Deadlock Utopia 第六章「Metamorphosis(後編-2)」*最終回*
Deadlock Utopia 第六章「Metamorphosis(後編-2)」です。Deadlock Utopiaの小説部分の最終回となります。
Deadlock Utopia 第六章「Metamorphosis(後編-2)」
<2070年9月7日 11:00 Gifted(資質)>
朝から雨だった。真夏同然の猛威を振るう日差しがないのはいいが、体育館の中は蒸し暑く、最初は威勢のよかった連中の声も段々とだれてきていた。
アデルとエースが廃校の体育館にしのび込んで特訓をしていたことは、人狼の一件で輝夜の住人に知れることとなった。あの流れ者の人狼たちは、ゾロを始めとする獣人たちの「指導」の後、警察に引き渡されたが、彼らが悪事を働いたと自ら話しても、警察の人間はなかなか信じてくれなかったという。
それだけ、ゾロたちの指導は効き目があったということだろう。
その後、この体育館は治安の問題から輝夜住人に解放されることとなった。廃校とはいえ、建ってまだ20年とたっていないのだ。ゾロたちが少し手を入れたら、見違えるようになった。そしてここが今、何に使われているのかというと――。
「ぼちぼち昼飯にしねーか?腹ペコでぶっ倒れそうだ」
「時政はさっきおやつ食べてたでしょ!あと1回だけ相手してよ」
「イヤだ!ゾロに頼めよ!」
「ゾロはもう勘弁してあげようよ。毛皮着て、この暑さはね……」
アデルは、誰かが持ち込んだ工事現場用の巨大扇風機の前でぐったりしているゾロをちらりと見た。
しゃーねぇなあ、ラスいちだぞ!とぶつぶつ言って、時政はマットに上がった。挙動が重い彼に反して、その後をウキウキと付いていくアデルは元気そのものだ。
10メートルほどの広さに体操用のマットが敷かれ、その周りには跳び箱や校庭から持ってきた朝礼台、バレーボールのポストなどが置いてあり、さながら簡易リングといったところだ。天井から吊るされた何本かのロープが扇風機の風に揺れている。
「あーだりぃなあ。ダルすぎて朦朧として、あっちこっち触っちまうかも」
「いいよ。イサナには黙っててあげる」
「マジで?」
「できるならね」
マットの傍らでそれを見ていたエースが、ゴングの代わりに工具でバレーのポストを叩いた。
掛け声と共に低い姿勢で突進してくる時政をアデルはジャンプでかわし、天井のロープに片手でぶら下がった。そのまま勢いをつけて飛び降り、高く積み上げた跳び箱を足場にして空中で一回転してから、時政の背後に綺麗に着地した。
時政が振り返るよりも早く、アデルは彼の腰に腕を回し、投げの体勢に入った。
「またさっきと同じ手か――」エースはやれやれと言った顔をした。
胴を掴まれたまま、時政は勢いよく身体を前に屈める。踏ん張りの利かないままアデルの身体は持ち上がり、思わず組んでいた手を解いてしまう。その隙を見逃さない時政が腕を掴んで、力任せにアデルをマットの上に投げ飛ばした。
「ワンパターンで魔族のボスに対抗できるわけないだろ、もっと頭を使え!」エースがはっぱをかける。
わかってる、と返そうとしたが、魔族の力で投げ飛ばされた衝撃でアデルは咳き込んだ。マットがあったからよかったようなものの……受身が取れないとこうもきついものなのかと思い知った。
やっとのことで半身を起こして時政のほうを見ると、ニヤニヤしながらにじり寄ってくるではないか。完全に悪ふざけの顔をしている。
「イサナには黙ってるって話だったよな?」
「じょ、冗談やめてよ!タンマタンマ!」
アデルは這いずりながら、手をシッシとやって時政を追い払った。
「タンマなし!覚悟!」
「お、おい!やめろ!」
ヘラヘラしながらアデルに覆いかぶさろうとする時政を、エースがさすがに止めようとした次の瞬間――。
「――っ痛てててててて!!やめ!放せ!」
「ちょっと!脚触ってる!やめなきゃ解かない!」
「ギブ!ギブってことだろがああ!」
「だから触ってるって――」
アデルが両脚で、時政の首と左腕を締め上げていた。咄嗟のことであったが、がっちりときまった三角絞めに時政は喘いでギブアップした。そのタップの合図を触られていると勘違いしたアデルがますますきつく締め上げ、エースとゾロが止めに入った時には、時政は完全に「落ちて」いた。
「ひでぇ馬鹿力だな。そういうところはハイジそっくりだ」
時政は首をさすった。
「ごめんごめん――でも、どう?おばあちゃんとくらべて私は」
「足元にも及ばないなぁ。パワーとスピードはとんとんだと思うけど、テクニックがな。ハイジとは年季が違うんだからあんまり気にするなよ」
ゾロは慰めるように言ったが、内心ではアデルの成長に舌を巻いていた。
ほんの数日前は全くと言っていいほど戦えなかったアデルが、ここまでになったのには訳がある。
ひとつは、先日の人狼との一件で見せた、対異種族の護身術だ。自分から仕掛ける攻撃ではないが、襲い掛かってくる相手に対してはマニュアル通り正確に対応することができた。
もうひとつは「頭に強く残っているイメージはほぼ実現できる」とエースが気づいたことだ。アデル自身、運動が苦手でまともなスポーツに取り組んできたことはないが、何か脳内でイメージできるものがあれば、大して練習をしなくても再現することができた。
今、アデルが時政やゾロ相手に特訓しているのは、今から100年近く前、昭和という時代に流行った「プロレスリング」という格闘だ。半分ショーと言ってもいいのだが、打撃や受身などは格闘の基礎として十分な要素を兼ね備えていた。
アデルにそんなはるか昔の格闘スポーツのイメージを植えつけたのは、意外な事に彼女の亡くなった父親だった。
警察官であったアデルの父は、非番の時はしばしばアデルたちの遊び相手をしてくれた。しかし、男ばかり5人兄弟の末っ子であった彼は、幼い女の子を楽しませる遊びを全くしてこなかった。ままごとや人形遊びが好きだろうという知識はあっても、いざ自分が相手をしてやるとなるとどう振舞っていいのか見当がつかない。
だったら、自分が楽しめるものを娘にも教えてやろうとして彼が実行したのは、かつて世界的にブームを起こしたプロレスの動画を一緒に鑑賞するということだった。
幼いアデルが古い格闘技の動画を夢中になって観ていると知ったアデルの母親は、よりによってなんて物を――と難色を示したが、時すでに遅し、アデルは父親と留守番をすると決まると、大喜びで動画の観られる携帯端末を持ってくるまでになってしまっていた。
そんな父娘のふれあいも、アデルが小学校に上がるころには終わってしまい、彼女自身、今の今まですっかり忘れていたというわけだ。
