Deadlock Utopia 第六章「Metamorphosis(後編-1)」
第六章「Metamorphosis(後編-1)」です。vamp化した混血のアデルと、エースのエピソードになります。最終話が長くなりすぎたのでふたつに分けました。
Deadlock Utopia 第六章「Metamorphosis(後編-1)」
<2070年8月23日 13:30 Accident(事故)>
昨晩、ビーチに出現したという残党「騎士の亡霊」の対策のために、輝夜の街中から様々な種族の者がディアボロに集まっていた。
魔族の頭領である時政と、獣人の長であるゾロ、輝夜警察の副署長のルアが座るテーブルを議長席のようにして、会合は行われていた。ざっと30人はいるだろうか、料理と煙草の匂いが立ち込める店内はいつもの昼下がりとそう変わらないように見えたが、そこに酒の匂いがない。人々は度重なる残党の襲撃に、皆一様に不安と恐れを感じていた。
そこに、先ほどの一件である。
輝夜随一の怪力自慢である獣人のゾロ、しかも怒りに我を忘れて暴走している彼を、1人の華奢な女が素手で止めたのだ。そんな彼女――アデルのことは、輝夜の住人なら誰でも知っている。
彼女が数年前、蜘蛛型の残党に襲われながらも生き延びたことで、残党の存在が世界に周知されることとなった。それからの輝夜は、各地から「残党狩り」を称する者が街を訪れたり、襲撃のたびに街に被害が出たりと、その平穏が脅かされていた。
もちろんそれはアデルのせいではない。
しかし、彼女の祖母がかつてこの街で起きた大戦の功労者であること、父親が残党に襲われて死んでいることなどから、残党の話が出ると自然と彼女の顔を思い浮かべる住人も少なくない。
アデルもそれを知っていながら、敢えて輝夜で暮らす道を選んだのだ。
「――で、アデルはこの、ヴァンパイアのエースとやらの仲間になったってわけか」
「魔族の混血だと分かったのもつい最近?身内に混血が居るのに、検査してなかったんかい?」
店内は、騎士の亡霊どころではなくなっていた。
アデルが突然あんな力を見せたことで、住人の興味はすっかりアデルとエースに向いていた。
ルアたちの座るテーブルの前に立たされ、アデルは質問攻めに遭っていた。エースは、先ほどゾロの体当たりを受けたせいで店の隅に寄せられた長椅子に横たわるしかできず、いらいらしながら事態を眺めていた。
そもそも、会合で指揮を取っていたルアと時政がだんまりなのが気に食わない。ゾロはどういうわけか俺のそばでしゅんとしているし、アデルをさらし者にしたままでこいつら何をしたいんだ。
自分からも何か言わなくては――と思ったときに、ひとりの住人が声を上げた。
「まぁ、あのアーデルハイトさんの孫らしいっちゃあ、らしいじゃろ。ばあさんの時代を知ってるワシからすると、この娘っこはおとなしくてつまらんかった」
「アデルがおとなしいって?おっかさんはウチの娘が言うことを全然聞かないって、しょっちゅうボヤいてるわよ。そこのお兄さん、彼氏なんでしょ?ちゃんと紹介したの?」
「そもそもゾロが悪いんだろ。vampのおにいさんの横で落ち込んでる場合じゃないぞ。でかい図体でしょんぼりされても、全然可愛くないからな」
人々の視線が一斉に集まったのにうろたえて、エースは思わずアデルのほうを見た。
アデルはエースに向かってウインクをしてから、ルアや時政のほうを振り返ってピースサインを出した。二人も頷き返しているところを見ると、住人のこういう反応は分かりきっていたという感じだ。
なるほどな、これが「輝夜」という街なんだな。どんな種族の血が流れていようと、一人の住人であることに変わりはない。血は、ここの住人にとっては単なる「個性」でしかないのだろう。
俺も――いやvampも、ここでなら暮らしていけるのかもしれないな。
無意識のうちに笑みを漏らしたエースに、ゾロが消え入りそうな声で話しかけた。
「さっきは、すまなかったな。オイラすっかり誤解しちまって」
「い、いや、気にしないでくれ。聞けばアデルのメッセージが原因というじゃないか。まったく、あのふざけた女には」
「惚れたか?」
不意を突いた問いかけに、思わず反射的に「わからない」と答えてしまった。アデルを娘のように大事に思っているゾロに、その言い方はあんまりだったかと一瞬ひやりとしたが、意外な事にゾロは笑い声を上げた。
「わからない――だろうなあ。オイラが知ってるvampの連中っていうのは、口ではやれ一族だ血の絆だと言うくせに、いざとなると仲間を切り捨てる、そういう冷たいやつらだ」
エースは否定も出来ずに曖昧に頷いた。
「だが、さっきのオイラの一撃を、あんたは避けなかった。アデルをかばったんだろう?」
「結果的にそんな必要なかったんだけどな」
「ははっ……あれにはオイラもたまげた。チクショウ、輝夜一の怪力の名を返上するのは癪だなぁ。ハイジが引退した後、ずっと守ってきたんだぜ?」
言葉ほど不愉快には感じていない、むしろ痛快そうに笑うゾロにつられて、エースも笑った。
「仲間にしたんだ。大事にするよ。あんたには約束しよう」
「幸せにもしてやってくれよ」
