5.『葛藤』
貴族の社交界デビューは、大体が15歳と決まっている。
病弱であったり留学していたりと何かしらの理由があれば別だが、そうでないなら通常は15歳の誕生日を迎えた後、最初に王城で開かれるデビュタントパーティに参加して正式に貴族の仲間入りをアピールするのだ。
デビューするのが令息であれば白を基調としたタキシード、令嬢であれば同じく白を基調としたドレスと決まっているが、エスコートするもしくはされる者の服装はこの限りではない。
言い換えれば、デビュタントパーティにおいて白以外の色を纏っている者は、その年のデビューではないということになる。
テレーゼが15歳の誕生日を迎えるまで、あと2ヶ月。
そして王城でのデビュタントパーティが開催されるのが、タイミングのいいことにその1ヵ月後。
つまり、彼女がこのフリード伯爵家で安寧としていられるのもあと3ヶ月ということだ。
「その日は僕がエスコートするからね。大丈夫、ファーストダンスさえ踊ってしまえば、後は適当にしててもいいはずだから。必要な挨拶回りが終わったらすぐ帰ってこよう」
「あの、ヴェゼル」
「うん?」
その日は恐らく、クリストハルトの令嬢として紹介されることになる。
とはいえバカ正直に本家の前妻の娘ですという紹介はされないはずだ、恐らくこのフリード伯爵家に来る以前にデミオンが言っていたように、分家筋の娘を本家に迎えたという言い訳を用意してあるだろう。
勿論クリストハルトの醜聞について知っている者は多いだろうし、どんな言い訳をしても結局は建前でしかないわけだが。
行きたくない、とは言えない。
ヴェゼルが「決まった」とはっきり宣言したということは、これはもう決定事項なのだ。
それは即ち、クリストハルト侯爵家の意向ということを意味する。
なら、それに逆らえばこのフリード伯爵家もただではすまない。
「…………逃げたい?」
「……えっ?」
「そんな顔してる。怖い、今すぐ逃げたい、って」
そんなにあからさまに顔に出ていただろうか。
困ったように俯いたテレーゼを見下ろして、ヴェゼルはもう殆ど癖になってしまった苦笑を漏らした。
「本当にね……君がここへ来た当初に比べたら、随分表情が豊かになった。そんな君が嫌がることを勧めるのは僕にとっても辛いんだ……君が望むなら、一緒にどこか知らない土地に攫って逃げてあげたいけど」
「ヴェゼル、それは」
「うん……僕が伯爵家の息子である限り、それは無理だね。僕が勝手にやったことでも、きっと本家はこの家を潰してしまうだろうから」
僕は卑怯だね、と彼は自嘲する。
テレーゼの気持ちに寄り添いながらも、家のことがあるからそれに応えてあげられないと言う。
それは確かに、聡いテレーゼがパーティに参加せざるを得ないように追い込んでいる、という風にもとれる。
だけど
「…………最後までちゃんとエスコートしててね?」
これが最後なのだと、そう認めたテレーゼのお願いに
ヴェゼルは切なそうな眼差しを向けながら、わかったよと頷いた。
来るなと願う日ほど早く訪れるのはどうしてだろう。
デビュー当日、テレーゼは馬車で王都に来ていた。
王都にあるフリード伯爵家の邸に入り、ドレスを着て準備を済ませる。
そしてエントランスに現れた彼女を見て、こちらも準備万端なヴェゼルは言葉を失った。
クリストハルト家の血を濃く継いだことを示すプラチナブロンドは、緩く巻いて背に流し。
極力露出を避けた白のドレスは、陶磁のような肌の白さやきめ細かさを引き立てていて。
コーラルピンクに染められた唇は食らいつきたくなるほど魅力的で、だがサファイアブルーの双眸は凛として冒しがたい雰囲気を醸し出している。
これでまだ、15歳……しかし一度デビューを済ませてしまえば、どこへなりとも嫁げる年齢である。
もし、テレーゼがドレスと宝飾品にしか興味を持たないような、ごくごく普通の甘やかされて育った貴族令嬢だったなら。
本家の当主が張り切って嫁ぎ先を探すような、領地発展と私腹を肥やす踏み台にと考えるような、そんな聡明さと賢さを併せ持ったりしなければ。
適当に分家のどこかに押し付けてしまえばいい、そう思われるだけの存在だったのなら、ならば己が貰い受けたいと名乗りを上げられたのに。
彼は次男だ、いずれフリード伯爵家が持つ下位の爵位をいただいて、分家のそのまた分家としてひっそりと穏やかに暮らすことになるだろう。
その時、テレーゼが一緒に居てくれるなら彼にとって何よりの至福となるだろうに。
……いや、そもそも聡明さと賢さを持ち合わせないただ綺麗なだけの少女であったなら、そもそもヴェゼルは彼女に心惹かれてなどいなかっただろうが。
いつもと違って高位貴族のご令嬢らしいその姿を見て、すっかり魅入られてしまったヴェゼル。
そんな彼を心配そうに見つめる深い青の瞳の中にも、見間違うはずもない彼と同じ想いが宿っている。
「ヴェゼル?」
「……あ、あぁ……」
彼はすっかり囚われていた。
家のことなどどうでもいい、このまま手を取って遠くへ逃げてしまいたい。
囲い込みたい、手放したくない、誰かに盗られてしまうなんて嫌だ。
このままパーティに行かせてしまえば、きっと遠くない将来本家から嫁ぎ先が決まったのだと連絡が来る。
そしてそのまま、彼女は彼の手の届かないところへ行ってしまう。
そんなのは嫌だ、だけど伯爵家の次男である自分では彼女の相手にはきっと相応しくない。
なら…………奪ってしまおうか?
