第16話 王都オルティス脱出
第16話 王都オルティス脱出
【シルヴァン視点】
『アストリア歴 千二百三十一年 十二月一日 夜 小雪』
バルト卿の震える声が、私の耳の奥で凍りついた。
アルノルトを、殺せ。それは命令の形を借りた、巧妙な罠だ。忠実な辺境伯であるバルト卿が、街の恩人であるアルノルトを殺せるはずがない。だが、命令を拒否すれば、それはすなわち反逆。グラハム軍務大臣は、バルト卿を反逆者として断罪し、クレアの街もろとも、その利権を我が物とするだろう。
どちらに転んでも、バルト卿は破滅する。
(ならば、選ぶべき道はただ一つ……)
「バルト卿、気を確かに。狼狽えては、敵の思う壺です」
私は冷静に、しかし素早く、震える卿の肩を掴んだ。隣では、息子のリックが父を案じ、青ざめた顔で固く拳を握りしめている。
「今宵、このまま王都を脱出します。あなたの屋敷には戻らない。クレアの街へ、アルノルトの元へ落ち延びるのです」
「し、しかし、わしの領地は……民はどうなるのだ!」
「シルヴァン殿の言う通りです、父上! このような卑劣な命令に従う必要はありません! 逃げるは恥ではなく、再起を図るための戦いです!」
リックの力強い言葉に、バルト卿はようやく覚悟を決めたように、強く頷いた。
「……うむ。リック、すぐに屋敷へ戻り、馬車の準備を……」
「いえ、馬車は使えません、バルト卿」
私が即座に制すると、卿は驚いた顔で私を見た。
「追手が来た場合、馬車では騎馬の機動力に到底敵いません。それに、紋章付きの馬車で夜の裏路地を進むのは自殺行為です。我々はもはや貴族ではなく、ただの逃亡者なのですから」
私の言葉に、リックもはっとした表情で頷く。
「リック殿、屋敷へ戻り、最も屈強な馬を三頭。鞍だけを付けて静かに連れ出してください。紋章付きの馬具は不要です。あとは旅装と最低限の食料、そして金だけ……馬車や財産は、すべて捨ててください」
我々は、事を急いだ。リックが従者と共に馬と旅支度を密かに用意し、私自身も剣と、ありったけの金貨を革袋に詰めた。
雪が音を吸い込む、深夜の王都。私とバルト卿、そしてリックの三人は、マントで深く顔を隠し、裏路地を選んで南門へと馬を進めた。時折すれ違う夜警の兵士の姿に、リックが柄に手をかけるのを、私は目で制する。
やがて、固く閉ざされた南門が見えてきた。詰所に詰める兵士たちの顔には、緊張感よりも、寒さと退屈が浮かんでいる。
「待て、何奴だ!」
案の定、呼び止められる。私は馬上から、わざと尊大な態度で衛兵長を見下ろした。
「軍務大臣からの急用だ。門を開けよ」
「し、しかし、すでに閉門の時刻は過ぎております!」
「……そうか。ならば、お前たちの不手際で、大臣の機嫌を損ねることになるな」
私が革袋から金貨を数枚掴み、チャリン、と音を立てて兵士の足元へ投げる。雪の上に散らばる黄金の輝きに、兵士たちの目が釘付けになった。
「これは、口止め料だ。……我々は、今宵ここを通らなかった。良いな?」
衛兵長は一瞬ためらったが、すぐに金貨を拾い集めると、他の兵士たちに目配せした。彼らは、何も見なかったかのように、そっぽを向く。
これこそが、今の王国軍の姿だ。腐敗は、時にこうして利用価値が生まれる。
ギィ、と重い音を立てて、門が人馬三騎ぶんだけ開かれた。
我々は、その隙間を縫うようにして、王都オルティスの城壁の外へと躍り出た。
背後で門が閉まる音を聞きながら、私たちは南へ、クレアの街へと向けて、雪降る闇の中をひた走る。
もう、引き返すことはできない。
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