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Deadlock Utopia  作者: 胡坐家
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DeadlockUtopia 第四章二節 ~楽園の住人(後)~

DeadlockUtopia 第四章二節 ~楽園の住人(後)~です。堕天使アルマロスの単独エピソードであり、また本編に続く部分でもあります。

DeadlockUtopia 第四章二節 ~楽園の住人(後)~



挿絵(By みてみん)



<地上の楽園>


 暫くの放浪の後、私は人間の住まう国にたどり着いた。

 人は全ての種族の中で、地上に最も数多く住む。力も弱く、寿命も短いが、生存する知恵にけ、長らく地上での繁栄を極めた。


 そして私は、人間の世界を放浪する間、あらゆるところで怪物の話を耳にした。

 身の丈が数十メートルを超える巨人や、魔族に近い姿をしたものもいるという。それらの怪物の中に、私の「子供たち」が含まれているのは確かなようだった。



 かつて、人間が神の創った楽園に住んでいたころ、人間は憎悪の情や凶暴な性質を一切持たないいきものだった。男も女も、天上界の住人に似せて創られており、一年中豊かな実りを続ける楽園で、穏やかに暮らしていた。


 天上界は、魔族や獣人が楽園を狙うのを警戒し、何人かの天使を地上に下ろした。その一人が私だ。


 私は、楽園で人間たちと暮らしながら、その変化のない平和な毎日が退屈で仕方なかった。そこで、人間たちを集めて知恵を授けることにしたのだ。


 男には、楽園を守るための武器を、女には、楽園の住人に相応しい美を得られる化粧を。


 賢明な彼らはより強く、より美しくなっていった。しかし程なく、男たちは女に強さを示す為に争いい、女はより強い男を伴侶とすべく、競うように身を飾るようになった。


 男の漲る生命力は、同種を傷付ける為に、女の麗しき肢体は、同族を出し抜く為に。


 楽園は永遠に失われた。


 おそらく、ただ楽園が喪失したのであれば、天上界も見逃したはずだ。私が与えたのはただの道具だ。天上界にもそれらはあるが、天使は堕落しない。「ただ、人間が愚かだったのだ」そういう結論になっただけであろう。


 しかし、天上界はそれを赦すことができなかった。原因は、私だ。

 私は天使という身でありながら、地上の女と交わり、あまつさえ子を為すことまでしたのだ。魅入られたのでも、好んだのでもない。


 ただ、楽園での清浄すぎる退屈な日々に、毒をひと匙、含ませたくなっただけなのだ。


 争いと情欲にまみれた楽園を滅ぼしたのは、皮肉なことに私の「子供」たちだった。私と交わった女たちは次々と異形の子を産み、それらは皆おぞましき魔の姿をしていた。

 天上界が、長きに渡って育んできた楽園は、たった数体の怪物によって壊滅したのだ。


 守護天使たちに捕らわれて、天上界に連れ戻された私は、ミカエルの口から、楽園の終焉を聞かされた。私の堕天が決まったことも、その時――。



 そして私は、怪物を捜し求めて、今、この人間の世界に降り立っている。

 魔界のように混沌とした力の世界ではなく、獣人の国のように生命力に満ちた場所でもない。ただ雑然として、慌しい、それが人間の世界だ。



 ある日、私は港湾の町で、怪物の噂を聞きつけた。

 海から突如表れた巨人が、港をひとつ潰したというのだ。その特徴から、私の「子供」である可能性は高く、私は暫しの滞在を決めた。


 当時の私は、「放浪者」というに相応しい、薄汚れた人間の姿をしていた。世界中に溢れるこういった人間が、最も忘れられやすく、また係わり合いをもたれないという事を学んだからだ。


 その町でも、適当な宿を決めることにした。(快適な寝床も食事も不要であったが、そうしたほうが怪しまれないことも学んでいたのだ)


 宿を探して歩いていると、ある一軒の古い宿屋にたどり着いた。その玄関脇には小さいが可憐な花が咲く花壇があり、私はそれに心惹かれた。潮風の強いこの町で花を育てるのは困難であろう。主はきっと繊細な心の持ち主に違いない――そう思って見つめていると、ドアの横の小窓が開いた。


