Deadlock Utopia 第六章 ~Metamorphosis(中編)~
第六章「Metamorphosis(中編)」です。vamp化した混血のアデルと、エースのエピソードになります。
Deadlock Utopia 第六章「Metamorphosis(中編)」
<2070年8月21日 21:00 Contract(契約)>
アデルは部屋の窓を閉めてカーテンを引き、エアコンのスイッチを入れた。それを確認すると、エースはvamp化する儀式「血の契約」について、ごく簡単な説明をした。
vamp化の方法は、対象の首筋から吸血し、仮死状態にした後でvampの血を少量流し込む。それによって徐々に身体にvampire因子が行き渡り、成功すれば一晩ほどでvamp化する。吸血は痛みを伴うが、傷口はすぐに塞がり、目覚める頃にはよく見なければ分からないくらいの僅かな痕になるという。
「vamp化したかどうかは、私にもすぐに分かるんですか?どんな変化が?」
「それは無事に目覚めたら説明する。実際に体感してみないと分からないことだからな」
それからエースは少しためらった後で、ふたつのリスクについて話した。
「俺自身、混血をvamp化した経験がない。だから万が一の覚悟もしておいて欲しい。純粋な人であればほぼ間違いなく成功するんだが、獣人や魔族の成功率は限りなくゼロだ。失敗した場合は、仮死から目覚めないまま死ぬ事になる。アデルの中の魔族の血は薄いかもしれないが、それがどう影響するかは全く予想できないと思って欲しい」
失敗だと分かったら、アデルをそのままにして輝夜を発つとエースは断言した。非情だと思うかもしれないが、それがvampの掟だと言われると、アデルは素直に頷いた。
「――もう一つは……これを聞いて少しでも迷いが生じたら契約はしないことだ。実は、vampの女は不妊なんだ。一旦vamp化してしまったらもう子供を望む事が出来なくなる」
「そう、なんですね……男性はどうなんですか?vampの男性は?」
「男には生殖能力がある。女の場合はあれだ――『血を失う身体機能』がvampの体質に反するからだと思ってくれ」
「生理が来なくなっちゃうんですね」
「あぁ、そういうことだ。これで気が進まなくなったら契約の話はなかった事にしてくれてかまわない」
アデルのvamp化が叶わないのは惜しい事に違いはないが、エースはアデルの兄のジークが望んだ「人として一生を全うさせる」という思いを蔑ろにはしたくないと考えていた。
今までのエースにとって、人間は「捕食対象でありvampireより劣る種族」であった。しかし輝夜で生活する中で、他種族と共生をしながら逞しく生きる人々と接するうちに、その認識は少しずつ変わっていった。上手くはいえないが、少なくとも「異種族として尊重すべき相手」である事に違いはないと思えるようになってきたのである。
「エースさんは優しいですね」
アデルに声をかけられて我に返った。
「優しい?俺がか?」
「黙っておいてもいいことなのに、きちんと伝えてくれるなんて、意外に親切だなって」
だまし討ちみたいなことはしたくないだけだ、とエースは照れ隠しをした。
「私は、覚醒に怯えながら生きるのも、輝夜の平和のために強い子供を残すことも望んでません。だって、どちらにしても私は死んでしまい、遺された人を悲しませるじゃないですか。そういう未来が決まっているのに、子供を残すなんていうことはしたくありません」
「大した意志だが、本当にいいのか?人は自らの血を受け継いだ子孫を残したいと思うものだろう。そこは一族の血を絶やしたくないと願う俺たちと変わらないと思っている」
やっぱり優しい、と笑うアデルに、エースは拗ねたように口をつぐんだ。
「私の母も、祖母も、そのまた母親も、全部女でひとりっ子だったんです。だけど私には兄がいます。なんとなく女の子しか生まれないと思っていた両親は、おなかの子供が男の子だと分かってから慌てて男の子の用品をそろえたそうです」
「なよっとして気が弱そうな男なのはそのせいか」
「兄に会った事が?」
「あ、あぁ……残党の一件の後で、聴取を受けた。妹に近づく不埒者扱いされたがな」
エースはうっかり余計な事を言ったかと心の中で舌打ちをしたが、咄嗟のごまかしをアデルは怪しまなかったらしく、話を続けた。
「もし、うちの家系の血を残したいと願うなら、長男である兄がすればいいことです。これは私の都合のいいこじつけですが、私達が兄妹として生まれたのは、それぞれに果たすべき役割があるという啓示のようなものだったのかもしれませんね」
啓示とは大層な事を言うなと思いながらも、エースはアデルの答えに満足していた。
「――分かった。魔族との混血という、我が一族としてはやや変わった毛色の者には違いないが、その強い思いは十分に汲み取れた。夜が明ければ、もう人でもハイブリッドでもない。誉れ高い種族としての生が待っている」
人との決別と、新たな生を祝福して――。
エースとアデルは、お互いのグラスにワインを注いで乾杯をした。
<2070年8月23日 7:30 Metamorphosis(変身)>
「どうだ?思い出してきたか?」
「――はい、大体は……。では私はvampに成れた、ということでいいんですね?」
エースは頷き、アデルに2本目の水のボトルを渡した。1本目をあっという間に空にしたアデルだが、次のボトルのふたを開けるとすぐに口をつけた。この喉の乾きも、vamp化の影響なのだろうか?