「名前は覚えていないけれど、空中殺法とか派手な技を使う人ばかり好きで観ていたの」というアデルが、時政達の前で初めて技を再現して見せた時、彼らは一も二もなく、アデルの訓練を手伝うと申し出た。
「アデルの前ではああ言ったけど、もう十分、残党と対抗できる戦力になってると思うよ。でもオイラは……」
アデルが顔を洗いに立ったタイミングで、ゾロはエースと時政に話した。
「アデルを戦いの世界に引き込むのは今でも抵抗がある。技の完成度が上がれば上がるほど、嬉しいのと同じくらい、辛いんだ」
時政も同感といった風に頷いた。
「俺は戦えるやつが戦うべきだと思ってっから、ゾロとはちょっと違うんだけどよ。アデル頼みになっちまうほど、今までの輝夜が残党に対してショボかったのが悔しいな」
やはりエースとは比べ物にならないくらい、輝夜の住人はアデルをよく知っているし、大切に思っている。ふらっと現れた自分が、そこに割り込んでよかったのか、エースはこういう時いつも気まずさを隠せない。
蒸し暑さのせいだけではない、なんとなく滞ってしまった重い空気に耐えかねてエースは口を開いた。
「――アデルは、残党を殲滅しても自分の恨みは消えないと言っていた。あいつが考えていることの本当の意味は分からないが、アデルは自分が残党を倒すことで、輝夜と残党を救いたいと俺に言ったんだ」
こんな曖昧で意味の分からないことをあんたらに言っても仕方ないか、とエースはジュースの入っていた空き缶を握りつぶした。すると、時政とゾロが突然笑い出すではないか。
「な、なんだよ。変なこと言ったか、俺?」
「いや――よく言ってくれた、そういうことかよ」
「そこはやっぱり血なのかねえ」
訳知り顔で顔を見合わせるふたりの愉快そうな様子が、エースには全く見当がつかなかった。
「エースには、アデルがそのうち自分から話すだろうよ。だからオイラは全部は言わないけど、ハイジの父親は――アデルにはひい爺さんかな?――流れ者の異種族だったんだよ。そいつが当時は荒海という名前だったここに来たのは、トキとほぼ同時代だ」
「俺が来たときには、アデルのひい婆さん家の婿になってたけどな。この話は前にしたよな?」
「あぁ、そういえば聞いたな。何か訳ありだったのか?」
彼らが言うに、アデルの曽祖父は「贖罪の旅」をしているということだった。彼が負ったという罪がなんなのか、知る人はほとんどいなかったが「倒す相手の死を全て受け入れることで救う」と言っていたのを二人は覚えているという。
「死を受け入れて救う――か、偶然にしてはできすぎだが、俺にはやっぱりわからないな」
「そりゃあ、俺らにだってわかんないさ。でもざっくり言うと、死んでもほったらかしにしませんよってことじゃねえのかな」
「残党は常にひとりぼっちだもんな。死んだって誰も悲しんでくれないから、せめてアデルはなんとかしてあげたいと思ってるのかもしれない。ま、想像だけど」
変なヤツだよな。ハイジもそうだったけど、と笑う二人に、エースはなんとなく助けられた心地がしていた。
出会って間もない自分に分かるアデルの本当の姿なんて、まだほんの表層を撫で付けたくらいなのだろう。彼女が輝夜で過ごした年月まるまるを知っている時政たちと比較して、自分の浅さを不甲斐なく思うこともしばしばだ。
しかし、少しずつではあるが、輝夜の住人の口からアデルについて知らされると、自分もその輪の中に加えてもらえたような心地よさを感じた。vamp一族の絆とはまた違うつながりは、間違いなくエースが渇望していたものだった。
「じゃ、アデルから本心を聞けるように、せいぜい仲良くしておくかな。『先輩方』以上に」
軽口を叩くエースを、ゾロがじろりと睨んだ。やれやれ、輝夜住人になる前に、アデルの恋人として認めてもらうほうがずっと難しそうだ。
笑いあっている男たちを、体育館の入り口に立ち止まってアデルは見ていた。「代理父」相手になかなかうまくやってるじゃない、うちの彼氏は、と満足げに微笑んだ。
最後の残党「騎士の亡霊」が現れたのは、この日の夜だった。
<2070年9月7日 21:00 The knight of death(死の騎士)>
輝夜の港付近で残党である「騎士の亡霊」が目撃されたという一報を受けて、アデルたちは港に集まった。そこには残党の気配はなく、夜空には半分ほど欠けた月が浮かび、穏やかに凪いだ海を仄かに明るくしていた。
日中の残暑の名残を、海からの涼しげな風が冷ましていく。こんな事態がなければ、輝夜の歓楽街は人々で賑わっていただろう。
「まだまだビールの旨い時期にお出ましとはな。うちの嫁が商売あがったりだとブチ切れてたぞ」
時政を筆頭とする魔族は、彼を入れて3名。残党との戦闘になるといつも時政にぴったりとついてくる、気の短い長身の魔族の男は、戦いの開始を今か今かと待ち構えている。
その男の後ろに隠れるように立っているのはリュウではないか。相変わらず全身をぎらぎら光るアクセサリーで飾り立て、背中には大剣を背負っているが、なんとも頼りない。
周りの不安そうな視線に気づいた時政が、彼を顧みた。
「リュウは前線には出ねぇ。ここから街に繋がる一本道で待機し、万が一の時は残党から街を守る壁になってもらう」
「壁って――危ないじゃない」アデルがすかさず抗議した。
「違うんだ、アデル」リュウが遮ったが、その声はかすかに震えていた。
「いいんだよ。オレ、自分から志願したんだ」
「リュウ……」
「聞けば、騎士の亡霊は飛び道具は使わねぇっていうジャン?だったらそんなにビビんないで済むし、何より輝夜で一番上手い剣の使い手はオレだ。逃げてきたら千人斬りにしてやるよ」
「……それを言うなら千切りじゃない?でもそれも変ね、ぶった斬り?」
「――うっ、うるせぇ!とにかく、危ないと思うならオレのところに来る前にぶっ殺しておいてくれ。つーか、できるならそれで頼む」
軽く手を振りながら街の方へとぼとぼ歩いていくリュウの気弱そうな様子を見て、場の緊張が少し解けた。
獣人は、ゾロとダガーのふたりだけだった。ダガーは武器を補給するだけなので、実質ゾロだけで戦う事になる。その他にこの場にいるのは、エースとアデル、そしてやや遅れて来たブルー。全てあわせてもたったの8名だ。
「蜘蛛の時よりもだいぶ少ないが、大丈夫なんだろうな?」
かつて集団で騎士の亡霊と対峙したエースは、その半分にも満たないメンバーに不安をあからさまにした。
「大丈夫。騎士の亡霊は蜘蛛のような大量殺戮の武器を装備していないし、サイズも蜘蛛よりかなり小さいから、大人数だと却って危ないんだ。はいこれ、エースさんと天使さんはこの銃を使って」
ゾロと一緒にいた獣人が、エースとブルーに小型のショットガンを渡した。
「ボクはダガー。ゾロさんのところで武器の開発をしてる。前回からあんまり急だったから、まだ2丁しか用意できてないんだけど、おふたりは銃が上手いと聞いたから」