それはどうかなと、いつもの調子で言うエースをゾロが小突く。そんなふたりのやりとりを遮るように、ルアが話し始めた。もちろん、声の小さい彼女の手にはメガホンが握られている。
「――みんな、いいかな?あっちで毛むくじゃらと血吸いがじゃれてるのは放っておいて、騎士の亡霊への対策はさっき話したとおりだ。アデルは後で聞いておいて。あと当分『楽園の果実』は休業ね。あそこが残党征伐の最前線になるから。じゃあ、あたしはそろそろ行かなくちゃ」
「ルアさん、どこへ?」
アデルの質問に、時政が答えた。
「14時から、ルアちゃんテレビに出るんだってよ。全世界生中継・フロム・輝夜!」
「今日はその口裏合わせに来たんだ。あぁ、アデルちょっと――」
ルアはディアボロの外にアデルを呼び出した。
「時間ないから手短に言うね。あたしはアデルの決断は大歓迎だ。君には何はさておいても生きる権利があるし、進んでその道を選んでくれてほっとしてる」
「ありがとうございます。でも、兄はどうだか……きっと、苦々しく思ってるに違いないです」
ルアはアデルの両肩にぽんと手を置いた。といっても、少女のように小柄なルアなので、決して様にはならなかったが。
「アデルと同じく、ジークだってあのハイジの孫だよ。あんまり彼を見くびっちゃ困る。あれでなかなかイイ男なんだよ」
そうでしょうか、と首をかしげたアデルに、ルアはふっと微笑を漏らし、踵を返して去っていった。
<同日 14:00 Incident(事件)>
ディアボロの店内では住人の誰かが持ってきたプロジェクターによって、広い壁いっぱいにテレビ画面が映し出されていた。見ているのはもちろん、ルアが出演するという番組だ。輝夜から全世界に向けての緊急配信だという。
遅れて来たアデルとエースはさっぱり分からなかったが、ルアは「口裏合わせに来た」と言った。
「ねぇ、イサナ。この配信って一体何なの?」
「見てればわかるって。あっ、始まった!」
14時きっかりに画面が切り替わり、見慣れたルアの顔が映されると、店内はなぜか拍手喝采になった。自己紹介をしたルアの声があまりに小さすぎてマイクで拾えず、ディレクターが慌ててマイクの音量を上げたときは、皆、苦笑いの表情で顔を見合わせた。
『輝夜警察副署長のルアと申します。見ての通り、あたしは魔族ですが、こうして輝夜の代表として発言の機会をくださった事に感謝の意を表します』
「興味本位で見てるやつらはびっくりしてるんだろうな、やっぱ」
「あぁ、普通に生きてたら他種族に巡り会うことなんてないもんな」
「シッ!聞こえないよ」
ルアの発表の内容はこうだった。
先日、輝夜では初めてマキナ(残党)の討伐に成功した。そしてその「遺体」は保管され、しかるべき調査機関に譲り渡されることになった。長年謎に包まれていた、マキナという異生物の解明に一歩近づいたと言っていい。
しかし、非常に残念な事に、輝夜は恥ずべき失態も犯した。それは輝夜警察署長(現在は懲戒免職済み)であったオッター氏が、マキナ討伐を前にして、武器の横流しを行った挙句姿を消してしまった。従って輝夜としては全世界に向けていくつかのお願いをしたい。
まずひとつは、オッター氏を国際指名手配とすること。罪状は横領と個人情報保護違反。彼は武器の横流しだけでなく、ある人物の個人情報を故意に削除した疑いも発覚した。その意図は分からないが、被害者当人が異種族であることから、種族権の侵害にも当たると判断する。この件については被害者家族を通じた示談の交渉が進みつつある。
アデルの横で、時政が小声で言った。
「警察に保管されていた、アデルの個人情報、ルアちゃんが消したんだってさ」
「えっ、私の?どうして――」
「そりゃあ、守るためよ」
「……」
輝夜警察には、残党に襲われたアデルが覚醒した証拠映像や、健康診断のデータなどが保管されていた。もし、この世界に残っている「覚醒する成人の個体」がアデルのみだとしたら、世界中から注目されることは間違いない。最悪の場合、軍事利用を目論む国家もあるだろう。
しかしその情報を全て削除し、多種族共生特区独特の条例「種族権(異種族の信条や文化を侵害してはならない)」を用いることで、世界からの干渉を断ち切ることができると、ルアは考えたのだ。魔族である彼女が代表として顔を出すことで、輝夜の特殊性を世界に知らしめるのも計算の上だ。
ちなみに、オッターのパソコンから直接個人情報にアクセスしてデータを消したのはジークである。署長室には、オッターの意向で防犯カメラがなく、24時間体制で警備員に見張らせていたことが仇となった。
ジークは気配を消し、堂々とドアを開け、パソコンを起動し、作業を終えた後で普通にドアから帰って行ったが、それを「目撃した」者は1人も居なかった。
しかしこのことは、ジーク自身の希望で、ルアと彼のふたりだけの秘密となる。
そして、ルアが世界に向けて提案したもう一つは「残党狩りの自粛」であった。
横領によって、現在輝夜には武器が不足し、再度のマキナの襲撃に備えるので精一杯だ。今までは外部の人間も保護してきたが、現状が厳しくなってしまった。十分な体制が整うまで、残党狩り目的での渡航を自粛して欲しいというものだった。
