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Title.1 使命  作者: エス
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全の誤解

朝9時前、残暑から逃れるようにカフェに入る。空いている席はあまりないし、座った席はPCで文字を打つには適していない。だが、朝の時間をカフェで一息つきながら有効に活用できている感覚が勝るため、座れただけで幸せだ。これが“足るを知る”ということの本質だと理解する。そして、なぜ有効と考えたかというコメントを添える。


 カフェに入る道中、音楽を聴きながら、個がコミュニティに溶け込むことが具体的にどういうことかを理解した。歌手は歌う。何を歌っているのか、それは歌詞を読めば、あるいは聴けばすぐに分かる。こうして耳や目を通して入ってきた情報はそれぞれの脳で拡張される。私は、歌手は使命を全うしていると理解しやすい職業だと思う。歌手は自己中心的な考えを突き詰め、3分~5分足らずの曲の歌詞にその考えを凝縮する。そして、あろうことかその自己中心的な考えの塊を聴衆にぶつけるのだ。こうして改めて文字に起こすと違和感があるが、聴衆は歌手の考え、いや歌詞に包含された言語的意味合いを音という情報媒体を通じて受け入れる。この時、歌手の自己中心的な考えはおおよそ失われていると私は予想する。聴衆は自身の脳内で拡張されたものを歌手のそれであると誤解する。この誤解こそが個とコミュニティの接続であると私は思う。即ち、それは使命を全うしている状態である。この状態にある集合(自己の考えをぶつける歌手とそれを受け取る誤解した聴衆)を客観的にみると、何か一体感のようなものを思い起こさせる。これが落合氏の言うグルーヴ感というやつなのか―。


 これは割と日常茶飯事的に起きている。例えば、A君がB君に向かって「渋谷のハチ公を知っている」と伝えたとする。この時、B君がハチ公を知っていれば「僕も知っている」と答える。しかし、この二人の会話を注意深く考えれば、この二人の関係も一種のグループ感になり得るのではないかと想像する。もし仮にA君が晴れた日にスクランブル交差点の隅で悠然としているハチ公を思いながら会話していたとする。一方のB君はテレビで見たハチ公を思い描いており、B君のイメージではハチ公は交差点のより目立つところに立っているところをイメージしていたとする。こうなると、二人の会話で登場するハチ公は、もはや別のものでありA君の知っているハチ公をB君は知らないし、B君の言うハチ公もA君は知らない。重要なのは、二人のどちらからの視点でも共感しているように見え、客観的に二人の状態を見ると先のグループ感のようなものが垣間見える。


 私はこの世に本当の共感はあり得ないと思う。理由は先に見たA君とB君の例で事足りるだろう。誰かが感じた嬉しさ、辛さや孤独などはその人以外が感じることは不可能なのである。これは人間が個として存在しているため、原理的に不可能なのだ。もし可能なら戦争などさらさら起きないだろう。逆に言えば、個が溶け合った集合は人間の理想的な状態と言えるかもしれない―。私の視点では―。

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