第1話「放課後のスタートボタン」
放課後の教室。
偶然居合わせたクラスメイトとの一局の桃鉄。
はじまりはただのゲームだった──そう、思っていた。
放課後の教室は、空気が止まっていた。
チャイムが鳴ってから三十分。友達と帰った子たちはすでに校門を抜け、部活組の声もこの教室までは届かない。
ひとり、私は席に残ってプリントの束を綴じていた。生徒会の雑務。誰もやりたがらない、でも誰かがやらなきゃいけない仕事。
そういうの、私はたぶん……嫌いじゃない。
背後で扉が開いた。
静かな空気が、少しだけ揺れた気がした。
「あれ? 氷室じゃん」
見慣れた制服に、ちょっと見慣れない笑顔。
振り向けば、クラスの陽キャ枠・田嶋トオルが立っていた。
「まだいたんだ? てか……なにそれ、生徒会のお仕事?」
「うん。配布プリント、まとめてた」
「えら」
「……そういうの、べつに求めてない」
「いやいや、純粋に感心しただけっしょ」
軽く笑う彼の後ろには、荷物の入った紙袋。部活かと思ったけど、そういう感じでもなさそうだった。
「なにしに来たの?」
「忘れ物。ロッカーに置きっぱにしてたやつ」
「ふうん」
それ以上聞くつもりもなくて、私はまた手元のホッチキスに集中する。
カチ、カチ。紙をまとめる音だけが、空っぽの教室に響いていた。
「──あ、やば。懐かし」
トオルが急に声を上げた。
視線の先、教卓の脇にある備品棚。そこに置かれた一台の古いノートパソコンを引っ張り出してきた。
「これ、たしか……ゲーム入ってんだよ。ほら、桃鉄」
「学校の備品にそんなの入ってるわけ」
「いや、マジマジ。前に情報の授業でこっそりやったんだって。やってみよーぜ?」
彼の目がきらきらしていた。
私はため息をついて、目をそらす。
「……ちょっとだけなら」
「マジ!? よっしゃ!」
なぜか、少しだけ、うれしそうな顔。
私はそっと椅子を引き、彼の隣に座る。
ふたりだけの、夜の教室。
桃鉄の起動画面が、古いモニターに静かに浮かんでいた。
* * *
「ねえ、カードってどう使うの?」
「えっ、マジ?そこから? 教えよっか?」
「別に……聞いただけ」
「あー、なるほどね。ツンデレ型」
「ちがう」
やっぱり、彼はうるさい。
でもそのうるささが、教室の空気をほどよく動かしてくれてる気がした。
最初の電車がスタートし、サイコロが転がる。パーンと効果音が鳴って、いかにも昔のゲームらしいチープな音楽が始まった。
「うわ、なんかこのBGM、懐かし……」
「昭和……?」
「それは言いすぎじゃね?」
私は静かに操作を進める。ルールはなんとなくわかる。
サイコロを振って、目的地を目指す。物件を買って、カードを使って、ボンビーを回避して──
……なぜ、こうも彼は喋り続けられるのだろう。
「あ、次、俺のターンね」
「知ってる」
「そーいや氷室って、ゲームやるタイプ?」
「……やらないけど、別に嫌いじゃない」
「へえ、意外」
「意外ってなに」
「氷室って、なんか……常に効率重視って感じじゃん」
「悪い?」
「いや、めっちゃ褒めてる。効率厨、好きだよ。俺も割とそっち派だし」
思わず、彼の顔を横目で見てしまう。
トオルは、こっちを見ていない。
操作しながら、ちょっと楽しそうに笑っていた。
「……じゃあ、なんで桃鉄?」
「ん? あー……」
「これ、効率のかけらもない」
「でもさ、たまに、運任せに身を任せるのも楽しいじゃん。
たとえばこう、……一緒にやってる相手が、誰かわからない動きしてきたりしてさ」
「意味わかんない」
「いやいや、つまりさ──」
パァン!というサウンド。
私の電車に、キングボンビーがくっついた。
「──あ」
「あ」
画面にデフォルメされたキングボンビーが登場し、私の資産がみるみる減っていく。
悲鳴を上げる電車、シュールなアニメーション。
なんで、私は今、こんなに必死に画面を睨んでいるんだろう。
「……最悪」
「ドンマイ。俺がボンビー引き剥がしてやんよ」
「……え?」
「次、俺がゴールしよっかなーって。そしたらボンビーこっち来るから」
「……」
「なにその顔。そんなに見られると、惚れられてる気がするんだけど」
「惚れてない」
「即答かー……傷つくわぁ」
そう言いながら、
彼は本当に、次のターンで私のボンビーを引き取っていった。
* * *
ボンビーを引き剥がしてくれたくせに、
トオルは特に得意げでもなかった。
