第1話 のんびりスローライフ満喫中
鬱蒼と茂る木々を抜け、馬車がようやく森の開けた場所にたどり着いた。陽光が降り注ぐその場所は、まるで世界の喧騒から切り離された聖域のようだった。
「着きましたぜ、旦那。ここが例の土地だ」
御者の声に、青年――アルノルトはゆっくりと顔を上げた。まだ二十歳にも満たないであろうその顔には、戦場の英雄というにはあまりにも不似合いな、穏やかな表情が浮かんでいる。
「ありがとう。長旅ご苦労だった」
先の対帝国戦役において、アルノルトの立てた奇策が王国を勝利に導いたのは、まだ半年前のこと。誰もが予想しなかった功績に、彼は一夜にして英雄へと祭り上げられた。だが、彼自身はその称号を、まるで身体に合わない窮屈な服のように感じていたのだ。
褒賞として与えられたこの名ばかりの領地は、そんな彼にとって最高の逃げ場所だった。なにせ、近くには小さな街が一つあるだけで、領地のほとんどは手つかずの森林なのだから。
(ここなら、もう『若き天才軍師』なんて呼ばれることもない)
そんなアルノルトの服の裾を、小さな手がくいくいと引いた。
「アルノルト様、ここが……私たちのお家になる場所ですか?」
亜麻色の髪を揺らしながら見上げてくるのは、リナという名の少女だ。年は十歳ほど。戦で親を亡くし、立ち寄った街の路地裏でうずくまっていたところを、アルノルトが保護したのだった。
「ああ。もちろん、家は今から建てるところだがな」
アルノルトが苦笑しながら指さす先では、街から雇った大工たちが威勢のいい声を上げながら、小さな小屋の基礎工事に取り掛かっている。トントン、という小気味よい槌音が、静かな森に響き渡っていた。
住居の完成をただ待っているつもりはない。アルノルトはさっそくシャツの袖をまくり上げると、荷馬車から一本の真新しい鍬を取り出した。
「さて、リナ。俺たちの食べるものを作るぞ」
「食べるもの……ですか?」
「ああ。まずは畑だ」
アルノルトは日当たりの良い一角を選ぶと、やおら鍬を大地に突き立てた。ざくり、と乾いた土が音を立てる。だが、長年手入れされていなかった土地は想像以上に固く、鍬の刃はすぐにはね返された。
「……ふんっ!」
今度は腰を落とし、全身の体重を乗せて力強く振り下ろす。ようやく刃が深く食い込み、土の塊がごろりと掘り返された。表面の乾いた土の下から、生命力を感じさせるしっとりとした黒土が顔をのぞかせる。その中には、植物の根や小石がいくつも混じっていた。
「リナ、すまないが、その石を拾ってあちらに集めておいてくれるか? 畑に石があると、作物がうまく育たないんだ」
「はいっ!」
リナは元気よく返事をすると、小さな手で一生懸命に石を拾い集め始めた。
アルノルトは黙々と鍬を振るい続ける。ザク、ザク、と土を掘り返すたびに、懐かしい土の匂いが鼻をくすぐる。それは、戦場の血と鉄の匂いとはあまりにも違う、心を安らげる香りだった。額から流れ落ちる汗を腕でぬぐい、アルノルトは小さく笑みをこぼした。
(そうだ。俺が欲しかったのは、こういう時間なんだ)
夕暮れの森に、心地よい疲労感と土の匂いが満ちていく。若き英雄が手に入れた、誰にも邪魔されない穏やかな日々は、こうして確かな一歩を踏み出したのであった。
陽が落ち、森に夜の帳が下りると、辺りは急速に静寂と闇に包まれた。パチパチと火の粉を散らす焚き火だけが、二人の小さな世界を暖かく照らしている。
簡単な食事を終え、アルノルトが馬車の傍らに立てたテントで寝転がっていると、入り口の布がもじもじと揺れた。
「アルノルト様……」
ひょこりと顔をのぞかせたのはリナだった。その表情は不安げに揺れている。
「どうした、リナ。自分のテントで眠れないのか?」
その時、遠くで「クォーン……」という、物悲しくも鋭い獣の遠吠えが響いた。リナの肩がびくりと震える。
「あの……同じテントで寝ても、いいですか? なんだか、少し怖くて……」
小さな声で尋ねるリナに、アルノルトは優しく微笑みかけた。
「うん、いいよ。こっちへおいで」
暗闇の中だったが、それでもリナの表情がぱあっと明るくなったのが、アルノルトには手に取るように分かった。彼女は嬉しそうに頷くと、急いでテントに滑り込み、アルノルトの隣に用意された毛布にくるまった。
「おやすみなさい、アルノルト様」
「ああ、おやすみ。リナ」
すぐに聞こえてきた健やかな寝息に、アルノルトは安堵の息をつく。
守るべき存在がいる。それは、軍師として万の兵を率いていた時とは違う、温かくて確かな重みだった。
二人を包む静かな夜の中、遠くでまた、狼が一声鳴いた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!