美の同調
“侘び”について書き留めたいと思う。最近、私の中で“侘び寂び”がキーワードになっていて“侘び”を感じることができるようになった気がしたため、ついで程度に記しておこうと思う。因みに、“侘び”を理解したいと思ったキッカケは落合氏である。彼はこの時代に生きていてこの時代に生きていない、そう思わせる人物のひとりだ。
“侘び”とは不足のなかに美しさを感じる意識、あるいはその美しさそのものであると思う。今思うと、私が好きなモノはみな“侘び”ていたことに気づく。例えば、iphone。iphoneは必要とされる機能に従ってデザインされている。即ち、機能のためのデザインなのだ。お洒落などは求めていない。機能を追求したが故に決定されたデザインであり、そこに私は美しさを見出す。なぜか?デザインが“侘び”ているのだ。千利休の茶室の如く、そのあまりにもシンプルな姿は多くの人の心を掴む理由を私に突きつける。
ここで、なぜ人間が“侘び”に惹かれるかを考えた。私が思うに人間も“侘び”ていて、人間との親和性が高いためであると予想する。親和性が高いという抽象的な表現を嫌いたいところであるが、敢えて使おう。実は真である気がするから―。
人間は“侘び”ていた。宇宙に、自然に、機械に対して“侘び”ていたのだ。人間は使命を全うするために成長を強いられる。成長の際に人間は不完全であることを自覚できる。だが同時に、自覚した不完全な部分に立ち向かう。こうして壁を乗り越え、獲得した成長は何物にも代えがたい幸福感となるだろう。ここに、人間の“侘び”を見出すことはできないだろうか。今の時代、誰がやっても同じ結果が見込める仕事はAIに置き換わってしまう。フィードバックを得意とするAIはいとも簡単に成長するのだ。自然に対しても同様だ。人間は自然の中の法則を応用しているにすぎず、自然の法則を創ることはできていない。宇宙においては、人間など取るに足らない存在だと感じてしまう。人間が成長するということは不足とそれを埋める作業を懸命に繰り返すことであり、やはりその姿は不完全であるがしかし、不完全故に充足を求める姿は美しく見える。即ちそれは使命を全うする姿であり、その姿は“侘び”ているが故に美しい。
先日、ゆったりとした夜風に吹かれながら露天風呂の桶湯に浸かっていたときだ。日は既に落ち、桶湯のそばの紅葉はライトアップされていた。その紅葉は桶湯の水面に映る。ハッキリとではなくぼんやりと映る。時折強めの風が吹き、水面が激しく揺れると映っている紅葉の姿はより曖昧になる。だが風がやむと水面は落ち着きを取り戻し、紅葉の姿はより鮮明に見えた。桶湯のそばの紅葉に目を戻すと変わらぬ姿で風に吹かれている。人間はこの紅葉たちのようなものではないだろうか。私には水面の紅葉が桶湯のそばの紅葉のようにハッキリとした姿を目指しているように感じ、人間もまた、使命を全うするために成長するのだと思った。