「この銃はなあに?」ブルーは興味深そうにためつすがめつした。
10日ほど前、騎士の亡霊が輝夜のビーチに出現した際、使ってみて効果のあったアイスグレネードを増産する事にしたのだという。ダガーはその機能と使い方を簡単に説明すると、なにやら重そうな木箱を手に、集団の後ろに下がっていった。
「おい……まさかそれは」ゾロが嫌悪の表情をした。
「そのまさか。強力接着剤弾。これの量産は簡単だったから、リュウさんに渡してこようと思って」
ゾロは毛を切ってまだらになった腕と胸元をみてため息をついた。こりゃますます、リュウのところまで残党をやるわけにいかなくなったぞ。
「ねえ」痺れを切らしたようにブルーが声を上げた。
「騎士の亡霊はもう出現しているんでしょう?さっきから妙に悠長にお喋りしてるけど、こうしている間にも街のどこかに被害が出ているんじゃあないの?」
「心配すんな。ルアちゃんがしっかりやってくれてるからよ」時政が応えた。
今夜の輝夜の街には、夜の喧騒がなかった。残党出現の警報からものの数分で全住人が避難を済ませ、魔族と獣人が多く住むエリアには警官隊が配置されていた。
これはルアの発案だった。騎士の亡霊の目的は、殺戮と破壊ではなく、異種族の捕獲にある。しかも過去の残党によるものと思われる連れ去りは全て屋外で行われており、建物の中にいる分には安全と言っていい。
「だから今夜は最低限の人数でここに集まったんだ。万が一、異種族の街区に残党が現れたときは、それなりに戦えるやつが足止めになって、警官隊が応援を呼ぶ手筈になっている。それにそもそも――」
時政は一呼吸置いて言った。
「騎士の亡霊は、前回の出現でだいぶ身体が傷ついている。まだるっこしく街で獲物を待つよりも、手っ取り早く捕獲できそうな場所に出るにきまってる」
「なるほど、つまりここに来ると。あたしたちは囮ってわけなのね」
「俺は罠のつもりでいるけどな――おい、妙な気配がするぞ!」
時政の声に、その場の数名は驚いて辺りを見回した。
「どうだ?ゾロ、奴が来そうか?」
「――あぁ、間違いない、このなんともいえない薄ら寒い気配、騎士だ」
同じく過去に騎士と相まみえているブルーとエースが頷いたのとほぼ同時に、港に蹄の音が響いた。
「あそこよ!海の上にいるわ!」
ブルーが指差した先には、わずかな月明かりに照らされた黒い騎士が居た。馬に乗り、水面をゆっくりとこちらに進んでくる。水の上なのに鳴り響く蹄の音に、メンバーは背筋が寒くなるのを憶えた。
「全員、配置につけ!戦闘中は常に分散しろ、固まるなよ!」
時政が指示をし、メンバーは指定された場所で騎士を待った。
エースとブルーは左右に分かれて、後方からの射撃。時政と魔族の男・ゾロとアデルがペアとなり、それぞれ交互に接近戦を仕掛けるという作戦だ。
「アデル!」後ろのほうでブルーが叫んだ。
「しばらく見ないうちに随分変わったわね。色々聞きたいことがあるけど、それはまた今度にしましょう!」
アデルは手を大きく振ってブルーに応えた。私だって、あの不思議な天使には、まだまだ話したいことがたくさんある。そのためにも、今日で終わらせるんだ。
騎士が歩みを進める時間が、妙にゆっくりに感じられる。アデルはじっとりと汗を掻いた手のひらをジーンズにこすった。
「大丈夫か?アデル」ゾロが案じたように言った。
「……ちょっと緊張してるだけ」
「訓練の通りにやればいい。ここは幸い足場も多いし、アデルの格闘が活かせるさ。それにな」
「何かあったら自分が身を挺して守る、というのはナシね。私と組んだのはそのためでしょ?そうはさせないからね」
図星を指されたゾロは、頭を掻いて苦笑いをした。
「実戦は初めてだけど、私は輝夜の人間として残党をちゃんと分かってるつもり。それに、内緒にしてたけど私ね――」
アデルが耳打ちをした言葉に、ゾロは何だって?と大声を出してしまった。港の各所に散っていたメンバーが一斉にそっちを見ると、時政の怒声が響いた。
「馬鹿か!おい、行ったぞ!ゾロのほうだ!」
騎士の馬が急に歩みを速め、ゾロとアデルのほうに向かってきた。エースは思わず銃口を向けたが、時政に阻止された。アイスグレネードの弾数は限られている。接近戦で十分なダメージを与えた後に使うよう、ダガーからも念を押されていた。
「うわ……来る来る!」
「落ち着け!まずは脚、行くぞ!」
ゾロは自分の身長ほどの長さの大槌を振って、全速力で騎士に向かって行った。半月とはいえ、夜の空は彼に驚異的な力を与えていた。あっという間に騎士と対面すると、馬の脚を薙ぐように大槌を振った。
騎士もそんな攻撃は読みきっていて、跳躍でたやすく回避した。
勢い余って10メートルほど行き過ぎてしまったゾロを尻目に、もう一体の敵を探すがどこにも居ない。
「引っかかったわね」
声のするほうを振り返ったが既に遅く、自分の頭上から振り下ろされるアデルの拳を、騎士はまともに受ける事になった。衝撃でよろめいたまま不器用に着地し、一瞬態勢が崩れる。アデルは馬の胴体を足場にし、器用に着地して見せた。
「いいぞ、アデル!」
ゾロはアデルに駆け寄り、おろおろする彼女を抱きかかえてコンテナの陰に避難した。初動はうまくいったが、こういうところで隙を見せてしまう点で、アデルはまだまだなのだ。
「う、上手く行った?」
「ああ、上出来だ。ただ、次は攻撃の後も気を抜いちゃダメだぞ」
アデルは首肯し、コンテナの陰から顔を出して、戦闘の成り行きを見守った。バランスを崩した騎士に、時政たちがすかさず斬りかかっている。剣よりもはるかに長い騎士の槍を食らわないよう、上手く連携を取って攻撃を仕掛けている。
「やっぱり、時政は強いね。相手が相手だから簡単には深手を負わせられないだろうけど、あれなら確実に体力を奪われちゃうし、残党はイヤがると思うなぁ」
「アデル、身体はなんともないか?どっかおかしくないか?」
コンテナの上から声がして、アデルはびっくりして飛び上がった。
「エ、エース?ちょっと、持ち場は大丈夫なの?」
「俺の持ち場は隣のコンテナの上だ。あの魔族が残党から離れたら、ブルーが狙撃する事になってる。それより、どこもなんともないな?」
「あのくらい大丈夫よ。訓練どおりにできたし、着地も失敗してない」
「お前、殴りつける時、直に残党に触れただろ?どんな感じだった?」
「どうって……ちょっと手ごたえがキモかったけど、普通に殴れたよ。亡霊ってことはなかったみたい」
きょとんとするアデルに事情を説明する前に、戦闘の局面がやや変わっていた。エースは慌てて隣のコンテナに飛び乗り、アデルとゾロは騎士のほうを見遣った。
騎士は、身体のあちこちから黒い煙を吐き出しながら、時政たちの眼前に立った。信じられないことに、あれだけ斬られておきながら、その傷は全くと言っていいほどついていないようなのだ。