現に、度胸試しや興味本位で渡航してくる残党狩りの者が戦闘に役立ったためしはなく、治安悪化の一因ともなっていたため、来ないでくれるに越したことはない。アデルの情報が外部に漏れないためにも、渡航者の制限は理にかなっている。
『輝夜からのお願いは以上です。我々の身から出たことの後始末を頼んでいるようで、大変心苦しく思います。しかし、世界ではすでに忘れ去られようとしている大戦とマキナの脅威に、輝夜は未だ苦しめられています。マキナという、未知の生物の襲撃を、輝夜は水際で食い止める役を負っています。皆さんの平和な世界に、この恐ろしいものを放たないためにも、ご理解とご協力をお願いします』
カメラに向かって深々と頭を下げたルアの絵を最後に、中継は終わった。
食い入るようにして画面を見ていた人達のどこからともなく拍手が起こり、時政とイサナはアデルの顔を覗き込んで頷いた。今日、ルアがここに来ていた理由を理解したアデルは胸がいっぱいになり、目に涙をためた。
「――私のためにこんなことまで……どうしよう、申し訳なくって。なんてお礼をしたらいいんだろ」
「そんなん、いいんじゃないの?今回はたまたま姉さんだっただけで、他の誰でもきっとルアちゃんは同じようにしたよ。もちろん、私らもだけど」
アデルと眼を合わせたイサナの眼も潤んでいる。そんなふたりの頭をぽんと叩き、時政が立ち上がった。
「まだ感動の涙を流すのは早ぇぞ。アデルは分かってるんだろうな?もう自分がとっくに残党討伐に巻き込まれているってことをよ」
アデルは零れそうだった涙を指で拭うと、力強く首肯した。
残党との決戦は、もう目前に迫っているのだ。
<2070年9月2日 深夜 Strength(強さ)>
「あーあーなんてこった。何が『輝夜も残党も救います』だよ、まったく!」
廃校の体育館の床に寝そべって、エースは盛大にため息をつき、聞こえよがしに言った。その傍らのアデルは申し訳なさそうに小さくなった。
「……ごめんなさい。自分でもなんてこった、と思ってます……」
ここはかつて小学校だった。アデルの元勤務先であり、残党の一件で廃校になっていたが、建物はとり壊されずにそのままになっていた。
vamp化によって身体能力が格段に上がったアデルであったが、戦い方を仕込む必要はあった。その適当な練習場所として、毎晩のようにここに忍び込んではエースによる特訓が繰り返されていたのだが――。
アデルには全くと言っていいほど戦いのセンスがなかった。
単純な力と速さはずば抜けたものを持っているが、いざ手合わせをしてみるとてんで弱い。投げ飛ばし方を教えても、掴み方をいちいち確認するからのろくさい。蹴りや殴りならマシかと思うと、手足がバラバラに動く。せめて身のこなしでもと単純なリズムのダンスをさせても、絶望的な盆踊りを力強く踊るに過ぎない――。
「運動音痴なのは分かってたんです。だからスポーツらしいこと何ひとつしてこなくって、体育も言い訳しては休んでました……それがまさか、こんな有様だったなんて」
「お前もういっそ、敵の懐に飛び込んでめちゃくちゃにこぶしを振り回すだけの戦い方でもしてろ」
「そんな……」
アデルはしょんぼりして立ち上がると、出口のほうに向かってとぼとぼと歩いていった。ああもう帰れ帰れ、帰っちまえ、とエースが悪態を吐く。さすがに意地の悪い物言いだったかとちらりと反省しかけたとき、アデルのほうからすさまじい音がしてエースは飛び起きた。
「おい、どうした!大丈夫――」
たとえると、建物に猛スピードの車が突っ込んだような破壊音だったのだが、その正体を知ったエースは血の気が引いた。
体育館の重い鉄の扉が外に向かって「くの字」にひしゃげている。レールからはずれかけたそれは、今度はアデルの蹴り一発でグラウンドの半ばまで吹っ飛んでいった。
「ちょっと殴って蹴って、この位――これなら懐に飛び込む戦い方も悪くないですね」
ふざけ半分とも思えない口調に、エースもさすがに申し訳なくなった。vamp化したアデルの戦闘力が期待はずれだったのは確かだが、一番落胆しているのはほかでもない彼女自身なのだ。人としての幸せをあきらめ、この街の平和のために戦おうと、命の危険の伴うvamp化の道を選んだ。エースに比べ、彼女はどれほど多くのものを犠牲にしているのだろう。
それが自分の思うように行かないからと八つ当たりをするなんて――。
扉の外れた体育館の出入り口に座って、アデルはグラウンドをぼんやり眺めていた。エースは近づくと、アデルの隣に腰掛けた。
「すまない――ついイライラした。もうあんな言い方はしない」
いつものアデルなら、気にしないでと微笑んでくれるのだが、彼女はエースを避けるようにすっと立ち上がり、数歩離れて彼のほうに向き直った。月明かりを背にして立つ彼女の目は、昼間とは違ってルビー色をしている。夜に血を求めるvamp独特の色だ。
そして今、その瞳は今まで見せた事もない、怒りと哀しみを帯びていた。
「自分が不甲斐ない。vampにしてもらったのに全然弱くて、役に立てなくて――」
「そんなことは」
「私はアーデルハイトの代わりにはなれないみたい。輝夜にとっても、貴方にとっても」
俺にとっても、だと?
