9.『決別』
「っ、キリがないな……!」
苦々しげにぼやきながらも、男の剣は正確にリザードマンの急所を捉え、一気に斬り伏せてすぐ次の個体へと向けられる。
その斜め後方で、テレーゼも自分と男二人分の防御壁と男の剣には風の加護を展開しながら、まだ見通しがきかない薄暗い周囲に注意を向けていた。
場所を変えようと移動を始めたまではよかったが、二人は街道沿いの宿屋に辿り着くことすらできなかった。
というのも、デモンズビーストを駆逐したと思った矢先、今度は猪サイズの魔物の突進を受け、これを倒したかと思えば今度は大型の蜘蛛が、そして囲まれないように森へ駆け込んだところでリザードマンが襲い掛かってくる、というまるで対魔物のトーナメント戦でもやっているのではと現実逃避したくなるほど、次から次へとひっきりなしに違う種類の魔物の襲撃を受けてしまったからだ。
これでは宿屋に入るどころか、町に近づくことすら躊躇われる。
どうして、とテレーゼは行きがけに押し付けられた『餞別』のことをふと思い出していた。
彼はあれを、一般に出回っている魔物避けだと言っていた。
だが街道沿いには普段それほど出てこないはずの魔物が、いくら夜だとはいえ次々と現れ襲い掛かってくるのは、さすがにおかしい。
魔物避けと魔物寄せでは臭いからして違う……もしあれが魔物寄せなら、さわやか系ではなく甘ったるい臭いがするはずなのだ。
しかしテレーゼは、一刻も早く本家の娘と縁を結びたいだろうフリード伯爵家当主なら、多少小細工してでもさっさと邪魔な娘を始末してしまって、ヴェゼルの心残りを潰してしまおうと考えてもおかしくはないと、むしろそうして当然だという考えに至った。
何故、今の今までその可能性に気づけなかったのか。
どうして、これまで親切さの欠片も見せなかった執事からの餞別を受け取ってしまったのか。
「……ふふっ。馬鹿みたい」
どれだけ自分は甘いのか。
他人など信じるに値しない、人と人の間に存在するという『愛情』など自分には関係ない、そうわかっていたはずなのに。
ヴェゼルが、彼女を変えた。
彼に抱いた『愛情』と呼べるだろう想いが、彼女を弱くした。
彼と一緒なら、穏やかに緩やかに人としての感情を知っていけると思っていた、なのに。
『……どうして……こんなことを』
彼は、己の目で見た状況を信じてしまった。
何か理由があるのだろうと言いながらも、その澄んだスカイブルーの双眸の奥には隠しきれない疑いの色があった。
その時、彼女は絶望した。
他の者はいい、どんなに罵られても嫌われても構わない、だけど一番信じて味方でいて欲しかった相手に疑われた……心を裏切られてしまったのだ、と。
ギシャアアアア、という魔物の断末魔の声に、テレーゼはハッと我に返る。
後悔するなら後でもできる。
とにかく今はこの事態を切り抜けることだと思考を切り替えて、彼女は背負ったままだった荷物を下ろして『魔物避け』を取り出し…………ほんの少し迷った挙句、元通りそれを鞄の中にしまいこんで「あの」と男に声をかけた。
肩越しに面倒そうに振り向いた男に、この鞄をできるだけ遠くに投げて欲しいと頼む。
「これが元凶です」
「わかった」
彼は躊躇いもなく、大きく振りかぶったその鞄を木々の間を通るような角度で放り投げる。
と、さっきまで二人を狙ってのっしのっしと近づいてきていたリザードマン数体が、ぴたりと動きを止めてまるで鞄の動きをなぞるように視線をそちらへ向け、そして
「…………やっぱり」
何かに取り付かれたかのように、全個体くるりと回れ右して質素な革の鞄を襲い始めた。
留め金が弾き飛び、蓋が壊れ、中身が散乱する。
僅かな路銀だけは身につけていたため無事だったが、女性として本来なら恥じねばならない下着類までが鞄から飛び出し、わずかな着替えや日用品などと一緒に、ずたずたに引き裂かれ飛び散っていく。
恥ずかしい、とは思わなかった。むしろ清々した気持ちだった。
しかし鞄の一番下から取り出され、宙に掲げられたのは彼女にとっての思い出深い品。
唯一彼女が持ち出してきた高級品、それは真っ白なデビュタント用のドレスだった。
ヴェゼルにエスコートされ、ファーストダンスを踊った思い出がそのドレスには詰まっている。
その思い出のドレスを、リザードマンの爪が、牙が、唾液が、足跡が、穢していく。
と同時に、彼女の中にあった綺麗な思い出も段々と薄汚れ、セピア色に染まっていく。
一歩前に踏み出した彼女を、男はどこか気遣わしげに見下ろしてくる。
しかし止めようとしないのは、彼女がやろうとしていることを見抜いているからだろうか。
「【ブリザード】」
差し伸べた手から発せられる凍気が、鞄に夢中になっていたリザードマン達を一匹残らず凍らせる。
男が心得たとばかりにその死骸を剣で砕くと、彼女は無残に散った鞄の中身を踏まないようにしながらギリギリまで近づき、ふとそこで男を振り仰いだ。
「……お手間をおかけしますが、腕と……それから髪を少し、切ってもらえませんか?」
「魔物避けは、君の言う通りさわやかな香りが特徴的だ。恐らく魔物寄せに香りを相殺するようなポプリを仕込んで、それらしく仕立ててあったんだろう」
「そうでしょうね。……迂闊でした」
