6話 一時休戦
「わ、私に話……?」
少女は怯えたように肩をすくめ、ラナスオルとシードをおどおどと交互に見つめていた。
鋭い殺気を帯びたドレス姿の女性と、冷たい気配を纏う黒衣の男――どちらも、少女にとってはこの世のものとは思えないほど非現実的な存在だ。
その挙動を見たシードは、無言のまま指を鳴らした。
次の瞬間、少女が握りしめていた長方形の物体がふわりと空中に浮かび上がり、見えない糸で引かれるかのようにゆっくりと彼の手元へと引き寄せられていった。
「ああっ、何するんですか! 私のスマホ!」
少女は慌てて手を伸ばすが、届かない。
「ほう、これはスマホと言うのですか」
シードは興味深げにその物体を観察しながら、手のひらの上に浮かべてくるくると回転させていた。
未知の遺物を調査する学者のような冷徹な眼差しで、スマホを傾けたり、回したりしながら、指先で慎重に触れていく。
指が触れた部分に微かな光が揺らめき、スマホの画面に映る映像が変化する。まるで魔法のようだ。
「僕の質問にすべて偽りなく答えれば返します。……これを僕たちに向けていた理由は?」
シードの感情の欠片すらない問いかけに少女の顔は一瞬青ざめる。
少女は困惑しつつも、素直に答えた。
「それは……めっちゃリアルな撮影シーンだったから……動画を撮りたくて……あ、でも、問題あったらちゃんと消しますぅ……」
少女の声は震えている。
無理に明るく振る舞おうとしているものの、明らかにシードに対して怯えているようだった。
彼女の答えを聞く間、ラナスオルは地面に空いた穴や薙ぎ倒された木々を修復しつつ、シードに鋭い眼差しを向けている。
彼の些細な仕草一つを見逃すまいとするかのように。
左手のフェルジアが放つ柔らかな光が、傷ついた風景を元通りにしていく。
「なるほど……記録を残す道具なのですね」
シードは淡々と呟くと、スマホをもう一度指先で回転させる。
冷たい銀の瞳が、そこに映る映像を静かに追う。
そしてすべての質問を終えた後、シードは無造作にスマホを少女に返した。
彼女がほっとした表情でスマホを抱きしめた瞬間――シードは、何の躊躇もなく少女の頭上に手をかざした。
「……」
短い呪文が低く響く。
その瞬間、少女の瞳が虚ろになった。
彼女の意識の奥で、何かが霧の中に溶けていくような感覚が広がる。
それは痛みもなく、自分の記憶の一部が抜き取られるような、奇妙な感覚だった。
「あれ……私はこんな所で何をしていたんだろう?」
彼女は首を傾げ、先ほどまでの記憶が曖昧に霞むのを感じながら、その場を立ち去った。
ほんの数秒前まで恐怖で震えていたことすら、完全に忘れ去られたまま。
「記憶改竄……。君はそうやって、いつもすべてを都合よく処理するんだな」
修復を終えたラナスオルがシードに歩み寄りながら刺々しい口調で言い放った。
「ええ。彼女は嘘をついていませんでしたし、こちらの世界については概ね把握できましたから」
シードが淡々と答えると、ラナスオルは肩をすくめた。
「精神干渉の魔術、か……さすが、そういうところは君には敵わない」
「僕の魔術の行使は状況に応じて最適解を選ぶだけです。彼女の命を奪わなかったことを感謝していただきたいくらいですが」
「ふん、そういう無慈悲な物言いも、相変わらずだな」
彼女は呆れたような皮肉混じりの口調で言うが、その表情にはどこか安堵の色が浮かんでいた。
* * *
シードは、少女から聞き出した情報を整理しながら話し始めた。
「ここは『日本』という国だそうです。この街は『椋実区』というらしい。そして、この場所は街の中心にあり『椋実公園』と呼ばれている」
「椋実区……聞いたこともない名だな」
ラナスオルが指を顎に当てながら呟いた。
「当然です。ラナスのどこにも存在しない場所なのですから」
シードはふと空を見上げ、風の流れを確かめるように目を細めた。
そして徐に続ける。
「精霊や魔法が一切存在しないこの世界では、代わりに『科学』という未知の技術が発達しているそうです。僕たちの力が、この世界で異質なものに映る理由はそこにあるのでしょう」
その説明を聞いたラナスオルは、驚きよりもむしろ心を躍らせたように表情を緩めた。
「ほう……!」
神である自分すら理解の及ばない未開の地が、彼女の好奇心を揺さぶり始めているのがシードには手に取るようにわかった。
「あなたが興味を持つのは構いませんが、無闇に力を使い、先程のように目撃者を増やすのは得策ではありません」
シードは冷静に釘を刺したが、ラナスオルは口元に薄い笑みを浮かべたまま周囲を見渡した。
「君がなんとかするのだろう? 記憶の改竄も得意なのだから」