「ほら、あとは取り返すだけだな。借金、がんばれ」
「軽いな」
「うん、けっこー軽い」
「本当に、なにも考えてなかったの?」
「えー……」
トオルはゲームの操作を止めて、ちょっとだけこっちを見た。
「……氷室が、めっちゃ真剣な顔でやってるからさ。
あー、これはボンビーついたら、たぶんテンション下がるなーって思っただけ」
「……」
「あれ?今の、わりとイケメン発言じゃなかった?」
「自己申告する人、はじめて見た」
「やっぱだめかー」
苦笑する声が、なぜか心地よい。
「……たまにゲームやる理由、ちょっとわかったかも」
「お、ついに氷室、ハマる?」
「“運任せも悪くない”ってやつ」
「あ、俺の名言パクった?」
「べつに。参考にしただけ」
画面の中では、ターンが進んでいた。
物件を買う、イベントが起こる、ミニゲームが始まる。
彼は操作に慣れていて、私のターンも時々教えてくれる。
こういう人だったんだな──と、少しだけ思った。
「そういえば、トオルって社会苦手じゃなかったっけ」
「え、なんで?」
「目的地の駅、ちゃんと見てた。場所も、周辺の名産品も」
「あー……うん、地理だけはなぜか得意」
「記憶型?」
「うーん……好きなものしか覚えられないんだよね」
「社会は“好き”に含まれるんだ」
「……好きな人とやってるゲームなら、何でも覚えるよ?」
「っ」
一瞬だけ、静寂が落ちた。
彼の声は軽く、冗談っぽかったけど。
私の手元が、一瞬だけ止まったのは──
気のせい、じゃなかったと思う。
「あ、やば、今のちょっと照れた?」
「照れてない」
「手止まってたよ?」
「停止ボタン押しただけ」
「嘘だ〜〜〜」
「うるさい」
もういちどゲームを進めながら、
心のどこかで、私はふわっとした感情を抱えていた。
予想と違う答えが返ってきたとき。
誰かの知らなかった一面に触れたとき。
“気づかされる”という体験は、
たぶん、こういうことなんだと思った。
* * *
「……巻き返す」
「え?」
「私、負けてばかりは好きじゃない」
「わ、やっと本気出す宣言きた」
「なにそれ、馬鹿にしてる?」
「いや、むしろ好き」
「即ブロックするよ」
「やだ、それは悲しい」
トオルの言葉にはいつも軽さがある。
けれど、不思議と嫌味じゃない。
たぶん、“誰にでも同じ距離”で話してるから。
それなのに、私がそれに少しでも“反応してしまう”のは──
気づかないうちに、彼に心のテンポを合わせてしまっているからかもしれない。
私はサイコロを転がし、カードを使い、物件を選ぶ。
もう手加減はしない。
ほんの少しだけ、勝ちたいと思っている。
彼に勝つ、というより、“私を軽い相手だと思われたくない”。
そんな気持ち。
「……やるじゃん。そこのうなぎ屋、収益率高い」
「計算してるから」
「氷室、マジでゲーマー向いてる説」
「煽ってる?」
「褒めてるの。信じて」
「じゃあ、信じる」
自分でも意外なほど、素直に言えた。
ゲームの画面はにぎやかだ。
でも、教室の空気は落ち着いていて。
明かりはひとつ。
ふたり分の影が、古いパソコンのモニターに重なって揺れていた。
「カード運、強いな氷室」
「さっき検索した。強いカード、まとめてる人いた」
「え、それだけでここまで?」
「データと確率は裏切らない」
「あー……やっぱ好きだわ、そういうとこ」
「……なにが」
「氷室って、なんでもちゃんとやるじゃん。見てて安心する」
──安心。
初めて、そう言われた。
別に、特別なことはしてない。
ただの雑務をこなして、ただのルールを守って。
でも、それを“ちゃんとしてる”って言ってもらえるのは、
……ちょっとだけ、うれしい。
「……あのさ、」
「ん?」
「ボンビー、引き受けなくていいよ」
「え?」
「さっきみたいに、無理して私に勝たせようとしなくていい」
「……お」
「私、勝ちたいから」
「……なるほど」
「ちゃんと勝って、ちゃんと負ける。そういうほうが、楽しい」
「……いや、それ、めっちゃかっこいいんだけど。どうしよ」
「動揺しすぎ」
「だって、“勝ちたい氷室”って、ちょっと萌える」
「その言葉、使い方間違ってる」
私は、パソコンのモニターを見ながら、
でも、ちらりと彼の表情を確認した。
ふざけたように笑ってるけど、
少しだけ、目がやさしかった気がする。
桃鉄で繋がった時間が、ただの遊びじゃなくなっていく。
次回、「揺れるボードと、揺れる心」──
続きは第2話で。