「あんまり急に飲むのは良くないぞ。さすがに丸一日以上何も口にしていないのだから喉も渇くだろうが」
それを聞いて、アデルは絶句した。丸一日以上?一晩ではなく?――大変だ!
枕元の携帯端末を取りに行くのに急に立ち上がろうとしたが、眩暈が起きてふらつき、さらには身体に巻きつけたブランケットに足を取られ、アデルは豪快に転倒した。痛みに悶絶していると、エースが呆れ顔で覗き込んできた。
「……カヲリに連絡しなくちゃ……エースさん、ベッドのところの電話持ってきてください」
しぶしぶと言った風でアデルの端末を取りに行き、画面をちらりと見てから「俺のせいじゃないからな」とエースは意味深な事を言ってキッチンに引っ込んだ。
おそるおそる画面を覗き込み、アデルは悲鳴をあげた。
「は、8月23日……ほんとだ、一日以上経ってる――未読メッセージと着信――52件!!!!」
アデルとエースが帰った日の深夜に、カヲリから売り上げ報告の催促が一件。翌朝に数件の後、着信がずっと入っている。メッセージを開くのも恐ろしい。夕方くらいまで一旦途切れた後で、カヲリだけでなく時政やゾロからも連絡が入っていた。こんなに頻繁に連絡が来るなんて、どれだけみんなを心配させてしまったのだろう。
「た、大変だ。掛けなおさなくちゃ」
「あぁ――口裏はちゃんと合わせてくれよ」
キッチンから、コーヒーと皿に載った何かを運びながらエースが言った。
「口裏?」
「朝っぱらからカヲリの着信がうるさかったんで、俺が出たんだ」
とんでもなく嫌な予感しかしない。
「俺の声と分かるとびっくりしたみたいだけど、アデルはまだ寝てると言っておいた」
そうか、それならまだ体調不良だったと言えば通じる言い訳ができそうだ。
「カヲリがアデルの体調を心配して、様子を見に来ると言うから、昨日の夜ちょっと頑張りすぎたから、疲れて起きられないんだろうと説明したら黙って電話を切ってくれたよ」
アデルは本格的にぶっ倒れた。この人、わざと引っ掻き回そうとしてるんじゃないだろうか。なんて性格の悪い!問い詰めてもきっと「嘘は言っていない。相手がどう受け取るかだ」と涼しい顔をするに決まっている。
悠々とコーヒーカップに口をつけているエースを睨みつけたとき、ある事に思い当たった。
そういえば目覚めた時、何も身につけていなかったが、思い返してみても自分で服を脱いだ記憶がない。かといって、そういう行為に至った記憶もないのだが、もしかして――!
