タラス河畔の戦い
「で、俺っちたちはどこと戦うんです? 突厥っすか、吐蕃っすか?」
促織が樊さんに尋ねる。
こいつ、いまだによくわかってねえのか。
「どちらでもない。大食という国(アッバース朝イスラム帝国を指す)だ」
そう、それそれ。
たしか、伊斯蘭教って教えを奉じている連中の国で、最近できたばっかりらしい。
石国(現在のタシケント)っていう小国を大唐に服属させようとしたら、大食に泣きついて、それで大食が相当な兵力を送り込んで来たのだそうだ。
三月(旧暦)頃からずっと睨み合いが続いていて、いまや夏の盛りも過ぎかける頃だ。
それにしても、この辺は本当に暑いな。長安の夏も大概暑いんだけど、それ以上だ。おまけに空気がカラカラで砂埃がひどい。
左手の方には、天山山脈と呼ばれる山々が、雪を頂いて連なっている。
なんだか、つくづくすごいところに来てしまったなぁという思いが湧いてくる。
俺たちの隊は、怛羅斯という城に入り、杜環という部隊長さんの指揮下に組み込まれた。
軍全体を指揮するのは、安西節度使の高仙芝という将軍だ。
このお人は元々高句麗の出身だそうだが、若い頃から西域で軍を率いてこられた。
四年ほど前、葱嶺の地で小勃律って小国が、大唐から離反して吐蕃に付こうとしたことがあった。
高将軍は兵を率いて葱嶺に乗り込み、切り立った断崖絶壁を何十里(唐代の1里は約560m)も駆け下って奇襲をかけ、小勃律を降伏させるという武勲を立てられた。
こんな名将の下にいられるなら、大食とやらも怖くないな、うん。
怛羅斯城に入って数日後、近くを流れる川のほとりで、俺たちは大食軍と対峙した。
まずは前に陣取った弓兵が矢を放ち、その後俺たち槍兵が戦うことになる。
初めて突き刺した人間の肉の感触は、何とも言い難いものだった。
兵力はどうも向こうの方がだいぶ多いようなのだが、甲冑は俺たち大唐軍のほうが整っている。
その差だろうか、槍兵同士のぶつかり合いは、こちらに分があるようだった。
結局、勝負はつかないまま日が暮れて、俺たちは城に引き揚げた。
そして翌日も翌々日も同じような小競り合いが続いたのだが――。
四日目、状況が変わった。最悪の形で。
大唐軍のかなりの部分を占める騎兵は、天山山脈の麓で羊の群れを牧する騎馬の民、歌邏禄族という連中なのだが、これがいきなり裏切ったのだ。
大唐軍の歩兵を守ってくれていたはずのやつらが、いきなり馬上から矢を射かけてくる。
そして、事前に段取りが出来ていたのだろう。大食軍が一気に攻め寄せてきて、俺たちは挟み撃ちに遭った。
「方円陣を敷いて守りを固めろ! 逃げ出したところで、漢土まで辿り着けやしないぞ!」
杜隊長が叫ぶ。
まあ仰るとおりだな。
こんな西域の果てで戦場から逃げ出したところで、長安まで逃げ延びるなんてのは無理な話だ。
何が何でも敵を撃退するしかない。
しかし、味方はどんどん討ち減らされていく。
周りを完全に大食兵に取り囲まれてしまい、ついには杜隊長も抵抗を止めるよう俺たちに命じた。
「……兄い、生きてるかい?」
俺と背中合わせで槍を構えたまま、促織が聞いてきた。
「ああ、多分な……。あんまり自信は無いが」
全身返り血にまみれ、深手こそないもののそこいらじゅう傷だらけ。
自分が本当にまだ生きているのか、正直半信半疑だ。
けど……、本当に投降するのか?