 てっきり宿の人間かと思い、顔を上げて声を出しかけた私に……誰かが盛大に水を浴びせたのだ。



「ほんっとうに、ごめんなさい!旅のお兄さん!」

 暖かい暖炉の前でタオルを差し出しながら、宿の娘――名をマリカといった――が何度も頭を下げた。娘の父親もしきりに恐縮する。

「ったく、あれだけ言っても、おめえは窓から花に水をやるから!スイマセンねえ、旦那。ずぼらな娘で……」

「いや、気にしないでくれ。私もあの花に興味を惹かれた身だ。あれだけの花を、こんな季節まで咲かせるのは大変だろう?」

 娘の顔がぱっと明るくなり、頬に赤みが差した。

「そうなの!ここは潮風が強くて、いい土もないし……。おまけに花の美しさも分からない粗野な男ばかり!」

 ばん、とテーブルを勢いよく叩き、でもお兄さんは違うわね、気に入ったわ。日はお詫びにただで泊まっていいわよ。そういうと、娘は愉快そうに台所へと姿を消した。


「……気を悪くなさいませんかね?あれはあれで申し訳ないと思ってるんですが、どうにも言葉が悪くて」

「元気がいい娘さんじゃないか」

「もったいないですな。あれの言うとおり、嫌でなければここに暫く居てやってくださいよ」

「では、御厚意にあずかろうか。私はアルマロス。この港町に出る『怪物』の噂を聞いてきた旅のものだ」


 娘の父親の顔に、さっと暗いものがよぎる。しかしそれは刹那のことで、すぐさま先ほどの愛想のよい笑みを浮かべ

「怪物を追ってくる旅の方は多いですが、奴らには手を出しちゃいけません。アルマロスさんも、気が済んだらここを出るんですな」

と、穏やかだが、有無を言わさぬ口調で言った。

 彼の手が置かれた足が片方義足であることに、そのとき初めて気がついた。そして、彼がその拳をきつく握り締めていることにも。



 私は港町での滞在を始めてほどなく、怪物にまつわる情報をいくつか得る事が出来た。そのうちのひとつは、私の気持ちを陰鬱にさせるものであった。


 私の滞在している宿屋のあるじは以前漁師をしていたが、出した舟が怪物に襲われ、一緒に乗っていた妻と、娘婿を亡くしていた。



 話を聞かせてくれた酒場の女主人は時折鼻をすすりながら語ってくれた。

「あの時、あの船にはうちのダンナや他の漁師も乗ってたんだ。だから、怪物に襲われて海に放り出された奥さんと息子さんを、宿屋のオヤジさんは泣く泣く諦めたのよ。一緒に乗っていたひとたちの、家族の事を考えたんだろうね。自分の足もやられちゃってさ……それでも必死で戻ってきたって」


――だから、オヤジさんが漁師をやめて、宿屋をやるっていったとき、いい漁師だったから残念だけど、あたいはほっとしたよ。マリカちゃんがもう家族を失わずに済むってね。


 「娘婿」という言葉を聞いたとき、胸にずしりと重い石がのしかかった。私のなした子が、マリカの母と、夫であった男を奪ったのだ。



 ただ、私はマリカにそれを伝えるべきかどうかを悩んだ。

 事実をそのまま伝えてどうなる?私が彼女に恨まれることで、彼女の傷が癒えるなら、いくら嫌われても罵られてもいい。しかし、その怒りの果てに、マリカに救いは来るのだろうか?