「何が言いたいのか分からないな。俺がアデルを誰かの代わりと思っているとでも?」
咄嗟のことで誤魔化しきれず、エースはアデルから目を逸らした。それが何よりの答えとなる。彼とは対照的にまっすぐにエースを見つめるアデルは、腕組みをしてひと呼吸吐いた。
「ハイブリッドかと思ったが、ただの人間か――貴方は3年前、私にそう言った。蜘蛛型の残党から私を救ったあとです」
「な……憶えていたのか?」
「やっぱり、エースさんも憶えてたんだ。あんな強烈な記憶、忘れるはずありません。私はディアボロで再会したとき、すぐに貴方と分かった」
「俺もだ。だが、誤解しないで欲しい――」
俺は何を口にすべきか分からなくなってしまった。どんな言葉も言い訳にしかならない。そもそも、アデルの誤解を解く必要なんか、俺にはないはずだ。堂々と、本当のことを話すべきなんだ。
だが、まるで言葉を発することを忘れてしまったかのように、俺はただ数度首を振ったきり、項垂れることしか出来なかった。
そんな俺の様子を案じるかのように、アデルは先ほどよりもやわらかい口調で話した。
「命の恩人と再会できて、私は嬉しかったんです。だから時政の勧めるままにエースさんをうちの店で雇いました。もし貴方が私を憶えてないとしても、正体をあかして、お礼もしたかった。だけど、私の『アデル』という名を聞いて、貴方は『アーデルハイト』かと尋ねた。アデリン、アデライザ、エイドリアン……『アデル』という呼称でもっと一般的な名前はたくさんあります。それがひっかかって、私は自分のことが話せなくなってしまったの」
アデルはその後、エースの身上調査をし、彼が1989年に輝夜を訪れていた事実を知る。その頃、祖母のアーデルハイトは輝夜警察に居た。旅行者であるエースと接触していてもなんら不自然ではない。その時、エースと祖母は何らかの関わりがあったのではないか――アデルはそう推測したという。
「それは違う――確かに俺は輝夜に居たし、アーデルハイト本人と会った。いや、見ただけだ。あの時、彼女は時政達の抗争を収めていて、俺はそれを見物していた。だから、あっちは俺に気づいてもいないさ」
「だけど、貴方は祖母の名前を知っていたし、まだ祖母が生きているときに再び輝夜を訪れている。それが3年前。私を助けたときのことです」
「あれは騎士型の残党を見かけたという仲間の知らせがあったからだ。ただ、そいつはすでに輝夜で死んでいた。だからすぐにここを去ったんだ――はぁ、なんで言い訳ばかりしてるんだろうな、俺は」
「言い訳をしてしまうのは、後ろめたいから。エースさん、本当は私ではなく祖母をvamp化したかったんですよね」
きっぱりとした物言いに、最早否定の余地はないと思った。
「ああ、そうだ。アーデルハイトが魔族との混血だというのも知っていたし、加齢が極端に遅いのも目にしていた。vamp化すれば、間違いなく一族の戦力になると思ったよ」
「そして、祖母の血を引いた私を見つけた。目の前で覚醒もして見せた。それはそれは期待したでしょうね」
最初は確かにそうだった。不完全とはいえ、とてつもない力を秘めたハイブリッドを目の前にして、手に入れたいと思わないほうがおかしい。
だが、今は違う。いや、もっとずっと前から、そんな目的はとっくに消えてなくなっていたんだよ。
俺はただ、アデルを死なせたくなかったんだ。
獣人の子供ひとり守るために、ためらいなく命を投げ出すお前を見てから、ずっとそう思ってたんだ。
おかしなことに、本心だけはどうしても口に出せなかった。
散々言葉を連ねてしまった後に口から零れる本心はきっと、アデルの耳にはやすっぽい虚構となって届くに違いない。俺はそれが怖かったんだ。
「私は」答えないエースに、アデルは努めて明るい声を出した。
「代わりでも何でも構わなかった。だって、エースさんがいなかったら、私はあの時死んでいたんだもの。それに、あのまま生きていても、いつ覚醒で命を落とすか分からない私を、またエースさんは救ってくれた。あぁ、本当に――こんな恨み言う資格、全然ないのにね、自分が嫌になる、ほんと」
一瞬、涙声になったかと思うと、アデルはおやすみなさいと言って、エースの顔も見ずに背を向けた。今ならまだ間に合う。遠ざかる彼女を呼び止め、格好悪くても本当のことを伝えるんだ。頭では分かっていても、エースにはその一歩がどうしても踏み出せなかった。
彼はこの時の意気地のない自分を、後悔する事になる。
<同日 深夜 Werewolf(人狼)>
アデルが去ってしまうと、エースはそのまま体育館の出入り口のステップに寝転んだ。
この日は満月で、vampの彼にとって夜空は眩しいほどに感じられた。そういえば、vampになって間もない頃、アデルは夜が明るいと驚いていたっけ。明かりのない体育館でも、床に積もった埃までよく見えると言って、せっせと拭き掃除をしたり――。
エースはふっと笑みを漏らして起き上がった。やっぱり、今からでも彼女を追いかけよう。追いついたところで何を言うか、そんなことを今考えても仕方ない。
