ネグリ、消去予定の記憶。
夜の帳が下がり、寒気さが感じるようになったとある夜。厳密には竜護舎一日目の夜である。空腹で空腹で…お腹が減ったから着いてきます! って言ったのにご飯が出ないってどう言う事だよ。不満たらたらに、自販機で買った味噌汁を飲み干す。コンポタにお汁粉、そして味噌汁がラインアップされているあったか〜いの採用率に驚きながら感謝する。身に染みるよ…。
質素な食事が終わり、後は明日の出撃に備えて寝るだけ、とそう考えていたのだが…。
何の気の迷いか、天のお告げか。僕はメイさんの自室にお邪魔していた。経緯はよく分からない。気付いたらメイさんを探していたし、メイさんの自室の扉をノックしていた。本能的にメイさんを探しているのか…。ほぼフェロモンで誘き寄せられるオスの蛾である。
初めての女性の部屋に入った事で、見新しいものが多数ある。
観葉植物があったりぬいぐるみが綺麗に飾られている。照明を変えているのか、暖かいオレンジ色の光が部屋を照らしている。部屋の内装か、壁紙の色を見るにメイさんはオレンジ色が好きなのだろう。そして仄かに良い匂いがする。反射的に不自然じゃない位に全身全霊で嗅ぎながら、出された紅茶を飲む。
うーん…不思議な味である。やはり紅茶の独特な味には慣れないが、メイさんが淹れたと考えると付加価値で黄金を飲み干したような感覚になる。相対的に僕の価値も上がった…?
気のせいである。
妙に真剣そうな表情で飲んでいたみたいで、メイさんから戸惑ったような問いが投げかけられる。
「あれ、紅茶好きじゃなかった…?」
心配するように、節目がちに投げかけられるその言葉は童貞心を運よく持ち合わせていた僕の心を大いに揺らすものとなった。
「い、いえ! 紅茶は大好きで、先祖代々から実家で紅茶畑を運営しているもので…」
ちなみに教育機関が存在する場所の名産はオレンジやみかん、グレープフルーツなどの柑橘類である。何でも機関のトップが柑橘類が大好きで、無理矢理品種改良して栽培しているらしいのだ。好きが転じて農家になってるけど…。
まあ、地産地消みたいなもんである。柑橘類で経済を潤せ! 的な感じで切磋琢磨している。収穫した柑橘系は結構な安価で取引されるので、僕がイジメられっ子だった時もお世話になったなぁ。まあ、酸味は苦手なので買った事はそんなに無いんだけど。
どうやらメイさんが育てる観葉植物も、みかんの木のようで少しだけ柔らかいみかんの良い匂いがしなくも無い。これが誠心誠意、真心込めて部屋の匂いを嗅いだ成果である。話題探しの為の労力である。そう言える結果になった。流石に「あれ、この匂い…まさかみかん育ててます?」とは聞けないので心の中に留めておくのだが。
紅茶畑を運営、と嘘しか要素のない架空の好きの理由を語る。
その事に対し、疑問が浮かんだ様子のメイさん。
「なら良かったけど…あれ、両親とは別れて一人暮らしって聞いたけどご実家は…紅茶畑って言ったらセンザン高原辺りが有名だったっけ? そこ出身なのね」
少し身構える。
どうして言ってもいない情報をメイさんが知っているのか。と言うより過去の話はどうでも良いんじゃなかったのか…と、思ったが若干メイさんと魔剣さんのヨイショが入り混じっているのでどっちが言ったかは定かではない。
女性に応援される僕って…と、自暴自棄になりかけるが、新しい性癖として目覚めればいいや。と前向きに考える事で立ち直る。多分悪化している。
まあ、性癖は置いといても、聞かれて欲しくない両親の話題が出てきたのだ。元を正せば僕が実家の話題を出した事が原因であり、戸惑いを隠すも何もほぼマッチポンプのような感じであるのだ。僕に利点がないマッチポンプってそれ幸福になる人居るの…?
