Deadlock Utopia 第三章 ~Lycanthropy~
Deadlock Utopia 第三章「Lycanthropy」です。本編から少し離れた一話完結の獣人の話ですが、残党の正体にも触れる章となっています。
Deadlock Utopia 第三章 ~Lycanthropy~
蜘蛛型の残党との戦いが終わって一週間ほどが経った。
輝夜は徐々に日常を取り戻しつつあるが、数名の旅人が命を落としたということもあり、街全体はまだどこか暗い影を帯びていた。
カヲリとアデルの店「楽園の果実」は白砂のビーチが至近のバーで、普段は勤めを終えた人達で賑わっているのだが、ここ数日はさっぱりであった。今日はカウンターにただ1人、獣人の長であるゾロが静かに果実酒を飲んでいるだけだ。
「大丈夫なのかい?今日はカヲリちゃん1人で」
「ええ、なんといってもお客様が全然ですから。アデルと交代で休みを取ることにしたんです」
「そうじゃなくて。危ないだろう、女の子が1人で店番なんて」
「ゾロさんがいるお店に、悪さをしに来る人なんてそうそういませんよ――そのつもりでいらしたのでしょう?お気遣いありがとうございます」
楽園の果実は、カヲリの「親戚のオジサマ」が全面的に資金を出して作ったという噂で、セキュリティに関しては万全のものを備えている。おまけに近頃は用心棒のようなものまで雇ったらしい。
ゾロがわざわざ出向く必要はないと分かっているのだが、そこは彼の性分なのだ。娘のように思っているアデルにvampの男が近づこうとしているのを放っておけず、こうして時たま店を訪れてしまう。
カウンターの小さな椅子に座りづらそうにしているゾロに、カヲリはフルーツの皿を出した。
「いや、いいよ、カヲリちゃん。ここであんまり飲み食いしたら破産しちまう」
この店は、大衆的な「ディアボロ」とは違い、他所の街の企業や輝夜の役所勤めの客をターゲットにしているため、価格も高めである。そして扱う「情報」もディアボロとはやや違うようだ。
「ゾロさんは輝夜の『お父さん』みたいな人だもの。そんな人からお金はいただきません。実を言うと、ここのところの閑古鳥で、せっかくの果物が傷んでしまいそうなの」
だからどうぞと言って、カヲリは自分も果物にフォークを刺した。ゾロもそれに倣って新鮮な果物を味わった。確かに食べごろで瑞々しい。果実の芳香は、彼に一瞬、はるか昔に豊かな自然の中で暮らしたことを思い出させた。
しかし、ゾロは食べる手を止め、沖合いに目を凝らした。日が沈んで間もないため、沖だけがうっすらと明るく、そして「黒島」のシルエットをくっきりと浮かび上がらせていた。
(なんだかなぁ。今日はどうもイヤな感じがする。こう、毛皮が落ち着かないというか……だから余計にアレが不気味に見えるのかもしれないが)
輝夜の住人が「黒島」と呼ぶものは、沖合い数キロ先にある人工島だ。正確には過去の大戦で沈められた空母の残骸なのだが、現在そこには何人たりとも近づけない状況であるため、人々はいつしかそれを島と称するようになった。
黒島は「生きている」
大戦から50年以上が経とうとしている今なお、夜には不気味に発光し、そして気まぐれのように輝夜に「残党」を送り込んでくる。
そう、残党は大戦の生き残りなのだ。世界はそれを「マキナ(Machina・機械)」と呼んだが、実際にそれと相まみえた者は機械などという単純な呼称では表しきれないおぞましさを残党から感じる。無機質で頑強な胴体から発せられる声、吐き出される息、排出する体液は全て紛れもなく生物のそれなのだ。
つまり、残党とは大戦の後、輝夜の沖合いに沈められた空母内で生まれる「半機械生物」なのである。もちろん空母内は無人だ。どのように、何を「材料」に生み出されるのかは、今の人類には知る由もなかったが、輝夜の一部の住人は、その事実を知っている。
獣人の長として大戦を戦い抜いたゾロもその1人であったが、彼は黒島と残党の事実を誰にも話すことはしなかった。
「ゾロさん、どうかした?」カヲリが怪訝そうにする。
「――カヲリちゃん、今すぐ、店を閉めよう。今日はもう帰ったほうが良い」
「え、ええ……じゃあすぐに片付けを」
「そんなのいい!店を閉めてすぐに外へ」
ゾロが言い終わらぬうちに、けたたましい水音がした。何か巨大なものが海に飛びこんだようだ。ゾロは舌打ちをして、カヲリを抱えるようにして店の外に出た。
「嫌な予感が当たっちまった。まさかもうお出ましとはね」
「ゾ、ゾロさん、あれ……」
カヲリが震える指で指した先には、黒い馬に乗った騎士の亡霊――騎士型の残党の姿があった。
ゾロは騎士を見据えたまま、カヲリをそっと砂の上におろした。