「クソっ……手ごたえってヤツが全くねえや!もっと深く斬りこまないと!」
「ダメだ。奴のリーチに入るのは危険すぎる」
もどかしさにいきり立つ魔族の男を時政が諌めた。騎士とやりあうのは初めてだが、その強さよりもまず気味の悪さを感じた。また、わずかな違和感も――。
剣で斬られてもダメージなし。だが、グレネード弾とアデルの打撃は利いた。
もしかしてこいつは……。うむ、ダメ元で試す価値はあるかも知れねぇな。
何かを思いついたらしい時政が、コンテナの上のブルーに目配せした。ブルーは頷き、ショットガンを構えた。
時政達は再び騎士に剣で挑んでいった。先ほどと違うのは、時政は騎士、もう1人の男は馬へとターゲットを分散したところだ。ふたりがバラバラで攻撃をすることで、騎馬の状態での死角となる、武器と反対側の背面を銃撃にさらすことが目的だ。
槍で巧みに応戦する騎士は、なかなか思いどおりに背を向けてはくれない。ただ、このグレネード弾は着弾直後に爆発するため、時政たちが確実に離れてからでないと撃つことができない。
先ほどの戦闘で、剣ではダメージが期待できないことは分かっている。今も、攻撃は確実に当たっているが、騎士の動きは一向衰えを見せない。それどころか、時政達の息が上がってきているのが遠目にも明らかだ。
ブルーはじりじりした。これでは埒があかない。ここは一旦、ゾロとアデルに交代すべきではないのか。そう助言しようと口開きかけた瞬間、時政と目があった。
「ゾロ!アデル!準備なさい!回収したら撃つわよ!」
「えっ?なんて?」
「トキ!!」
騎士の槍が時政の左肩を貫いた。膝から崩れ落ちる彼を見て動揺した魔族の男を、騎士の馬が後脚でしたたかに蹴り上げた。
「アデルはトキを頼む!」
「わ、分かった!」
ゾロとアデルが飛び出し、時政達を抱えて離れかけた直後、すさまじい爆音が響いた。
衝撃と爆風に転げるようにして離脱したアデルは、慌てて時政の姿を探した。吹き飛ばされる直前、夢中で襟首を掴んで力任せに投げたので、もしかしたらとんでもない事になっているかもしれない。
「時政ー!どうしよう……海に落ちちゃってたりしたら……」
「……おーぅ、ここだぁ」
しかし、時政は積み上げた土嚢の上に大の字になって手を振っていた。運よく、地面に直接叩きつけられる事もなかったようだ。アデルは時政に駆け寄って、傷の具合を見た。遠目には確かに槍に貫かれたように見えたのだが、大量に出血しているということもなく、思ったほど深い傷ではないようだった。
「よかった。もっと大怪我したかと」
「アデルにぶん投げられたほうのダメージがでけぇよ――それより、見てみろよ」
時政が半身を起こして指差した先では、落馬した騎士を、ゾロとエースが牽制していた。ゾロの数メートル後ろでは、彼が救出した魔族の男がコンテナにもたれて座り込んでいた。こちらも時政同様、深手ではないようでアデルは安堵した。
「私、加勢してくる。時政は休んでいて」
「いや、騎士はあの二人に任せよう。それよりアデルはブルーのところへ行ってくれ」
「ブルーの?彼女は大丈夫じゃないかな、強いし」
「違うんだ、実は――おい!あの馬どこいった?」
時政の声にびっくりしたアデルが焦って周りを見渡すと、ブルーの悲鳴が聞こえた。今まさに、騎士の馬はブルーに襲い掛かり、その口に彼女の翼をくわえたところだった。
「ブルー!」
ブルーを引きずるようにして猛スピードで走り去る馬をアデルは追いかけた。馬は街のほうへと向かっていく、まずい。彼女の背中に、時政が叫んだ。
「やつの狙いはブルーだ!騎士の正体は天使だぜ!」
時政は騎士の攻撃を受けた左肩をさすった。手には煤のような黒い汚れがついただけで、身体は無傷だった。
騎士と剣を交えてみて分かった。あいつの本体はおそらく見た目よりもずっと小さい。というよりも、積年の戦いのダメージで最早あの姿を保つ事も難しいはずだ。
「騎士の形」を形成する瘴気は、生身の生き物には毒だろうが、魔の者には幻影も同然だ。それでも左肩を貫いたわずかな気配で、時政は騎士の正体を知った。
あいつの命はもう尽きかけてる。だが今日敢えてここに来たのには目的があるはずだ。
天使であるブルーを黒島に連れ去らねばならないという目的が――。
「く……っ!離しなさいっ!」
ブルーは片方の翼を馬に咥えられたまま、手出しができずにいた。銃は最初の衝撃で落としてしまったし、後ろに手を回すことも体勢を立て直す事もできない。このままでは街に被害が出てしまう。なんとかして逃れなくては――。
「ブルー!大丈夫ー?」
引きずられながら馬の後方を見ると、なんと、アデルが猛烈な速さで追ってきているではないか。段々と馬との距離をつめ、乗り移ろうと尻尾にしがみついた。馬はアデルを振り落とそうと暴れ、翼を引きちぎられるのではないかという痛みに、ブルーは悲鳴をあげた。
「ダメっぽい。一旦降りて別な方法を試す。ブルー、上のほうに気をつけてね!」
そういうとアデルは馬の尾から手を離し、地面で受身を取ると今度は路地のほうに姿を消してしまった。
「ちょっとぉ……何やってんのよ!」
戦いに備えて翼を出した背中を無防備に敵にさらしたことが悔やまれた。これがこんなにも自分にとって邪魔なものになるなんて。短剣のひとつでもあれば迷いなく斬りおとしているところなのに――
ブルーはくすりとした。
こんな状況で何をと自分でも思ったが、かつて自分は翼を失ったことがあった。その時は、翼がないことをどんなに惨めに思ったか知れない。なのに今は無くしても構わないとさえ思っているなんて変な話だ。
あーあ……嫌なこと思い出しちゃった――
今もその時も、抱く思いはひとつだ。自分の無力さがただ情けない。冷静に考えれば全て自分の落ち度が招いた事態だった。だが、ブルーにとって他人の助けを待つだけの状況はこの上ない屈辱だった。
馬は港を抜け、輝夜の街へと続く道を進んでいった。逃れようと足掻く気持ちも萎えかけた頃、ブルーの耳に聞き慣れた声が響いた。
力を振り絞り、声のするほうへ顔を向けてブルーはぎょっとした。なんと、前方にある倉庫の屋根の上からアデルが身を乗り出しているではないか。しかも彼女はさらに信じられないことを叫んだ。
「今からそっちに飛び降りるからねー!受身は自分で取って!」
ブルーがその言葉の意味を理解する間もなく、アデルは屋上からひらりと身を投げた。空中で回転し、身体を預けるように落下してくる。危ない、と思った瞬間、激しい衝撃と共に、ブルーは馬から投げ出された。
咄嗟のことで翼は役に立たず、硬い地面を転がり続けた後、何処かの建物の壁にぶつかってようやく止まった。激痛で気を失いそうになるのを耐えて、ブルーは薄目で辺りを見回した。アデルはどこ?