誤魔化すように紅茶を口に含む。あいも変わらず苦味と独特な風味しか感じられない。やはり味の豊かさなんてものは感じられなかった。誰だよ紅茶の良い所は「個々の茶葉が持つ、豊かな風味とコクです」って言った奴。豊かな風味とコクとか、出汁でしか聞いた事ないぞ。味噌汁缶を飲んだ後になら自信を持って言える内容だ。味噌汁に出汁の風味とか求めてないけどさ。
身構えた事で何か地雷でも踏んだのかしら? と表情から不安げを感じさせるメイさんがふわりと、良い匂いをたち込めさせながら向かいに座る。恐らく風呂後なのだろう。濡れた髪と、仄かに火照る顔。風呂の場所教えてもらってないんですけど…と、職場の説明不足に気付く。まあ、1日位入らなくても十分だよね。
スゥ、と息を吐き、満を辞してメイさんは口を開いた。
「えっと、キミが入団する関係で調べさせてもらったんだけど…ごめんね? ちょっと配慮が足らなかったかも…」
真剣そのもので、恵まれ整った顔を近づかせて語るメイさんの落ち込み具合に、黙っていられる程腐った人間性はしていない。女性を悲しませるなんてよっぽどの事でもしてはいけない事だ! と、自分の事を棚に上げながら僕の過去をクソでヘド以下の価値であると断定する。両親とのいざこざなんてペットの性事情並にどうでも良い事だろう。
そう意識を改める。
「い、いえ全然大丈夫です…。寧ろ、メイさんが僕の事を調べていて、好きなのかも? って思ったぐらいに気にしてないので!」
言い終わって失敗であると確信する。
はい、出ました。童貞特有の調子に乗っていらない事を言ってしまう現象。僕はこれをアンチコミュニケーションと名付けていたり、いなかったり。
流石にメイさんに引かれただろうな、明日から勘違い童貞野郎。通称、チェリーボーイの愛称で呼ばれる事になるんだろうな、と羞恥プレイの未来を想像する。それか体育会系的ノリでゾンビのように扱われるんだろうな、と。変に偏った思い込みをメイさんで想像する。生まれてこの方部活動とか、サークルとかに所属した事がないので僕の考える体育会系は全員が坊主で筋骨隆々。毎日相撲取りみたいな食生活と、死ぬ一歩手前のしごきを耐えている人間である、と想像している。多分そんな事はないだろう。
ゴミでも見るような視線を向けられるだろうな、とメイさんの方を見てみるが…そんな事は一切なく、寧ろ…照れている? え?
これが魔剣さんとかだったらコンマ数秒単位でこめかみにボクシング重量級チャンピオン並みのジャブが飛んでくるんだけど…と、魔剣さんを引き合いに出して天上天下しそうな僕の心にブレーキをかける。それだけじゃ足りないのでサイドブレーキもかける。ようやっと妄想のフルスロットルを止める事に成功する。危ない…既に六人家族で一軒家の購入を検討している未来まで想像していた…。
現実を直視する。本当か否か。判断する為、俯いたままのメイさんを見る。
心の整理がついたのか、はたまた…まあ、どんな感情でかは分からないが、俯いた顔を徐々に上げた。
対面で座っている事でメイさん表情がしっかりと確認できる。頬が妙に赤いのに気が付いた。これはやはり…脈あり!? その頬の赤みは風呂後で火照ったとか、変態と一緒にいる事の嫌悪感でもなく、純粋に僕の発言によって起こされた現象!?
若干変態と一緒にいる嫌悪感説が僕の脳内で出てくるが…どうやら違うみたいだ。好意を抱いている、そんな考えで図星か、それに似た感情であったみたいで、特にこれと言った反論は来なかった。
あのメイさんである。
単身一人で新生物と圧倒的さを見せながら圧勝する暴力の権化みたいな人であるが……肌は外に沢山出て、沢山活動しているのか褐色で、長いまつ毛に大きな瞳。すらっと整った鼻に小さい魚肉ソーセージも食べられないようなかわいい口。美女の権化みたいな人が僕に嫌悪感ではなく、少なからずの行為を抱いている様子であるのだ。
大きな一歩である。大きな躍進である!
