7.『接近』
ファーストダンスを無事終え、さあ適当に帰ろうかとアイコンタクトしていた二人の下へ、空のお盆を携えた給仕の青年が「失礼致します」と近づいてきた。
「あちらの紳士より伝言をお預かりしております。娘のデビューを祝して一曲お相手願いたい……以上です」
来た時同様愛想笑いを顔に貼り付けたまま、給仕はすすすと音もなく去っていく。
あちらの、と視線で示された先には、見紛うことなきプラチナブロンドと黒髪の親子連れ。
つまりは、大事な大事な本家の一人娘のセカンドダンスのお相手を、分家筋であるフリード伯爵子息にさせようという、断れない命令である。
ヴェゼルはちらりとかの親子連れに視線をやってから、どうしたものやらと浮かない顔で考え込んだ。
本来なら一も二もなく受けなければならない命令だ、さもなくば実家の伯爵家がどうなるかわかったものではない。
とはいえ、今の彼はフリード伯爵令息である前に、この日がデビューであるご令嬢をエスコートしている男なのだ。
いくら義務であるファーストダンスを終えているとはいえ、エスコートを途中で放り出して他の令嬢の下へ行くなど、気が進まないどころかもし本家の命令でなければ速攻断っていただろう。
視線を向けた先……テレーゼは何処か諦めたように、ヴェゼルを見上げている。
「……行って」
「テレーゼ、だけど君を一人には」
「気にしないで。そろそろ人酔いで気分が悪くなってきたところなの、悪いけど先に帰らせていただくわね」
「…………」
先に帰る、と言っても二人は同じ馬車に乗って来ている。
勿論、連れが先に帰ったからと馬車を呼んでもらうのも可能だが、そうなるとテレーゼの社交界での評判は『エスコートしてくれた男性を放って一人で帰る我侭令嬢』もしくは『連れの男性が他の女性と踊っただけで気分を害するプライドの高い女性』というように、幸先の悪いものになってしまう。
だからといって、このまま会場に残っていてくれと頼むのも問題だ。
何しろこれからセカンドダンスの相手をするのは、テレーゼにとって最も因縁深い相手……己のいるはずだった場所を奪い去って、なおかつ父に唯一の娘として愛され守られている義姉なのだから。
あからさまにではないが、それでもヴェゼルに対し心を開いた物言いをしてくれるテレーゼに、辛い思いをさせたいわけではないし、何より先方がそれを望んでいるのが見え見えである以上、そこまでサービスしてやるつもりは彼にはなかった。
唇を噛み、至極辛そうに「わかったよ」と了承の意を示したヴェゼルに一礼し、テレーゼは静かに会場を出て行った。
彼女は一度も振り返らなかったし、彼も極力侯爵一家の顔を見ないようにしながらその場に向かったため、二人とも気づかなかったが。
クリストハルト侯爵は不快なものを見るように険しい視線で、
夫人はホッと安堵したように、
一人娘は優越感を湛えた眼差しでその背を見送っていた。
そしてその日、ヴェゼルはとうとうフリード伯爵領の本邸には戻ってこなかった。
嫌な予感がしていた。
あの場で顔を合わせた以上、きっとこのまま平穏に終わるわけがないのだと。
「まぁまぁエリーゼ様!よくいらっしゃいました」
「こんにちは。あの、ヴェゼル様は今日は……」
「申し訳ありません。あの子は今日も王城で仕事でして……気の利かない子ですみません。そうだ、帰られる前にせめて我が家自慢の庭をご覧になりませんか?」
「そうなさったらよろしいですわ。その間にバルコニーにお茶を準備させておきますから、どうぞごゆっくりなさってくださいね」
悪い予感ほど良く当たる……ヴェゼルが本邸に戻ってこなかった次の日から、時折フリード伯爵家にエリーゼが顔を出すようになったのだ。
といってもお目当てのヴェゼルは普段王城で仕事をしており、休みの日でないと実家に戻ってこられないので、大概は空振りに終わるのだが。
それでも本家で溺愛されているお嬢様が足を運んでくれる、ということで伯爵夫妻自ら接待を買って出てお茶やお菓子、食事にお土産と手を変え品を変えエリーゼをもてなしていた。
そんな日は、鉢合わせしてしまわないようにテレーゼは部屋に引きこもっており、ヴェゼルが信頼してつけてくれた使用人達も、エリーゼが帰るまではあれこれと便宜を図ってくれている。
ある日のこと。
その日は纏まった休みが取れたとかで、ヴェゼルが実家に戻ってきていたのだが……テレーゼと話をする時間もなく、彼はすぐに父親の執務室に呼び出されて行ってしまった。
しばらくして戻ってきた彼の顔は酷く疲れており、どうしたの、と尋ねる彼女に彼はどうしようかと答えになっていない言葉を返した。
「本家のエリーゼ嬢が僕目当てだと言ってここに通ってるそうだね?何が目的なのかは大体わかるけど、僕にその気はないんだけどな……でも父は、本家のお嬢様なんだから失礼のないようにって。今度から無駄足にならないように休みをきちんと連絡して、お前が接待しなさいって命令されたよ」
「そう……やっぱり」