アデルは自らの身体を投げ出して、騎士の馬からブルーを救ってくれた。vamp化したからといって、あの高さから落下し、なおかつ猛スピードで走りぬける馬に激突したとなると無事ではいられまい。他に策はなかったのだろうが、何てことを。
「なんて、馬鹿な子なの……」
「大丈夫?ブルー」
「――え?」
倒れている自分を覗き込んでいるのは、アデルだ!ちょっとじっとしててね、と言うと、アデルはブルーの腕や脚を確かめて、優しく体を起こしてやると壁に寄りかからせた。
「骨は折れてないみたい。ごめんね、無茶しちゃって」
「ア、アデル……あなたこそ」
「私はへっちゃら」
アデルの服はあちこち擦り切れていて、顔や手には血が滲んでいる。それを案じるブルーに気づいたアデルは、顔の血をシャツの袖で拭ってみせた。そこには傷ひとつついていない。
「ブルーは分かるよね?――おばあちゃんもこうだった?」
そうだ、思い出した。
自分がかつて翼を失った時、生きる気力も消えかけた時、救ってくれたのはハイジだった。そして、自分に天使としての魂を取り戻してくれたのも――。
「――前に」
「ん?」
「アデルとハイジは違うと言ったのは、嘘。あなたおばあちゃんに本当にそっくり」
「だと思った」アデルは満足そうに笑った。
「でも、お気をつけなさい。重症の身体を覚醒で治したのでしょう?ハイジもそれをやったけど、その後すごく消耗していたから」
「うん、実はめちゃくちゃしんどい!あ~血が欲しい……」
気味悪いこと言わないで頂戴と笑ったブルーの目に、涙が浮かんだ。それを誤魔化したく、眼を閉じて顔を背けると、アデルは少し笑ってブルーの隣に座り込んだ。
遠くから、時政たちの声が聞こえる。それと同時に目の前を一陣の風が吹きぬけた。
「ここは俺が。時政たちはゾロの後を追ってくれ」
エースが目の前に跪いて、アデルとブルーの顔を覗き込んだ。無事を確認してほっとしたのか、アデルの頭を軽く小突いて、血液の入ったパックを渡した。一瞬迷ってから、ブルーに背を向けるようにして飲むアデルを見て、エースがブルーに頭を下げた。
「天使のあんたにゃ気分悪いかもしれないけど、我慢してくれ」
「いいのよ。お陰で助かったんだから。それより騎士は?」
「消滅した。時政が言うには、あの身体はかりそめのものだったらしい。今、ゾロが本体を追っていった」
「四つ足で走るゾロ、久々に見たよ。ほんとに速い」
血を飲み干して人心地がついたらしいアデルが感嘆の声を上げた。先ほど自分たちの前を吹きぬけた風の正体はゾロだったのか。
「それに引き換え、時政はなんであんなちんたら走ってるの?メタボだから?」
ジョギングかと思うような悠長なテンポで走る時政の背中を見て、アデルは苦笑いをした。
「馬が逃げた先には、輝夜随一の剣豪が待ち構えてるから大丈夫だって言うんだ。あと、ゾロが行ったほうが面白いとか何とか――」
エースがそう答えるのと、道の先からおぞましい咆哮が聞こえたのがほぼ同時だった。
「やったな」
おそらく騎士の馬の断末魔だったのだろう。止めを刺したのは、リュウかゾロか、それは遠くからでは分からなかったが、その後すぐ聞こえた声で、ますます分からなくなった。
「――微妙に、情けない悲鳴が聞こえない?」ブルーが耳を澄ませた。
「ゾロっぽいけど、どうしたんだろ」アデルが首をかしげた。
「で、爆笑してるのは、時政?」エースが眉をひそめた。
全く訳の分からないままの3人だったが、ひとつ分かっていることがあった。
輝夜が残党の脅威に脅かされる日々がいま、終わったのだということが。
<2070年9月7日 22:30 Peace(平安)>
残党との戦いを終えた輝夜では、港や街の入り口に多くの警察車両が停まり、ジークたち警官隊が現場検証を行っていた。
皆の無事を知ったルアは、礼と労いの言葉をかけようとアデルたちのほうに駆け寄ってきて、場の緊張感のなさに拍子抜けした。
「ちょっと、アレはなんなんだい?」
輪から離れたところでしょんぼりしているゾロと、しきりに頭を下げているリュウを指差し、ルアは言った。しかもそのほかの者はそれを見てにやにやしているではないか。
「何十年にもわたる戦いが終わった、歴史的瞬間だっていう意識がまるでない!そもそもリュウは残党に止めを刺した功労者なんだろう?」
「時政が説明しなさいよ」アデルが肘で小突いた。
「しゃーないな……」時政が明らかに笑いを堪えた声で話し始めた。
落馬した騎士が目の前で黒い煤となって消滅するのを見た時政は、ブルーを攫って港から街へ逃げようとした騎士の馬こそが残党の本体だと気づいた。そこでゾロとエースを伴って後を追ったが、追いつけるだけの速さを持つのはゾロだけであり、彼は先駆けて馬の元に到着した。
しかしそこでゾロが見たのは、リュウの剣によって既に真っ二つにされた馬の最期だった。ただの一撃でこの巨大な残党を斬ったリュウの腕前に感心したのも束の間、ゾロは地獄を味わう事になる――。
「ゾロのおっちゃん、ごめんね。おっちゃん怖くて、残党と間違えちゃって……」
「リュウ!キャラ設定がぶれてるよ!」アデルが茶化す。
「ゾロさん……サ、サーセン」リュウがわざわざ言い直すのを聞いて、今まで笑いを堪えていたブルーがたまらず吹き出した。
「気にすることはねえよ、リュウ!毛はまた生える!」時政がげらげら笑った。
「トキ!他人事だと思って!あぁ、オイラの毛皮……」
「ごめん……」
恐怖のあまり、自分が残党に止めを刺したことも理解できなかったリュウは、そのあとから駆け寄ってきたゾロを残党と勘違いし、あろうことかダガーに渡された強力接着剤弾をありったけゾロにぶつけたのだという。
その結果がこれである。ゾロは身体のあちこちを接着剤でガビガビに固められ、さっきからリュウは恐縮しきりといった感じだ。
「なるほどね――まぁ、君達らしいっちゃぁ、らしいか。ゾロには輝夜一の腕自慢のトリマーに散髪してもらえるよう手配しよう。もちろん、経費は警察から出させてもらう」
ルアの冗談に皆が――ゾロとリュウも――笑い声を上げ、長い戦いの終わりを祝福した。
少し傾いた半月は、先ほどと同じように仄かに輝夜の海を照らしていた。
<2070年9月16日 15:00 Repose(安息)>
輝夜の残党討伐のニュースが世界を駆け巡って数日が経過した。世界がそれをトップニュースとして伝えたのはもちろん、今まで傍観者を決め込んでいた各国の軍隊が、無人となった黒島の破壊に名乗りを上げた。
かつて世界を恐怖に震えさせた母船を破壊することで、自国の兵器の強力さを示したい――そんな思惑が透けて見える申し出を、輝夜は全て断った。
「母船――我々が『黒島』と呼んでいたそれは、今や完全に停止している。放射性物質などの流出の危険も確認されていないため、輝夜はこれを戦いの記録として残すつもりだ。世界はかつてこの脅威を記憶のかなたに追いやったが、我々はそこから眼を背けずに戦い続けてきた。おそらく今日のこのニュースも、程なく忘れ去られてしまうだろう。だが、輝夜はそれを忘れない。各国の申し出は大変に有難いことであるが、どうか理解をお願いしたい」
ルアが再び世界に発信した宣言は、概ね好意的に受け取られた。納得のいかないいくつかの国が抗議の声を上げたが、それもそのうち立ち消えになるだろう。
世界には、終わってしまった戦争を振り返るゆとりなどないのだ。
「どうしたの?こんなところに連れてきて」
強い潮風に髪を乱されたアデルが、ブルーに訊ねた。
「輝夜生まれでも、ここは初めてかしら?」
アデルとブルーは、黒島に居た。
数十年前の大戦で沈められた母船は、輝夜の沖数キロにある。輝夜のビーチから望めるこれは、いつしか黒島と呼ばれ、残党を送り込んでくる人工島として住人に恐れられた。
大戦が過去のこととなっても、残党の存在が輝夜にそれを忘れさせなかったが、実際にここに降り立った住人は今では数えるほどしか居ない。
