霧雨の日のアジサイ
さあさあ、さあさあ。
ひそやかに、内緒話をしているような音を立てて、霧のような雨が降る。
さあさあ、さあさあ。
静かに舞い降りてくる細かな粒は、触れるとしっとりと吸い付くように肌に馴染んでしまった。
傘を差そうか、差さまいか。少し悩む。
「うーん」
差さなくても、少しの間なら、ずぶ濡れにはならないけれど。
長く当たっていると、風邪を引いてしまう。そんな雨。
「あったかいしなぁ」
幸い、気温も雨も生ぬるく感じるほどで、さあさあと言う音も耳に優しく響いて心地いい。
「うーん。いっかな」
結局、傘は差さないことにして、しっとりした水の中を歩いているような気分を楽しむ。
お店に着くまでなら、そんなに濡れないだろう。たぶん。
いつもの帰り道から横道に入り、小さな看板を辿って、目当ての店へ。
『 喫茶 アジサイ
いらっしゃいませ 』
前に見た時と変わらない看板をそっと通り過ぎて、今が盛りの紫陽花に足を止めた。
ひそやかに降る雨粒を花や葉っぱで受け止めて、水滴がきらきらと光っている。
ちょん、とつついてみると、水滴はするりと下へ滑り落ちてしまった。
もう一度つつく。つるりと滑る。
「ふふっ」
ちょんちょんとつついて満足したら、そこでやっと腰を上げた。
今日は何を食べようかな。あんみつもおいしそうだったし、紅茶も飲みたい。
でも、あんまりお金を使うと、欲しい服が買えなくなるかも。
でもでも、やっぱり食べたいし。
扉に手をかけて、ふと気づく。何だか今日は騒がしい。
からからから。ゆっくり扉を開いて、ちょっとびっくりした。
今日はお客さんがいっぱいだ。
カウンターと窓際の席の間にある、大きなテーブルが二つとも、おじさんとおばさんでうまっている。
近所の人たちだろうか。なんだか、打ち上げみたいで、楽しそうにお喋りしている。
「いらっしゃいませ! すいません、空いているお席どうぞ」
「あ、はい」
カウンターの向こうから声が掛かったのでそちらを見ると、この間のお兄さんがせっせとパフェを作っていた。
大変そうだなあ。
「がんばってくださいー」
聞こえないようにそっと応援して、空いてる席へと向かう。
この間と同じ窓際の席に座ろうとして、ふと机の上の紫陽花を見やる。
鮮やかな、青色。
「うーん?」
なんか違う。
くるりと振り返って、一つ後ろの席を見る。
そっちは、この前よりはっきりとした、赤みの強い紫色の紫陽花が、ちょこんと生けてあった。
「あっちにしよ」
いそいそと移動して、椅子に座る。
今日こそはと用意しておいた、読みかけのファンタジー小説を取り出し、傘と鞄は足元へぽい。
ざわざわとした声をBGMに、そっと雨の降る窓の外を覗き込む。
人が多いせいか白くくもったガラス越し、青や赤に染まった紫陽花がぼんやりと浮いていた。
窓の外についた水滴のせいか、ガラスそのものが水のようだ。
ぴと、と指先をくっつけてみる。
ゆらゆらとゆれているような窓はつるりとした感触で、やっぱりガラスなんだなと思う。
しばらくそのままでいると、ひんやりとしたガラスに指先から体温が奪われて、やっぱり水みたい。だなんて思った。
ふと夢想する。ここが水の中だとしたら。
ここにいる私たちは魚だろうか。もしかしたらカニかもしれない。
ちっちゃいカニ。
昔習った国語の教科書を思い出した。
そう考えると、カニの世界も楽しいかもしれない。だって私がカニでも魚でも、きっと思うことは変わらない。
なんだか、ここにくると感傷的になるなあ。
ぼんやり考えながら、ぱらぱらと本をめくる。
軽めのファンタジー。よくある精霊がいる世界のお話。
ざわり、ざわりとゆれる空気の中、かさりかさりと紙をめくる音が、幽かに聞こえる。
「すいません。大変お待たせいたしました」
左からの声に、本に落ちていた意識がじわりじわりと浮かび上がってくる。
話の続きが気になりながらも、ゆっくりと顔を向けると、店員のお兄さんが申し訳なさそうにこちらをうかがっていた。
「お冷とメニューをお持ちしました」
「ありがとうございます」
とりあえず、おいしいものだ。
ぱたんと本を閉じて机の端に寄せ、メニューを受け取った。
静かに置かれたコップから、溶けかけの氷がカロン、と音を立ててくるりと回る。
「本日のおすすめは、オレンジゼリーのパフェです。少し酸味があるのでさっぱりしますよ」
「あ、じゃあそれと。ホットのミルクティーで」
「はい、かしこまりました」
以上です。と言うと、お兄さんはやはり丁寧に復唱してくれて、私はお願いしますと頭を下げる。
「おいしく作りますね。暫くお待ちください」
「はいっ」
