タスケルの意味
その日の夜、藤岡家のリビングでは一家団欒の夕飯の時間を過ごしていた。ただ一人、卓也を除いて。
彼は食卓を囲む両親から離れ、ソファーに座りながらテレビを眺めていた。
テレビの内容が全く頭に入らない。今日の出来事が気になり頭から離れないのだ。
あの後卓也は職員室に訪れていた。勿論山本に会う為だ。
職員室はちょうどホームルームを終えた教師達が集まっている。ここまで人が多いのは卓也は初めて見た。時間を考えれば不思議ではないが、少しだけ圧倒される。
そんな室内を卓也は少し縮こまるように歩き出す。教師達の間を抜け、自分の担任の教師、山本のデスクに向かう。
「山本先生」
卓也の声に一人の若い男性教員が振り向く。短く切り揃えられた髪にこざっぱりした顔立ち、いつもにこやかな笑みを浮かべている男。山本だ。
生徒からはその笑顔が胡散臭いと言われているが、卓也はそうは思わない。嫌いではないが、特段好きでもない。そう思っていた。
「ああ……藤岡君。待ってましたよ」
山本はデスクの上に置いてあった数枚のプリントの端を摘まみ、卓也の方へと手を伸ばす。
「すみませんねぇ。私も仕事がありまして、こんな教師だらけの時間に。少し居辛いでしょう?」
「いえ……その…………」
プリントを受け取ったまま口ごもる。先刻の事を言うべきか、一瞬躊躇する。しかしこのまま放置するだなんて出来ない。
「ちょっと話と言うか相談が……」
「…………?」
美咲に迷惑は掛けられない。だから卓也は松田へのイジメについてだけを話した。美咲を襲い掛かろうとした事は伏せて。
表情は全く変わらなかったが、山本は口を挟まず親身な態度で話を聞いてくれた。
そして話し終えると手を組みながら口を開く。
「なるほどね……」
何か考えるように眉間に皺を寄せていた。教師としては面倒で関わりたくない案件だ。教師がイジメを隠すのも少なくは無い。
だが彼は真剣に卓也の話を聞き、おそらく松田の事を考えているのだろう。卓也はそう信じたかった。
「ありがとう藤岡君。彼に関しては私からも話を聞いてみます。それから……佐久間さん達にも」
「お願いします……」
そう言い卓也は帰宅し、そして現在に至る。
山本は何かしらの対応をしてくれたのだろうか。いや、親身になって聞いてくれた彼の態度を外面だけのふりではないと彼を信じよう。
だが卓也の心のモヤは消えていない。松田の態度が気になっていたからだ。
自分だけでなく美咲をも見下す彼が何を思っているのか、卓也には皆目見当もつかない。松田とはただのクラスメート以上の関係は無く、彼の事は殆ど知らないのだ。
「ねえ父さん」
「どうしたんだ、卓也」
箸を止めた光雄が振り向く。その声は少しだが明るく、卓也がキャリアーとなってから久しぶりに話し掛けられた事が嬉しいようだ。
「あのさ…………」
どう言えば良いのか解らない。そのまま言うのも気が引ける。
「イジメられているのにさ、何か……。助けようとしたのに拒絶されると言うか、お前なんかが手を出すなと言うか……」
困った。少し濁して話そうとすると、何と言えば良いのか解らない。言葉が見付からないのだ。
「卓也に助けられた事に劣等感を感じてるのかしら」
春菜も会話に混ざる。
「うーん。そんな感じかもしれない。周りを見下しているって言い方で……」
「なるほどね」
光雄は席を立ち卓也の隣に座る。そして手を組んだ体勢で卓也の方を向いた。
「おそらくその子は、自分に自信があるんだろう。その自信がイジメられている現実を受け入れられず、助けられる事を拒絶しているんだ。卓也は仲が良いのかい?」
卓也は無言で首を横に振る。
「ただのクラスメートってだけで、ろくに喋った事も無いよ」