立ち上がってズボンの尻を叩き、学校の門のほうを見遣ると、驚く事にアデルが戻ってきているではないか。
思わず笑顔になり、彼女のほうに駆け寄ろうとしたエースは、異変に気づいた。
アデルは片手で腹を押さえ、よろめきながら数歩進んだと思ったら、そのまま膝から崩れ落ちた。彼女の指の間から血が溢れるのを見たのと、その背後から歩み寄ってくる男たちに気付くのが同時だった。
「おいおい、マジかよ。この街、vampが住んでやがる。しかも2匹もだ」
「残党ぶっ殺せなくてムシャクシャしてたけど、まさかvampにありつけるとはな!」
夜中だというのにフードを目深にかぶってサングラスまでしているふたりの男の顔を見て、エースは舌打ちをした。……人狼かよ、何てタイミングだ。
さて、楽しい暇つぶしの時間だと笑い、男たちは上着を脱ぎ捨て、サングラスを外した。
エースは今度は本当に忌々しげに口に出した。
「醜い人狼どもが……アデルになにしやがった」
男たちはなおも不気味に笑いながら、その姿を変えていく。
身体を毛が覆い、変化した顔は狼のそれとなり、鋭い牙と爪が、月明かりに光っている。折悪しく満月の夜――月光を受け、人狼の体毛は鈍く輝いていた。
エースは銃を抜いて男たちに向けたが、彼らは一向に怯むことなく血走った目をこちらに向けた。エースも臆することなく人狼にゆっくりと歩み寄ったが、撃つ気配は一切見せなかった。もとより、完全体の人狼に銃のみで対抗できない事は充分承知の上であった。
――なるべく早くこいつらを片付けて、アデルを救わなくては。果たしてそれまで生き延びていられるのだろうか。あの、不完全なハイブリッドのvampは……。
満月の下での人狼の恐ろしさを、エースは嫌というほど知っている。およそ100年かもっと前、20名近いvampの精鋭が、たった数頭の人狼にほぼ全滅させられたのだ。
強靭な四肢と爪と牙。弾丸さえも跳ね返す、鋼のような肉体。ただひたすらに血と肉を貪る獣。こんなに禍々しく月の恩恵を得る種族は、人狼を置いて他にいないだろうと思う。
「ちゃちな銃でオレらに向かってくるなんて正気か?悪いこと言わねぇから女置いて逃げちまえよ」
「この女もすぐには死なねぇよ。急所ははずしてある。じっくりいたぶって可愛がってから死んでもらいたいからな」
アデルを刺したと思しき、血糊の付いたナイフをちらつかせながら、人狼はニヤニヤと品のない笑いを見せる。そんな卑劣極まりない挑発に、エースは簡単に乗ってしまった。
倒れてはいるが意識のあるアデルに人狼の言うことが分からなかったはずがない。しかし彼女は顔だけをかろうじてエースのほうに向けると、目を細めて、口をぱくぱくさせた。
「逃げて」彼女の口の動きはそう訴えていた。
それを見た瞬間、エースはがむしゃらに人狼のひとりに踊りかかった。
人狼はエースに弾丸を撃ち込む暇を与えずに、腕一本で突き倒し、馬乗りになると首と胸に爪を食い込ませた。服の上から肉を貫く感触と、苦痛に歪むエースの顔を見て昂ぶった人狼は、そのまま彼の首に牙を立てようとした。
しかし次の瞬間、悲鳴を上げたのは人狼の方だった。顔を押さえた指の間から血を流しながら、グラウンドでのた打ち回っている。
エースはゆっくりと起き上がり、服についた汚れを丁寧に払いながら言った。
「そんな可愛らしい口じゃ俺を食うのに不便かと思ってな」
彼の左手には、諸刃の短剣が握られていた。
「銃弾を通さない身体でも、流石に口まで鋼にとはいかないだろう?」
彼の短剣が、人狼の頬を切り裂いたのだ。
ごぼごぼと血を噴出しながら、声にならない叫びを上げて、人狼は狂ったようにエースに襲い掛かった。
エースは数歩退いて、今度は躊躇なく数発の弾丸を放った。それらは人狼の肉体を貫くことはなくとも、痛みに動揺したけだものの注意を逸らすのに充分な役割を果たした。
人狼は弾をはじき返しながら、未だ銃などという脆弱な武器で対抗してくる、愚かな宿敵を仕留めるため、エースの顔を爪で薙ごうと振りかぶった。
そして、己の下腹に何か鋭い痛みを感じた――と思った瞬間、バランスを崩し、どっと横様に倒れた。
見ると、下腹部に短剣が刺さっている。銃弾に気を逸らされ、急所である腹をやすやすと敵に晒した愚かさに気づいたが遅かった。
エースは、人狼の腹から短剣を引き抜き、アデルの傍らで腕組みをして立つもう1人を睨みつけた。
「タイミングが悪いのはあんたらの方だったな。今日の俺は手加減が出来ないんだよ」
「ち……役に立たねぇヤツだったな。まぁ、残党狩りの壁くらいのつもりで連れてきたヘボだからあんなもんか」
「何だって?」
「クク……礼を言うぜ。役立たずを倒してくれたお陰で、お前とこいつをオレ1人でヤっちまえるんだからな」
自信に満ちた口ぶりはどうやらハッタリではないらしい。エースはこの人狼から漂う殺意と残虐性に身震いを覚えるほどだった。このけだものと満月の夜に対峙するとなると、果たして自分に勝ち目はあるのかどうか――エースは短剣を収めると、銃を手にした。
「は?おいおい待てよ。武器なんて捨てちまえよ。男同士、素手の勝負と行こうぜ」
「冗談はやめてくれ」
「立場がわかってねぇな」