言葉だって通じないような連中だぞ。
結局殺されるのが関の山だろう。
お嬢様、達者で暮らしていらっしゃるだろうか。
脈絡も無く、ふとそんなことを思った。
大食に投降した俺たちの扱いは、意外なほど悪くなかった。
大唐と商いをしていて漢語を話せる商人が通辞をやってくれて、言葉の問題もどうにかなった。
待遇は悪くない、と言ったが、それには理由がある。
大食の連中は、捕虜になった大唐兵の中から、手に技術を持っている者を選別したのだ。
薩末鞬という町に連れて来られた俺たちは、それぞれの技術に応じて職に就かされた。
「樊さん、あんた前職は画工だったのか?」
「……ああ。つまらないことで身を持ち崩して、兵隊なんぞやってたんだがな」
へえ、知らなかったよ。
他にも長安出身の劉って人なんかも、画工として職に就くことになったようだ。
俺や促織はもちろん紙漉きをやることになった。俺たち以外にも三人ほど、紙漉き職人くずれがいた。
あと他には、河東出身の楽ってひとや呂っていう人なんかが、機織りの職に就いたと聞いている。
それ以外にも色々いたようだが、あまり詳しい話は耳に入って来なかった。
特に技術も持っていない連中は、奴隷として売られてしまったようだ。
気の毒にな。
杜隊長なんかは、軍人として大食軍に編入されたと聞いている。
今回の戦で、遠征軍はほとんど全滅だったらしく、俺たちが生き延びることができたのは、あの人の的確な指揮のおかげっていうのもあるからな。
すごく感謝しているし、大食軍で出世なさることを祈ってるよ。
ちなみに、高将軍は討ち死にすることなく逃げ延びたらしい。
名将ってのもあてにならないもんだな。
いや、あの死地を切り抜けることができたのは、やっぱり名将ってことなんだろうか。
さて、紙漉きをやることになった俺たちは、一箇所に集められ、伊斯蘭の教えに改宗させられた上で、所帯を持たされることとなった。
俺の嫁にあてがわれたのは、阿尼斯という名の女奴隷だ。
歳は今年で十七。くしくもお嬢様と同い年だな。
やや黄色味を帯びた薄茶色――いわゆる亜麻色の髪に、茶色い瞳。少々痩せぎすだが可愛らしいアニスは、とても頭が良い娘で、しばらく一緒に暮らすうちに漢語も覚えてくれ、一方俺に大食の言葉も教えてくれた。
紙漉きの仕事は、順調な滑り出しとはいかなかった。
紙の原材料は、楮や結香などの木の皮をほぐして、綿くずなんかを混ぜたものだ。
あるいは、安価な紙だと竹の繊維を用いたりもする。
が、ここ西域の地では、綿はともかく、紙の原料になる木が全然生えていない。竹すらない。
代わりに使えそうなものを手当たり次第に試しちゃいるが、なかなか良い代用品が見つからない状況だ。
そんなある日、促織が我が家にやって来た。
こいつも今は真面目に働いている。
こっちには蟋蟀がいねぇからな、などと言っているが、俺同様に女奴隷を嫁にもらって身を固めたことも、一つの理由かもしれないな。
「どうぞ、旦那様」
アニスが豆の湯を持って来てくれた。
この娘は料理も上手なんだ。
小麦の餅や羊の焼き肉などの料理が所狭しと並べられている。
「すまないな、アニス」
俺が礼を言うと、アニスはにっこりと微笑んだ。
ちなみに彼女は、元は奴隷だったが今では自由の身だ。
奴隷を解放してやると功徳を積める、と伊斯蘭の教えにあるそうなので、早速実行に移したのだ。
「いやあ、兄いの嫁さんは本当に綺麗だねぇ」
促織が感心したように言う。
「お前の嫁さんだってなかなかのもんだろうが。てか、あんまりじろじろ見るなよ」
アニスから聞いた話じゃ、伊斯蘭教徒の女は本来、肌や髪の毛を布で覆って、家族や夫以外の男には見せないものなのだそうだ。
ここ薩末鞬あたりでは、そこまで厳しくはないものの、人の嫁さんをじろじろ見たりしたらぶん殴られても文句は言えない。
促織は、すまねえと頭を下げたが、アニスからは目を逸らしたまま、ふと呟いた。
「亜麻を使うってのは、どうだろうね、兄い」
ん? 紙の原料の話か? アニスの髪の色を見て思いついたんだろうか。
「亜麻か……。悪くないかもな。いっちょう試してみるか」
考えてみたら、ちょっと木の皮にこだわり過ぎていたかもしれない。
楮や結香の代わりになる木をあれこれ探し回ったが、このあたりに生えている木で適当なものは見つからなかった。
「何のお話ですか、旦那様?」
アニスが怪訝そうに尋ねる。
「いや何、仕事が上手くいくかもしれないって話だ」
「そうですか。それは良うございました」
アニスの笑顔を見ていると、何だか上手くいきそうな気がしてきたよ。
早速明日試してみるとしよう。