「カヲリちゃん、ここはオイラが食い止めるから、街までひとっ走りしてトキを呼んできて」
「でも、ゾロさん」
「キミが残ったって何にもならない。いいから早く――『娘』はオヤジの言うことを聞くもんだ」
カヲリは頷いて、一目散に街へと続く階段へと走った。騎士は未だ浅瀬でこちらを覗っているが、カヲリのほうに向かうのはなんとしても阻止しなければいけない。
(しまったなぁ。武器もなにもかも店の中だ。素手のタイマンで何分持つか――いや、持たせないといけない。せめてトキ達に一報が届くまでの足止めが叶えばいい)
ゾロは覚悟を決め、戦闘態勢を取った。幸いと言っていいのか、騎士は走り去るカヲリには目もくれず、ゆっくりとこちらに歩みを進めてくる。巨漢のゾロが見上げるほどの骨だけの大きな馬に跨り、片手には槍を持った騎士。その身体の周りには炎がちらついている。「騎士の亡霊が現れた夜は、誰かが行方不明になる」という都市伝説にぴったりの姿だ。
(マジで怖いな。気合で何とかなる相手じゃないと思うが、その気合すら持ってかれそうだ。この瘴気……こいつの「材料」は魔族といったところか。獣人じゃないなら存分にやれるな)
じりじりと距離を縮めてくる騎士から一歩も退くまいと自らを鼓舞するが、その恐怖はどうにも拭い去れそうにない。いっそ、こちらから仕掛けるかと思ったその時――
「ゾロっ!伏せて!」
反射的に地面に伏せると、ゾロの背後から誰かが騎士に銃弾を撃ち込んだ。弾は騎士の身体に当たった一瞬の後、激しい音を立てて爆発した。
ゾロの身体にも響いてきた衝撃に彼はたまらず耳をふさぎ、弾の飛んで来た方を見た。
すると立て続けにもう一発の銃撃と、何か手榴弾のようなものが投げられた。再びの爆破音と、何か液体のようなものが飛び散る音がし、ゾロの毛皮にも何かが僅かに付着した。
「――何だこれは……接着剤?」
鼻を突くシンナー臭で我に返ったゾロが騎士の方に向き直ると、驚くべきことに騎士の馬が膝をついているではないか。騎士も明らかに挙動がぎこちなくなっている。一体、これは――?
「助かったよ、ダガー。ありがとな」
「ううん、効き目があってよかった。逃がしちゃったけどね」
騎士型の残党はあの攻撃の後、すぐに黒島に逃げ帰った。ビーチには、毛皮に付いた接着剤に四苦八苦するゾロと、彼の仲間の人狼のダガーだけが残った。
「考えたな、残党相手に強力接着剤とは。最初のアレはなんだ?火薬ではないな」
「あれはアイスグレネード。液体窒素を使って、着弾した相手の体内で爆破を起こさせる武器だよ」
「へえ、そんなモンがあるとはな」
「ゲームで見て、作ってみたくなっちゃって……ってのは冗談で、残党は機械だけど生き物なんでしょ?そのどちらでもダメージがある武器があったらいいんじゃないかと思って」
「ダガーは恐ろしいくらい器用だからなぁ。でも、この接着剤は毛皮に悪いな」
「洗剤や薬品で落ちないようにしてあるから、毛を切るしかないよ」
「マジか……」
数分の後、時政と数名の魔族、獣人の一団が到着した。
騎士は退散した後だと聞いて一様に安堵し、時政はゾロから概要を聞くとすぐに警察へと走っていった。おそらくルアと対策を練るつもりなのだろう。集まった住人達も三々五々に帰っていったが、その波に逆らうようにカヲリが駆け寄ってきた。
「ゾロさん!あぁ、よかった……」
「なんだカヲリちゃん、わざわざ戻って来てくれたのか?」
「心配した……本当に、よかった。ありがとう……」
「礼なんていらないよ。あぁ、コイツには言ってやって。騎士を追っ払ったのはこのダガーだからな」
カヲリはゾロの傍らに居る獣人に気づいてはっとした。
「あら、ダガーさん?」
「お久し振り、カヲリさん」
「輝夜に住むことにしたんですね」
「ええ、ここで待つことにしました」
どうやら顔見知りらしいふたりの会話を聞いて、ゾロは口を挟んだ。
「驚いたね、知り合いかい?ダガーがここに来てまだひと月と経たないのに……案外、遊び人だな」
「ち、違いますよ!たまたまこのお店に来たことがあって」
「ん?で、カヲリちゃんが気に入って?そういえばさっきも妙に早く到着したなぁ?まさかてめぇ、ずっとここら辺をうろついて」
「ゾロさんっ!ダガーさんに助けられたんじゃなかったの?もう――」
「娘」にけしからぬ事をする輩には容赦のないゾロであるが、今回ばかりはさすがにカヲリにたしなめられた。ダガーはというと、一瞬ではあったがゾロの鬼の形相を垣間見て、すっかり震え上がっているではないか。カヲリは苦笑いをして、ふたりを「楽園の果実」の店内に呼び寄せた。
「さすがに今日は残党の襲撃はないと思うが、あんなことがあった後だ、もう店は閉めたほうがいい」