そういうと人狼は横たわるアデルの脚を踏みつけた。骨の砕ける音と、アデルの悲鳴がそのままエースに恐怖となって襲い掛かった。やめろと叫んだ自分の声がやけに遠くに響く。武器を捨てようとするが、手が震えてしまって思うようにならない。
そんなエースを見て、人狼はさも愉快そうに嗤った。アデルは痛みのあまり気を失ってしまったのか、ぴくりとも動かない。もしかしたら、もう――。
「――頼む。彼女だけは見逃してやってくれ。あれは混血のvampだ。殺すなら純血種の俺だけで十分だろう」
こんなところで一族の血を絶やすのは口惜しいが、それも運命とあきらめよう。
エースは、自分がもしここで死んだらどうなるかをぼんやり考えていた。
仲間達の命を奪った騎士の亡霊の影を追って来たが、一矢報いるどころか、姿も見ることすら叶わなかった。輝夜に再びあれがやってきたとき、この街はどうなってしまうのだろうか。
仲間にしてやったこの頼りないハイブリッドのアデルには、結局vampの生き方を教えてやれないままだ。同じハイブリッドだった、こいつの婆さんは俺を恨むだろうな。爺さんには……あの世で顔をあわせるのが怖いくらいだ。
でも、どの想像も、大したことない。
アデルを失う事にくらべたら。
「よほどこの女が大事なんだな。女のためなら自分は死んでも構わないってか?」
エースは頷き、銃を放り投げた。今度は手が震えることなく、うまくできた。
だが、それを見た人狼は意外なことを言った。いや、想定できる以上に最悪の「提案」を――。
「銃を拾って来いよ。で、この女ぶっ殺せ。もちろんお前も殺すぜ?だが、お前が女を殺らなかったら、オレがお前を身動き取れないくらいぶちのめしてから、お前の目の前で女をじっくりいたぶって殺す事になる――さぁ、どっちがいい?」
反吐が出るほど下劣なけだものだ。俺たちにとって絶望的な結末を常に用意してきやがる。
「ブルっちゃって歩く事もできねぇのかよ。かわいいねぇ」
耳障りな嗤いを漏らしながら、人狼はエースが投げ捨てた銃を拾いに行った。万事休すだ。
救いを求めたかったのか、詫びの言葉を言いたかったのか、今となっては思い出せないが、死を覚悟したエースは無意識のうちにアデルのほうを見た。
「嘘だろ――」
アデルが、自ら流した血だまりの上に立っている。彼女のTシャツのわき腹からジーンズの腰のあたりにかけてはおびただしい流血の痕がある。だが、傷はもう塞がっているのだろうか。アデルは血と泥に汚れた両手の平を見て目を丸くし、それをジーンズにこすり付けて落とそうとしている。そういえば、脚は砕け折れていたのではなかったのか――。
大丈夫かと駆け寄ろうとしたエースの姿など見えないように、アデルは人狼に向かってすたすたと歩いて行った。馬鹿、やめろ――!
「その銃をこっちに渡しなさい」
人狼はぎょっとしたように振り返ると、それがアデルだと気づいて酷くうろたえた。
「ちょ……お前、あ、脚潰したんじゃ――」
「銃を寄越しなさい!」
ぐいを手を差し出すアデルにおののいて一瞬身を引いたが、人狼は銃口をアデルに向けた。
「やめろ!」
鈍い破裂音がしてエースは思わず顔をそむけたが、再び見た光景はまたも信じられないものだった。
人狼が腕を押さえて転げまわっている。銃の暴発か?いや、違う。アデルがヤツの手から銃を叩き落として――その弾みで折れたのか。
平然とした顔で、のた打ち回る人狼を見下ろしたアデルは、ポケットをまさぐって小さなスプレーのようなものを取り出し、人狼に噴きつけた。
すると人狼の動きがおかしくなった。動くほうの手でしきりに眼や鼻を掻きむしり、涙を流している。しばらくその様子を見ていたかと思うと、アデルはなんの躊躇もなく、無防備な顎に向かって一発蹴りを見舞った。
がちん、という歯がぶつかる音がして、けだものはそのまま気を失った。
「アデル!!」
エースの声が耳に届いたのか、動かなくなった人狼から数歩後ずさったアデルは、振り返ると、大丈夫ですか、とぎこちなく笑った。
エースははそれには答えず、無言でアデルに駆け寄ると、出血の痕のある腹の傷を確認した。
いきなり衣服を捲られて面食らったアデルが、咄嗟にエースの手首を掴んで退けようとすると、
彼は短い悲鳴を上げた。
「なんて馬鹿力だ――傷も治ってるようだし……そうか」
エースは、困惑の表情で自分を見るアデルに聞いた。
「覚醒してるんだな、今」
アデルは高揚を隠せない顔で、何度も短く首肯した。彼女の目の色はvampのルビー色ではなく、いつもと同じブルーに変わっていたが、その瞳の奥に漲る力を感じ取ることが出来た。
これが、魔族の変化の力を借りた人間の「覚醒」か。疾風のような素早さ、びくともしない力。身体から発せられる生命のエネルギー。初めて目の当たりにする「覚醒」という現象に、エース自身も感嘆を隠せなかった。
「――とにかく、よかった、無事で居てくれて」
エースさんも、と言ったアデルの顔色が急に青ざめた。くたりと身体から力が抜け、目から生気が失われる。覚醒が解けたせいで、身体が負担に耐え切れなくなったらしい。アデルはエースに抱きとめられるようにして膝をついた。
