絶望の海獣
街の外れにあるとても静かなビルの一室。既に廃棄されているのか、そこに出入りする人影はない。残された机の上には黄ばんだ書類が散らばり、埃が積もっている。
それだけではない、この静けさに血の匂いが漂ってる。壁には大きな爪痕が。床には乾燥し黒ずんだ血痕が痛々しさを描いていた。
何かがあったのだろう。それも人間の仕業ではない。そんな異質な空気が感じられる。
どうやらここは何かの事務所のようだ。しかしここの主はいない、生きていないのを想像するのは容易い。
カン、と乾いた小さな足音が部屋に響く。この場に誰かがいた。死が充ちたこの場所に。
「ったく、どうして俺がこんな仕事を……」
いた、黒い高級スーツを着こなした目付きの鋭い若い男が一人。面倒臭そうに頭を掻きながら舌打ちをする。
「俺はエリートなんだ。一流大学、一流企業、更に人間を超えた存在。そんな俺がカスの見張り? 冗談じゃねえよ。なぁ、おい!」
文句をぶつぶつと呟きながら椅子を蹴る。そこに縄で椅子に縛り付けられたホスト風の男、金尾が青白い顔をしていた。
「おい、俺を解放しろ。お前はあのクソペンギンに騙されてるんだ。今ならボスにも口添えしてやるぞ」
「はぁ? 馬鹿かお前は。お前みたいな雑魚の言葉なんか誰が信じるかっての……なぁ!」
金尾の顔を蹴り椅子ごと倒す。そして彼の頭を踏みつける。
上に立つ者、下に這いつくばる者。その構造は男に大きな優越感を、金尾に屈辱感を与える。
「いいか? 俺はお前みたいな底辺とは違うんだ。人間だった頃のステータスも、今の力もな。海に漂うだけのデブに選ばれたお前とは価値が圧倒的に上なんだよ。ステラーカイギュウくん」
「な……」
金尾の顔色が更に悪くなる。絶望、恐怖、彼の内なる劣等感がにじみ出ていた。何故なら彼の最大のトラウマ、一番のコンプレックスがキャリアーとしての力だからだ。
ステラーカイギュウ。海牛目ジュゴン科ステラーカイギュウ属、既に絶滅した動物の能力だった。それも人類の手によって滅んだのだ。
本来ならこの動物は人類の被害者、歴史に残る愚行として記録されている。しかし金尾は人類と対立する存在。人類に敗北した力など、落ちこぼれの烙印に等しい。
キャリアーと言う人間を超越した力を得たはずなのに、手にしたのは強さとは真逆の象徴。力に充ちた肉食動物だったら、凶暴さと美しさを兼ね備えた昆虫だったら、滅んだとしても大地を支配していた恐竜だったら。そう何度思った事か。自分が感染させた部下が、力強い生物の力に目覚めているのが羨ましかった。
「ハハハっ。俺とお前の格の違いを解りやすく言うなら、俺主人公、お前雑魚キャラ。そんくらい差があんだよ。俺は百獣の王なんだからな」
金尾を踏む足に少しずつ力が入る。
「俺だったら自殺してるね。そんなゴミカス能力だなんて、恥ずかしくないのか」
「だ、黙れ。俺は聞いたんだ、声を聞いた者なんだぞ!」
「じゃあ……」
足を離し顔の前にしゃがむ。男は笑っていた、邪悪に、見下すように。
「教えろよ。何を聞いたんだ? お前の椅子……いや、俺がキャリアーのボスになる。俺こそが相応しい」
「ハッ! 誰が教え……ガッ!?」
金尾の顔を殴った。何度も殴り、鼻血が垂れ頬には青アザが浮かぶ。そして男はゆっくりと立ち上がる。
「喜んで教えます、だろ? なぁ!」
今度は溝尾を蹴る。金尾の内臓を潰すように容赦なく蹴る。人間ならば重傷だが、キャリアーの生命力が傷ついな体内を即座に治してゆく。
生き地獄だ。意識を失う事も、死に逃げる事も出来ない。
「俺こそが! 力も、地位も、全てが最高級の人間だった俺がキャリアーの王になるんだ! 王者の風格を持ち合わせた最高の……」
そこにいたのは人間ではない。黄金の鬣を揺らし、巨大な爪をギラつかせた異形の存在。ライオン型キャリアーが立っていた。
「獅子たる俺が支配してやろう」
「う……ぐっ…………」
金尾は悔しさに唇を噛む。
何もかも、彼が欲しかった全てを持っている。人であった頃の生活、キャリアーとしての力。羨望を超え、ただの嫉妬だ。
何故自分はこんなにも弱いのか。何故こんな脆弱な力を寄越されたのか。ダサくて弱くて醜くて、悲しく恨めしい。
弱さは罪、存在すら許されない。飾りの地位だけ、本当の強さはそこには無い。己の肉体の限界を決め、強くなる事も諦めていた。
「どうして……どうして俺だけ……」
声を上げて泣きたかった。しかし心の片隅にあるちっぽけなプライドがそれを止めている。これ以上惨めな姿を見せたくないと。
「フン、ゴミカスが」
男は鼻で笑い、自身の爪で縄切り金尾を解放する。
