幸福な世界
「私たち、まるで踊らされているみたいね。」
そう言われて、わたしは榮あおいの方をふと見た。彼女とは同じクラスになって一年近くが経つわけだが、わたしが彼女について知っていることといえば、名前とか顔くらいのものである。それなりに可愛く、その素朴で快活な性格から男女に人気がある。まあ、どの学校でも、学年に一人くらいはそういうやつがいるだろうと、わたしは思っている。
わたしが忘れてしまった本を取りに来ようと、放課後の薄暗い教室を訪れた時である、彼女が誰もいない教室に一人でポツンと座っていたのは。普段の快活さは鳴りを潜め、どことなくぼんやるとした視線は校庭に向けられているが、何かを見ているわけではないことくらい、鈍いわたしにも察せられた。
取り立てて彼女に関わろうとも思わなかったわたしは黙って自分の机に近寄り、本を取って去ろうとした。すると、あおいが冒頭のような事を、誰に聞かせるでもなく、呟いた。
自分に言われているかどうかは知らない。たんに独り言を言っているだけなのかもしれない。だが、わたしは何となく、その言葉に返事をしたくなった。周りに誰もいない、という事も手伝ったのかもしれない。
「踊らされている?」
「ええ。この世界に」
返事があったことも驚きだが、その内容にも驚いた。世界、その曖昧で広すぎる言葉は、わたしを戸惑わせるには十分だった。この明るく、世界に祝福されたかのような少女が、何故に、そのように厭世的な考えを抱くに至ったのであろうか。わたしは興味が湧いた。
「清水くん、もうこの紙、貰った?」
白魚のような手が、一枚の紙をひらりとかざす。その薄っぺらい紙の正体を、わたしは勿論知っていた。正式名称は何だったか、ひどく長ったらしかったような気がするが、わたしたちは洒落で「幸福の紙」と呼んでいる紙のことだ。
この国を統括するコンピュータから、十八歳を迎えることの出来たわたしたちに祝福として贈られる、これからの人生のすべてが記された紙。誰と結婚するのか、何を職業とするのか、子には恵まれるのか、いつどうやって死ぬのか、そのすべてが記されている。
この神によって、私たちにはすべての幸福が約束される。これからの事をすべて知っているのだから、わたしたちは何に対しても苦しむことも悩む必要もない。ただそれを受け入れ、淡々とこなせばいいだけなのだ。すべては予め定まっていたことなのだから、わたしたちには、何の責任もないのだから。
「ああ、もう学年の全員が貰ったんじゃないのか? もちろんわたしも貰ったよ」
「中身、読んだ?」
「その日の内に、全部ね。なかなか面白かったよ」
「……そう」
そう返事をするあおいの顔は、青白く不健康な雰囲気を帯びていた。わたしは不思議だった。あおいほどの優れた遺伝子の持ち主なのだ、幸福の紙には、それは素晴らしい事が記されていたに違いない。それなのに、どうして彼女はちっとも嬉しくなさそうなのだろう――。
「読んでないの、一行も」
「え?」
それは恐ろしい返事だった。それでは幸福の紙に記す通りに生きていけないではないか。確かに細かい事までは記されていないにしろ、重要な事が今日に起こらないとも限らないのだ。あおいはすぐにでも幸福の紙を読まなければならないだろう。そうでなければ、幸せになれないのだから。
「要するにくだらないサーカスの団員なのよ、私たちは。」
あおいは自分が座っている机の真ん中をしっかりと凝視しながら、何かを呪うかのように呟いた。わたしはあおいが何を言いたいのかわからず、ただぼんやりとその愛らしくも呪わしい顔を眺めるしかなかった。




