8.『追放』
「ここを出て行ってください。できるだけ、早く」
邸の執事である男にそう告げられた時、テレーゼはついに来たかと唇を噛み締めた。
「貴方も充分におわかりのはずだ。あの場で本当は何があったのかなど、我々にとってはどうでもいいことなのですよ。大事なのは、本家のお嬢様があの方を望んでおられるということ。そして、例え何もなかったのだとしても……未婚の男女が一室で一夜を明かしたこと。あの方は遅かれ早かれ、本家の婿に指名される。その時貴方がいたのでは邪魔なのですよ」
『出て行け』というのはフリード伯爵家としての言葉……つまりフリード伯爵本人からの言葉だと言い換えることもできる。
確かに、伯爵家と侯爵家の縁組みは魅力的だろうし、当然当主であればそういった縁ができた段階で、邪魔者は排除しようとするだろう。
まだ、問答無用で殺されなかっただけマシ、ということだろうか。
エリーゼの行動はテレーゼへのあてつけだと、彼女はそう思っていた。
確かに当初の目的はそうだったのだろう、だからヴェゼルに纏わりつきながらもしきりに周囲を気にしていたのだ。
だがしかし、通ってくるうちにヴェゼルのことを単なるあてつけの相手だと思えなくなってきたのかもしれない……こっそりと気づかれないように庭先を垣間見た際、テレーゼは義姉の双眸に隠しきれない熱を見つけてしまった。
キラキラとした眼差しで4歳年上の青年を見上げる彼女は、恋愛というものを未だ経験していないテレーゼでもわかるほど、恋する少女の顔をしていたから。
いずれ、出て行かなければならない日が来るだろうとは予想していた。
しかしそれは、淑女教育まで施した『政略の駒』をどこかへ嫁がせる、という本家の命令ありきのものだと思っていただけに、まさか突然「出て行け」と追い出されるなどとはさすがに想像していなかった。
(いいえ、わかってたわ。……だって、私は悪者なんですもの)
昨日の昼間、いつものようにヴェゼルの休みに合わせて邸を訪れたエリーゼは、しかし何を思ったか一人で庭を散歩したいと言い出したらしい。
「ヴェゼル様もお疲れでしょう?お茶の時間までには戻りますから、ゆっくり休んでいてくださいね」
そう言って、お付きのメイド二人だけを連れて庭に出ていったエリーゼ。
だが彼女は、なぜかその場にいなかった護衛に『お願い』して密かにテレーズを庭に呼び出していた。
ヴェゼル様のことでお話しがあります、と書かれたその手紙を無視することも当然出来たが、結局テレーズは呼び出しに応じることにした。
待ち合わせ場所に指定されたのが、彼女が毎日魔力を注いで育てている希少な花の咲く花壇の前であったことも、応じた理由のひとつである。
そうして向かった先で、悲劇は起きた…………否、起こされた。
エリーゼは勝ち誇ったようにヴェゼルとのことを語って聞かせ、そして先日口付けを交わしたことも……彼女が一方的に迫った事実を省いて、恥ずかしそうに告げた。
そして、何も言えずにいるテレーズを一瞬嘲笑うかのような表情を見せ、そして徐に花壇の方に視線を向けて一言。
「他の花壇に比べて、なんて貧相なんでしょう。まるで貴方のようだわ。……そうだ、目障りだし焼き払ってしまいましょうか?」
「や、めて……その花は滅多に咲かない貴重な」
「きゃぁっ!!」
「っ!?」
やめて、と身体を割り込ませようとしたテレーズ。
決してエリーゼに触れてなどいないのに、彼女よりも小柄なその身体は何かに突き飛ばされでもしたかのように、花壇の上に倒れこんでしまう。
悲鳴を聞いて駆けつけた使用人達、そしてヴェゼル。
彼らの前で言い訳すらさせてもらえず、挙句「わたしが悪いの!」と泣き出してしまったエリーゼの所為で、テレーゼは『エリーゼお嬢様を突き飛ばした』というありもしない罪を背負わされてしまった。
あの後、客間を見舞ったヴェゼルは翌日の朝になるまで部屋を出て来なかったという。
この執事の言う通り、何もなかったのだとしてもそんなことは関係がない。
貴族の娘として、異性と同じ部屋で一晩過ごしたというだけで醜聞となってしまうからだ。
そして彼女を溺愛する本家の当主ならどう決断するか……そんなことはわかりきっている。
嵌められたのだとか、冤罪だとか、もはやそういう次元の問題ではないのだ。
決行は早い方がいい、そしてヴェゼルがいない間がベストだ。
テレーゼは、専属の使用人の目をかいくぐって必要最低限の荷物をまとめ、一息つく。
軽く掃除をして見回した部屋には、まだ彼女がそこにいた痕跡が多々残っている。
だがそれでいい……むしろ、まだ邸の何処かにいるのではと思わせることで、ヴェゼルにこのことを知らされるまでの時間稼ぎができれば。
だからあえて、クローゼットの中のドレスは残しておいた。
ヴェゼルに買ってもらった髪留めも、似合うと褒めてもらった口紅も、いい香りだと勧めてもらった香水さえも。
何もかも置いて、身軽な旅装とデビュタントの時のドレスを一着だけ……これは彼女のためだけに仕立てられたものであったため、これだけはと持ち出してきた。