 そしていつも、同じ結論に達する。私自身の手で怪物を倒し、マリカとこの町に安息をもたらすしかない、と。

 その決意の中に、事実を知ったマリカから私に向けられる憎しみの念から逃げたがっている気持ちが混じるのは否定しようがなかった。



 港町の滞在も、ひと月が過ぎようとしていた。怪物の出現の噂も、気配もなく、私はただ一人の「旅人のアル(アルという愛称はマリカが勝手につけたものだ)」としての日々を送った。

 変化もなく、触れ合うのは人ばかり。小さく、つつましく生きる人間とこうも長い時間を共に過ごしたことはなかったが、私はこの世界を悪くないと思うようになっていた 。



 ある日、港近くの市場で買い物をするマリカを見かけた。

 果物屋の店番と世間話をしながら、ちゃっかりと値切りをしているらしき彼女を見て、遥か昔に抱いた感情が蘇るのを感じた。その気持ちは一体なんなのだろうか……そう考えるより先に、私はマリカに声をかけていた。


 アル、と嬉しそうにこちらを見る彼女を前にして、私はただひたすらに困惑した。

 何の必要があって彼女を呼び止めたのか、それがわからなくて、どぎまぎしたのだ。


 彼女は私のそんな心の内を知る由もなく、林檎は赤いのと青いのどっちが好きかとか、アルは何を作っても同じ顔で食べるから張り合いがない――など、何くれとなく話しかけてくる。私は、彼女とのそんな些細なやりとりでさえ、心から楽しんでいることに気づき、再び困惑する……。



 その時であった、港のほうが急に騒がしくなった。

「沖に怪物が出たぞ!!」

「船は出ていない!港から離れろ!!」

 市場に、怒号と悲鳴が響いた。私は戦うつもりでいたが、まずはマリカを……と傍らにいたはずの彼女を見たが、姿が消えていた。


 港のほうで、誰かが「マリカちゃん!」と叫ぶ声が聞こえた。慌てて向かってみると、マリカが何人かに腕を掴まれ、それでもなお彼女は沖に向かってありったけの声で叫んだ。



――おかあさんとあのひとをかえしてよ、ばけものが



 普段の陽気さなど微塵も感じさせない、ただ憎悪と哀しみに満ちた叫び声だった。



 それから、どうやって家に帰ってきたのか覚えていない。泣き叫ぶマリカを港から引き離すようにして、無理に連れてきたこと。

 沖から目を離さない彼女を振り向かせようと触れた肩が細かったこと。

 その脆さを、愛おしく思ったこと。それだけは、覚えていた。



 結局、怪物は一瞬沖に姿を見せただけだった。その夜、宿屋のあるじは、目撃証言とかつての怪物が同じであるかを確かめるといって、寄り合いに出て行った。


 私は、マリカの部屋を訪ねた。

 昼間の騒ぎのせいで、若干疲れた顔色をしていたが、彼女は快く私を部屋に迎え入れてくれた。


 編んだ髪をほどいた癖もそのままに、素朴な色合いのセーターを着た彼女は、ほのかに花の香りのする紅茶を私に勧めた。

「ジャスミンのお茶よ。ジャスミンは茉莉花まりか――私の名前なの」


 いつもの快活な彼女とは違い、口数も少なくなっているマリカに、私も気の利いた言葉ひとつかけてやることができず、ジャスミンのいい香りのする部屋で、私達は黙って茶を飲んだ。

 流れる時間は穏やかで、哀しかった。


「アルは、あの化け物を倒しにきたの?」

 マリカは唐突に訊ねた。

「……これだけ嗅ぎまわれば、ばれてしまうな」

「あれは無理よ。ここも漁船や港を壊されて――」

 私の家族の事も聞いたのでしょう?と私を見た。私は黙って頷き、あの怪物が憎いか?と問い返した。


「勿論、憎いけれど……どうしようもないのも分かってる。自分ではどうにもできない、でも憎い、忘れられない。もし、自分の命と引き換えにあいつが消えてくれるなら、そのほうが楽になると、何度」


 私は、彼女が全てを言う前に、彼女を抱きしめていた。

 そして、あれほど躊躇っていた、私にまつわる全てを彼女に語った。


 ソファで、私に身を預けながら、じっと聞いていたマリカは、全てを聞き終わった後、暫く黙り込んでから、私のほうに顔を向けて言った。


――私のために悩んでくれてありがとう、と。


 怪物が何者なのか、そんなことはどうでもいい。でも、憎む相手が目の前にいれば誰しもあんな風になってしまうでしょう。私が憎いのは怪物そのものであってアルではない。だから、あなたが私に負い目を感じることはないの――。