「ええ、今日の営業は終わりです。ただ片付けはしていかないといけないでしょう。だから、ほんの少しの間、おふたりにここのガードを頼みますね」
その間に、ダガーさんがここにいらした理由をお話してはどうですか?とカヲリは促した。「片付け」は口実なのだろう。その証拠に、しばらく奥に引っ込んだのち、冷たい紅茶と軽い食事を二人の前に出して「ごゆっくり」と微笑んだ。
恐縮するダガーに、ゾロは紅茶を勧め、自分もサンドウィッチに手をつけた。
「さっきはすまなかったな。オイラはここが長いせいか、どうもこう――説教じいさんみたいになっちまって。時々ああして『娘』たちに叱られてんだ」
「ボクこそ、何も話さないままお世話になっていてごめんなさい」
「いいさ、ダガーは本当に腕のいい建築家だからな。ワケありだとしてもいて欲しいくらいだ」
ダガーは改めて礼を述べると、自分の来歴を語り始めた。
「ボクには親友がいたんです。とっても大切で、かけがえのない親友でした」
<Dagger>
一日の労働を終え、仲間達と酒場に向かう。
心地よい疲れと充実感、気の置けない仲間との語らい。ボクはこの輝夜という街で、いい仕事に恵まれたとしみじみ思う。
ここにハヤトがいたら最高だ――そう思うが叶わない。なぜならボクは、親友であるハヤトに許されないことをしたから。
「薄汚い獣人」
ハヤトから発せられたこの言葉は、今でもボクの胸に刺さっている。でもこの棘がボクにもたらすのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ彼を傷付けてしまったという後悔だけだ。
話は、ボクが小学生の頃に遡る――
「くせーんだよ!」
「犬が人間の学校に来るんじゃねー」
毎日のように、ボクに投げつけられる言葉の石つぶて。ボクの住む町は日本の北端にあり、人間以外の種族に対してはとても閉鎖的な場所だった。
学年に一人いるかいないかの「異種族」。魔族の子は恐れられていたから、子供たちの虐めの矛先は、たった一人の獣人であるボクに向けられていた。
ボクは人狼。名前はDagger。
鉄道設計技師である父さんが、この町の鉄道開発事業の職員として採用されたので、この春、家族そろってこの村に引っ越してきた。
そこで感じたのは、異種族に対する根強い差別だ。
見た目が狼のようなボクは、転校初日から子供たちの格好のターゲットになった。
ボクは学校から帰るたびに、両親にその辛さを訴えたが、「ここを離れたらお父さんに仕事がない」と言われ、ただ我慢をするしかなかった。
母さんは「何をされても絶対にやり返してはダメ」と釘を刺した。ボクたち人狼は、人間に比べて力が強い。ボクが本気を出したら、人間の大人だってなんでもない。
――あいつらなんて、その気になればみんなやっつけられるんだ。
その思いに支えられて学校に重い足を運んだけど、そんな寂しい強さなんていらないと思った。
でも、そんなボクに光を与えてくれたのがハヤトだ。
ある日の図工の時間。
ヨーグルトの瓶と紙粘土、ビー玉を使ってペン立てを作った。ボクは工作が大好きだったので、この時も夢中になって作業をしていたのだが、その時ボクに声をかけてきたのがハヤトだ。
「すげぇ!かっけえな、それ!」
ハヤトは、ボクの作ったペン立てがとても気に入ったようだ。作業途中の自分の道具を、そっくりボクの隣の席に持ってきて、ボクのペン立てと同じものを作ろうと、悪戦苦闘を始めた。
ボクは、あまりにびっくりしてしまい、ハヤトをぽかんとして見るだけだった。
成績優秀、スポーツ万能、リーダーシップもあり友人も多いハヤト。
その彼が、いじめられっ子のボクの隣で、ボクなんかが作った、いびつな工作をお手本に作業をしている。すっかりひねくれていたボクは、これすらも新手のいじめではないかと疑って、周りのクラスメートを見渡すと、皆一様に呆気に取られてハヤトを見ていた。
「だめだー。どうしてもダガーみたいに上手く作れないや……」
ハヤトの悔しそうな呟きがしんとした図工室に流れると、それを機にクラスメート達がボクの机の周りに集まってきた。
「うわ、ホントにすげー!うまいな!」
「私もそんな風に作りたい!」
「ていうか、ハヤトが下手なんじゃねーの?」
ひでぇなーとハヤトが笑い、ボクも、クラスメートも笑った。
その日から、誰もボクのことをいじめなくなくなった。子供たちも、ボクという獣人を仲間に入れるきっかけができると、人と違う見た目など気にならないようだった。
ボクはあっという間にみんなと仲よくなり、ボクとハヤトは親友になった。
勉強でもスポーツでもヒーローのハヤトが一番好きなものは絵を描くことだった。