「なら、尚更心を開いてくれないだろうな。親しく無い者から干渉される事を嫌がる人はいるからね」
光雄の言葉も頭では理解している。しかし心の中で何かが引っ掛かっていた。
「卓也はどうしたいんだ?」
「俺は……」
僅かだが言葉に詰まる。自分がどうしたいのかは解っている。だがそれが正しいのかが解らない。余計な事をして悪い方向に転がってしまわないか不安だった。
「助けたい。だから先生にも相談したんだ」
答えは決まっている。見捨てるなんて出来ない。例え偽善だの自己満足と言われようとも、見てみぬ振りをするよりましだ。
「ありがとう、少し楽になった」
まずは松田と話そう。少しでも距離を縮められればきっと心を開いてくれるはず。何の確信も無かったが、卓也の心は少しだけ晴れたような気がした。
時間は九時を過ぎた頃、夜の街に松田は一人でファミレスの前にいた。手にしたスマホを確認し扉に手を掛けようとするが、一瞬躊躇する。
「チッ」
舌打ちをしながらも、諦めたように扉を開けて指定された席へと向かう。夕飯時を過ぎているせいか店内の客は少なかった。
目的の席が視界に入る。それだけで身体が震えた。
「遅ぇぞカス。俺達を待たせるなんて調子乗ってんじゃねぇぞ」
「三分で来なかったから、ここはキモ田が払えよー」
佐久間に蓮司、更に数人の少年少女がそこにたむろしている。中には他の学校の生徒までいる。
「三分なんて無理に決まってるだろ! 僕の家からここまで、最低でも十五分は必要だ!」
「あ?」
蓮司が立ち上がり松田の襟を掴む。
「テメー、誰が喋って良いって言った? 空気が腐るだろうが……なぁ!」
「うっ……」
そのまま松田を空いたソファーに投げつける。 そんな彼を周りは嘲笑うだけだった。
松田も口を閉ざし悔しそうに視線を下げる。
「で、お前をわざわざ呼んでやった理由教えてやるよ」
蓮司はテーブルに置かれた伝票を松田の顔に叩き付けた。
「遅れたとか関係ねぇ、お前が払えよ」
「…………」
何も言わない松田の髪を掴む。
「ありがとうございます、喜んでお支払いします……だろぉ?」
「は……い」
勿論何か言えば許可無く喋るなと暴力を振るう予定だった。理不尽、身勝手、そんな言葉を体現したような少年だ。
殴られると考えると身体が震える、抵抗出来ない。こんな奴にと頭の中では抵抗しているが、身体は意思に反している。
力が無い、弱い自分に腹が立つ。だがそれ以上に、こんな暴力しか持たない下等な奴に屈服しているだなんて屈辱の極みだ。
だからこそ卓也のような優しくする人間に苛立ち、美咲のような大人しい風貌の者を罵倒していた。自分のプライドが周りを拒絶していたのだ。
蓮司は手を離しスマホを取り出す。
「あと金必要だからさ、十万明日持って来いよ」
「え?」
今まで財布から取られた事はある。だがこんな大金を要求されたのは初めてだ。
彼らは大金を要求したり、顔や目立つ場所を殴りはしなかった。下手に大きな事をしたり、暴行の痕を解りやすく残せばどうなるか。そんな足がつくような事はしなかった。今日卓也達に見られても、物的証拠を理由に逃れようとする連中なのだ。
だからこそ、今回の行動が解らなかった。何故こんな大胆な事をし始めたのか。こんな大金を要求されれば、例え金を得られたとしても見付かる可能性が高い。
だが、今はそれよりもこの恐喝をどうにかしなければならない。
「そんなの……無理だよ。持ってないよ」
こんな金額を持っていない。要求されても用意するなんて不可能だ。
「親から盗めよ。お前ん家、金あるんだろ」
「でも……」
万が一バレればおしまいだ。ただでさえ親からはほぼ拒絶されている。家の金を盗んだとなれば勘当されかねない。
こればかりは頷いてはならないと、松田は首を縦に振りはしなかった。