「だが、私はそのために自分が成した子を殺すことになる。……そのことを君がどう思うか、私はそれが知りたい」

 私は、何故彼女にそんな事を問いたのだろう。幾度考えても答えなど出なかったことを、何故。


 しかしマリカは今度ははっきりとした口調でこう言った。


 あなたがすべきことが、事実として子殺しになったとしても、他でもない「あなた自身が」何を覚悟して、何を背負うつもりでそれを為すのか――最も大切なのは、そこだと思うの。


――だから、私は父を恨んだことは一度もないわ、と。



 私は雷に撃たれたような衝撃を受けた。

 今の今まで、私はただ贖罪のための放浪を続けていた。自分のしたことを償うという口実のもと、自分自身が一番、その事実に向き合えていなかったのだ。


『私が何を覚悟して、何を背負うつもりでそれを為すのか』


 私よりも短い生しか知らぬ人間の女から与えられたその一言で、霧が晴れるように、私はひとつの解答を得ることが出来た。


 私はその喜びとマリカに対する愛おしさが募り、そのまま彼女に口づけをしようとしたが、彼女はするりと私の手から逃れた。そして、今日は色々あったから眠りたいの、アルも今夜は普通ではないみたい、と微笑んだ。



 自分の部屋に戻り、寝床に腰掛けて窓の外を見た。昼間、怪物が出たとは思えない穏やかな海に満月が映っている。新月の夜に私の下を去った魔界の女を思い出す。その時の喪失感が、今も心の中にあるかを確かめるが、私の胸の穴はもう綺麗に塞がっていた。


 初めて女に拒まれたはずの私が、何故こうも満たされた気持ちになっているのだろう。その妙な安息に苦笑いしながら、私は眠りに落ちた。




<決着>

 

 翌朝、食堂に降りて来た私を、マリカはいつもの笑顔で迎えた。あるじは昨夜遅くに戻り、まだ眠っているという。私は、昨夜の礼を述べ、無礼な振る舞いを詫びた。

 彼女はそのことについては何も触れず

「よく眠れたようね。久々に顔色も良いみたい」と嬉しそうに言った。


 はぐらかされるようなやり取りにすら、胸が躍る。このような気持ちは何なのだろうということも、いつか彼女に聞いてみよう。彼女が事も無げに私に答えを教えてくれるのを期待して。



 しかし、穏やかな朝食の時間は突然中断された。海のほうからサイレンの音がし、すぐ近所では警鐘を鳴らして叫ぶ声が聞こえた。


「沖合いに昨日の怪物だ!こっちに向かってきやがる!」

「みんな手近な建物に避難しろ!ドアと窓を閉ざせ!」


 マリカは手に持ったカップを取り落とし、怯えた目で私のほうを見た。

 あるじは寝室から飛び出して来、床下に隠してあったらしき銃を持つと、家を出て行こうとした。


「おとうさんっ……!」

「来る……あいつは今度は本気だ!」

 必死で止めるマリカを振り切ってドアを出ようとするあるじの腕を取り、私は彼にひとつの頼みをした。


「舟を出してくれないか。私があの怪物の元に行こう」

 驚いた顔でこちらを顧みた2人に頷き、続けた。

「私を信じてくれ。あれを倒すのは私でないといけない。そして――御主人にそれを見てもらいたい」


 目に涙を浮かべて案じるマリカに、自分たちは必ず戻ると伝え、私とあるじは家を出た。

 港から街中へと逃げる人に逆行する私達を何人もの人が呼び止めたが、私達はただ沖だけを見て進んだ。


 あるじがかつて使っていた漁船は、今でも丁寧に手入れをされていた。義足で船に乗リ混むのは不自由で手助けはしたが、一度発進すると、あるじの操舵が見事なものだと分かった。