それは確かにそうなるだろう。
フリード伯爵家の立場からすれば、クリストハルト侯爵家のご令嬢をないがしろにすることなどできるはずもない。
家としての立場を除いたとしても、本家で溺愛されているお嬢様が令息を気に入ったとなれば当然縁組みを夢見るだろうし、そこから得られる利益を考えても悪い話ではないのだから。
溺愛されていない方の娘を構うより、余程有意義だと信じて疑ってはいないだろう。
「まぁすぐ飽きると思うけどね。だって彼女の目的は君なんだから」
そう告げたヴェゼルは、結局親の命令に逆らいきれず休みごとにエリーゼを接待することになった。
テレーゼは勿論その間は部屋に引きこもり、代わりに使用人達が状況を教えてくれたりする日々が続いた。
「エリーゼ様の方が積極的にヴェゼル様に纏わり……コホン、お傍で話しかけておられるご様子ですわ。ヴェゼル様はそれを静かにお聞きになっておられるだけのようですわね。ただ……時折何が気になるのか、エリーゼ様が周囲を見回すことがありますの。監視されていることが不快なのかとも思いましたが、それに気づいた様子もないので皆困惑しております」
使用人が語る『エリーゼの不審な行動』に、テレーゼは心当たりがあった。
それこそ、ヴェゼルの言う「彼女の目的は君なんだ」の証である。
エリーゼがヴェゼルに付きまとい始めたのは、あのデビュタントパーティの日から。
あの日、ヴェゼルは侯爵の命令でエリーゼに悪い虫がつかないようにとラストダンスまで相手させられた挙句、つき合わせてしまったお詫びだと称して王都の侯爵家別邸へと招かれ、結局エリーゼが「もう休みます」と言うまで話し相手をさせられてしまったのだという。
とはいえ別段話が盛り上がったわけでもなく、エリーゼの語る両親自慢を延々と聞かされたり、淑女教育の辛さについて愚痴を聞かされたりと、ヴェゼルは殆ど相槌を打っていただけだったそうだ。
自分の話ばかりでヴェゼルについて何も聞きたがらなかったエリーゼが、彼個人に興味を持ったとは考えにくい。
こうして付きまとっているのは、恐らくあの日エスコートされていたテレーゼへのあてつけに他ならないだろう、というのがヴェゼルとテレーゼの共通認識である。
だから、テレーゼが姿を見せなければそのうち飽きて帰るだろう、そう思っていた。
しかし
「ヴェゼル様、ねぇヴェゼル様」
「なん、っ!?」
「ふふっ。はしたない子だなんて思わないでくださいね?だってヴェゼル様ったら、全然手を出してくださらないんだもの。……でもこれで、わたしの気持ちはわかってもらえましたよね?」
顔を向けた瞬間、不意打ちのキス。
立っていたならともかく、ベンチで横に座っていた状態からでは避けようにも避けられず、唇に一瞬だけあたった柔らかい感触に、ヴェゼルは不覚にも赤面してしまった。
これが彼女の初めてなのかどうかまでは彼にもわからない、だが少なくとも監視された場において堂々とキスを捧げるほどには、彼女の気持ちは本気であるらしい。
てっきりテレーゼへのあてつけだとばかり思っていた彼は、この不意打ちに呆然とした。
それとも、あてつけに何とも思っていない相手にキスできるほど、彼女のテレーゼに対する憎しみが強いのか……いずれにしても、『なにもありませんでした』と言い訳できる状況ではない。
「ヴェゼル様、わたし……ヴェゼル様のこと、本気です。そりゃ、最初はいいなって思った程度でしたけど、でもヴェゼル様は優しくて、かっこよくて、誠実で、わたしの理想通りなんですもの」
「それは……どうも」
「だからね、わたしお父様に思い切ってお願いしてみようと思うんです。ヴェゼル様をお婿さんにしてください、って。きゃっ、言っちゃった……恥ずかしい!」
頬を両手で包んで恥ずかしそうに身悶えるエリーゼは、テレーゼという愛する存在がいる彼の目から見ても文句なしに可愛らしい。
だがテレーゼよりも半年年長である彼女は、母親が童顔が多いという東方の出身だからなのか、年齢よりも幼く見える。
断らなくては、と彼は危機感を覚えた。
彼女が本気だというのならなおのこと、ここではっきりと意思を示しておかなければなし崩しに婚約、結婚ということにもなりかねない。
彼が愛するのは唯一、テレーゼだけ。
そのテレーゼと結ばれる可能性はかなり低いが、それでもあてつけのように彼に接近してきたエリーゼと、流されるがままに関係を深めたくはなかった。
「僕は……他に好きな人が」
「いやっ、聞きたくない!」
「だけど」
「言わないで!お願いだから!わたし、聞きたくないの!」
「…………」
彼女の言葉に応えるかのように、黙って後をついてきていた本家の護衛やメイド達が、ヴェゼルを睨むように一斉に険しい視線を向けてくる。
それはつまり『本家の娘に逆らうな』という、無言の圧力であるのだろう。
彼に、逃れる術はなかった。
ただこの時は、受け入れるでも拒絶するでもなく曖昧に誤魔化したけれど。
いずれ囚われてしまうだろうことは、彼にもわかっていた。