あぁ、この時よ、永遠でいて
2011年の冬頃に書いたもの
遠くで光が舞い上がっていた。火の粉のようで、しかし、赤色の火だけではなく緑色や、黄色の閃光が綺羅めいている。明るい昼過ぎの空でも十分に見えた。ホタル火のようにゆらゆらと不規則に移動し、消えるものもあった。
「レン、そろそろ帰ろうよ」
「そうだな。こっちは大分集まった。ミオはどう?」
どこか幼さを残した少年と少女がいた。瓦礫と化した街でのことだ。所々に崩れた建物の残骸があり、長年放置されているその街は歩くたびほこりが舞った。廃墟となったビルの飛び出した鉄骨に小鳥が何羽か止まっていた。
レンと呼ばれた少年は背中に大きなリュックを背負っている。中には鉄くずや廃材が詰め込まれていた。
「ほら、一つ持つから」
「いいよ、私これくらいなら持てる」
ミオと呼ばれた少女は両肩に体を覆い隠れてしまうようなバッグをかけていた。そこには分厚い本が何冊も詰め込まれている。
「ほら、もうふらついている。この前も同じことを言って転んで怪我をしたろ。傷が残らなかったから良かったけど」
バッグとレン、交互に見詰めたミオは最後に俯いた。
「娼館で働けなくなるもんね」
レンに片方のバッグを押し付け、背を向けたミオはそう言った。
「別にそういう意味で言ったんじゃないから」
レンはため息をつき、慣れた様子でミオと歩き出した。
「働く気もないくせに」
「何で分かるの?」
ミオは不満げだ。
「ミオ、人見知りが激しい。それに、気安く触られるのも嫌でしょ」
「分かっているなら、もっと離れてよ。近い」
ミオはレンのふくらはぎを蹴った。
しかし、肩にかけたバッグが原因で重心が安定せず、よろけて後ろに倒れる。羽毛が着地するように物音一つせず、ミオの軽さが伺えた。
「あーあ、結局転んだ。……つかまって」
レンは手を差し伸べた。
ミオはしぶしぶと手を取って立ち上がり、散らばった古い本をバッグに詰めなおした。転んだ所にはコンクリートの破片が散らばり、肉が薄いミオの体に食い込み痣になっ
ているかもしれない。
「痛い」
小さな尻をさすり、ぽつりと言葉をこぼした。
「残りも持とうか?」
「いらない!」
ミオは一人ですたすたと歩く。怒っているのか、頬が若干赤いようだ。白い素肌は桃色に染まっていた。
おおーん、おおーん、というワイヤーが唸るような音が響いている。瓦礫の街は霞がかかったように煙たい。街の向こうには空と同じ灰色の海が広がっていた。霞は海から上がってきているようだった。
レンは誰かに呼ばれた気がして振り返った。だが、空耳のようだ。
「戦争、いつまでやっているんだろうね」
ミオはいつの間にか立ち止まり、レンと共にずっと遠くを見ていた。
「いつまでだろうな。ずっと戦火が見える。こっちまでは来なければ良いけど」
「来ないよ」
「どうして?」
「なんとなく。そんな感じがする。この瓦礫の街、戦争で壊されたんでしょ」
「修理屋のおじさんはそう言っていた」
「じゃあ、もう興味がないんじゃない?」
「でも、大分ここは賑わっているし、その内壊しに来るかも」
瓦礫の街を挟んで海とは反対側に人々が行き交う市場があった。どれもぼろぼろの布や錆びたトタンで店を作り、一見古びているようだが多くの客で賑わっている。市のはずれには居住区があり、簡素な家々が軒を連ねていた。元々、戦火を逃れた者達で復興させたらしいが、レンとミオは詳しいことを知らなかった。
「来ないよ。……来て欲しくない」
「ミオの願望になってる」
「いいでしょ。私は逃げ回るのが嫌なの」
「誰も好きな人はいないと思うなぁ」
空は灰色の厚い雲に覆われていた。戦争をしているらしい遠くの地も、同じような空だろうかとレンは思いを巡らせた。
「あ、空が割れている」