おいしくだって。楽しみ。
思わず、待ってます。と小さな声で言うと、お兄さんは、はいと一つ頷いて、カウンターの向こうへと戻っていった。
ざわざわ、がやがやと、幽かに流れるBGMをすっかり飲み込んでしまったおばさんたちの声が、空気をゆらしている。
横目に見ると、既に何人かのグラスが空になっていた。
おいしかったねえ。なんて声が聞こえて、頬がゆるむ。
ますます、パフェがくるのが楽しみになってしまった。
おばさんたちの弾んだ声を聞きながら、そっと本を手に取る。
先ほどまで読んでいたページを探して、ぱらぱらとめくっていく。
物語は中盤に差し掛かり、主人公が精霊に会いたいと、森へ分け入っていくところだった。
すいすいと読み進めていくうちに、とぷんと水に沈むように、物語の中へと入っていく。
「……お待たせしました」
「ふぁい!」
噛んだ。
あわあわとしながら、開いたままの本を胸元へ引き寄せて、そのまま口元を隠してしまう。
「すいません」
ちょっと困ったようなお兄さんに、慌ててぶんぶんと頭を振った。
「いえいえ! すいません、どうぞ」
いい感じに物語が進んでいたから、ついのめりこんでしまった。
どれだけ集中していたのか、現実に引き戻された途端に、ざわざわとした音が耳に入ってくる。
次に、ようやくお兄さんの持っているものが目に入った。
「わぁ」
すっと目の前に置かれたそれは、逆三角形のシンプルなグラスに、淡いオレンジ色のゼリーと、上の方にはクリームのようなものがふちいっぱいまで入ったパフェ。
さらに上にはバニラアイスがちょんと乗っていて、果肉の入ったオレンジのソースが掛かっている。
コップのふちには、皮に切込みを入れて羽のようになったオレンジがささっていて、添えられたミントがかわいい。
色んな色が溢れていた『アジサイパフェ』とは違って、こっちのはオレンジと白でなんだかすっきりとした印象だ。ちょっと大人な感じかも。
もうにこにこを通り越して、にやにやしていると、視界の端ににこにこと笑うお兄さんの顔が映って、いっきに顔が熱くなった。
ことり、ことりと紅茶のポットとカップ、砂糖つぼとミルクピッチャーが置かれていき、彼は綺麗なお辞儀をした。
「ごゆっくりどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
恥ずかしさに、思わず深々と頭を下げる。
にこにこしながらカウンターへ戻る道すがら、おばさんたちのテーブルのグラスをトレイに乗せていくお兄さんを見送る。
私なら落としちゃうような量の食器を、危なげなく持って歩けるのってすごいと思う。
「よしっ」
ぱたんと本を閉じ、机の端へ寄せた。
スプーンを手にとって、いざ、というところではたと手を止める。
「あ、写メ」
せっかくだから、残しておきたい。
がさごそと足元の鞄を探って、携帯を取り出す。
ぴっと構えて、一枚パシャリ。
確認すると、なかなか綺麗に撮れていた。
にやにやしながら携帯を本の上に重ねて、ようやくスプーンを持ち直す。
「いただきます」
手始めに、コップのふちのオレンジを食べて、アイスをクリームっぽいものと一緒にすくって口の中へ。
「ん?」
どうやらムースらしい。
オレンジソースのさっぱりした味と、甘いバニラアイスの冷たさと、少し酸味のあるムースの、ふわふわした食感が楽しい。
何味かいまいちわからなくて、ムースだけちょっとすくってみる。
ぱくり。暫く味わって。
「ヨーグルト?」
ようやく思い当たった味に、口元がほころんだ。
あとは遠慮無しに、スプーンで上から下のゼリーまでまっすぐ突き刺して、こぼさないように大きく口を開けて一口。
もっくもっくと口を動かしながら、一旦スプーンを置いて、ポットから紅茶を注いだ。
やっぱりミルクはたっぷり入れて、花の形の砂糖を一つ沈める。
ティースプーンでくるくるとかき混ぜれば、入道雲のように広がっていたミルクが、薄く薄くのびて混ざっていった。
口の中のものを全部飲み込んでから、紅茶を口に含む。
「うまー」
あったかくてほわほわする。まろやかな優しい味だ。
ふふっと笑って再びスプーンを手に取った。
空気をゆらす声と、食器を洗う水の音を聞きながら、ひたすら無言でパフェをついばむ。
隣からどうやっても聞こえる会話で、おじさんたちがそろそろ帰りたいって雰囲気なのがわかった。
でも、おばさんたちの話は止まるところを知らないようで、きゃいきゃいと話に花を咲かせている。
そんな姿を見ていると、全然私たちと変わらなくて、いくつになってもおんなじなんだなあ、とか思ってしまう。
いつか、今は影も形もないけど、そう、いつか。