 的確に潮を読む彼に操られる船は渦をかわし、波に逆らい、沖合いの不気味な怪物の元へと着実に近づいていった。


 私は潮風と水しぶきに煽られながら、あるじに声をかけた。

「いい腕をお持ちだ」

「数年ぶりだが、錆びちゃいなかったな。ほっとしたよ」

「私のこの剣はかれこれ数百年ぶりだが、錆びてない事を祈ってくれ」

「旦那のその背中のモンは、飾りじゃなかったんだな」

「こっちの世界に来て覚えたもんでね、まだ未熟だが」

「それでよくもまあ、俺の船を出せといえたな――来るぞ、あいつだ」


 怪物は一見すると海獣のような肌をした大男だった。

 ゆうに10メートルはあろうかという大きさと、本来目鼻のあるべき部分にぽっかり開いた穴と、裂けた口の中にぬらぬらと光る牙が、そいつがこの世のものではない事を如実に語っていた。


 怪物まであと100メートルほどのところで、やつはゆらりとこちらを向いた。そして、私達を敵と認識したのか、激しい水音を立ててこちらに向かってきた。


――アルマロスが人間の女に産ませた子は醜い巨人となり、楽園の住人に残虐の限りを尽くしたそうですよ。


 ため息と共に発せられた、ミカエルの声が脳内に響く。あの時は、堕天の事実が心を占め、子供についてどんな抗弁をしたか覚えていない。しかし、今ならこう答えるであろう。


「私の為にすまなかった。その上お前の命を取ることになるが、幸福も愛も知らない存在のまま生きるより、私がお前の死を背負って生き続けよう。お前の恨む相手はここだ、覚えておけ」


 私はあるじに船を停めて待つことを指示し、背中の剣を抜いた。そして、船の舳先を蹴ると、そのまま怪物の元へと跳躍した。


 向かってくる怪物の肩の辺りに飛び乗り、首と思しき部分を剣で一突きする。人間のそれと同じ、血のような液体が噴き出し、怪物は不気味な声で咆哮した。そのまま、海中に逃げる怪物の耳らしき突起にしがみつき、2度、3度と頭部に剣を突き立てる。


 堪らず海上に顔を出した怪物の頭にとどめの一突きを――と思ったその時、怪物の頭部がばくっと割れ、そこに現れた口に、私は下半身を呑まれてしまった。

「しまった!」

 噛み砕かれないようにと両手で口を押さえるしかなく、剣を振ることなどかなわない。

「くそっ、このままでは……」と観念しかけた瞬間、軽い衝撃とともに、怪物の噛む力が緩んだ。


 私はその一瞬の機会を逃さず、口の中から剣を突き出し、怪物の頭を真っ二つにした。怪物は断末魔とともに崩れるように倒れ、巨大な波しぶきを上げて海中深く沈んでいった。

 私は、長年口にしていなかった祈りの言葉を、姿が見えなくなっていく「我が子」に捧げた。



 海上を漂う私を、船で迎えに来たあるじは「やっぱ未熟じゃねえか」と笑った。「俺のこいつがなかったら、旦那今ごろ怪物の餌だ」と言って、太いもりを誇らしげに見せた。

 あの時、怪物の力が緩んだのは、彼のこの銛のおかげであった。


「すまない、助かった」

 私を船に引き上げたあるじの目に光るものがあった。

「もうマリカの奴から、誰も失わせるわけにゃいかねえからな」


 彼は来たときと同じように、巧みに舵を取って帰港した。

 港へ向かう我々を、多くの人々が歓声と共に迎えた。

 もちろん、私が最初に目にしたのは、人ごみの最前列で泣き笑いの顔をしているマリカだった。




 その夜、私とマリカは初めて肌を重ねた。


 町人から招待された、怪物退治の酒宴から戻ると、彼女が部屋で私を待っていたのだ。


 突然のことに呆気に取られる私に、マリカは照れくさそうに笑った。

「昨日はあんなことを言ったけれど……明日死んじゃうかもしれないのに、愛してる人に愛しているといえないのは嫌、そんな風に思ったの」

「……それはつまり……君が、私のことを?」

 彼女の言葉に対して、私は不器用な返答しか出来なかった。


 今度はマリカが驚く番だった。

「呆れた!何千年もの間、人々に愛を与え続けてきた天使様でも、他人から愛してると言われたことはないの?私は今確かに、あなたを愛しているといったつもりだったのだけど」