「もちろん初めて。50年以上たつのに、あんまり劣化してるように見えないね、怖い」
「ええ、この母船と残党を作った組織が築き上げた科学を、未だ超えられないって言うんですからさもありなんと言ったところね」
アデルは甲板から黒島の全体を眺めた。
海水にさらされているところはフジツボなどにびっしりと覆われているが、目立った錆びや傷がほとんどない。過去にこれが輝夜の街を襲ったのかと考えると、空恐ろしくなった。
その点、自然は逞しいもので、覗き込んだ海の中にはたくさんの魚がいて、船のあちこちには海鳥が巣を作っていた。鳥達は黒島の突然の来客に気づいて一度は飛び立ったものの、またすぐに戻ってきてアデルたちに警戒の声を発した。ここも最早、輝夜の一部なのかもしれない。
「アデル!こっちに来て」
ブルーに呼ばれていった先には、ちょっとした倉庫ほどある巨大な台座のようなものがあった。かなり破壊されていて原形をとどめていないが、これは砲塔だとブルーが教えてくれた。
「ここに4門の大砲があってね。輝夜のほうを向いているのは分かる?」
「言われてみれば……戦争でこれが攻撃してきたの?!」
「そのつもりだったんでしょうけど――これを破壊したのはハイジよ」
あなたと同じように、わざと覚醒して。あたしはそれを随分叱ったのよ、と懐かしそうに目を細めた。大砲があったと思しき部分は、奇妙な形に捩れていた。そのまま引きちぎられたらしい形のものもあったが、これを祖母がやったとは――アデルは言葉もなく、しばらくその鉄の塊を撫でていたが、急に笑い出した。
「母船の砲台をしみじみ見て、亡くなったおばあちゃんの思い出をたどる経験なんてそうそうないわね」
そのまま暫しハイジの思い出話をしたあとで、ブルーはアデルに本題を切り出した。
「今日はここに最後のけじめをつけに来たの」
「けじめ?って戦いは終わったんじゃ?」
アデルは急に警戒をみせた。まだここに、残党が居るというのだろうか。
「――あぁ、ごめんなさい。そうじゃないの。最後に戦った騎士、あれは天使の成れの果てだったの」
「うん、それは時政がなんか言ってたね。そのあとうやむやになっちゃったけど」
「あたしは一度天上界に戻って、その事実を調べたわ。そうしたら確かにいたの」
大戦の始まるもっと前、おそらく100年近く遡った過去のこと。天上界を追放された双子の天使がいた。兄と妹であったその天使は、本来は一体の神として生まれなければならなかった。それが何の運命か、はたまた何かの咎なのか、ふたりの天使として誕生してしまったのだ。
成長したふたりは、お互いしか愛することができなくなっていた。もともとはひとつのものだったのだから仕方がないのだろうが、天上界はそれを許さず、ふたりは下界へと堕天することになった。
追放した者のことは、天上界は汚点として忘れ去ろうとする。だからここから先は推測でしかないが、双子の天使はおそらく囚われてしまったのであろう。そしてここで身体を作り変えられ、残党として生きていくしかなかった。
「もし、騎士の方が兄だとしたら、妹は?」
「天上界に居た時、兄が戦いによって追った傷を、妹が癒していたそうよ。残党が戦いの後、ここに戻ってきて治癒していたのはきっと――」
「まだここに、その片割れが居るからってこと?!ブルーがつけたい『けじめ』って」
「その罪深い兄妹の魂を、帰すべき場所に。それをアデルにも見届けて欲しいの」
「なんで私が?」
来れば分かるわ、というと、ブルーは甲板上の古ぼけたドアの前に立った。以前は何重にもロックのかかっていたこの扉も、今では軽く引いただけで軋んだ音を立てて開いた。
躊躇なく中へと歩みを進めるブルーの後を、アデルはおそるおそる付いていった。停止しているとはいっても、母船の動力はまだわずかに生きていて、船内に点った非常灯だけでも存外明るかった。
いくつかの扉をくぐって母船の深層に到達したふたりは、ある部屋の前で思わず鼻を覆った。
「なにここ……酷いにおい」顔をしかめてアデルが訴えた。
「どうやらここね。あまりあちこち見ないほうがよさそう」
意を決して部屋に入ったふたりが見たものは、想像を絶する光景だった。
研究室のような部屋には、たくさんの実験器具のようなものが無造作に置かれていたが、その殆どは壊れたり汚れたりして、ゴミ同然の扱いだった。鼻の曲がるような悪臭は、部屋の片隅に積み上げられた動物の骨や死骸のようなものから発せられているらしい。
ブルーは思わず目を背けたが、意外な事にアデルはそれをまじまじと見つめ、その骨格が獣人のものだとブルーに告げた。
「輝夜では、たまに流れ者の獣人が行方不明になっていて――ここにいたのね」
身体の半分が有機生命体である残党は、騎士の亡霊が攫ってきた者を溶かして栄養にしている。以前エースが教えてくれた事実と整合する。
アデルはハンカチで鼻を押さえながら、暫し黙祷をした。
「――居たわ」
部屋の奥からブルーの声がして、アデルは慌ててそちらに駆け寄った。
「天使」はそこにいた。
いや、天使と言っていいのかどうか、そもそも「いきもの」と言っていいのかどうかも怪しかった。
そこにいたそれは、液体に満たされたガラスケースの中で、体中を何らかの管で繋がれている痩せこけたなにか。ミイラか標本と言われたほうが納得できそうな醜いなにかだった。
「これが、天使の片割れ、だっていうの?酷い――」
アデルの目にはみるみる涙が浮かんだ。この囚われた天使は、この母船を作った組織によってこんな身体に作り変えられ、来る日も来る日も治癒の力を搾取され続けてきたのだ。わずかな命すら、この繋がれた管に吸い取られながら。
こんな残酷な扱いをして、本当に許せない気持ちがいっぱいだった。こんなところ、ぶっ壊してやる。
「アデル、落ち着いて!覚醒しちゃだめ」ブルーが肩を掴んで強く揺さぶった。
「あ……ありがと……危なかったかも」アデルははっとして、左右に頭を強く振った。
「このガラスを壊して、中のこの子を取り出して欲しいの」
「え?そ、そんなことしたら、死んじゃわない?」
「大丈夫だから。どの道このままでは死ぬわ」
「わかった――」
ブルーに離れるように言うと、アデルは深呼吸をしてガラスケースの中央に拳を当てた。ひびが入ったガラスは水圧に押されて粉々になり、研究室の床には水とガラスの破片が流れるように散っていった。
ブルーは管にぶら下がるようになった天使を抱きとめ、アデルに体中の管を抜くように言った。
最初はおそるおそるだったアデルも、管を抜くそばから天使の傷が癒えていくのを見て、慌てて全ての管を外した。
研究室にあった手術台の上に身体を横たえる頃には、先ほどの痩せこけた醜い姿からは想像できないほどの、美しい女性になっていた。
「――すごい」
「ええ――何十年もの間、この力だけで全ての兵力を治癒できたんですもの」
「あっ!意識が……」
横たわった天使はゆっくりと瞼を開き、アデルたちの姿を認めると、恐怖に顔を歪ませた。暴れそうになるのを、ブルーが押さえつけて叫んだ。
「あたしは『蒼の天使』。ミカエル様の配下のガーディアンよ。貴女を救いに来たの」
「……わた……は、ラファ……」消え入りそうなか細い声であるが、ブルーが口元に耳を寄せ、頷いた。
「ええ、ラファエル様のところの天使ね。癒しの力を使う、よい天使だったと伺っています」
それを聞いた天使の目から涙がとめどなく流れた。積年の地獄から解放された安堵が、傍で見ていたアデルにも伝わってきて、先ほどとは違う涙を流させた。
「ブルー、早くここを出よう。この人、外に出してあげないと」
「それはできないわ」ブルーはアデルの目も見ずに即答した。
「この天使は、片割れを失っている。ただの双子じゃない、彼女がここでこんな姿になっても生きてこられたのは、残党になった兄が居たから。傷ついた彼が帰って来たら癒す――それだけが彼女の生きる望みだったはずよ」