「わ、私が服を着てなかったのって……」
「脱がせたのは俺だ」
酷いとか同意もなくとか死ねなどと叫ぶアデルを無視して、エースはキッチンの隅に放置してあった袋をアデルの目の前に投げて寄越した。その拍子に、袋の中から血にまみれた服が散らばり、アデルは息を呑んだ。
「やはり魔族の血が相当な障害になったらしく、しばらく血が止まらなかったんだ。着ていた物も、シーツも血で汚れてしまったから、とりあえずそこにぶっこんである」
手に取ると、シャツの襟元から胸にかけてどす黒い汚れが付いている。シーツにも、止血に使ったと思われるタオルも同じように汚れていた。これだけの血が自分から流れたのだと考えただけでぞっとする。
「……ごめんなさい。変なこと疑っちゃって。私の血が止まるまで、そばに居てくださったんですね」
vamp化が失敗しそうならアデルを放置して去ると言っていた彼が、目覚めるまで見守っていてくれたのだと思うと、疑念を抱いた事を恥ずかしく、同時に胸が切なくなるような気さえするのだった。
気づくと、エースが目の前に膝をついてこちらを見ていた。アデルは一瞬で顔が赤くなるのを感じ、思わず眼を伏せた。
「血の汚れは簡単には落ちないからな。一日経ってしまったら、これはダメかもしれない。悪かったな」
「い、いいんです……部屋着だし、捨てればいいから」
「そうか?このジーンズは汚れてないし、捨てるのはもったいなくないか?」
「はい?」
エースは袋の中から次々にアデルの身に着けていた物を取り出した。
「あぁ、シャツの中に着ていたのはちょっと染みが残りそうだな」
「……」
「でもほら、下着はすぐに脱がせたから大丈夫だ」
怒る気力も失せたのか、アデルは黙ってエースが手に取っているものをひったくると、全てを袋の中に捨てて口を縛ってしまった。エースは、うろたえるアデルを見て楽しんでいる節がありそうだ。恥ずかしさの飽和状態もとっくに超えているアデルは、エースの顔も見ずに言った。
「別に……関係を持ったのと比べたらこんなの全然大した事じゃありません」
「持ってないと思ってる?」
「――その手には乗りませんよ!いくらなんでもやることやってたらわかります!カヲリに電話するから、ちょっと黙っててくださいね!」
不服そうに再びキッチンのほうへと姿を消したエースの背中を睨みつけながら、アデルは深呼吸をひとつしてカヲリに電話をかけた。何を追及されても正直に話そうという決心が揺るがないうちにしたほうがいい。
カヲリからの矢継ぎ早の質問を覚悟していたが、1コールででた彼女の口から聞かされたのは予想とは全く違う事であった。アデルはキッチンに向かってエースに声をかけ、電話を差し出した。
弁明を要求されているのかと面食らったエースは、アデルから電話を受け取るのを嫌がって後ずさりした。
「もう!いいから話をしてください!出たんですよ、騎士の亡霊が昨日の夜、ビーチに出たんです!」
今度は逆に電話をひったくるようにしたエースは、カヲリから事の顛末を聞いた。数日前の襲撃から日を空けずにやってきた残党のための対策を、今日、ディアボロで練るらしい。
電話を切ってすぐに出かける支度をするエースに、アデルは怪訝そうな顔をした。
「まだ9時前ですよ。集まりは昼時って言ってませんでした?」
「その前にアデルの体調だ。その貧血じゃまともに動けないだろう。1時間ほど出かけてくるから、食事をしていてくれ。気休めにしかならないが残さず食べろよ」
いつの間にかテーブルの上には食事が並んでいた。
薄く切って焼いたパン、ツナとレバーのペースト、ゆで卵、オレンジジュースと冷たい牛乳。コーヒーはエースの分だと言われてテーブルから下げられてしまった。
「とりあえず血の足しになりそうなものを見繕っておいた。あと、倒れやすいんだから風呂には入るなよ。vampになった途端溺死だなんて笑えないからな」
地味ながらも整った食卓を見て、アデルは急に空腹を覚えた。まる一日食事をしていなかったのだから当然だが、先ほどまでは頭が混乱する事が多くて、食欲は頭の隅に追いやられてしまったのだ。
エースが出かけてしまって1人家に取り残されたアデルは、楽な服を身に着けてオレンジジュースを一口飲んだ。冷たさと甘みとほのかな酸味が染み入るように美味しかった。他のものも(レバーペーストは苦手だったが)以前に感じたのと同じ味で、vampになったからといって体のつくりが変わるわけではないのだなとぼんやり思った。
そうだ。エースが戻ってくるまでに、カヲリにもう一度電話して、時政とゾロにもメッセージだけ残そうか。きっと心配してるだろうから、安心させないと。特にゾロはエースを敵対視してるから、なるべく温和に済ませないと大変な事に――。
あれこれ考えながら文面を作ったが、先ほど散々自分をからかったエースの顔がちらつき、アデルはささやかな「復讐」を試みた。
ゾロへ
何度も連絡をくれたのにごめんなさい。具合が悪くてずっと寝ていたの。
エースさんが泊まってくれたから大丈夫、心配しないでね。
あ、でも泊まったことは時政や兄には内緒にしてください。
あの人達は、何もなかったといってもきっと信じてくれないだろうから……。
じゃあ、またあとで!