 私は暫く考えて、ゆっくりと答えた。

「ああ、初めてだ。この私に面と向かって愛を語ったのは、マリカ、君が初めてだ」



 魔界の女は、私に寄り添いはしたが、私を畏怖するあまり、そこにある感情を「愛」と思うことを避けていた。


 獣人の女たちは、私を慕いはしたが、そこに強い情念をさしはさむ余地のないほど、「子を成す」という種族の本能が勝っていた。


 しかし、そのどの女たちよりも脆く儚い命しか持たない人間の女、マリカは、何の臆面もなく私を愛していると言う。


 その言葉の、なんて優しく豊かなことだろう。


――私が壊した楽園の住人の末裔が、私に楽園を教えてくれた。



 私とマリカは、半年ほどを一緒に過ごした。これほどまでに幸福で満たされた生活を、私は知らなかった。だが、私はこの町を離れることを決めた。


 私には、まだなさなければならない事が残っている。


 出立の前夜になって、私はようやくそのことをマリカに告げた。

「本当はいついなくなるか、ずっと不安だったのよ。これだけ一緒に居られたのだから、私は幸せ。お別れを言わせてくれて、ありがとう」

 気丈に笑顔を作る、彼女の瞳からはとめどなく涙が溢れた。目の前で泣かれてただおろおろとするだけの私を、彼女は優しく抱きしめ「女性の泣き止ませ方も知らないなんて、ヘンな天使さんね」と明るい声を出した。




 翌朝、宿代の支払いを申し出た私に、あるじは仏頂面で言った。

「家族だったら貰うわけにゃいかないんだが、アルが払うってんなら、つまりはそういう事なんだな……」

 そして、奥に引っ込んで帳簿を繰りながらぶつぶつやりはじめた。マリカはと言うと、泣き腫らした目で、元気でね、とか、身体に気をつけてね、とか同じようなことを何度も繰り返した。



――まったく、人間と言うのはどうしてこう……。



 私はもどかしさを感じて、帳簿に向かうあるじに言った。

「すまないが、細かい持ち合わせがなくてな。ざっとでいいから、こいつで支払わせてくれないか」

 そして、大人の握りこぶしほどもある金塊を、ごとりとテーブルの上に置いた。


「なにこれっ!」と悲鳴をあげる、素っ頓狂なマリカの声。

 いつもの彼女が戻ってきたと嬉しくなる。

「何って、支払いだ。足りるだろうから釣りをいただけると有難い」

「アルったら……世間知らずにもほどがあるわ。支払いと言うのはね、その地域の通貨でするものなのよ」

 そんなことは知っている。実際私は市場で買い物もするではないか。


「そうか……釣りを貰えないのは困るな。かといって支払いを踏み倒すのは、堕ちたとはいえ元天使、気が引ける」

「うちみたいなちっさい宿屋に、お釣りを出す余裕なんてないわよ」

 ああ、どうしよう。どうしてこの人は……と困惑するマリカ。やはり、彼女とのやりとりはこうでないと楽しくない。


 私はにやりと笑って、マリカの頭に手を置いて言った。

「この金塊はここにおいていく、私に支払える釣りができているかどうか時折様子を見に来るから、この商売をやめずに続けていてくれ」

「……アル?」

「誰がもう二度と会えないと言った。暫く離れるだけだ、必ず戻ってくる。最後まで聞かずに泣かれたから、参ったぞ」


――君がいるこの港町が、私にとっての「楽園」なのだから――


 ようやくのことで私の言わんとすることを理解したマリカは、私の胸に飛び込んできて「ばか」と何度も言った。


 こういうときに「愛している」と言うのではないのか。まったく、人間というものはわからない。




<末裔たち>


 私は再び放浪の生活に戻り、怪物を倒してはその死に祈りを捧げた。

 この地上には、わたしの子の他にも、どの種族にも属さない、正体不明の「怪物たち」が存在した。彼らがどこから生まれ、どこへ行くのか、私には分からないし、知ろうとも思わない。