「何言ってるかわからない。ねえ、あなただって生きたいでしょう!」
アデルは天使の顔を覗き込んで叫ぶように訴えた。しかし、天使の首はゆっくりと横に振られ、わずかに動いた唇からは「ごめんなさい」というかすかな声が漏れるだけだった。
「アデル」ブルーがアデルのほうに顔も向けないのは、彼女も泣いているからだと分かった。
「よく考えなさい。彼女が残党を癒したことで、どれだけの命が犠牲になったと思うの?そんな罪を負ったまま生きなくてはいけないことは、死よりも辛いことなのよ。それがあたしたち天使なの」
「人間なめんじゃないわよ!」
アデルが手術台を力任せに叩き、アルミ製と思しきそれにくっきりと彼女の拳の型が残った。ぎょっとして黙り込んだブルーと天使に、アデルは言った。
「この人がこうなったのは、この人のせいじゃないでしょ。生きていくために、愛する人を守るために自分本位になるのは、人間だって天使だって同じよ。それに、私達だって弱くなかった。輝夜の人間は誰一人として、あなたのお兄さんの犠牲になったりしなかった。だから人間なめないでほしいわ」
ブルーは目を丸くした。今日、アデルをここにつれてきたのは、彼女の父を殺した残党の、本当の最後を見せるつもりだったからだ。その相手が天使だったからなおのこと、ブルーはアデルに憎しみの丈をぶつけて欲しいと思っていた。
それを知って己の罪深さを魂に刻み込んだまま、この天使には消滅してもらうはずだったのに。
「もう一度言う。あなたは全然悪くなんかない。きっと、優しいあなたに癒されたことがあるひとは皆、あなたが居てよかったと思ったんじゃないかな」
お疲れ様、とアデルが天使の髪を優しく撫でると、そこからまばゆい光となり、天使の身体は少しずつ崩れ落ちるように消えていく。
「えっ!ちょ、ちょっと!ねえ!」
「――なんてことなの」
「まずかった?なんかまずかった?!」
おろおろするアデルを、ブルーは思いっきり抱きしめた。
「え……な、なに!」アデルはますます混乱した。
「これは『昇華』よ。魂の消滅じゃない。彼女の魂は、完全に浄化されて、再び天に戻っていった――ほんとうに、なんて事をしてくれたの、この子は!」
「そ、そう?なんだかわかんないけど、やったね!」
それと時を同じくして、輝夜では不思議な現象が起きていた。
輝夜警察内の研究機関に一時保管されていた、騎士の馬の死体(それはやはり黒い煤のようなものだったが)が、いつの間にか綺麗に消え去っていたのだ。
その瞬間を見たものは誰もいなかったが、おそらく妹の魂同様、光の粒となって天へと帰っていったのだろう。
母船の中から再び甲板に戻ってきたアデルとブルーは、いつの間にか夕方になっていた海を眺め、爽やかな潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。吐き出すと同時に、お互い顔を見合わせて笑みを交わした。
「ブルー、髪の毛がクサい」
「アデルのシャツだって酷いわよ。おじさんみたいなにおいがする」
最低、と笑いながら、ふたりは輝夜に戻る事にした。
帰る道々、ブルーはアデルに話した。罪を犯した天使の魂は、未来永劫、輪廻の理の外で苦しみ続ける。だが、罪を償い、赦しを得られれば、それは再びどこかの世界に生まれ変われることを意味するのだという。
「今度は正しく、一体の神として生まれてくるかしら」
「ううん、別々な人間として生まれ変わって、幸せに結ばれて欲しい」
「あら、そっちの方が良いわね」
沈みかけた夕日は、輝夜の街を朱色に染めていた。振り返った海は優しく輝き、藍色になった空と交じり合う。あの空の先に、天使の魂は行ったのだろうか。アデルはそんな風に考えた。
<2071年11月14日 Restart(再始動)>
残党との戦いが終結して1年と数ヶ月。多種族共生特区「輝夜」は崩壊の危機に曝されていた。
理由は「平和が訪れたこと」である。
過去に残党の襲撃によってもたらされていた抗争と犠牲は、負のエネルギーを必要とする魔族の生きる糧であった。それが全くなくなってしまった今となっては、輝夜に十分な数の魔族を引き止めておくだけのエネルギーは望めなくなってしまった。
昨年は輝夜の全人口の5%ほどだった魔族は次々と転出し、あっという間に全体の0.5%にまで減ってしまったのだ。
これでは「人・魔族・獣人の共生」を目指した「多種族共生特区」の体裁を保てない。もし世界から共生特区の認定を外されては、魔族だけではなく、獣人の生活も脅かされる事になる。平和のために決して少なくはない犠牲を払った挙句にこれでは、皮肉以外のなにものでもない。
輝夜では、時政とゾロを筆頭に、連日のように話し合いの場が設けられたが、結論の出ないまま月日だけが無情に流れた。
今日も昼下がりの「ディアボロ」では、時政たちがため息をついていた。
「なあ、アルテミス(Artemis:北米の共生特区)とペルセポネ(Persephone:欧州の共生特区)からの移住を募る話はどうなったん?」
時政の質問に、ルアは渋い顔をした。
「さっぱりだ。無理もないさ。魔族が出て行った街にわざわざ引っ越してくる酔狂な異種族は居ないだろうねぇ」
「あのふたつは、中東に派遣する軍隊に相当数の魔族を忍ばせてるって話だしね。そりゃぁエネルギーには事欠かないと思うよ」
オイラはそんな方法ごめんだけどね、とゾロは昼間から酒をあおった。
「こんにちはー!あ、ルアさん、ここにいたんだ!」
一向に埒の明かない話し合いを、場違いに明るいアデルの声が遮った。
「おや、どうしたんだい?そんなに慌てて」
「アデルはいいよなあ、能天気で」
時政のイヤミを無視して、アデルはルアの隣に座った。
「ルアさん、ちょっと市長に掛け合ってほしいことがあるの。私、エースと結婚する事にしたんだけどね――」
「え」
数分後、呼びつけられたエースは、アデルと共にテーブル席に着かせられ、ゾロたちの「尋問」を受ける事になった。
「な、なんだよ。おめでとうの一言よりも先に、死んじまえって言われるってどういうことだよ」
エースは完全に不満そうだ。それをじろりと睨んだのはもちろんゾロで、ルアや時政はどちらかというとゾロがエースに襲い掛からないかとハラハラしているほうだった。
「うるせぇ!まずはスジを通せって話だろう!けけけ結婚なんて大事な話をだなあ、あんなタイミングでぺろっと言うなんておかしいだろう!なあ?」
酒が入っているせいもあって、ゾロは完全に言いがかりとしか思えない絡み方をしてくる。エースが何を言おうとしてもうるさいと返すのだから、こちらの話も埒が明かない。
「あらかじめみんなに話さなかったのは悪かったわよ。でも話を聞いて。これは輝夜のためでもあるの」
「アデルまでナニ言ってるんだ!輝夜のため?結婚するなら自分の幸せのためにしやがれ!」
「んもう、うるさい!これでも食らえ!」
「!!!!」
ゾロが突如鼻を押さえてのた打ち回った。アデルの手を見ると、タバスコの瓶が握られている。どうやらゾロの鼻の穴めがけてこれを突き刺したらしい。
人狼であるゾロにとって、鼻は命だ。そこにタバスコのような刺激物を食らってしまっては、もう子犬のように情けない声で鳴くしかない。ゾロは鼻を押さえてよろよろとトイレに入った。
「――これで少しは酔いも冷めるでしょ。とにかくちゃんと話を聞いて欲しいの」
アデルは順を追って説明を始めた。
輝夜の魔族の数が激減するであろうことは、残党を倒す前から予測できていた。輝夜が魔族に必要な環境を準備できないのでは、他国からの移住も期待できない。しかし、いざその時になってみると予想以上の速さで魔族が転出してしまい、今慌てて策を練る羽目になっている。
「そんなことは毎日のように話し合ってるぜ」
「でも解決しない。だったら他の形で共生特区の体裁を整えるしかないじゃない」
