自分にとっての「当たり前」が、読者にとっての常識ではないという事実。
自分中心主義。
何か物事を考える時、その中心にいるのは、必ず自分。これが他人にも向かない人間は、結婚には向いていない。筆者が、いまだに独身なのも、おそらくこれが関係している。
何か文章を書こうとするとき、いつも迷うこと。
それは「このネタ、さすがにもう使い古され過ぎだよな?」という、ためらい。自身が若い頃に出会い、人生で何度も使ってきた言葉。そういったものを改めて文章にする気恥ずかしさ。
しかしながら、使い古すまでに、使われる言葉には、それだけの「強い魔力」がある。だから、バカみたいに、何度も使ってしまうわけだが、よくよく思い返してみて欲しい。
自身が、その言葉に出遭った時に受けた、強い衝撃を。そして、その時のシチュエーションを。
言葉と人間の間柄にも、人生を変化させるような出会いが、存在する。だが、自分の「根っこ」となっている部分の言葉の開示には、気恥ずかしさも混在する。特に、他人に腹の内を見せない筆者にとっては。
自分の常識と、他人の常識。
「常識」の厄介なところは、それが「当たり前」であるということ。当たり前であるがゆえに、口にすることも憚られ、相手にとっての当たり前であるがゆえに、質問することも億劫になる。
常識は、千差万別。
特に「多様性」を謳う現代においては。
会話においては、相手にレベルに合わせた言葉のチョイスが可能。だが、不特定多数に向けて書く文章ともなると、一気に難易度が上がる。「小学六年生」のような雑誌に寄稿する文章なら、さほど難しくはない。しかし「小説家になろう」においては、いったい何歳当たりに寄せて書くのが正解なのか?
なろうの読者の主軸は、10~20代だという。
無料でコンテンツを漁るのだから、それも当然だろう。しかし、自身がその年代だった頃、小説家になろうのようなサイトに目を通していたという記憶はない。読者は、いわば「畑違い」の人種たち。となると、どこからどこまでを「共通認識」とし、どこからを「説明を要する知識」とするのかが、さらに読めない。
当たり前の共通認識に、説明を要するのは、愚か。だが、読者の知らない言葉の説明を省くのも、なかなかに不親切。これがプロの商業作品なら「知らない言葉は、自分で調べろ」と突き放すことも可能だが、筆者が書く駄文に付き合ってくれる奇特な読者に対しては、そこの判断が非常に難しい。
―― そういえば、そもそも、筆者に「若い読者」なんてついているのか?
感想欄を見渡すだけだと、若い読者は皆無に見える。ひとりふたりはいるのかもしれないが。個々人の年齢データは、非公開もあるため、分からない。せめて、アクセス解析くらいは、性別・年齢別の読者層などのデータが欲しいところだ。YouTubeのチャンネルくらいには。
万が一、筆者の読者層が「若いギャル」とかなら、美容・コスメ関連の記事を投稿するのも吝かではない(書けるのかよ)。
多様性の時代だからこそ、すべてに説明文を付けてもよいのかもしれない。アンチ・テンプレートのような、ここにはそぐわない様式かもしれないが。