あの高飛車なvampの男にも、少しくらい輝夜の洗礼が必要よね。
そんな軽い気持ちで送ったメッセージだったが、これが思わぬ「事件」を起こすとは、アデルには知る由はなかった。
<同日 10:00 Desire(渇望)>
きっかり一時間でエースがアデルの部屋に戻ってくると、アデルはソファでうたた寝をしていた。テーブルの上の食事が綺麗になくなっているのを見て、エースは満足げに頷いた。そして買い物袋をキッチンに置いてくると、遅い朝食のハンバーガーに立ったままかぶりついた。
vampの歴史の中でも類を見ない、魔族と人のハイブリッドをvamp化することに成功した。
目の前でリンゴを握りつぶしたアデルを見たとき、期待以上の出来に喜びを覚えたのと同時に、得体の知れぬ魔物を生み出したという薄ら寒さを感じたというのが正直なところだった。これから一族の者として、知り合って間もないアデルという女をうまくコントロールしていかなければならない。
頭に浮かんだ「コントロール」という言葉に僅かな違和感があった。今までも何人かの女をvamp化し、従者のように使ったことはあるが、そいつらとアデルは何かが違う。うまく言えないが、vampの血を混ぜた事で、彼女を穢してしまったような、そんな罪悪感があるのだ。
「なに難しい顔してるんですか」
いつの間に目覚めたのか、ソファで身を起こしたアデルに話しかけられてエースはぎくりとした。今、自分が考えていたことをそのまま言える筈もなく、コーヒーとハンバーガーを持ったまま、黙ってアデルの隣に座った。
「気分はどうだ?」
「食事のあと横になったら、頭痛と眩暈はだいぶ治まりました。まだちょっとふらふらするけど」
そしてアデルは甘えるような眼でエースを見た。
「なんだ?」
「私の分は……?」
彼女の眼がエースではなく、手に持ったハンバーガーに向いていたものだと分かり、若干拍子抜けしたような気がしないでもなかったが、彼は黙ってキッチンからアデルの分を持ってきた。
待ちかねたように紙袋を開け、まだ暖かいハンバーガーを一口食べて、アデルは怪訝そうな顔をした。そして二口目を食べることなく、彼女は包みをテーブルの上に置いてしまった。
予想通りだ。エースは薄く笑って、アデルの頭の中の疑問に、彼女に変わって答えた。
「あれだけの食事をしたんだ。食えるはずがない。でも、何か物足りない――いや、猛烈な飢餓感さえあるんだろ?」
アデルは食べかけのハンバーガーを見つめたまま頷いた。そんな彼女の目の前に、エースは別の袋から取り出したある物を置いた。
ビニールのパックに入った、赤い液体。
赤十字のマークと、O型の文字。それが何なのか分かったアデルは、反射的に眼を閉じて顔をそむけた。テーブルの上の血液のパックを見ないようにしながら、エースのほうを向いておそるおそる眼を開けると、予想外に冷たい顔をした彼とまともに向き合う事になった。
「飲め。さもなければその飢えからは解放されないし、お前はvampになれない」
そしてアデルの手に無理矢理パックを握らせ、そこから伸びたチューブの一端を切った。
震える手に掴まれたパックからは、チューブを伝ってアデルの手の甲にまで血が流れた。
人の血を飲むということのおぞましさと嫌悪感。アデルは吐き気さえ催していた。そして、vampになるためにはこれを口にしなくてはいけないというのは分かっていても、それによって自分が真にVampになるのだと思うと、今更のようにためらいの気持ちが湧き上がってくるのを抑えられなくなっていた。
黙ってただ彼女を見るエースの眼からは、感情が読み取れない。きっと試しているのだ。どんなに気持ち悪くても、口をつけなければ、私は――。
そのとき不意に、芳香が鼻腔を刺激した。
チューブから溢れた液体が手首に伝わる感触と一緒に、脳が痺れるような香りがしたのだ。
早くしろ、と急かすエースの声が遠くから聞こえる。無意識のうちに、チューブに唇をつけ、赤い液体を吸う。
――美味……ううん、これは……。
味覚では説明できない、もっと別な感覚を満たすもの。もはや快楽と言っていい。
甘美な液体が喉を滑り落ち、胃の腑に落ちる。その後吸収されて体内を巡り、自分の身体の一部となる。そんなことまで想像できそうなほど刺激的だった。
最初の躊躇いなど嘘のように、無我夢中で血を飲むアデルから、エースは袋をひったくった。あぁ、と悲鳴に近い声を漏らした彼女を洗面所に連れて行き、血で汚れた顔や手を洗わせた。