車や飛行機やビルを画用紙に描いては、「大人になったらこういうものを作る仕事をしたい」と、ボクに熱心に話してくれた。
ただ、ハヤトはちょっぴり不器用だった。
かっこいい車をデザインしても、それを粘土や紙細工で再現するのは苦手で、ハヤトの描いた車や飛行機を紙や粘土で作るのは、ボクの役目になった。
いつの間にか、ボクとハヤトは同じ夢を追いかけるようになった。それは、ハヤトがデザインしたビルをボクが作り、そこをふたりの会社にしようという夢だった。
ハヤトがデザインしたビルは、ツインタワーになっていて、一方がハヤトの、もう一方がボクの会社になる。ボクたちは、その夢のビルを文化祭の展示のために作った。牛乳瓶を使い、クリスタルのビルをイメージして作ったそれは、見に来たお父さんやお母さんたちを驚かせ、ボクたちは鼻が高かった。
するとある日、ボクとハヤトは校長室に呼ばれた。
何と、ボクたちの作ったビルの模型が有名な芸術学校の先生の目に留まり、ボクたちを特待生として学校に招き入れたいという話が来ているというのだ。
ボクたちは、小学校の卒業と同時に芸術学校の付属の中学に入ることになった。学校は都心にあったため、二人一緒に学生寮での生活を始めた。
最初こそホームシックを感じないでもなかったが、親友と一緒に将来の夢を語り合いながら、お互いが大好きなことを勉強していけるという喜びに、そんな些細な悩みはいつのまにか消え去ってしまった。
高校、大学と進学し、ハヤトはデザイン科、ボクは建築科へと進んだ。
ハヤトがデザインし、ボクが作る城やビルの模型は、様々なコンクールで入賞し、ボクたちはちょっとした有名人になった。学生の身でありながら、時に仕事の依頼も来るほどだった。
でも、ボクは正直戸惑っていた。
ただ物を作るのが好きなだけの人狼のボクなんかが、「新進気鋭の建築家」なんて見出しで雑誌に写真が載るなんて。こんなに順調で、何だか怖いくらいだ。ボクはある時、その思いをハヤトに打ち明けた。
「ありがとう、やっと言ってくれたね、ダガー」
ハヤトは 、ボクに意外な返事を寄越した。
「なんでお礼を?」
「もう10年近い付き合いになるのに、お前が俺に悩みを相談してくれたのが初めてだったから」
「……そうだったかな?」
「でも、俺はちょっと怒ってるぞ」
どうして?と問い返すと、ハヤトは言った。
お前はことあるごとに「ボクなんか」というけれど、こんなに周りから羨ましがられてるお前が、自分のことをそんな風に言うのを、俺はずっと気に入らないと思ってた。
ボクが、周りから羨ましがられているだって――?
そうだよ。お前が転校してきたとき、俺らはみんな「かっこいい」って思ったんだ。だって、見た目がゲームに出てくるウェアウルフそっくりで、足なんて俺より速いし、勉強も出来たし。
でも、最初みんな冷たかったよ、今は気にしてないけれど。
それは……本当に悪かったと思ってる。俺らの故郷は田舎だから、みんな小さいときから、親に人間以外の者を蔑視することを刷り込まれてたんだな。だから、近づきたくても、お前に近づけなかった。
ハヤトは、今更だけれどごめん、とボクに頭を下げた。ボクはびっくりして首を横に振った。
だけど、一度打ち解けたら、みんないい奴だっただろ?それはダガーという奴に、魅力があったからだよ。
きっかけをくれたのは、ハヤト、キミだったけどね。
その点では俺はラッキーだった。お陰でお前の第一の友達になれたしな。だからお前には自分のことを「なんか」なんて言って欲しくない。お前は今でも、俺や同級生達のヒーローなんだから。
『ヒーロー』
ボクにとって、ずっとそういう存在だったハヤトの口からそんな言葉が出るなんて夢みたいだった。その一言が、ボクから全ての悩みと迷いを消してくれた。
何だか照れくさい話になっちまったなーと笑うハヤトに、ボクはある打ち明け話をした。
「ハヤトは、ボクの足が速いことを羨ましがったけれど、ボク達人狼は、立って歩いたその瞬間から、
人間のオリンピック選手をぶっちぎれるくらい、足が速いよ」
「え……じゃ、お前今まで」
「スポーツに関しては、皆に申し訳ないけど……人間ってだせえなーって、実は思ってた」
「ひでぇ!お前に勝とうと努力してた俺は何なんだー」
「ボク以外に人狼がいなかったから、みんなそれを知らなかったんだよね、ラッキーだ」
田舎生まれを呪う!と言って、ハヤトとボクは笑いあった。
「あともうひとつ――」
ボクは、覚悟を決めて、ハヤトに今まで話していなかった「秘密」を告白しようと決めた。
実は、ボク達人狼は、満月を見てはいけないんだ。