ミオが指差す先は特に多くの光が舞っている場所だった。
「本当だ……青い」
二人にとって空は灰色であった。雲の量によって多少の濃淡が変わっても、常に薄暗い。
一際大きい、おおーん、という音が辺り一体を満たした時、辛うじて目視出来るずっと遠くの空は雲の一部が裂けていた。二人には小さな裂け目から青色の澄んだ結晶が露出しているように見えた。
「宝石みたい」
ミオがぽつりと言った。
「宝石、欲しいの?」
「いらない。食べ物の方がずっと好き」
いつしか二人は座り込んでいた。隙間から覘く青がまた消えてしまうまで、じっとしていた。後に残ったのは、また同じ元の灰色の空だった。
「おじさん、これ」
「おお、ごくろうさん」
ミオは修理屋を営んでいる男に本を詰めたバッグを渡した。続いてレンも、ミオから預かったバッグを手渡す。
男は軽々とそれを店の奥に運ぶと、手に茶色い袋を握って戻ってきた。
店先には様々な種類の金属部品や、ランプなどの照明器具、用途不明の機械が並べられていた。
「ほら、少ないがやるよ。何か買って食べな。あと、飴玉を入れてあるからな」
背が高く、レンとミオは彼を見上げた。彼は古い物を収集しており、使える物は修理をして売っている。ミオが集めてくる本はまったくの彼の趣味で、場合によっては売ることもあるらしいが、基本は自分で読み大事に保管するらしい。
「少し読んでいってもいい?」
ミオは店の中で彼が修繕した本を読むのが日課となっている。彼の店は市場を離れ居住区の一角にあり、読書には静かで丁度良かった。
「レンはどうする?」
「俺はこれを置いてくる。そしたらまた戻ってくるから」
レンはリュックを背負いなおし、駆け出した。重い荷物を担いでいるのにも関わらず、すぐに見えなくなってしまった。
「面白い本はあった?」
店の中は薄暗くかび臭かった。
レンが去った後、ミオは店の奥へと入り机に詰まれた本をじっくりと観察した。どれも泥だらけでタイトルが読み取れない。まだ、修繕をしていないものらしい。
「ほれ」
男は一冊の薄い本を渡した。薄いわりにミオの胴体を隠すくらいに幅広な本だ。
「先週だったかに、お前さんが持ってきたのだ」
「こんな大きな本、あったかなぁ?」
「ひどく破れていたからな、気付かなかったかもしれん」
男は不思議なことにどれだけ壊れていても、何日の後にはすっかりと直してしまった。何度ミオが方法を尋ねてもはぐらかされて教えてはくれなかった。
「絵本みたいだな。内容はよく分からん」
男は大きな鉄の箱を磨きながら言った。本だけでなく、壊れた物まですっかりと直してしまうのだ。だから、市場を離れた場所に店を構えていても客はよく来るのだ。
「すいませーん」
若い女の声が店先から聞こえた。客のようだ。
「お、誰か来たようだ。大人しくしていろよ」
「うん」
ミオはうなずき、本を開く。
内容は通りすがりの魔法使いに鶏が魔法の力を授かって檻から逃げ出す話だったけれど、結局は食べられてしまうという残念な話だった。
最後の絵は鳥の丸焼きを囲む笑顔の家族が描かれていた。
「はぁ……何なのかな」
ミオはため息をついた。
「読み終わったか?」
「一応ね」
男は客への対応が終わったらしく、手に茶色の包みを持って戻ってきた。
「どうだい?」
「焼き鳥が食べたくなったよ。私、好きなの」
ミオは座っていた椅子の背に寄り掛かった。絵本は近くにあった机に置いた。手を擦り合わせるとざらざらとしている。本には砂が付いているようだった。
「タイミングが良いな。さっきの客に貰ったんだ。ほら、路地裏にある焼き鳥屋の。ここに来るまでに通るらしいんだ。お礼だとさ」
「本当に! やった」
ミオは焼き鳥を包んだ紙袋へ駆け寄り、香ばしい匂いで一層笑顔が輝いた。路地裏の焼鳥屋は隠れた名店なのだ。