「お前さ、俺達に逆らえるのか?」
そんな松田の態度は想定していると、蓮司はニヤついた顔を崩さない。
彼が佐久間に合図を送ると、彼女はスマホの画面を松田に向ける。
「これ、ネットにばらまくぞ」
それは今日の放課後、松田が美咲を襲おうとし返り討ちにあった場面だ。
「あ……」
そう、あの時佐久間は録画していた。本来
は断られた場合、美咲を暴行し録画、それをネタに彼女を脅す予定の物だ。しかし今映っているのは松田が彼女に投げ飛ばされる姿だった。
「タイトルわぁー『童貞を拗らせたキモ田、犯そうとするも返り討ち』って感じ? キャハハ!」
笑い出す佐久間と違い、松田は冷や汗が滝のように流れる。彼女達が何をしようとしているのか、想像は容易い。
「お前が加害者でネットに流せばどうなるかな? それに、こんな雑魚っぷりを見られたら……なぁ?」
最初に襲い掛かったのは自分、しかも焚き付けた場面は編集されている。顔もバッチリ映っている以上、まず自分が加害者として見られるだろう。
現代のネットに流されれば一生消えない。こういった動画が流れてしまった者の末路は破滅しか無いのだ。
「待って、それだけは……」
「なら金用意しろよ。ああ、パクったのバレたら、俺達の事は出すなよ。解ってるだろ?」
肩を叩き笑いながら彼らはそこから立ち去る。空の皿やグラス、押し付けられた伝票だけが彼の前に残された。
「………………クソが」
ふらついた足取りで支払いを済ませ、彼はそのまま路地裏へと向かった。
人目は無く、彼は一人で嗚咽を漏らしていた。
「何で僕ばかり…………。たかが風邪ひいただけなのに……」
彼は高校受験の日、風邪で本来受ける予定の学校の試験を受けられなかった。エリート気質の高い家族からは自分の責任と罵倒され、無能として拒絶された。
たかが一度の失敗すら許さぬ程、彼の父は徹底していた。転校すら許さず、必要最低限の物しか与えられない生活をさせられている。イジメられている事すら汚点と罵倒するような家族に、彼の逃げ場はもう存在していない。
こんな家族だからこそ彼も助けを求める事を恥じ、周りを見下してしまう人間に成長してしまったのだろう。
「どうしよう……」
頭を必死に働かせるが、解決策は浮かばない。
助けられるのも、求めるのも己の弱さをさらけ出す事だから嫌。ネットに流されるのも嫌。金を渡せば何度も要求されるし、バレれば家族も失うかもしれない。そもそもバレずに盗むなんて方法が思い付かないのだ。
松田が頭を悩ませていると、足音が近づいているのが聞こえる。
「……誰だよ」
顔を上げるも、明かりの無い場所ではその姿を見る事は出来ない。辛うじて人影のような物が見えるだけだ。
こんなみすぼらしい姿を見られるなんて屈辱だ。もし浮浪者の類いだったら、八つ当たりさせてもらおうと立ち上がる。
「お前、ホームレスか? ゴミのくせに、僕を見るんじゃない」
その影は何も言わない。痺れを切らした松田はライトのアプリを起動し、その人影を照らした。
「は?」
そこにいたのは人間ではなかった。
西洋甲冑のような褐色の甲殻に身を包まれ、巨大な鋏となった両腕、後頭部から伸びる先端が針となった尾。
サソリ型キャリアーが松田の前に立ちはだかる。
当然キャリアーの存在を知らぬ彼は目の前の存在を理解出来ず思考が停止する。そんな彼の首を巨大な鋏が締め上げた。
「さてと。君は選ばれし者かな? テストしてみようか」
息すらままならない松田は混乱に思考が塗り潰されてゆく。眼前の存在が何なのか、何が起きているのか。疑問すら感じられぬ程に脳がぐちゃぐちゃになっていた。
そして最後に感じた激痛。もう一方の鋏に貫かれたのを目撃した瞬間、彼は意識を手放すのだった。