事実、ボクは生まれてから一度も、まんまるのお月様を見たことがない。見たらどうなってしまうのか、はっきりとは分からないけれど「憎しみの心に支配され、自分が自分でなくなってしまう」と言われている。だからボクは、満月の夜の外出は一切しないことにしている。
小学校のキャンプ、中学校の天体観測を休んだのを覚えているかい?あれは、あの日が満月だったからなんだ。ボクはそのどちらもとっても楽しみにしていたから、あの時は人狼に生まれたことを恨んだよ。
満月を見なければいいことくらい、普段の生活には殆ど影響はないから、今までは隠していけたけれど、ハヤトには知っていてもらおうと思って。
ああ、満月の写真や映像、模型なんかは大丈夫。サッカーボールも、つるっぱげの校長先生の頭も大丈夫!丸いものを見ただけで変身しちゃうなんて、漫画の狼男じゃないか。まったくハヤトは……ボクの一大決心も笑い話にしちゃうんだから。
緊張感のないハヤトに少し呆れながらも、感謝をする。彼はいつだって、ボクが悩まないように気を使ってくれる。
大学の卒業制作も、ハヤトと一緒にビルを作った。
小学校の時は牛乳瓶だったけれど、今度は本格的に図面を起こして、プラスチック板をカットして、子供の背丈くらいの高さのツインタワーにした。
名前は「Arcadia」。理想郷という意味だ。
大学卒業後、ボクとハヤトは同じ建築会社に就職した。もちろん、彼はデザインを、ボクは建築を志した。オフィスは、残念ながらツインタワーではなかったけれど、とても大きなビルで、ボクたちは異なるフロアで働くことになった。
それでも、半月もしないうちに、ハヤトの噂はボクのオフィスまで聞こえるようになった。
突出した才能、それを鼻にかけない人柄、そしてなによりハヤトは男のボクから見ても「イケている」。そんなハヤトに女の子達が黙っているわけがない。
ボクのところへは、連日のように「ハヤト君とお食事に行くことがあったら、私も誘って」という、ボクを添え物と前提したお誘いが沢山きた。
親友がこんなにも凄い男なんだということを誇らしく思うことはあっても、不愉快にはならなかった。でも、そんなことが続いて、ちょっとウンザリして来た頃に、ハヤトがボクのオフィスにやってきたんだ。可愛らしい、猫の女の子を連れて。
ある日の終業間もない時のこと。ハヤトがボクのオフィスで叫んだ言葉はこうだ。
「ダガー!お前とメシ食いたいって子が毎日毎日俺んとこに来るんで大変なんだよ!俺も行くから、一日ひとりずつ相手してやって!」
――なんてデリカシーのない親友だ!
ボクは、ボクを想うという女の子の存在よりも、無自覚にも程があるハヤトにむしろ感心した。
それに、女の子達だって逞しい。「じゃあ今日は私!」と真っ先に手を上げたのは、ボクの隣に座る、ハヤトにお熱の才媛だ。
こうして、終業後の奇妙なダブルデートの日々が始まった。「始まった」とは言ったけれど、実は一週間も持たなかったんだけどね。
なぜなら、食前酒が来るかこないかのうちから、ハヤトがマシンガンのように仕事の話を始め、それをボクに振るもんだから自然とボクも……。スパークリングワインの炭酸がすっかり抜けきっても、デザートのアイスクリームが溶けてしまっても、ハヤトは話し続けた。
そんなことを繰り返しているうちに、女の子たちは退屈して、ひとりまたひとりと「脱落」していった。
ハヤトとふたりだけになった夕食の席で、彼は「これで仕事に打ち込めるな」とせいせいした顔で言った。まったく、キミはどこまで策士なんだろう。
でも、ジーンだけは違った。彼女は、ハヤトが自分から誘った、初めての女性だった。
ジーンは、システム課で働く僕たちよりちょっと年上の人だった。
腰まで届く長い黒髪、透き通るように白い肌、整った顔立ち、正確な仕事ぶり、浮いた噂ひとつない鋼鉄の女神……。彼女に関する評判は、概ねそんなところだ。
そう、まるでハヤトを女性にしたような、そんな人だ。
「俺のパソコンがハードワークのために駄々をこねると、ジーンがいつもそれをなだめに来てくれる。俺は彼女のそういうところに母性を感じるんだ。」
これは、ハヤトの談である。
ボクのパソコンがむずかる時は、身長が2mもある半妖の男性があやしてくれるけど、ボクはそこに父性は感じなかったから、ハヤトがジーンに抱いたのは恋心だと思う。
ボクがそんな冗談をいつハヤトに言おうかと思ってる間に、ふたりは恋人同士になっていた。才色兼備のマドンナを、完全無欠の大型新人が電光石火の熱烈攻撃で前代未聞の早期陥落……。そんな四字熟語だらけの周囲の羨望を受けるふたりは、絵に描いたような素敵なカップルだった。
ジーンが他の女の子と違う点は、ボクへの接し方だ。ボクもさすがにふたりのデートに割り込む気はなくて、食事を共にするのも遠慮をしていたのだけど、ハヤトがボクを食事に誘っても、ジーンは嫌な顔をするどころか、むしろ僕を歓迎してくれた。