宵闇に紛れて部屋を抜け出した彼女は、いつもなら門番が立っている場所で扉にもたれて待っていた執事の姿を認めると、軽く頭を下げて傍を通り過ぎようとした。
が、「待て」との言葉に足を止める。
「これを。……せめてもの餞別だ」
この家を出るのだからもう『お預かりしているお嬢様』ではないということなのか、敬語も貼り付けた愛想笑いもなく、彼はただ無愛想に掌サイズの小袋を差し出した。
どことなくさわやかな香りのするその袋は、魔物避けとして一般でも売り出されているものだという。
彼はそれを、せめてもの餞別だと告げて差し出した。
いらない、と断るのは簡単だが……処分するなら後でもできるか、と彼女はひとまずそれを受け取って鞄の中へとつっこんだ。
テレーゼが向かったのは、北の方向だった。
このフリード伯爵領は本家の邸から見て東の方にある、なので西の方へ向かうのは避けた。
かといって東へ向かえばすぐに他の領地との境に行き当たり、関所を通らなければならなくなってしまうのでこれも却下。
南と北で迷ったが、南は魔物の出現率が高いという報告も耳にしていたため、消去法で北へ向かうことにした、というわけだ。
北は、皆無と言うほどではないが街道沿いにはそれほど魔物の出現報告がない。
雑談を交えてそういった話も聞いていた彼女は、できるだけ魔力も体力も温存しながらさてどうやって隣の国を目指そうかと考えていた、そんな矢先のこと。
「グルルルルルルルルゥ」
「…………」
よりにもよって中級冒険者が一人でやっと倒せるくらいの魔物、デモンズビーストに取り囲まれてしまったテレーゼは、慌しく防御壁を展開してどう突破するか判断を迫られていた。
デモンズビーストは大型の犬ほどの大きさで、体毛はなく、小さな顔に不釣合いなほど大きな目を銀色にギラギラと光らせて、主に夜活動する魔物である。
今は真夜中、活動時間としては確かに彼らの領分だが、デモンズビーストは群れる習性などなかったはずだ。
幸いと言うべきか魔力や魔法についての教育はある程度受けているし、部屋に軟禁されている間に湯を沸かしたり部屋掃除をしたりする程度の魔法なら覚えてしまった。
身を守るための防御魔法も使える、だが実際に攻撃魔法を実地で使ったことがないため、知識はあるがここで使ってどんな影響が出るか……正しく発動できるのかもわからない。
更に言うと、魔力を集中している間は無防備になるため、もし発動に成功したとしても一方向の魔物を倒している間に、他方向から攻撃を受ける可能性もあるのだ。
迷っている間にも、デモンズビーストの群れはじりじりと距離を縮めてくる。
しばらくは防御壁で防げても、防御したままこの場を逃げ出すことは恐らく不可能だ。
多少の犠牲は仕方ないかと、テレーゼが魔力を練り上げ始めたその隙を見逃さなかった一頭が、もらったとばかりに大きく跳躍して頭上から飛び掛ってきた。
「ギャウンッ!!」
が、何かに跳ね飛ばされたように宙を舞う個体。
そちらに意識を向ける余裕もなく魔力を練り上げ終わったテレーゼの指先から、凍てつくほど冷ややかな風が生み出され、寒さに弱いデモンズビーストの身体を包んでいく。
そして彼らが足止めされている隙をついて、ぽっかりと空いた一方向に向かって駆け出し、どうにか包囲網を抜けた。
ふぅっと息をついた彼女が振り返るより早く、至近距離まで駆け寄ってきた【誰か】の剣が宙を薙ぎ、いち早く立ち直って飛び掛ってきた一頭を斬り伏せる。
次いで、もう一頭。
躊躇いもなく横薙ぎにするその姿はさぞや場数を踏んでいるのだろうと思わせるが、剣筋に冒険者独特の荒っぽさは見られない。
どちらかと言うと訓練された騎士のような、流れるような動きにテレーゼは思わず目を奪われる、が。
「何を呆けている、テレーゼ・クリストハルト!今のうちに術を完成させろ!」
「っ!」
叱咤され、彼女は大急ぎで魔力を練り始めた。
今度は、先ほどまでよりも大きく、広範囲な魔法をイメージする。
【男】が五頭目を斬り捨てたところでようやく術が完成し、彼女は男が巻き込まれないように一歩踏み出して手を伸ばした。
「【ブリザード】」
嵐が去った後、その場に残されたのは一組の男女と……雪像と化したデモンズビーストの群れ。
まるでこの地帯だけ真冬に戻ったかのように、未だ冷ややかな空気が周囲に漂っている。
瞬間ぽかんと呆気に取られた【男】はしかし、最後のトドメとばかりに雪像をその剣で叩き斬ろうと勢い良く振り下ろした、が。
パキン、といい音をたてて雪像が粉々に割れる。
そう、それは雪像ではなく雪を纏った氷像だった。
とてつもない冷気に晒され急速冷凍された魔物の体は、力いっぱい叩かずとも軽く衝撃を与えるだけで崩れて落ちていく。
【男】はテレーゼへと視線を戻し、そして
「……助けは必要なかった、か?」
「…………いえ。どなたかは存じませんが、助かりました」
「そうか。ならいいが」
複雑そうな色をその双眸に映し、場所を変えようかと先に立って歩き出した。