無理もない。覚醒によってどういうわけか傷はすっかり治癒していたが、彼女はあまりに血を失いすぎている。もちろん、こんなところに血液のパックを持ってきているわけはない。
エースはシャツを脱いで上半身裸になると、アデルのほうに首筋を差し出した。彼の言わんとすることを察したアデルは明らかに嫌悪の表情を見せた。
「まさかとは思うけど」
「そのまさかだ。ほれ、早くしろ。大丈夫だ、やったことなくても噛み付けば何とかなる」
「……え、汗臭いし、ちょっとばっちいじゃない」
「グダグダ言うと、手首切って口こじ開けて飲ませるぞ!」
「分かった!分かりましたよ、やればいいんでしょ……」
そう返事したものの、エースの両肩に手を置いたまま首筋に噛み付くのに躊躇するアデルは、痛そうとかやっぱ無理などとぶつぶつ言っている。
案の定、変なvampを作っちまったなと笑い、エースはアデルの手を優しく解くと、そのまま抱き寄せてキスをした。びっくりしたアデルは一瞬身を固くしたが、エースの背に手を回し、ふたりは暫しそのまま抱き合った。
「大丈夫だ、俺はアデルに噛まれても痛みを感じない。vampは愛し合うもの同士、お互いの血を味わい合うことがある。相手に弱点をさらす信頼と、血を受け入れる想いを確かめる――それが、vampの絆の証しだと思ってくれ」
エースの言葉に頷くと、アデルは彼の首筋に歯を立てた。
<同日 深夜 The tie that binds(絆)>
「――あぁ、アデルも俺も怪我は大したことない。ただ警察を呼んで面倒に巻き込まれたくないんだ。いや、礼を言うのはこっちだよ。じゃあ、そういうことで」
エースは電話を切ると、アデルのほうを向いてOKサインを作った。
アデルはというと、気を失っている2人の人狼をゾロたちに引き渡すべく「ラッピング」をしたところだった。
「これは――傑作だけど、やりすぎじゃないのか?」
変化の解けた人狼たちは、ぴったりと抱き合うような姿勢で寝ころがされ、バレーボールのネットでぐるぐる巻きにされていた。中にワイヤーがはいっているため、獣人の力でも簡単には切れないどころか、抱き合う格好のまま変化すればネットがきつく身体に食い込むようになっている。
「さて、出来上がり。ゾロは来てくれるって?」
このならず者の人狼のことを警察に通報するのをアデルは嫌がった。他所から来た人狼は国の法で裁かれることになるが、彼らの態度や残虐性を考えると、ここはできれば「輝夜の掟」にしたがってもらうほうがいいと判断したのだ。
それは、ゾロたちに引き渡し、異種族として人間社会で生きることの何たるかをちょっと厳しめに教育してもらうことだった。もちろん、警察に行ったほうがはるかにマシだと思えるような程度で――。 そう言った後、いかにも付け足しのように、ただでさえも繁忙を極める輝夜警察の仕事を増やしたくないとアデルは言ったが、実はそちらの方が本心なのではないかとエースは思っている。
「あぁ、なるべく怖いお兄さん連れてくるってさ。じゃあ、俺たちは帰ろうか」
エースはアデルに自分の上着を羽織らせた。血で汚れた服を少しでも隠すためにだ。
「ありがと。こんなのゾロが見たら、どんな剣幕で怒るかわからないわね」
ふたりは学校を出て、アデルのマンションに向かった。幸いにも深夜ということで人通りもなく、埃や血で汚れた格好を見咎められる事もなかった。
「そういえば、びっくりしたぞ。さっきあの人狼に立ち向かった時、えらい強かったじゃないか。やっぱり覚醒していると違うものなんだな」
「あぁ、あれは覚醒は関係ないと思います」
「どういうことだ?」
「思い出したんです――私、教員をしていたときは獣人学級の担任だったので、一通り研修を受けていて。さっきのアレは、犬タイプの生徒が暴走したときの対応マニュアルです」
アデルはすらすらと暗証するように説明を始めた。
「犬タイプは嗅覚と聴覚が感覚のほとんどなので、まず刺激臭のするスプレーで嗅覚を奪い、死角になる顎下からの打撃を加えれば、衝撃で気を失います。さっきのスプレーは痴漢撃退用のものでしたが、香辛料でも効果があります。あと、あの拘束も、犬独特の関節の向きを考えてしたものですから、そうそう抜け出すことはできないはず」
「あれを、自分の生徒にやったって言うのか?」エースは目を丸くした。
「まさか!人よりも力の強い異種族の暴走から他の生徒を守るための最終的な護身術です。実際に使わなくてはいけないような悪い子は、私の生徒にはいませんでしたよ」
「なるほどなぁ。これで謎がひとつ解けた気がする」
「どういうことです?」
エースの推測はこうだ。
高い身体能力のあるアデルが、戦闘の訓練で全く思うように動けないのは、頭の中にイメージがないためではないだろうか。生来の運動音痴が災いして、スポーツの経験が皆無だったことがその原因だ。
しかし、教員になるために研修を受けて身に付けた動きは、頭の中にイメージとして鮮明に残っており、だからこそスムーズに再現することが出来たといえそうだ。