ハヤトが例によって仕事の話ばかりしても、ジーンはそれを興味深そうに聞いて、適度に先を促し、ボクへの気遣いも忘れなかった。
それにジーンは人狼というボクに理解があって、人と違う食事をする必要のあるボクに合うお店やメニューをよく知っていた。ハヤトがそれに感心すると、あなたの親友のことですものと言って、また彼を喜ばせた。
でも、ボクはジーンをどうしても血の通った人間とは思えなかった。
よくできたお人形、いや、もっと異質な何か……。ジーンの、恐ろしいまでの美しさのせいだろうか?このもやもやした気持ちは、親友を取られた嫉妬ではない。ましてやジーンへの思慕などではない。
もっとこう……本能に根ざす、憎悪とか嫌悪といった、どす黒い感情に近いんだ。
3人で食事を共にすることがふた月あまりも続いたときだろうか、ハヤトの様子がおかしくなった。
ジーンがボクと話すと、極度に不機嫌になり始めたんだ。最初はボクに優しいジーンにやきもちを妬いているのかと思ったけれど、そんな生易しいものじゃないという気が、ボクにはしていた。
「敵意」そう、そんな表現がぴったりだ。
気詰まりな食事に疲れ、ボクは誘いを断るようになり、そのうち、ハヤトからもジーンからも、誘ってくることがなくなった。
それからもオフィスで時折二人を見かけたが、ジーンは微笑み返してくれても、ハヤトは仏頂面だった。恋人が出来ると、親友でもそんな風になっちゃうんだな、と少し寂しくはあったけれど、ハヤトの仕事の評判や、ふたりの仲が円満である噂があるうちは、いつかはまた戻れることもあるだろう、くらいに思っていた。
ボクはボクで、大きな仕事の一端に関われて充実していたし、ウルフドッグのガールフレンドもできて、それなりに楽しい毎日を送っていた。
けれど、そんな日は長くは続かなかった。
ある時、ハヤトの上司がボクを呼び出した。
3日前からハヤトが無断欠勤をしている。システム課のジーンも同様だ。電話にもメールにも返事がない。欠勤の前日に、ジーンにちょっかいをかけた同僚に、ハヤトが殴りかかるという騒動があったばかりで、なにかあったのではないかと心配している。君はふたりと親しいと聞いているので、帰りにでも様子を見てきてくれないか、という話だ。
そんな話を知らなかった僕は驚き、その申し出を受けることにした。
今日が、満月の夜であることは分かっていたけれど……。
焦れる気持ちで終業を待ち、ボクは夜だというのにサングラスをかけ、つばのある帽子を目深に被って、空を見上げないようにして、ハヤトのアパルトメントへの道を急いだ。
生まれて初めて満月の夜に外に出て、ボクは人狼の血を感じることが出来た。直に月を見なくとも、身体に僅かに当たり、道路を薄く照らしているであろう月影が、それが満月であることを僕の身体に教える。
「トラブルの末に無断欠勤をしている親友の安否を確認しに行く」そんな異常事態であることを差し引いても、ボクは自分の中に眠る凶暴な獣の血に、動揺を隠せないでいた。
無事にハヤトの部屋の前にたどり着いて、ボクは帽子とサングラスを取り、深呼吸をした。もう大丈夫だ、さっきまでの高揚はもうない。
ドアベルを、2回、3回と押す。反応がない。ドアを叩いてハヤト、と呼びかけるが同じことだ。試しにドアノブを引いてみる―ー開いていた。
ボクは一瞬躊躇ったが、そのまま玄関に足を踏み入れた。
その瞬間、異様な空気に総毛立つのを感じた。
奥の方から、呻くような声が聞こえる。ふたり分、おそらく男はハヤトで女がジーン。ボクが人狼でなければ、その声はなにかいやらしいものに聞こえたであろう。そして踵を返して玄関を出たに違いないのだ。
でも、ボクはその声の他にも、血の匂いを感じ取ったんだ。
迷いなく、土足のまま廊下を突っ切り、声のするほうへと向かう。部屋のドアを開け、ハヤトと叫ぶ。
薄暗い部屋で、ハヤトの裸の背中が見えた。ベッドに座り込むようにして、女――ジーンを抱えている。
恋人同士の抱擁にしては不自然なその姿勢。
際立つ血の匂い。
ゆっくりと振り返るハヤト。
僕は信じられない光景を見ることになった。
ハヤトが、ジーンの首筋から血を吸っている。
目を赤く光らせ、口の端から一筋の血を流し、ボクの姿を認めたハヤトは、目を見開いて、我に返ったのか哀しそうな目をした。
その目からは「見ないでくれ」という気持ちが伝わってきて、ボクは耐えられず、彼から目をそらした。
その時、ボクは見てしまったんだ。カーテンが開け放たれたベランダの窓からこちらを覗く、見事なまでの満月を――。