「ほう、そんな方法が?」ルアが興味深そうに身を乗り出した。
「種族が人と違えばいい――つまり、新たな種族を住人登録できるようにするのよ」
アデルはエースをちらりと見た。
「――そうか!vampか!」時政は膝を打った。
vampは本来、人に紛れて世界各地で正体を隠して暮らしている種族だ。そして、人からvampになった者も数多くいることから、その住民登録を人としている者がほとんどだ。
輝夜のような多種族共生特区でない限り、血液検査で種族を探られることはないし、実際エースも本籍地の英国では人としての戸籍を持っている。
「ただ、vampも今や数が相当減っちまって、俺も輝夜に来るまではかなり不自由な暮らしをせざるを得なかったんだ。だから、どうだろう?アデルとの結婚を機に、俺をここでvampとして住人登録してもらえるよう、条例を改定してもらえないか?」
「なるほど、いい方法だ。だがね、実際vampが――もしアデルを入れたとしてもふたりだろう?それじゃあ全然だよ」
ルアはにべもないという風に言った。
「まだ続きがあるの。vampには私たちと違う、独特の絆があるわ。群れを作らない分、各一族の当主たちは常に自分たちの人口を把握し、血が絶えてしまわないようにしている。このアイデアを思いついたとき、試しにエースに調べてもらったの」
「現存する、vampの人口をか?一体どんくらいなんだ?」
時政の問いに、エースが答えた。
「現在の人口の0.01%それがvampの総人口だ」
「0.01……?なんだ、結構少ないじゃねえか」
「ちなみに、世界人口に対しての割合だ。90億人の0.01%つまり90万だ」
その答えを聞いて、ルアは席を立った。
「よし!交渉してくる!明日には結論を出す――いや、絶対出させるから、2人は結婚の話を進めてくれ」
そういうとせっかちに店を出て行ったが、一度戻ってきて「結婚おめでとう、お幸せに」とふたりにウインクした。
「ルアさん、サクサク進めるねえ、さすが。これでゾロも納得してくれるでしょ」
アデルはトイレで顔を洗っているゾロのところへ行った。彼女なりに一対一で話すつもりなのだろう。エースはアデルに任せた。
「でもよ。実際のところどのくらいのvampがここにきてくれそうなんだ?」
時政が期待に目を輝かせた。
「そもそもvampは、隠れて生活してる保守的な種族だからな、そんなにすぐに色よい返事は寄越してくれない。ただ、いくつかの当主は前向きに考えてくれて、それがざっと200から300人ってとこだ」
「輝夜が2万人だから、それでもやっと1%か。案外厳しくないか?」
「だから、俺とアデルはここを一旦離れる事にした」
「なんだって?」
エースとアデルは、他の多種族共生特区を実際に訪れて、そこで暮らしているvampに実際に呼びかける事にしたのだという。売血が合法となっている共生特区がvampの隠遁場所として向いていることを考えると、相当数が潜んでいることが予想できる。
「もし、そこで暮らしている同族に、俺がここで住人として――偽りの種族ではなく、れっきとしたvampとして――受け入れられてる証拠を見せれば、きっとその何倍もの数が集まる。いや、集めてみせる」
「そのための結婚か?」
「まさか。俺はアデルにちゃんと伝えてある。死ぬまで俺の隣に居てくれとな」
「言うね~!」時政が茶化すように手を叩いた。
そんな時政を、エースはまじまじと見つめた。
「な、なんだよ。あんま見るなよ、キモい」
「時政、白髪増えたよな」
「――そんなことかよ。しゃあねえだろう、トシなんだから」
「イサナのためだろ?アデルは気づいてたぞ」
「ちっ、やだね。お宅の嫁さん察しが良くて!」
以前、アデルが何気なくエースに言った「時政は輝夜で一生を終えようとしている」ということが、彼の心にずっと引っかかっていた。
戦いが終わって落ち着いた頃、アデルにそれを聞くと、彼女は絶対に内緒だと言って教えてくれた。
「ずっと前にね、時政とイサナが結婚するってなったとき、ゾロと時政が話してるのを聞いちゃったの」
ゾロは、時政が人間であるイサナと結婚すること自体に難色を示した。短い生しかない者と連れ添ってもどちらにとっても不幸になると。
「イサナは、老いていく自分と変わらないトキを比較して辛くなる。トキは、将来絶対にイサナの死を経験しなくちゃならなくなる。魔族の一生からしたら、人との結婚生活なんてほんの一瞬だろう?」
「俺さ、昔に比べてちょっち太ったと思わねぇ?」
「誤魔化すなよ。そういう話してないだろ」
「魔族は不老不死だ。普通に暮らしていて、見た目や体形が変わることはまずありえねぇ。分かるだろ?」
「まさか、トキ」
「イサナが生まれたちょっと後くらいからかな。俺、負のエネルギーを意図的に取らないことにしたんだ。そしたらよ、身体が老いてくるんだろうな、同じもの食っても太るようになった」
この感じだと、大体イサナが死ぬ頃に、寿命が尽きるんじゃないかなと時政は笑ったという。
「いいのか?何千、いや何万年と生きてきたんだろう?これからだって同じだけ生きていけるんだぞ」
「イイに決まってんだろ。俺は好きな女と一生添い遂げてみたいんだ。でもイサナには言うなよ」
あと、このセリフもクサいからアデルにはいうなと時政は念を押し、エースは頷いた。
<2071年12月26日 最終節:幸せな結末に向けて>
前日のクリスマスパーティーの名残が残る街から、アデルとエースは朝早く旅立って行った。
ふたりの結婚宣言から約ひと月、ばたばたと入籍とささやかな式を終え、あっという間のひと月だった。名残を惜しむ周囲に見送られ、ふたりは一風変わったハネムーンに出かけた。
「新婚旅行は輝夜を救う旅か――なかなか考えたな」
空港へ向かうライナーの席に落ち着くと、エースはアデルの手を取った。
「なにその、輝夜を救うって?」
「憶えてないのか?ずっと前に言っただろう、残党を倒して輝夜も救うとか。このことじゃなかったのか?」
「あぁ……そういえば言ったような気もするけど。なんか勢いだった気もする。どうしてもvampになりたくて」
エースは唖然とした。まさか、エースにとって重みのあった一言が、アデルのでまかせだったとは。
「なんてこった。じゃあ、こうなったのは全部行き当たりばったりか?」
「さあ――全部仕組まれた運命だった、っていうのはどう?」
エースが輝夜を訪れて、アデルの祖父母と出会い、時が経って再び訪れたときに偶然アデルの命を救った。
輝夜を襲う残党が、エースの因縁の相手だった。
アデルは、vampにならなければこうして生きていることはできなかった。
「その他、いろんなことが全部輝夜で繋がってる。ブルーも、時政も、ゾロも。多分、私達と輝夜という街が強い運命で結ばれていて、その中で仕組まれたストーリーの一端を担ったに過ぎない――どう?ドラマチックじゃない?」
「輝夜が自らを守るために仕組んだ戯曲みたいなもんだと?面白いが、こじつけだな。そもそもそのストーリーを完成させるのに不確定な要素がある」
「それって?」アデルがエースの顔を覗き込んだ。
それは、俺たちが愛し合うかどうかだ。出会っても、命を救われても、心が惹かれあうとは限らない。こればっかりは輝夜の運命の神様でも、どうしようもないことだろう。
「さあね、自分で考えな」
輝夜の海から昇る冬の遅い太陽が、車内をまばゆく照らした。どこまでも透き通った清冽な空気と、まだ明けやらぬ淡い紫色の空。ふたりは暫しの別れとなるその風景を心に焼き付けた。
第六章「Metamorphosis(後編-2)」 END
『Deeadlock Utopia』 完結
この話を以って「Deadlock Utopia」は完結となります。読んでくださってありがとうございました。
このあとに番外編の漫画を掲載します。そちらはもう少しお待ちください。