「一、二……五本ある」
「全部食べてしまってかまわないからな」
男はそう言った。
「え、でもおじさんが貰ったんでしょう」
「先に一本食ったから」
男は焦げ目の付いた串を爪楊枝代わりに使っていた。
「そう、じゃあ貰うね。ありがと」
ミオは一本取り出して眺める。タレではなく塩焼きだった。
「おじさん、タレと塩どっちが好き?」
「どっちでもいいよ」
男は興味がなさそうだ。
「私はどっちも好きよ。人によってはどちらかしか食べない人もいるらしいけど」
「そうかい」
ミオは早くも二本目に取り掛かった。
「おじさん、訊きたいことがあるの」
ぼんやりと天井を見つめながら言った。錆びたトタン屋根は端に穴が開いていた。雲の流れがはっきりと分かり、雨が降ると入り放題だ。
ミオは穴から見た景色を不思議に思った。別の世界を覗いている気分になるのだ。そこだけ切り取られたかのようで、見慣れた灰色の空なのに知らない場所へと繋がっている様な気がしてならない。今にも何かが穴から這い出しそうだ。そんな不安がミオの胸をよぎった。
「仕事のことなら教えないぞ」
「違うよ。あの穴、修理しないの?」
男は上を見た。
「あれか。面倒だ。隅にあるし、困らない」
「へー」
気の抜け返事だった。
「もう一つ、訊くね。どうして本を集めているの?」
「うむ……そうだな」
男はミオの対面に座り、コップに注いだアイスコーヒーを一口すすった。ミオにはオレンジジュースが渡された。
「戦争……しているだろ。ここいらは平和なものだが、海を渡った先の陸地は目も当てられん」
「行ったことがあるの?」
「ああ、仕事でな。どこもかしこも火が上がっている。建物は壊されて影一つない。助けを求める声が聞こえるが、全く見当たらない。あんな場所では気が狂いそうになる」
ミオは恐ろしくなり身を震わせた。
「だからかもなぁ。本なんか、燃えてしまうだろ。戦争が終わったら何も無いじゃないか」
男の瞳は吸い込まれそうな深みを持っている。口調は穏やかで一言一言が重くのしかかるようだった。
「人はな、よりどころになる物が無いとだめなのではないかと思うんだ。家族だったり、故郷だったり。もし、それらを失ってしまったら誰かと悲しみを分かち合うかもしれない。紛らわすために歌うかもしれない。俺はその時の為に本を集めている」
「最後に食べられちゃう鶏の話とか?」
男は苦笑いをした。目尻にしわが幾つも刻まれる。
「いやいや、それだけじゃなくもっと楽しい本だ。ほら、こないだ読んだろう」
「あ、男の子が林檎を買いに行く物語でしょ」
ミオが気に入っている本の中の一冊だ。その本を読み、ミオは一日中笑い転げていた。
「うん、ああいったのを集めて戦争が終わったら図書館を開くつもりだ。もちろん、物語だけではない。怪我や病気に役立つ本、料理、建築……必要な知識は山ほどあるんだ」
男は普段より機嫌が良いように思えた。きっと図書館を造る計画に思い入れがあるのだろう。
「私も行ってみたいな。……でも」
ミオの表情はどこか浮かない。
「ここで読むのも好きだな」
「こんな汚い所でか?」
「うん。汚くても私は落ち着けるの」
ミオはオレンジジュースを飲みほした。
下は土がむき出しだった。つま先で掘り返すミオは、不安や気がかりを散らすようにしているようだ。
「もしさぁ、戦争が終わっておじさんが図書館を建てたら……居なくなっちゃうの?」
置き去りにされた子どものようだった。憂いを帯びた表情は未だ成長しきれていない幼さを明確にし、ミオはやはり少女であった。
「いいや、すぐには居なくならないさ」