良かった…明日の初出撃が心配で、自販機の帰りに寄って良かった…。無意識下の自分を沢山褒めよう、そう心を豊かにさせているとメイさんは場の空気感を変えようと立ち上がる。
「そ、そのネグリ君は明日の初出撃が心配なんだよね!? ある程度の新生物の情報が載った図鑑があるからそれを貸してあげるよ! 同じ新生物はいないって言われるけど、似たような特徴を持つ新生物はいるから勉強になると思うんだ!」
「そ、そうですね! 貸してもらえるととても勉強になると思います!」
メイさんに連れられ、テンションもおかしくなってしまうが…メイさんの本を貸し借りである。これはもう付き合っていると言っても過言ではない!? 体育会系的ノリかと思ったけど意外とメイさんは女の子らしく、可愛くお淑やかな存在であった。
守ってあげたいが男の本心であるが、適材適所って言葉がこの世には存在する。守られる男がいても、守る女性がいても不思議じゃないよね…?
幸せを噛み締めていると本棚をガサゴソと探していたメイさんの脇から一冊の本が落ちる。もう、お茶目さんなんだから〜。
背表紙を後ろに、床に落ちた本に近付きチラッと目に入る。渡すついでに内容も軽く見てしまう。
しゃがみ、手に取ろうとした最中。僕に付いてのページだったみたいで見覚えのある内容が目に入った。
…ん? ふむふむ…まあ、僕の過去は確かに両親と別れて一人で教育機関に所属している。確かに正解だ。身長体重年齢、出生日も、まあ何とか理解できる。どうして本に書かれているのかは謎だけど…健康診断みたいなものだろう。診断された記憶ないけど。
そして体重…? となるが体重制限とかもあるのだろう。ドラゴンいるし。でも……血中濃度とか、唾液の成分とかは必要なのかしら…? その他、病院に行かないと分からないような精密な情報が書かれているんですが…。
そして右下に健康体と赤ペンで書かれ二重丸されている。
一瞬で有頂天になった僕の心に静寂が訪れる。勢いよく冷水をかけられたような感覚だ。一つの考えとしてなんかの試験体で僕選ばれましたってのが想像してしまうけど…えっと、人体実験は倫理的に禁止されているのですが…。
まさか、前線であり、マスコミも入ってこれない要塞と化している竜護舎の中では日夜非合法な人体実験が行われているのでは? そう考えてしまう。それならば、雑魚で金魚のフンである僕を招き入れたのも納得がいくし、早速使い潰そうとしている明日の話も理解できる。
メイさんの好意に思っている、が健康体な試験体で好意に思っている。に僕の中で理解した。つまり、愛玩的なサムシングである…?
マッドサイエンティストであった、まあ、そうじゃないにしても近しいものである…いや、小さな可能性として血中濃度とかを調べる事に性的興奮を覚える人の可能性も見出せるが…無いだろう。まさか…ねえ?
妙な寒気を感じ、見なかった事にして本を閉じ、メイさんに返そうと立ち上がるが…メイさんと目が合う。眼光ドン開きである。
「…見た?」
「いえ、見ていません」
「…見たよね?」
「いえ、見ていません。今記憶から消しました」
「…絶対に見たよね?」
「…では、明日の出撃があるので今日はこれで失礼させて戴きます。メイさん、おやすみなさい」
「えぇ、おやすみ…」
手に持った本を返し、一礼をして部屋から出る。
人は何かしら欠点を持っていると良く言うが…いや、よしておこう。記憶から消したのだ。
今日の事は無かったことに。明日からは普通にメイさんの後輩として接しよう。
そう決め、来る時とは別の意味で早足気味になりながら自室に戻る。
息を吐き、張り詰めた糸を緩ませながら部屋に入るとぐっすりと寝ている魔剣さんを見て、八つ当たり気味に掛け布団を剥がしてしまう。風邪引いて仕舞えばいい。そんな巻き添え的な考えで犯行に及んだのだが…はだけ、溢れそうな双丘を目にしてしまい、直ぐに掛け布団を戻す。
「僕は人形に興奮する特殊な人じゃない…特殊な人じゃない…」
寝れないのが嘘だったかのように、数分と経たず夢の世界に旅立った。ちなみに夢の内容は…胸を圧迫していた為か、それとも先程の記憶の影響か、ピンク一色の内容だった。