「……?」
何故? ここで自分を解放する理由が解らなかった。全くもって無意味な事だからだ。彼の仕事は監視。こんな任務に背く事などあり得ない。
「な、何を?」
「……ハァ」
顔を上げると、既に男は変身を解いていた。そして深く、冷たい眼差しでため息をつく。
「俺の時間が無駄になるからさ、自殺してくんね?」
「な……」
「迎えが来るの待つのも面倒だしさ。ほら、丸焼きになれば死ぬだろ」
部屋の角からライターとおそらくガソリンが入っているのだろうポリタンクを投げ捨てる。
確かに火は抗体以外でキャリアーを確実に滅ぼせる武器だ。体内のウイルスごと焼かれれば再生能力も機能しない。
「ふざ……」
冗談じゃない。しかし金尾にはこの状況から抜け出す勇気が無かった。
「あ、別に俺に挑んでも良いんだぜ。脱走しようとしたって。正直、お前のきったねぇ血で汚れたくないけどな。ほら、早く死ねよ」
「あ……う……」
「あ、殺してほしかったら這いつくばって土下座しろよ。モノを頼む態度くらいしってるだろ。再生能力が尽きるまで痛め付けてやるからよぉ」
嗤っている。心の底から侮蔑している、おぞましいレベルの醜悪な笑顔で。
「ほら死ーね、死ーね、ゴミは消えろ」
手拍子をしながら歌い出す。この男は確かに監視が面倒だから死を望んでいる。だが本当の目的は違う、尊厳を徹底的に汚し、精神的に嬲る事だ。金尾もそれを察しているからこそ動けなかった。
立ち上がり挑んでもサンドバッグになるだけ。力尽きるまで痛みに苦しみながら死ぬのだろう。自決するのも……そんな勇気が無い。
死ぬのは嫌だ、思い通りになるのは悔しい、しかし抗う力も無い。媚びへつらえば生き長らえるチャンスはあるが、こいつに頭を下げるなんてまっぴらだ。
「うう……ああ……」
心の中がぐちゃぐちゃになる。どんな選択をしても受け入れ難い未来しかない。
一方、ただ項垂れているだけの金尾に男も苛立ってくる。このままでは時間の無駄だからだ。
「チッ、腰抜けが」
立ち上がると金尾を背に電子タバコを咥える。一服したら殺そう、理由なんてどうとでもなる。
「さてさてと。いい加減俺も力を見せないとな。上の連中も雑魚動物ばかりだし、楽勝だろ」
そうぼやく背中に金尾は心を揺さぶられる。隙だらけの油断しきった背中があるからだ。
妬ましい、恨めしい、憎い、全てが。
心の奥底から燃え上がる憎悪の炎が広がってゆく。
「…………ふざけるな」
何故こんな悲惨な目に遭わねばならない。何故こんなにも苦しまねばならない。何故? 何故? 何故? 俺が何をした。俺達がお前達に何をした。
この男だけではない。何かが、強い怒りが金尾の内側から溢れてくる。
「こいつも、人間と同じだ」
弱者を嘲笑い食い物にする、それこそ人間の悪意だ。そう金尾の中から何かが囁く。
身体に力が沸いてくる。憤怒が、憎悪が身体を突き動かした。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
叫びながら立ち上がる。それでも男は金尾を見ずに笑うだけだ。
「遅いんだよゴミカスが。やっと消す理由が……」
逃げるか戦うか、どっちにしろ金尾を痛め付ける理由にはなる。だから男は笑っていた。
そしてタバコを口から離した瞬間、彼の目の前に金尾が姿を表す。
「…………は?」
金尾は背後にいたはず。目の前に即座に動くようなスピードも無い。
そう、金尾は男の背後にいる。男の首が百八十度回転し、真後ろに捻れていたのだ。男はそのまま意識を手放し倒れた。
「ざ、ざまぁみろ。俺を侮った罰だ」
肩で息をし、身体の震えは止まらない。
やってやった。格上だと驕っている奴にひと泡ふかせてやった。無様な姿を晒したのはこいつの方だ。
高揚感に思考が支配されていたが、次第に落ち着きを取り戻す。処刑される身でありながら監視員に攻撃をする。これは敵対行為だ。
「どうする? 俺はどうすれば……」
深呼吸をし自身を落ち着かせる。
「そうだ、マイナスをプラスにするにはそれだけでかい仕事をこなすしかねぇ。上客を捕まえるのと同じだ」
そして倒れている男を見る。このまま放置しては男はまた立ち上がる。首を潰しても、キャリアーの生命力なら死にはしない、せいぜい気絶するくらいだ。数分の内に再生し意識を取り戻すだろう。そうなれば次は正面から争う事になる。
「フフフ……俺を馬鹿にした罰だ。死ね」
金尾はおもむろにポリタンクを掴み、中のガソリンを男に振りかけ周囲に撒き散らした。
「俺は……ここで終わりはしない。そうだ、やってやるさ」
そしてライターに火を点け投げ捨てた。