タオルを口に当てたまま陶然とした表情をする彼女を、ふたたびソファに座らせて、エースはパックに残った血液を飲み干すと、無造作にゴミ箱に捨てた。未練がましそうにゴミ箱のほうを見つめるアデルの顔からは、昂ぶりが感じられた。
「どうだ?vampとしての初めての『食事』は」
「……美味しかった、です」
アデルはタオルを唇に押し当てるような格好のまま、しばらく考えて首を横に振った。
「でも、それだけじゃない。空腹や渇きが癒されるのとはまた違う、別な渇望が満たされる――そんな気がする」
「羨ましいな」
「え?」
「俺は、生まれたときからそれを当たり前と思っていた。メシを食っても、酒を飲んでも、血を吸っても、その充足の間にそれほどの差はない」
「飢餓」の感覚が、人よりひとつ多いんだろうな。だから、それが満たされても新鮮さは感じない。でも、Vamp化して初めて「食事」をした人間は、新たな「飢え」と「満足」を一度に得ることが出来る。それは間違いなく快楽でもあるはずだ。
言い終えて何気なしにアデルを見ると、我に返って現実を直視したショックなのか、えもいわれぬ複雑な顔をしていた。持っていたタオルごと、自分の腕をさするようにして震えている。
エースは黙って隣に座ると、アデルの肩を抱いて自分のほうに引き寄せた。一瞬、びくりとしたアデルだったが、何も言わずにエースに身を委ねた。
「――無理もないさ。初めて、人間の血を飲んだだけじゃなく、それを美味いと感じてしまった。人である自分が、何か大きな罪を犯したような気がするんだろう」
アデルは小刻みに頷いた。肩はもう震えてはいなかったが、きつく閉じた眼からは涙が零れた。目が覚めたら自分の血がまったく違うものに変わっていたのだ。そしてもう二度と、今までの自分に戻ることはない。
おそらくこれは、人としての自分に対する、決別の涙なのだろう。
「少しずつ、慣れればいいさ。どんな血が流れてようと、アデルはアデルだろう?」
「――エースさん、優しいことも言える人だったんだ」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」
頬を伝う涙よりも、肩に置かれたエースの手が温かく、もう少しだけこの心地良さに甘えていたいと思った。ショックは完全に消えたわけではないし、vampになった事実を受け入れられるようになるのはいつの事か分からない。
でも、彼の手が温かいように、私にも同じ温かい血が流れている。それを感じられるならきっと大丈夫だ。
しばらくこのままで居たいと言う代わりに、アデルはエースの手に自分の手を重ねた。
<同日 13:00 Chimera>
エースとアデルは、昨晩出現した残党「騎士の亡霊」についての話し合いに参加すべく、ディアボロへの道を急いでいた。昼には始まっているはずの集まりに大幅に遅れてしまったことについて、ふたりはお互いに責任を押し付けあっていた。
「そもそも、一日以上寝ておいてまだ寝るか?」
「エースさんだって目が覚めなかったんだからお互い様です!」
「俺はギリギリ起きたじゃないか!アデルが風呂に入らなければ余裕だったんだぞ」
「シャワーも浴びずに人前に出るくらいなら、遅刻したほうがマシ!」
じゃあお前はゆっくり歩け、お前とはなんですかと、もはや口げんかのようになってしまったが、ふたりはあの後、迂闊にもソファで居眠りをしてしまったのである。先にエースが目覚めた時はすでに昼前で、そこからアデルがシャワーだ化粧だと騒いだのでこんな時間になってしまった。
しかし、誰からも連絡がないところを見ると、まだ肝心な話になっていないのかもしれない。走るのに音を上げたアデルに合わせて、エースもゆっくり行くことにした。
「そういえば――」アデルが息を整えながら言った。
「さっきの血液、あれはどこで手に入れたんですか?」
「知らなかったのか?輝夜では案外簡単に買えるんだぞ」
エースの話によると、輝夜に限らず、多種族が共生する街では売血は一般的だという。主に、吸血の習性がある魔族と獣人のためのものらしいが、vampの間でもその情報は常にやり取りされている。輝夜にはかつてエースの仲間が滞在していたことがあるので、ここで安全に血を得るのに苦労はなかったと、エースは言った。
「だから、vampになったからといって人間を襲って吸血する必要はないんだよ。まあ、よほどの非常時のために、やり方は憶えてもらうがね」
「それを聞いて安心しました――あれ、イサナからだ」
ディアボロまであとわずかというところで、イサナからの短いメッセージが届いた。
(今どこ?)