ミオが焼き鳥を食べている頃、レンは鉄くずを買い取っている製鉄所へと赴いていた。ぼろぼろの工場だった。強い風が吹けば倒壊してしまいそうだが、案外内側は強固な造りになっているのかもしれない。辺りには、排気口から流れる空気の雄叫びにも似た轟音が鈍く広まっている。
「今日も持ってきたよ」
「そうかい」
レンは工場に入らず、工場を取り囲むペンキの剥げた壁に寄り掛かっていた老人に近付き、親しげに話しかけた。
銀色に近い白髪の老人は、だるそうに歩み寄りレンのリュックに入った鉄くずを受けとった。
「このぐらいだな」
査定を終え、老人はレンにお金を渡した。その額は想定したよりも足りないものだった。
レンの手に落とされた硬貨五枚は黒ずんで刻まれている文字を読む事は出来ない。ポケットにしまい、壁に背を任せ座った。
「もうちょっと上がんないかな?」
「だめだ。うちもそんなに金がない」
老人はぶっきらぼうに言った。
「分かったよう」
「お茶ぐらいなら出してやる。少し待ってな」
老人は麦茶の入ったコップとまんじゅうを持ってきた。喉が渇いていたので、麦茶を貰うとお金が少ないことはどうでもよくなってしまった。
「ねえ、戦争何でやっているか知っている?」
一息つき喉が潤うとレンは尋ねた。
老人は鼻を鳴らすと無精ひげをなで、盛大にげっぷをした。
「行儀の悪い返事だな」
「気にしなさんな。……俺はお前さんの何倍も長くいきているが、理由は忘れた。いつの間にか始まっていたような気もする。そして未だに続いておる。分からんのう」
ゆっくりと頭を横に振った老人は目を細めた。
「ここの工場はあっちへ出荷する鉄を作っているんだ」
海の向こうを指差した。老人の手は小刻みに震えていた。工場は海に面しており、見晴らしが良かった。
「武器の材料にするんだよ」
「へぇ」
瓦礫の街を挟み、海はゆったりと波打っている。街も海も両方灰色なので境目があいまいだ。たまに瓦礫が動いていると錯覚してしまう。
「ここらには来ないのかな」
「何がだ?」
「攻撃」
「来んだろ」
「どうして」
「さあな。勘だ」
「似たようなことを言っている奴がいたな」
レンはミオを思い出し立ちあがった。
「何だ、もう行くのかい」
「うん、また明日集めてくるから」
「多くは出せんぞ」
「諦めたよ」
空になったリュックを肩にかけ、レンはミオを迎えに行った。
さっそうとかけ出すと、体を風が包んだ。埃っぽかった。
後に残った老人は目をつむり、昼寝を始める。すぐに寝息をたて、やがて大きないびきとなった。
「戻ったよ、ミオ」
レンは息を弾ませて男の店へ入った。
レンが店の奥へ行くと、ミオは人差し指を舐めていた。唾液で濡れた指先は僅かに光っている。
傍らの机には串が転がっており、周囲はかび臭さの中に芳しい香りがほんのりと漂っていて、それはついつい出所を探ってしまいそうな、どこかで嗅いだことがある匂いだった。
「レン、おかえり」
「ただいま。おじさんは?」
「ちょっと買い物だって。それより、はい。これ、おじさんから」
ミオは一本の焼き鳥をレンに差し出した。さながらナイフを突き付けているようだ。貴重な物を示しているようでもあった。
「これは、あの焼き鳥屋?」
「うん、あの焼鳥屋。お客さんから貰ったんだって」
レンは受けとり、一口かじる。
「確かに。冷えていてもうまい」
「でしょ」
まるで自分の功績のようにミオは胸を張った。
「さて、どうしようか。レンは用事ある?」
「無いよ」
「じゃあ、散歩しよ。丘の上まで」
丘。市場や居住区を離れたはげ山だ。元々低い山だったのだが、数か所を爆撃で深々とえぐられ山と呼べるものではなく、簡単に登ることが出来た。
「今日は涼しいし、歩くのにはいいね。行こうか。おじさんには書き置きでも残しておこう」
すぐ目に入る場所に書き置きを残し、レンとミオは店を後にした。