「……そのような手間は極力避けたいと言っているのです」
シードは、先程まで命のやり取りをしていたはずの彼女の、妙に気の抜けた態度に違和感を感じていたが、それを口に出すことはしなかった。
「精霊や魔法の存在しないこの世界で、僕たちの異質な力が振るわれれば、どんなリスクが起こるか予想ができません」
彼は僅かに警戒心を含ませた声で言葉を継ぐ。
「たとえば、魔法の行使によって次元が崩壊する危険性も考えられます。最悪の場合、この世界から出られず、僕たち自身が閉じ込められる可能性すらある」
ラナスオルは軽く眉をひそめ、シードを見やった。
「次元の崩壊……」
それは、彼らが互いを滅ぼすために戦ったラナスでの最終決戦の余波にも似ていた。
「ええ。なぜここへ来たかを考えるよりも、まずはここから脱出する方法を探るべきだと僕は思っています。しかし……」
シードの銀色の瞳がラナスオルを鋭く見据える。
「あなたが僕を殺そうと暴れ続けるなら、その手がかりすらも破壊されてしまう恐れがあります。……それは避けたい」
彼の冷静な指摘に、ラナスオルは明らかに不機嫌そうな表情を浮かべた。
「ま、まあ、そうかもしれないが……」
視線を逸らしながらも、否定できずに言葉を飲み込む。
彼女の司る破壊の力の加減が難しいことは、彼女自身がよく理解しているからだ。
目の前の男は、かつて世界を滅ぼしかけた張本人。
それでも今は、ラナスオルに敵意を向けるどころか、理知的な目で現状を分析している。
彼女にとってはそれが余計に腹立たしく感じた。
しかし、やがて腕を組み直し渋々と言葉を返す。
「つまり君が言いたいのは、問題が解決するまで、一時休戦をしろということかね?」
「それが賢明だと思います」
シードの返事は即答だった。その落ち着いた態度に、ラナスオルは少し苛立ちながらも肩をすくめる。
「休戦……か」
彼女の心には、僅かな葛藤があった。女神として、世界を脅かす異物は排除せねばならない。
その使命を果たせぬまま、この男と手を組むことなど本来ならば考えられない。
だが、目の前に広がる異世界の風景を見ていると、ここがラナスとは違う理の下に成り立つ場所であることを否応なく感じさせられる。
そんな中で、自分の圧倒的な力を振るったらどうなるか。それはまさに、先程彼が告げた通りだろう。
そして何より――。
(彼を殺すなら、せめて正面からだ。こんなわけの分からない場所で、曖昧なまま決着をつけたくはない)
彼女は小さく息を吐き、シードの提案を受け入れることにした。
「分かった……ここでの私たちの戦いが、この世界を破壊しかねないのなら、仕方がないな」
互いに暗黙の合意を交わし、戦闘態勢を解いた。
しかし、空気の中に漂う張り詰めた緊張はまだ完全には解けないままだった。
* * *
二人は公園の出口へ向かい歩き始めた。子供たちが楽しげに走り回る傍らを静かに通り抜け、やがて広い道へと出る。
そこでは、奇妙な形状の箱のような物体が、大きな音を立てながらひっきりなしに道路を走り抜けていた。その速度は魔獣さえも上回っている。
それが目の前を通る度に、ラナスでは感じなかった鼻をつく臭いが漂った。
ラナスオルは目を丸くし、その動きを驚いたように見つめていた。
「これは……なんだ?」
その様子を見て、シードは少し口元を緩める。
「これは『自動車』というものですね。この世界で、人を効率よく運ぶ手段のひとつのようです」
「よく分かるな」
ラナスオルが感心したように彼を見やると、シードはあっさりと答えた。
「精神操作で、先ほどの少女の記憶をあらかた入手しています。基本的な知識はこれで補えました」
ラナスオルは思わずため息をつき、目を細める。
「本当に、君の魔術は恐ろしいよ……」
その言葉に、シードは何も返さず、ただ淡々と前を見据えたままだった。
「あっちに人が大勢歩いているようだ。行ってみないか?」
ラナスオルは、ふと人通りの多い商店街に目を惹かれ、吸い寄せられるように前に歩き出した。
その瞬間――
ビィィィッ!!!
耳をつんざく大きな警告音が自動車から鳴り渡った。
突然の爆音に思わず立ち止まり、驚いて目を丸くする彼女に向けて、窓から顔を出した男が怒声を浴びせる。
「気をつけろやしらが女ァ!!」
一瞬、空気が凍りついた。
「し、しら、しらが……っ!?」
ラナスオルの握りしめる右手から破壊の力が漏れる。
しかし、シードの呆れたような視線を感じ、彼女は走り去っていく自動車の男に、何か一矢報いたい衝動を必死に抑えた。
彼女は悔しそうに奥歯を噛みしめ、去っていく自動車を睨みつけた。
「次に出会ったら、この右手で粉々にしてやるからな……!」