このまま閉じ込めて……いや、それならいっそパーティで大々的に顔を売った後で、食らいつくしてしまおうか?
既成事実ができてしまえば、いくらクリストハルト家といえどこの娘を利用しようと思うこともなくなるはずだ。
フリード伯爵家は睨まれるだろうが、パーティで『クリストハルトの娘』だと名を売った後であるなら、そう悪い扱いもできなくなるだろう。
『最後まで、ちゃんとエスコートしててね?』
だけど。
彼女のあの儚げな微笑が、脳裏にこびりついて離れない。
自分がどんな扱いを受けるのか、わかっていると諦めた表情のテレーゼに「わかったよ」と優しい兄の仮面を被ることを承知したのは、彼の方。
ならば、その信頼に最後まできちんと応えてやることこそ、ヴェゼルに課せられた使命だ。
「……あまりに大人っぽくて、見蕩れてしまったよ。さあ、それじゃ行こうか。お手をどうぞ、お嬢様」
無理やりその明け透けな欲望を抑え込んで、彼は優しく微笑んだ。
王城には既にいくつもの馬車が停められていた。
普段の夜会などとは違い、王都内に別邸を持たない貴族も参加対象になっているためか、こうして広い敷地内に馬車を停めて主を待っていられるようにと、配慮されているようだ。
会場の入り口で停まった馬車からまずはヴェゼルが先に降り、それから馬車の中へと手を差し出す。
ドレスの裾をつまみながらテレーゼが静かに馬車から降りてくると、ヴェゼルはあらかじめ用意してあった参加許可証を衛兵に見せ、「どうぞ、お通りください」と許可が出たところで彼女の手を引きながら、会場の中へと足を進めた。
「……すごい……」
「うん。王城で行われる数あるパーティの中でも、このデビュタントパーティはダントツに豪華だよ。僕も何度かパーティや夜会に参加してるけど、ここまで豪華なのは二度目だね」
「それもあるけど……人が大勢で、なんだか酔いそう」
「ああ、うんそうだね……確かに、デビューする子達だけじゃなくてそのパートナーや保護者の方々まで集まってるわけだから。でも大丈夫、デビュタントの時はファーストダンスだけこなせば帰ってもいいはずだよ」
パーティと言っても儀式のようなものだ、とにかく社交界の仲間入りをしますよという意味で顔を出し、パートナーとダンスを一曲踊れたなら無事社交界の一員として認められた、という意味になる。
とはいえ、保護者同伴で来ている場合はその殆どが将来のお相手探しを目的としているため、ファーストダンス後も残ってせっせと挨拶回りをこなすというパターンが多いようだ。
テレーゼの場合は付き添いはヴェゼルだけだ、故にこの条件には当てはまらない。
ヴェゼルが残ると言うなら残らなければならないが、彼が帰ってもいいと言うなら面倒な挨拶や顔つなぎなどせずに、さっさと帰途につくことも可能だろう。
パーティは国王の開会宣言によって始まる。
それまでは食事をつまむもよし、知人と歓談するもよし、一足早く挨拶回りをするもよし、不適切な行動さえしなければ何をしてても自由だ。
食事をする気分にもならなかったので、テレーゼはただぼんやりと会場内を見回すだけにとどめていたのだが。
ふとその視線が、一方向で止まった。
身体が、そして心が、凍りついたように動きを止める。
黒のタキシードに身を包んだ背の高い男性、アッシュブロンドのその髪色の隣に寄り添うようにして立つのは、柔らかな黒髪の女性。
そして男性の胸くらいまでしか身長のない、小柄な少女は黒の巻き毛を大胆なまでに開いた綺麗な背中に流し、遠目でもわかるほど大きなネックレスはアクアブルーに輝いている。
まさか、そんなはずはない……だけど。
視線を外そうとしても外せない、呆然としたままの彼女の視線に気づいたわけではないだろうが、ふと黒髪の少女がテレーゼの姿を捉えた……ような気がした。
すぐにその視線は外されてしまったけれど、だがこれではっきりとわかってしまった。
自分より半年も早く生まれ、本当なら前のパーティでお披露目されているはずの異母姉エリーゼ。
デザインは違えどテレーゼと同じ純白のドレスを身につけた彼女が、両親とともにそこにいた。