あの執事の独断か、それとも当主の命令か、それは今となってはわからない。
だがそんなことはどうでも良かった……誰の判断であるにせよ、それがフリード伯爵家からテレーゼ・クリストハルトへの仕打ちであることには変わりがないのだから。
テレーゼに生きていて欲しい、と願う者はもういない。
ヴェゼルは何か話したそうだったが、それでもああなった以上彼女を無理に追おうとはしないだろう。
だからこそ、彼女は己が死んだように偽装した。
リザードマン達の死骸は朝日と共に溶け始める、そして跡形も残らないはずだ。
残されるのは、引き裂かれた鞄の残骸と汚されたドレス、破られた着替え、飛び散った日用品、そしてそれらに染み付いた持ち主のものと思われる血痕。
それを見た者は、鞄の持ち主が魔物に襲われて食い殺されたのだと思うだろう。
テレーゼ・クリストハルトは死んだのだ。
誰にも愛されず、唯一愛を向けてくれた相手にも裏切られた、不遇の少女はもういない。
「これから……君はどうする?行くあてはあるのか?」
「……いいえ、特には」
躊躇いがちに問いかけられたそれに、彼女も躊躇いがちに答えた。
そして、「ですが」と付け加える。
「行くあてはありませんが……この国にいるつもりはありません。……お恥ずかしい話ですが、私はこれまで自分の意思で何かを為したことがありません。ですからまずは自立して、そして」
「そして?」
「…………見返してやりたい」
誰を、とは言わなかった。
しかし彼は「そうか」とうなずいて、珍しい真紅の双眸を細める。
「なら、私の国に来ないか?」
「貴方の国?」
「あぁ。北方の新興国、アルファード帝国だ」
アルファード帝国とは、この国より北に位置する元々は小国連合と呼ばれていた、人種も種族すらもバラバラな人達が住む国だ。
貴族制度を廃し、種族、宗教、年齢、性別を問わない実力主義を掲げるその新興国であるなら、確かにこの国よりは住みやすそうではある。
(私の実力がどの程度のものかなんてわからない。だけど……)
アルファード帝国といえば、統治者である皇帝以下は全て身分が横並びであるというのはメリットでもあるが、裏を返せば成り上がるために他者を蹴落とすことも日常茶飯事であろうことは明白だし、皇帝の地位も世襲制ではないというのだから、地位争いは更にドロドロしていそうで考えるだけで眩暈がしそうになる。
それに、と彼女は行きがかり上助けに入ってくれた男にひたりと視線を固定する。
男は見た目ヴェゼルと同じくらいか少し上、柔らかそうなハニーブロンドに意志の強そうなルビーレッドの双眸、一見すると優男にも思えるがそうでないことはテレーゼにもわかっている。
顔立ちも、穏やかなハンサム顔のヴェゼルとは対照的に、こちらは典型的な王子様顔とでも言うべきか……理知的で線の細い美青年といった印象だ。
…………自分の身長ほどもある大振りの剣を自在に振り回す姿を見なければ、の話だが。
受ける印象がちぐはぐな男、彼は確かにテレーゼの名を呼んでいた。
ということは、彼女の記憶にはないが彼は彼女を知っているということになる。
一瞬だけ刺客かと疑ってみたものの、それなら助けに入らず放置しておけば済んだ話だ。
「……どこかでお会いしましたか?」
「いや、直接は初対面だな。ただ、噂を聞いてね」
「噂?」
「ああ。この国の王太子から」
クリストハルト侯爵には、溺愛していると評判の愛娘以外に娘がもう一人。
殆ど外に出されることのないその娘は、伝え聞くところによると魔力が非常に多く適性も高い、前の奥方と現当主の美貌を上手く引き継いだお陰で将来は恐らく美人、聡明で覚えも早い……年齢さえ合えば王族との婚姻も望めるだろうに、どうしたことか分家の家に行儀見習いとして出されて、不当な扱いを受けているらしい。
そんな話を、この国の王太子……と言ってもまだ成人もデビューも前の幼い王子から聞かされたこの男は、どんな娘かと興味を抱いたのだという。
「悪いが、君の事は少し調べさせてもらった」
「…………」
「君が抱えている事情も、全てではないが大体把握している。その上で頼みたい。私の片腕となって、力を貸してくれないだろうか?その代わり、君の待遇については出来る限り考慮しよう。無論すぐに返事をしなくても結構。ここから帝国までは相応の日数がかかる、その間に決めてくれればそれでいい」
信用できません、とはっきり言うのは簡単だ。
だが、どうせ国を出ようと思っていたところだ、ここはこの男を利用して一緒に出国させてもらった上で、改めてアルファード帝国に向かうかどうか考えてもいい。
「利用、しますよ?」
「ははっ、それはお互い様だ」
「返事は保留します。それでも?」
「勿論。すぐに返事を、と無理を言うつもりはない」
それなら、と彼女は頷いた。
「テレーゼ・クリストハルト……とはもう名乗らない方がよさそうですね」
「なら、響きが似た『テレーズ』と名乗るといい。姓は……そうだな、平民の場合は姓を名乗らない者ももいる。ひとまずは名だけで不自由はしないだろうが、どうだろう?」
「……では、そうしましょう」
「あぁ」
今決めてもどうせすぐに変わるからな、と呟かれた声は幸いなことに彼女の耳には届かなかった。