第1話 オトリ
アストリア王国とゲルマニア帝国との戦いは、三十年という長きに及んでいた。
戦いを始めた当事者たちはとうの昔にこの世になく、今や誰もが、なぜ戦っているのかすらよく分かっていなかった。ただ、昨日まで続いていたから、今日も戦う。そんな惰性の戦争だった。
そんな中、俺はアストリア王国で軍師をしていた。
名を、アルノルト・フォン・アーベントという。
この軍の指揮官でもある。
俺が初めてその名を知られるようになったのは、ある籠城戦でのことだった。奇襲を受けて孤立した砦へ、俺は少数の部隊を率いて補給物資を届けたのだ。敵の包囲網を潜り抜け、味方を救う。兵士として当たり前のことをしたつもりだった。
だが、結果として砦は持ちこたえ、救援に駆け付けたカイン将軍の本隊と、城内の兵士たちとの挟撃によって、その地の帝国軍は壊滅した。
問題は、そこからだった。
砦の守備を預かっていたバルドー将軍が、俺を一番の功労者として王都に推薦したのだ。あの実直な将軍は、俺のような若輩者の価値を、正しく見抜いてくれた。
そこから、俺の人生は一変した。
一軍の指揮権を与えられ、瞬く間に王国軍の中核へと引き上げられたのだ。長く続いた戦争で、有能な指揮官や軍師が不足していたという事情もあっただろう。
俺は与えられた兵を率い、様々な奇策や巧みな包囲殲滅戦、時には敢えての正面決戦で敵を打ち破り続けた。いつしか人々は、俺を『若き天才軍師』と呼ぶようになっていた。
そして今、俺の目の前には、帝国最後の大部隊が布陣していた。
数はおよそ八千。対する俺の指揮するアルノルト軍は七千。
兵の士気は高い。勇戦を期して正面からぶつかっても、おそらく良い勝負ができるだろう。だが、それでは味方の損害も大きい。
俺は、友人で同じく軍師として知られるシルヴァンを呼んだ。
「シルヴァン、すまん。ちょっと兵五百を率いて、あそこの谷まで偽装敗走してくれ」
俺が地図の一点を指さすと、シルヴァンは呆れたような顔をした。
「偽装退却か。お前は簡単に言うがな、あれはなかなか難しいんだぞ。偽装のつもりが、本気で敗走しそうになったことだってある。……アルノルト、俺と代われ」
「はは、お前の方が剣も槍も俺より遥かにうまい。諦めてやってくれ」
俺がフッと笑いながら黒い前髪をかきあげると、シルヴァンは「仕方ないな」と肩をすくめた。
「では、行ってくる。せいぜい、見事な包囲網を敷いておくんだな」
シルヴァンの率いる囮部隊が移動を開始すると、俺は残りの全軍に、谷の周囲へ兵を伏せるよう命じた。
ふと、視界の端に、かつて村だったであろう廃墟が目に入った。帝国軍の略奪に遭い、無残にも焼かれたのだろう。戦時下ではよくある光景だ。
だが……。
「もったいない。ここでは、きっと立派な麦が育っていただろうに」
焼けた畑の地面に、奇跡的に残っていた一粒の麦穂を見つける。俺は、その一粒を拾い上げると、剣の先で軽く地面をほぐし、そっとそこへ植えてやった。
(そうだ。戦が終わったら、畑でも耕すか。静かで、いいかもしれないな……)
そんなささやかな遊びをしていると、遠くで鬨の声が上がった。シルヴァンの一隊が、敵本隊をおびき寄せてきたのだ。相変わらず、見事な偽装退却だった。必死に逃げているように見せかけながら、五百の兵に損害らしい損害がない。
そして、敵の本隊が完全に包囲陣の中心へ入った、その時。
「――弓隊! 放て!」
俺の号令一下、谷の両側から一斉に矢の雨が降り注ぐ。敵軍は完全な混乱に陥った。
「今だ! 全軍、突撃!」
味方は弓を捨てると、剣を手に谷底の敵軍へ雪崩れ込んでいく。
谷は狭いため、槍は向いていない。ここは剣だ。
やがて、戦場の喧騒が静寂へと変わる頃、血まみれのシルヴァンが高らかに叫んだ。
「敵将、ザウラ将軍、討ち取ったり!」
うおおおっ、と味方の歓声が沸き立つ。
そうだ、これで、この長い戦いもようやく終わるだろう。
その時、視界の隅に、先ほど俺が作った小さな、本当に小さな麦畑が見えた。
「……ああ、畑とか耕して、のんびりスローライフがしたいな……」
俺の小さな呟きは、誰に聞かれることもなく、いつまでも戦場にこだまする勝利の歓声に、かき消されていった。
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