「では、実際にやったことはなくても、強くイメージできるものなら私にも出来るってこと?」
「おそらくな。何かそういうスポーツはないか?何処かのプロチームのファンでよく試合を見たとか」
「ごめんなさい。それが全然……自分で出来ないせいか、見ても面白くなくって」
アデルはすまなそうに俯いた。
「まあ、いいさ。ひとつ光明が見えてきた――着いたな。部屋の前まで行こう」
マンションのエントランスからエレベーターに向かい、運よく誰にも見られずに乗り込むと、ふたりはようやく安堵の息を吐いた。それがほぼ同時だったため、目を見合わせて噴出してしまった。
「よかったな。知り合いに会わなくて」
「ええ、こんな格好見られたら、絶対通報されちゃう――あ、上着はクリーニングして」
「いいさ、何ならそのまま捨ててくれても……おい、大丈夫か?」
上着を脱ぎかけたアデルの手が震えていた。シャツに付着した大量の血を再び目にしたことで、先ほど人狼達に襲われたことが甦ったらしい。覚醒によって体の傷は癒えたものの、連中から与えられた痛みの記憶は未だ鮮明であり、フラッシュバックする恐怖に、まともに立ってもいられなくなった。
ふらつくアデルを半ば抱きとめるようにしてエレベーターを降り、部屋のドアの前まで来た。
「今夜は泊まっていくよ」
「でも……大丈夫だから」
言葉とは裏腹に、バッグからカードキーひとつ取り出せないほど、アデルは動揺していた。安堵とともに遅れて襲ってきた恐怖は、それを実際に体験したとき以上の衝撃で彼女の心をかき乱した。
エースは彼女の代わりにドアを開けてやると、玄関に入ってドアを閉め、アデルを強く抱きしめた。
「――すまなかった。俺があの時、アデルを帰さなければこんな酷い目に遭わせなかったのに。怖かったろう。本当に悪かった」
アデルは答える代わりに、エースの胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。エースは彼女を抱きとめたまま、優しく髪を撫で、涙が少しでも彼女の恐怖を濯ぎ落としてくれるように願った。
枕元の時計は3時を指していた。
喉の渇きを覚えたアデルはベッドを抜け出し、キッチンの冷蔵庫から水のボトルを取り出すと、そのまま口をつけて飲んだ。冷たい水が喉を潤す心地よさ。これが血の渇きではなかったことに安堵し、少し考えてボトルを持ったまま寝室に戻った。
ブラインドの隙間から差し込むわずかな月明かりだけで部屋の隅々まで見えるくらい、vampになった彼女の感覚は研ぎ澄まされていた。今夜のような満月をまともに見ると眩しいと感じるくらいだ。
不意に、この満月の力を借りた恐ろしいけだもの達のことが頭をよぎり、アデルは足早に部屋に戻った。
「あ――ごめんなさい、起こしちゃった」
「いや、俺も目が覚めたところだ。なんだか喉が渇いて」
アデルはベッドから身を起こすエースに水を渡し、彼の傍らに滑り込んだ。身を寄せて彼の体温を感じると、先ほど一瞬甦りそうになった恐怖も消えていくようだった。
「朝が来たら」ボトルの水を飲み干したエースは、再び身を横たえた。
「うん?」
「ホテルを引き払ってくる。しばらくはここに居たほうがよさそうだ」
「しばらくって、いつまで?」
「あの人狼の始末が――いや、残党のケリがつくまで」
「その後は?」
「わからないな。その時になったら考える」
「私のことは?」
「それは……」
不意を突いた問いかけに、思わずアデルの顔をまじまじと見てしまった。まっすぐに見つめられて口ごもる。以前のエースだったら適当にはぐらかしただろう。
「困ってる困ってる。大丈夫、私は」
「俺はアデルを好きだよ。誰の代わりでもない、アデルのことを大事に思ってる」
「あら、意外……」目を丸くするアデルにかまわず、エースは腕の中の彼女に囁いた。
「さっきは言わずに後悔したんだ。俺がアデルをvampにしたかったのは、混血だからでも、覚醒するからでもない。お前に死んで欲しくなかったからだ」
アデルの耳がみるみる赤くなり、彼女のほうが先に目を逸らすと、そのままブランケットにもぐりこもうとした。エースはそれも剥ぎ取って、彼女を抱き寄せると顔を覗き込んだ。
「おいおい、待てよ。また後悔させるのか?こうなったら全部言うから全部聞けよ」
「も、もういいから……」
「いいもんか。あぁ、死んで欲しくないというのも半分は間違ってるな。アデルをvampにして、一生俺の隣に置いて愛しみたかった」
やめてとか意地悪などとわめくアデルに、エースはキスをした。
「隣に居て欲しいんだ、アデルに。俺が死ぬか、アデルが飽きるまで――」
「うそ」
「なんだって?」
「……エースは死なないじゃない、私だって、飽きたりしないし」
「だったらずっと一緒に居ればいいだけの話だ」
二人は見つめあって笑みを交わし、再び強く抱き合った。
明るすぎる月影が部屋に落ちても、アデルの心が恐怖にかき乱されることはもうなかった。
第六章「Metamorphosis(後編-1)」 END
第六章「Metamorphosis(後編-2)」に続きます。次の話がDeadlock Utopiaの最終回となります。