丘の入り口は林を抜ける。市場の喧騒を離れると閑散としていた。二人だけしかいないので足音が際立ち、薄暗さを引き立てた。
二人は男から貰った飴玉を舐め、手には揚げパンの入った紙袋を持っていた。飴玉はただ砂糖を固めたように酷く甘い。ミオはその飴を気に入っている。揚げパンは来る途中の店で買ったのだ。
「ミオ、甘すぎない?」
「美味しいじゃないの」
飴玉は四つあった。普通であれば二個ずつ分けるが、レンは一個舐めれば十分だった。
「工場のさ、じいさんに訊いたんだ」
「何を?」
「戦争、何でやっているか」
「知っていた?」
「忘れたって」
ミオは、やっぱり、と言って笑みを浮かべた。
談笑していると丘へはあっという間に着いた。花は咲いていなく、丈の低い草が所々生えている。市場や居住区、瓦礫の街を一望出来た。本を集めている男の店や、老人がいた製鉄所も容易に見つけられる。しかし、海の向こうの戦争はどこから見ても色とりどりの光が飛んでいた。
楽しげな二人の声が寂しさを感じさせる風景に、ひっそりと花を添えたようだった。
「揚げパン美味しいね」
飴を舐め終え、ミオは砂糖をたっぷりとまぶした揚げパンを頬張った。すぐに顔がほころび、地面に寝転んだ。
「おや、ふもとにお住まいの方でしょうか?」
不意に聞き覚えのない声がした。落ち着きがあり、優しげな声だった。
ミオはとっさにレンの背後に回り込み、隠れる。まさにバネを弾いたようだ。
「すみません、驚かせてしまったようですね」
その人は黒いマントで身を包み、顔はフードを目深に被っているので分かりづらい。薄い唇と形の良い鼻が露出し、奥では瞳が二人を好意的な視線で捕らえている。
「ああ、これでは警戒されてもしかたない」
彼はフードを外した。
青い瞳が印象的で、くせ毛の黒髪がそれを引き立てる。彼は背負っていたリュックを下し微笑んだ。
「少しはマシになったかな」
間をおいて
「俺もこの子もあそこに住んでいます」
レンは居住区を向いて言った。
「ああ、やっぱりそうだったか。ここは平和だね」
レンはさほど警戒心を感じていなかった。怪しいことは怪しい。しかし、ゆったりとした物腰が不思議と恐怖を与えない。
「あの、あなたは?」
レンはおずおずと尋ねた。ミオは相変わらず背中に隠れていた。
「私かい? 私は……旅をしているんだが、たまたま立ち寄ったのさ」
「旅ですか」
「そう。今まで多くの国を歩いた。しかし、どこも争いばかりでね。」
その人は疲労が多分に含まれた深いため息をついた。
「やっぱり、戦争をしているんですね」
「私も何度か死にかけたよ。酷いもんだ」
レンはミオが後ろで体を固くしているのを感じた。ミオはこの手の話が苦手なのだ。
「なんで旅をしているんですか?」
「なんで、か。考えたことが無いな。昔から放浪癖があって自分でも危ないから止めようと思うんだが、ついふらりとしてしまう」
彼は苦笑いをした。
「ところで、唐突ですまないんだが君達は何か願い事は無いかい?」
「願い、ですか」
「そうだ。いやね、私はその土地の人がどんなこと考えているかを知りたくて、いつも訊いてみるんだ。どうだい、そこのお嬢さんは何かないかな」
ミオは砂糖や油の付いた口元をぬぐい、無い、と風に吹かれて消えそうな声で言った。
「俺も特に無いです」
「……そうか。まあ、それはそれで解釈のしようがある。ありがとう。じゃあ、私はこれで。しばらくここに滞在するつもりなのだが、宿はあるだろうか?」
「はい、一軒あります」
レンは丘の上から場所を教えた。古い宿だが、近くにあの焼き鳥屋がある。
彼は物音一つ立てずに下って行った。短時間だったがレンは何時間も対話をしている気分になった。どっと力が抜け地面にへたり込む。話している間は警戒していなかったが、やはりどこかで緊張していたのかもしれない。
