第2話「揺れるボードと、揺れる心」
サイコロを振るたびに、
感情の距離が少しずつ変わっていく。
笑ってるだけのつもりが、胸の奥で何かがざわつきはじめる──。
「やっべ、マジで引いちまった……」
「あーあ」
キングボンビー。
今度は、彼にぴったりくっついた。
「さっきのターン、カード使っておけばよかったな〜」
「詰めが甘い」
「すみません、優秀な副会長様」
「……ちがう」
「ん? なにが?」
「副会長じゃない。副会計」
「……マジで? そんな役あんの?」
「ある」
「へぇ……なんか、もっと偉そうなポジションかと」
「“副”しか見てないでしょ」
「いやいや、“副”ってついてる時点で、だいたい強キャラじゃん?」
「分類のしかた雑すぎ」
ほんとはちょっとだけ、期待してた。
“副会長”って勘違いされてたことじゃなくて──
……私のこと、ちゃんと見てたのかなって。
そんなふうに思ってた自分に、
少し、むずがゆくなる。
「あはは……今の、けっこう傷ついた?」
「べつに」
「嘘だ〜〜」
「……ちょっとだけ」
「うわーごめん……お詫びにボンビー押し付け返すわ」
「やめて」
そう言いながら、彼はちゃんとゴールを目指し、
でもわざと失敗したように見えた。
「ほんとに、負けてもいいの?」
「あー……んー……」
「私が勝つの、そんなにダメ?」
「いや、逆」
「じゃあなんで」
「──氷室が楽しそうだから」
「……え」
ぽつんと、
そんな声が落ちた。
「最初、氷室ってゲームとか興味なさそうだったし、
こういうの、めんどくさいって思うタイプかと思ってた。
でもさ……すごい集中してて、なんか、うれしかったんだよ」
「……うれしい?」
「うん。“俺と一緒に遊んでる時間”、ちゃんと楽しいって思ってくれてんのかなって」
「……」
彼の顔は、真剣だった。
普段のノリも、言葉の軽さもなかった。
「だから、氷室が勝つのも、うれしい。
楽しそうにしてる顔、見てるだけで……」
「それ、ちょっと変」
「うん、知ってる。でもたぶん、そういうのってさ──
……“好き”っていう感情の入り口だと思うんだよね」
手が止まる。
画面の中で、電車がキングボンビーと一緒に走り去っていく。
「……私のターン、来ちゃった」
「来たね。さあ、どうする?」
「……本気で勝つ」
「いいね、きたね、それ」
でも、ゲームの操作をしながらも、
私はたぶん──さっきの言葉の意味を、ずっと噛み締めてた。
“好きっていう感情の入り口”。
それって、
こっち側にも……通じてるんだろうか。
* * *
あのひと言が、
頭から離れなかった。
『“好き”っていう感情の入り口』──
それは、たぶん冗談まじりの言葉だった。
彼のトーンは軽くて、笑いながら言ってた。
でも……
私の心の中では、まるでその言葉だけが浮かび上がって、
周囲の音をすべて、かき消していた。
「氷室、大丈夫?」
「……え?」
「俺、ちょっと調子乗りすぎた?」
「……ううん、ちがう」
「ならいいけど」
彼はいつもと変わらない顔をしている。
気まずくも、恥ずかしそうでもない。
でも、私は……ダメだった。
手の中にあるマウスの動きが、
微妙に遅れてしまう。
カードを使うタイミングも、
目的地への計算も、なんだか上手くできなくなっていた。
「……集中、できてない?」
「できてる」
「ほんとに?」
「……ちょっと、だけ」
そう。
ほんの“ちょっとだけ”のはずだった。
なのに、心の中で鳴っている言葉はどんどん大きくなっていく。
“好き”。
“好きって、どういう気持ちだっけ”。
わからない。
いまの私は、それがよくわからない。
でも、もしこれが、恋の入り口なら──
「氷室」
「……なに」
「ゲーム、もうちょっと続けられる?」
「え」
「今日、時間……あるなら」
「……うん。ある」
どうしてそんなに自然に聞いてくるんだろう。
どうして、こっちが動揺してるって気づかないんだろう。
……それとも、気づいてて、わざと?
わたしは、
いま、どんな顔してるんだろう。
「よし、じゃあこのまま夜まで付き合ってもらおっかな」
「……え」
「桃鉄だよ?」
「し、知ってる」
「なに、変な想像した?」
「してないっ」
笑い声が、ほんの少しだけ近く感じた。
それが心地よくて、
でもほんのり怖かった。
これ以上、踏み込まれたら──
私は、もう引き返せないかもしれない。
* * *
時計の針は、九時を過ぎていた。
教室の明かりは、天井の一灯だけ。
窓の外はとっくに夕闇が沈み、
この空間だけが、取り残されたように時間を保っている。
「まだ、いける?」
「うん」
「眠くない?」
「平気。……集中してるから」
「そっか」
ゲームは、まだ続いている。
もはや勝ち負けはどうでもよくて、
ただ、この時間が終わってほしくないだけだった。
会話は途切れがちになる。
だけど、気まずくはなかった。
むしろその沈黙に、
お互いの心拍が静かに重なる音が聞こえる気がした。
「氷室さ」
「なに」
「……こういう夜、他に誰かと過ごしたことある?」
「……ない」
「そっか。……俺も、ない」
「……」
彼の声は、さっきよりも少しだけ低くて、
でもどこか、安心できる音をしていた。
ふと、モニター越しに横顔を盗み見る。
まつ毛が長い。
思っていたより、静かな顔をしていた。
ふざけてばかりの人かと思っていたのに、
こんなに穏やかに黙る人だったんだ。
「……次の目的地、どこだったっけ」
「函館」
「じゃあ……ちょっと寄り道してもいい?」
「うん」
「ボンビー、氷室にくっついてもいい?」
「やめて」
「冗談だよ」
「……なんで、そんなに優しいの」
自分でも、出た声に驚いた。
なぜそんなことを口にしたのか。
言ったあと、取り消したくなった。
でも、トオルは少し笑っただけだった。
「氷室が、俺にそう言うとは思わなかったな」
「……気にしないで」
「気にするでしょ。
でも、“優しい”って……うれしいね」
静かな声。
静かな夜。
心の輪郭が、ほんの少しだけ浮かび上がってくる。
この時間が永遠に続くことはない。
終わりが来ることも、知っている。
だけど、今だけは──
何も壊れないように、そっと息をしていたかった。
この夜が、終わってしまう前に。
次回、──最終話へ。