結婚して子供ができて、すっかりおばさんとか呼ばれるようになっちゃって、たまに友だちと会って遊んで。
そんな、はっきりとは形にならない妄想が、泡のように浮かんで。
ぱちん。はじける。
まずは、彼氏ができてからだ。
妄想してる間に、パフェはもう半分まできていた。
ぷるぷるとしたゼリーは、前回より柔らかくて、つるりと入ってしまう。
ヨーグルトムースも一緒に食べれば、少しまろやかな味になるのがまた、たまらない。
スプーンを動かす手が止まらない。
その勢いのまま、底にあるソースと溶けたアイスとが絡んだゼリーまで全部食べきって、スプーンをグラスに突っ込んだ。
「ふはー」
ちょうどいい量でお腹におさまったパフェに、息を吐きながら両手を合わせた。
冷めた紅茶を飲みきって、ポットから二杯目を注ぐ。
パフェグラスを少し奥へと押しやって、端に寄せていた本を手に取った。
机にずり落ちた携帯がごとりと文句を言ったけど、床に落ちてないなら気にしない。
ぱらぱらと、読んだところを探して本をめくっていく。
そうそう、主人公が森の奥に行ったところ。
ようやく精霊に会えた主人公は、その精霊と……
***
ぱた、と本を閉じて机に置く。
「はー」
物語は微笑ましいほど穏やかに終わり、ほっと余韻に乗せて息を吐いた。
カップを手にとって、その軽さに驚く。
読みながら、全部飲んでしまっていたみたいだ。
わかっていながら往生際悪く、ポットに手を伸ばす。
軽い。
「はあ」
小さくため息一つ。
楽しい時間はあっという間だ。おいしい物も然り。
ちらりと外を見ると、くもりのとれたガラスは、すっかり薄闇に染まっている。
そういえば、おばさんたちもいないし。
「帰ろっかな」
ぽそりと呟いて、ぐっと体を伸ばした。
椅子を引いてゆっくりと立ち上がれば、じぃんと足が痺れたような感覚が走る。
何回か足踏みして地面を確かめてから、くったりと床に寝そべる鞄と傘をひっぱり上げた。
ぐるりと視線を巡らせて、忘れ物がないか確かめる。
あ、本と携帯。危ない危ない。
濡れないように鞄の底に詰め込んで、レジへと向かう。
「ありがとうございます」
私に気づいたお兄さんは、レジへ立ってぱちぱちと伝票を打ち込むと、簡素なディスプレイに記された数字を読み上げた。
「750円のお召し上がりです」
「えっと。これでお願いします」
小銭がなかったので、仕方なくお札をひっぱり出した。
「はい。1000円お預かりします。……250円のお返しです」
小銭を受け取って財布に入れ、続いて渡されたちっちゃなレシートも一緒にしまう。
財布を鞄に入れていると、その間にレジ横からお兄さんが出てきてくれた。
「よろしければ、これ、どうぞ」
そっと差し出されたのは、前回と同じ、透明な袋に入ったこんぺいとう。
「あ、ありがとうございます」
しっかり両手で受け取って、内心やったとはしゃぐ。
留めきれなくて笑みがこぼれた。
「いえいえ」
にこにこと笑って、お兄さんはゆっくりと扉へ向かう。
その後ろをついていって、扉を開けてくれるのにやっぱり感激しつつ、にやにや笑いを必死で抑えた。
からからと、軽快な音を立てて扉が開く。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「ありがとうございます。頑張って作ったかいがありました」
「ふふっ。ありがとうございます。また来ますね」
「はい。お待ちしております」
絶対来ます。そして、パフェ制覇。いずれは全部のメニューを頼みたいです。
心の中で誓い、にへっと笑ってちっちゃく会釈する。
「お気をつけてお帰りください」
「はい」
お兄さんに見送られながら、来た時とは逆方向に、きらきらと光る粒を纏った紫陽花の横を通り、小さな看板を頼りに路地を進む。
近くの家々から漂ってくる夕飯の匂いに、もうお腹が鳴りそうになって、もらったばかりのこんぺいとうの袋を開けた。
かさかさと音を立てながら、そっと一粒つまんで口へ運ぶ。
さくり。歯を立てればほろりと崩れて、微かな風味と甘さが広がった。
「ふふっ」
おいしい。
ちょっと行儀が悪いのには目をつむる。
ぱしゃりと水たまりを踏みつけた。
雨はもう止んでいるが、しっとりとした空気が街を包み込んでいる。
最後の看板を曲がれば、そこはもういつもの帰り道だ。
やっぱり時間のせいで人通りはあんまりなくて、街灯が点いてもいいのかと迷うように、ちかちかと瞬く。
次はいついこう。
今度はどんな本を持っていこう。
ほわりほわりと漂う思考とは裏腹に、青味掛かった薄闇の中、私の足はすいすいと帰り道を歩いていった。