それと同時に、高らかな笑いが聞こえた。ジーンのものだ。
「遅かったわね、このケダモノが!ハヤトはもう私のものよ!」
ボクはもう、身のうちから湧き上がる憎悪を抑え切れなかった。
体中の血が沸騰するのではないかと思うくらいの興奮。全身に漲る力。形を変える牙と爪。「気弱な人狼ダガー」が裏返って凶悪な獣になる。
このとめどなく溢れる憎しみの気持ちの矛先は、ジーン――吸血鬼である彼女に向けられたものだ。
彼女がボク、いや獣人のことをよく知っていたのも、ハヤトが病的なまでに彼女に夢中になったのも、ジーンが吸血鬼だと考えると全て合点がいく。
こいつだけは、許さない――
ボクの中で、ボクではない何かが咆哮する。ハヤトが悲鳴をあげてベッドから転がり落ち、ジーンは裸のまま立ち上がり、ボクを指差して何かを叫んだ。
因縁とか決着とか、そんなことだったかもしれない。でも、ボクにはそんなことどうでもよかった。ただボクの中にある憎しみを、宿敵である吸血鬼に吐き出す。それが、人狼であるボクのすべきことだった。
ハヤトのためでも、自分のためでもない。ボク達が抱える、宿命のためにだ。
ボクは、牙と爪を剥きだしにして、ジーンに踊りかかった。ジーンがぷっと何かを吐き出し、ボクの首が一瞬チクリとした。それに構わず、爪で彼女の身体を薙いだ。
自分の爪が、生身の肌を引き裂く嫌な感触。ボクは生まれて初めて誰かを傷付けたが、ボクの身体はその感触を知っている。これはきっとはるか昔からの人狼の記憶。ただこいつ――吸血鬼を根絶やしにする為に魂が覚えている記憶。
肉をえぐられて血を流し、苦痛に喘ぐジーンは、それでもボクを敵意のある目で見ることを忘れていなかった。ボクは止めを刺そうと、牙をむいて彼女に襲い掛かった。
――が、その時、ハヤトがジーンを抱きとめたのだ。そして、ボクのほうを見て、こう叫んだ。
「薄汚い獣人が、俺のジーンに触るんじゃねえ」
親友の口から出たその言葉は、ボクの戦意を喪失させた。その言葉にショックを受けたのではない。そう言ったハヤトのほうが、ボクより傷ついた顔をしたからだ。
(ごめん、ハヤト)
そう言おうとしたボクの身体が、急に痺れて力が出なくなった。その場に崩れるように倒れたボクに、ジーンの声が聞こえた。
――やっと毒が回ったようね。ホント獣人って野蛮で下品。ハヤト、私達の儀式は終わったわ。貴方も気高い私達の仲間入りをしたの。もう、これでずっと一緒よ……。
ハヤトはそれに何も答えなかった。ボクは薄れ行く意識の中で、一生懸命ハヤトに呼びかけた。
ハヤト、戻って来い。
君が吸血鬼でも何でも構わない。
昔のボクたちに戻って、また同じ夢を――。
朝日が部屋に差し込む頃、ボクは意識を取り戻した。
昨日の出来事は夢だったんじゃないか、と思えるくらい。ハヤトの部屋はしんとしていた。血の匂いもしない。
ボクはのろのろと起き上がると、部屋を見渡した。そして、あるものが欠けていることに気がついたんだ。
ハヤトが描いた、僕たちの夢のツインタワー。その絵が、額からそっくり抜き取られていた。
――ハヤトは、去ってしまったんだ。
自分の手で親友を失くしてしまった愚かなダガー。
獣人としての宿命に抗えなかった人狼のダガー。
そのどちらのボクも、本当のボク。
ボクは、悔しさとも哀しみともつかない感情に突き動かされるように、誰もいない部屋で、静かに涙を流した。
ボクはその後、ハヤトの上司に連絡をいれ、ハヤトとジーンは既にいないと説明し、ボクの上司に辞表を提出し、ガールフレンドに別れを告げ、街を去った。
目的は、もちろんハヤトを探すことだ。ボクを嫌っていても軽蔑していてもいい、宿敵の獣人として見ていてもいい、ただ、ボクは一言ハヤトに謝りたかった。
ボクはあちこちの都市や町を転々として、その日暮らしの生活をした。ハヤト(そしてジーン)らしき人の情報がないと分かると、次の土地へ行く――ということを何度繰り返しただろう。
いくつか目の街、輝夜にたどり着いてすぐ、ボクはある奇妙な獣人と知り合うことになる。
彼は、廃ビルの改修をしているようであった。古風な大工道具を腰のベルトに差し、命綱ひとつつけずに、器用に壁を修復していた。荒削りな手法ではあるが、速くて正確な作業で、ボクはしばし見とれてしまったくらいだ。
そんなボクに気がついた彼が声をかけてきた。いかにも旅人風のいでたちのボクを、職を求めてきた放浪者だと勘違いをしたらしい。仕事が必要なことに違いはなかったので、ボクは彼の厚意に甘え、彼の仕事場で世話になることにした。
彼――名前はゾロという――はこの街の構築者らしく、ボクに建築の知識があると知ると大層喜んでくれた。
