!」
リックが絶望の声を上げる。その時だった。バルト卿に付き従っていた二人の従者の馬が、立て続けに嘶くと、口から泡を吹いてその場に崩れ落ちたのだ。投げ出された従者たちは、必死に馬を起こそうとするが、すでに事切れていた。
「なっ……! 立て! 早く立つのだ!」
バルト卿が涙ながらに叫ぶ。だが、馬を失った従者たちに、もはや逃げる術はない。
しかし、彼らは諦めなかった。二人はゆっくりと立ち上がると、抜き放った剣を構え、迫りくる追手に向き直る。
「バルト様、リック様! どうかご無事で! 我らが、ここで食い止めます!」
「我らの誇りに、悔いはなし! クレアのために!」
長年バルト家に仕えてきたという、忠義の男たちだった。あまりに無謀な、しかし、主君を生かすためだけの、命を懸けた壁となる覚悟だった。
「うおおおおっ……!」
バルト卿が慟哭を上げる。振り返ろうとする父を、息子のリックが必死に制止する。
「父上、前へ! 彼らの死を無駄になさらないでください!」
その声に、バルト卿は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、自ら手綱を握り直し、馬の脇腹に鞭を入れた。
忠臣を犠牲にして先を急ぐ。その姿に、私の胸にも苦いものが込み上げてきた。これが、戦だ。誰かの犠牲の上に、誰かが生き延びる。
だが、その時。
前方、クレアの街の方角から、丘の上に翻る一つの旗が見えた。
真紅の地に、白銀の剣が描かれた旗。
(あの旗印……白銀の剣が十七本……! 間違いない、なぜ『緋色の剣』がこんな場所に? ……そうか、アルノルトか! あいつ、奴らを呼び寄せたか!)
絶望の淵で、一条の光が見えた。
「バルト卿、リック殿! あそこへ! あれは味方だ!」
私は最後の力を振り絞って叫び、馬の腹を蹴った。
背後で響き始めた剣戟の音と、忠臣たちの最後の雄叫びを振り切るように、我々は緋色の旗が待つ丘へと、必死に馬を走らせた。
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