(もう目の前だよ)
それだけのやり取りをして、1ブロックほど先のディアボロの入り口に眼を遣ると、イサナが顔を出した。二人に気づくと大きく手を振って叫びながら、こちらに走ってくる。
「ねーさん、逃げてー!」
「え?」
何かの冗談かと思ったが、イサナの様子は尋常ではない。うろたえるアデルがエースのほうを見ると、彼は走ってくるイサナの、シャツからこぼれんばかりの豊満な胸に釘付けになっていた。口笛さえ吹いているエースの油断は、彼の悲劇を招いた。
ディアボロの中から巨大な獣が飛び出してきた。咆哮をあげながら猛スピードで走り、イサナをあっさり追い抜くとこちらに向かってくる。
「この好色ヴァンプが!アデルに何しやがった!!ぶっ殺す!!!」
それは怒り狂ったゾロだった。
イサナは叫び声をあげ、アデルはひっと短い声を漏らしたきり立ちすくんでしまった。エースは不意を突かれて一瞬挙動が遅れたが、長らく獣人の相手をしている彼にとって避けるのはたやすいことだった。
しかし、次の瞬間、エースはゾロに弾き飛ばされた。
真正面から体当たりを食らい、数メートルは地面を転がったであろうか、かろうじて受身を取ったが、起き上がるのはおろかしばらく呼吸もままならないほどの衝撃だった。
アデルは――?!
一緒にいたはずの彼女を案じると、耳に入ってきたのはイサナの悲鳴だった。なんてこった、あのクソ人狼が、とエースは心の中で罵りながら、痛みを冒して声のするほうを見た。
眼に飛び込んできたのは信じられない光景だった。
先ほど彼らが歩いた場所、ディアボロまであとわずかの路上に、そのままアデルは立っていた。そこにゾロもいた――アデルの腕に抱きとめられて。
ゾロもアデルも、何が起きたのか分からずぽかんとしているが、身の丈2メートルをゆうに超える巨大な人狼が細身のアデルに抱きかかえられている。
――あいつ、止めたのか?あの人狼を?
ディアボロから出てきた人達は、その光景を見て驚きの声を上げた。未だ起き上がることも出来ないエースは、諦めてごろりと路上に大の字になった。
――「期待以上」なんてもんじゃない。バケモノだよ、あの女は。
心の中で口にしてみたが、今朝ほどのアデルに抱いたような薄気味悪さは感じなかった。その代わりに、誇らしいような晴れがましいような、爽快な思いがわき上がってきた。
この気持ちは何なのか、エースは寝転んだまま思いを巡らせようとしたが、吸い込まれそうなほどの青空が目に入り、その眩しさが彼の思考を遮った。
――まあいいか、きっと取るに足らない気まぐれだ。
エースはそのまま眼を閉じた。倒れたままの彼を心配する人々の声の中に、アデルの声も混じっている。それだけでなんだか安心している自分に、少々の戸惑いも覚えながら。
【DeadlockUtopia第六章「Metamorphosis(中編)」 END】
第六章「Metamorphosis(後編)」に続きます。この後編がDeadlock Utopiaの最終回となります。オマケ漫画をつけて完結としますので、更新は少々お待ちいただくかもしれません。