「この街では、獣人が大工をやることになってんだ。オイラの知り合いの人間が仕事を回してくれるから食いっぱぐれることは絶対にないぞ」
「そうだね、この街はまだまだ直すところが沢山ありそうだし」
「ああ……ここんとこ残党が頻繁に出て、オイラんとこだけじゃ、修復が間に合わないくらいだ」
この街には「残党」と呼ばれる、どの種族にも属さない異形のものが出現するそうだ。長いことあちこちを放浪したボクだから、この世界にそういうものがいるという噂くらいは聞いたことがあるが、まさか実際にその被害が出ているだなんて知りもしなかった。
とはいえ、見たこともない恐怖に怯えても仕方ないので、ボクはそれからずっと、この輝夜で働いている。他種族共生特区であるこの街は、人狼のボクにとって、とても住みやすかった。
ある日、一仕事を終えて仲間達と行きつけの「ディアボロ」という酒場に向かうところだ。
「あ、ごめん。ボクお手洗いに」
「ここからなら海沿いの公園のトイレが近いぞ」
「ありがとう。じゃ、ちょっと先に行ってて」
用を済ませたボクは、仲間達に遅れて店に向かう途中でビーチへ降りる階段を見つけた。「楽園の果実」と書いてある看板によると、どうやらこの先には、バーがあるらしい。
この街に来てから、仕事に没頭していた僕は、綺麗な海に興味を惹かれて階段を降りた。目の前に開ける青い海と白砂のビーチ。この街にも、こんなに美しい場所があったのだと驚く。
そしてボクは、ビーチにあるバーで一人店番をする女の人を見て、思わず声を上げた。
「……ジーン!」
女の人はびくっとして顔を上げたが、すぐに笑みを作ると、いらっしゃいませ、と言った。長い髪と白い肌に一瞬見間違えたが、彼女はジーンよりもずっと若そうだった。
女の人は、名前をカヲリといった。まだお店は営業前で、他の店員は買い物に出ていると言う。かかっているメニューに書かれた値段を見て、このお店が、ボク達が気軽に来られるような店ではないのだと分かり、彼女が薦める酒を辞して店を後にしようとした。
その時、目の端に「ある物」が写った。店のカウンターの上に重ねられたシャンパングラス。それに何らかの細工がされていて――
ボクとハヤトが作った、ツインタワーにそっくりだった。
ボクの視線に気がついたカヲリが説明する。
以前、街の建築に携わった人たちをこのお店で接待したときに、その中の若い建築家が、グラスでタワーを作ってくれたのだという。
まじまじとそれを見ると、つなぎ目の接着が粗く、ボクは思わず顔をほころばせた。
不器用なハヤトは、接着剤を使うとき、はみ出したり、他の部分に接着剤をくっつけてしまったりする。
あれからもう80年も経つのに、キミは全然変わってないな、ハヤト。
「あの……」ボクはカヲリに問うた。
「このタワーを作った人、もしかして貴女を見て何か言いませんでしたか」
「確か、昔を思い出したというようなことを……そう、それでタワーを作る話になったんです」
お客様のことですから、あんまり詳しくはダメですけどね、と彼女は笑った。
「それからその建築家さん、ひとつの賭けをして帰られました」
「賭け?」
「ええ、そのタワーの名前を、一度で当てたお客様がいたら、好きなだけお酒を飲ませてあげてって」
いつかまた来るから、もしその幸運な人が現れたら、名前は覚えておいてと言い残して、その客は帰って行ったそうだ。
それがハヤトなら、彼もボクを探していることになる。理由はボクと同じだろうか?それとももっと別の……。
いや、それは考えまい。ハヤトがボクの近くに感じられる、それだけで充分だ。
「カヲリさん、このタワーの名前は――」
ボクは、ハヤトとふたりでつけた名前を口にした。
それを聞いたカヲリは、にっこりと笑って。ボクの前にグラスをすっと差し出した。
「そうか――。お前さんほどの腕の建築家がなんで輝夜に住み着いたのか、分かったよ」
いつの間にか日はすっかり暮れ、夜の涼しい潮風が店のカーテンを揺らした。
「それもあるけれど、ボクはこの輝夜が好きだからね。人狼だからって差別する人も居ないし、仕事もあるし」
「女の子は可愛いし、か?」
それは違うよ、と焦るボクに、ゾロは冗談だと豪快に笑った。彼のそういうところも魅力で、ボクはこの街にいるのだということは、照れくさいから言うのはやめておこう。
カウンターの隅に置かれたグラスのツインタワーを見る。
ハヤト、いつかまた会おう。今度はここ、僕達の理想郷で。
【Deadlock Utopia 第三章 ~Lycanthropy~ End】
Deadlock Utopia 第四章「楽園の住人」へと続きます。他種族共生特区「輝夜」がまだ「荒海」と呼ばれていた時代の話です。第四章は二節でお送りします。