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第10話 のんびり釣りくらいさせてほしい

 その日、俺は一人、小屋から少し離れた渓流に来ていた。

 週に一度の軍事演習も、日課となりつつある畑仕事も、今日だけは忘れる。これは俺が俺自身に与えた、ささやかな休日だった。


 せせらぎの音が耳に心地よい。木々の隙間から差し込む木漏れ日が、川面のそこかしこでキラキラと乱反射している。俺は手製の釣竿を傍らに置き、川べりの石をひっくり返して餌を探した。石の下には、湿った土と腐葉土の匂いと共に、川虫がうごめいている。それを数匹つまんで餌箱に入れると、俺は今日の漁場を探して川岸を少し歩いた。

 流れが緩やかに渦を巻いている、少し開けた淵。大物が潜んでいるなら、ああいう場所だ。

 軍師としての癖か、あるいは生来の凝り性か、こういう時の状況判断だけは妙に冴えている。


 選んだ場所に腰を下ろし、針に川虫をつけ、そっと竿を振るった。釣り糸がしなやかに宙を舞い、仕掛けがぽちゃん、と小さな音を立てて水面に着水する。赤い目印が、流れに乗ってゆっくりと下っていくのを、俺はただぼんやりと眺めていた。

 頭の中は空っぽだ。兵の動かし方も、作物の育て方も、今は何一つ考えていない。ただ、水の流れと、風に揺れる木々の葉ずれの音と、時折聞こえる鳥のさえずりだけが、世界にあった。

 これが、俺の望んだ生活だ。誰にも邪魔されず、ただ静かに時が過ぎていくのを味わう。

 不意に、赤い目印がぴくん、と揺れた。

 次の瞬間、目印がすっ、と水中に引き込まれる。来た!

 俺は手首を返し、竿を立てた。ぐぐっ、と確かな手応えが腕に伝わる。魚は必死に抵抗し、竿が大きくしなった。糸を切られまいと慎重に、だが魚に主導権を渡さぬよう力強く、竿を操る。数分の格闘の末、水面に銀色の魚体が躍った。見事な岩魚(いわな)だ。

 浅瀬に引き寄せ、濡れた手でそっと掴む。ひんやりとした命の感触が、心地よかった。


(よし、幸先がいい。塩焼きにしたら美味そうだ)


 岩魚を苔むした籠に入れると、俺は再び針に餌をつけ、同じ淵へと糸を垂らした。

 二匹目を待つ、静かで満ち足りた時間。

 その静寂を、不意に背後の茂みから聞こえてきた大きな物音が破った。

 ガサガサッ!

 音のした方を振り返ると、木々の間からぬっと巨体が現れた。ブロックだ。その肩には、立派な牙を持つ猪が担がれている。


「旦那、こっちは獲物捕れただ。旦那のほうはどうだべ」


 ブロックは、その巨体に似合わず声を潜めて尋ねてきた。


「うん、なかなかいい感じだぞ。魚が逃げるから、静かに頼む」

「あいよ」


 ブロックは心得たように頷くと、猪をそっと地面に下ろし、少し離れた岩に腰掛けた。

 再び、穏やかな静寂が戻る。一人だった川べりに、今は二人。言葉はなくとも、それはそれで心地よい時間だった。


 ――その時だった。


「アルノルト様ーっ!」


 今度は、先ほどの物音など比ではない、リナの切羽詰まった声が森の静寂を切り裂いた。

 振り返ると、彼女が息を切らしながら、木の根につまずきそうになりながらこちらへ走ってくるのが見えた。


「たいへんですっ! クレアの街から、とても立派な服をお召しになったリック様とセラ様がいらっしゃいました!」


 その報告に、俺の肩から力が抜けた。手から滑り落ちた釣竿が、カラン、と岩に当たって乾いた音を立てる。


(頼むから……今日くらい、のんびり釣りくらいさせてくれよぉ……)


 俺は、恨めしそうに青い空を仰ぎ、深く、ふかーくため息をついた。

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