ミオはパンの残りの一欠片を口に放り込んだ。端の方は砂糖がよく染み込み、ミオは好んで食べていた。レンの揚げパンも端だけ奪ってしまった。
「変な人だったね」
ミオは言った。
「また会うかもな」
レンは足元の雑草を抜いていた。パンの端を食べられたので、いじけているのかもしれない。
「レーンー私ねー」
ミオは腕を突き上げ、のびをした。へそが露わになる。か細い腰は左右に上半身を傾けても贅肉が無いので層を形成する事はなかった。
「最近、分からなくなるんだー」
「何が?」
レンは空を仰いだ。
日が暮れようとしている。明かりが灯り、オレンジ色の球体に市場や居住区が入り込んでいた。人々が闇に消えてしまうのを防いでいるようだ。その球体はレンとミオとっての道標になる。
「ずっとこうしている気がするの。同じことを繰り返しているような」
「変わり映えしないからね。ミオは本を集めて、俺は廃材を集めて。丘には毎日来ないけど。前に来た時はリンゴパイを食べたっけ」
レンも寝たまま背を伸ばした。関節が心地よい音をたてた。
「レンはさ、本当に願いごと無い?」
「いきなりどうした?」
「何となく」
しばしレンは考える素振りをするが、思いつかないようで諦めたように息を吐いた。
「やっぱ、無い」
「一つくらいあるでしょ」
「……んー強いて挙げればミオにパンを取られないようにして欲しい」
「謝ったじゃない! 無意識の行動だったのよ」
ミオはそっぽを向いた。
「おかしいでしょ、あの速さ。袋から出した途端迫って来るんだもん。手、かじられそうだったし。それよりミオはないのか? 願いごと」
おもむろにミオは歩き出し、あと一歩踏み込めば落下するという所で、腕を広げてくるりと回った。
街に面した絶壁は下から揚げ物の匂いが上がってきた。そろそろ夕食時なのだろう。二人とも空腹の波が徐々に押し寄せている。
「秘密。帰ろう。お腹すいたし」
パンでは少々物足りなかった。
「人に聞いておいてなんだよ。……まあ、いいけどさ」
ミオはレンの質問には答えなかった。
暗がりを慎重に行く。
帰路はレンが前、ミオが後ろで歩いた。ミオはレンの服の裾を掴んでいた。
その夜、ある町が破壊された。
戦争によるものだった。
理由は分からない。何か重要な場所だったのか、要人がいたのか、資源が採れたのか。逃げ惑う人々は知る由もなかった。
――助けて、嫌よ、助けて。
少女の声がした。
――お願い。こんなの、おかしい。お願い。
祈りを捧げる少女は涙に濡れ、声は枯れてしまった。
――やだ、やだ、やだ、止まって! みんな、死んじゃう!
叫び声が少女の脳を揺さぶる。他人の叫びか自分のか判別できない。
――なら、願いを叶えよう。君の願いはなんだい?
聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。
少女はただ、ただ、願望に突き動かされていた。
声の主など、どうでもよかった。
――私の願いは……。
少女は強く願った。平穏な日常。変わる事のない、平穏な日常。
いつしか、祈りを捧げている内に少女の周囲の音が消えた。
怪我をした所も痛くない。
水の中を漂っている感覚。
そして、祈っている事さえ意識から遠のいた。
――いいだろう。その願い叶えよう。
気が付くと、少女は瓦礫だらけの景色を眺めていた。
いつからか、少女は思い出せない。
眼前に海が広がり、波がたゆたう。
空は厚い雲に覆われていた。
その空が及ぼす影響は大きく、すべて灰色に染め上げているようだ。
海の向こうには光が飛び交っていた。
目が痛くなってきた。
少女ははっとした。
「そうだ、本を集めないと」