 ただ、この地上も混沌としている。人間と、魔族や獣人が共に住むようになり、世界は遥か昔ほど単純ではなくなった。怪物は確かに存在したが、時の流れに紛れ、その伝承すら、人々の記憶から薄れ始めていた。


 私は、私の成した最後のひとりに会うまで、怪物と相見あいまみえる運命に自分を置こう。私にはもう、帰りつける「楽園」があるのだから。



 マリカは、出会って2年目の1962年にひとりの女の子を産んだ。

 再会の時、お腹の大きい彼女を見て、私は一瞬かつての子のことを懸念しなくはなかったが、彼女は自信に満ちた笑顔を見せて「大丈夫、この子は私がいっぱい愛してあげているから、哀しい子になんてなるはずないわ」と言った。


 生まれた女の子は人間の姿をしていた。子供には、私がアーデルハイトと名付けた。「高貴」という意味を持つその名をマリカも気に入ったが「名前負けさせたらどうしよう」と冗談めかして笑った。

 子供は、私の堕天使の血がそうさせるのか、ゆっくりと成長した。マリカは気を揉みながらも、惜しみない愛情を注ぎ、子供を育んだ。


 その娘もまた、愛する者と出会い、伴侶を得た。

 それを見届けた数年の後、マリカは病でこの世を去った。彼女の名に相応しく、海と花畑が一望できる丘に、彼女の墓標は立った。


 マリカの葬儀を終えた後、かつて宿屋の食堂であった部屋で、私は娘に以前ほどここに立ち寄ることはなくなるだろうと告げた。


 娘は、マリカとよく似た笑顔で答えた。

「お父さんのしていることは、お母さんから聞いて知ってる。最後のひとりと出会えて、それでもまだここ――荒海アラミを忘れていなかったら、孫の顔でも見に来てよ」

「お、お前……もう子供が?!」

「まだよ、そのうちできるでしょうってこと。ねえ――お父さんって、ホントに偉い天使様だったの?そこいらのお父さんと、全然変わんないんだもん。信じらんない」

 こういう、軽快な物言いもマリカによく似ている。


 その夜、私達は静かにマリカの思い出話をして、翌日私は荒海を発った。




 時が過ぎ、私がマリカと過ごした荒海は「輝夜」を名を変え、多種族が共同生活を送る町へと変貌していた。もはやふらりと立ち寄る程度になった輝夜で、私は驚くべき者と再会した。いや、あちらは私に気がついていなかったので、正確には再会ではないが。


 それは、あの蒼の天使だった。天上界に居たときと同じ容姿ではあるが、さすがに大きな翼は隠してある。


 なぜなら彼女は、東洋の料理の香りがする雑多な露天の食堂で、通行人に背中が触れてしまいそうなほど狭い通路に置かれたテーブルについていたからだ。


 そして、彼女の向かい側で楽しそうに笑っているのは、私の娘、アーデルハイトであった。


 蒼の天使は、娘が小皿に取り分けた料理をためつすがめつしてから口に運び、その熱さに目を白黒させている。それを見て愉快そうにする娘を睨んだり、何かの調味料をかけようとして止められたり、隣のテーブルから転がってきた空き瓶を、ひょいとつまんで地面に置いたりしている。


 ――天上界の不良娘が、随分と表情が豊かになったもんだ。ガーディアンのひとりは、お前が「強さに魅入られた」と言ったが、お前も私同様、人間に魅入られたクチだな。


 この町はもう、大丈夫だ。

 幾星霜を経て、末裔たちが出会った運命を祝福したくなった。

 私は娘には声をかけず、天使と楽園の住人の末裔の楽しげな語らいを背に受けて、輝夜を後にした。



【DeadlockUtopia 第四章二節 ~楽園の住人(後)~ END】


第四章の時代は、大昔~1960年前後の荒海~2050年頃の輝夜です。

この後、第五章「Diavolo」、第六章「Metamorphosis」と続き、この小説の完結となります。

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