4.『平穏』
妹が欲しかったんだ、というヴェゼルの言葉通り、彼はかいがいしくテレーゼの面倒を見始めた。
彼の両親である伯爵夫妻は本家の厄介者という面倒なお荷物を預かったことで、邪険にもできないが友好的にもできないという顔で遠巻きにしているし、邸の使用人達もヴェゼル直属の者以外は皆やはり遠巻きに様子を伺うだけ。
彼の年の離れた兄は現在王城で勤務しているらしく、滅多に領地には戻ってこないらしい。
そんな腫れ物に触るような扱いには、彼女も慣れていた。
まだ虐待されないだけマシ、と喜べるほどだ。
そんな中、ヴェゼルとその直属の使用人数人だけは、テレーゼに優しかった。
ヴェゼルは15歳、現在は高等教育として剣術や魔法、その他政治的なことなどを家庭教師について学んでいることもあり、その時間帯は使用人がテレーゼの面倒を見るというスタンスである。
最初の頃は彼女も距離感に戸惑った。
何しろ彼女は、伯爵が逆らいたくても逆らえない本家……侯爵家からの【預かり物】なのだ。
だからこそ、伯爵子息であるヴェゼルが貧乏くじを引かされてしまったのではないのか?
そんな彼の直属の使用人達が、嫌々ながらに世話を焼かされているのではないか?
屈託なく笑うヴェゼルのことを信じたいと思う反面、どうしても信じきれない思いが渦巻いて素直にその手を取れずに、俯いて黙り込んでしまう。
「ねぇ、テレーゼ。部屋にばかり引きこもってないで、たまには外を歩かないか?」
「外?……でも、私……」
「いいからいいから。ほら、行こう」
戸惑う彼女の手を引いて、彼はまず中庭に出た。
自然豊かな領地内において引けをとらないと言われるほど多彩な植物を植えた庭は、一日二日で回りきれるような広さではなく。
さらにこれまで殆ど引きこもらざるを得なかったテレーゼの体力のこともあり、毎日少しずつ庭を案内して回る、という時間が作られた。
どうしてもヴェゼルが忙しい時は、傍付きのメイドに案内されて。
「今日は休まず東屋まで来られましたわね。こちらへこられた当初に比べたら随分と顔色も良くなっておられるようですし……明日はあちらの薬草園まで行ってみましょうか?」
「……えぇ。疲れてなければ」
「そうですね。体調と相談してから、ですわね」
テレーゼよりも10は年上に見える赤毛のメイド、彼女もヴェゼルに命じられたからテレーゼの面倒を見ているだけに過ぎないのに、それでも『命令』に渋々従うという様子は微塵も見せず、いつも明るく陽だまりのような笑顔を向けてくれる。
その笑顔が、テレーゼにはどうしようもなく眩しかった。
何しろ物心ついてからこれまで好意的な感情を向けられたことが全くなかったのだ、他人とはそういうものなのだと割り切ろうとしていたところに、人の温かさを教えられて戸惑うことしかできずにいる。
そんな彼女の気持ちを考慮しながらではあるが、ゆっくりとだが確実に栄養状態改善計画も進められることとなった。
外に出ることが決まった段階で突然栄養豊富な食事を並べられた彼女は、当然の如くそれらを拒絶した。
食べたくないのではなく食べられない……そんな状態であることを思い遣りもしなかった本家の使用人達には白い目で見られたが、この伯爵家のヴェゼル直属のメイド達は心得たとばかりに豪華な食事を下げ、そして改めて軽い食事を出してくれた。
「思い至らず申し訳ありませんでした。……そんなにお痩せでおられるのですもの、一度に食べれば体調を崩してしまいますわ。ですからまずは、このくらいから始めてみてはいかがでしょう?」
どうぞ、と並べられたのは先ほどの食事の中にあったスープを小さめのボウルに移し変えたものと、ふっくら柔らかそうなパン。
少しずつ、ゆっくりでいいですよと促され、テレーゼは小さくちぎったパンを口へと入れた。
「…………柔らかい……このパンは、スープに浸さなくても噛めるのね」
「…………」
ある者は目頭を押さえ、ある者は視線をそむけた。
美味しいものなど食べなれているはずの侯爵令嬢のこの発言は、彼女がこれまで『柔らかいパン』を食べたことがないのだと……彼女がどうしてここまでギスギスに痩せているのかを、彼らに雄弁に教えてくれたからだ。
スープとパンが完食できるようになった頃、そこに絞りたてのフレッシュジュースが加わり、やがてデザートが増え、メインとなる料理もまずは少量から。
そうやって徐々に徐々に量を増やしていきながら、日課となった散歩を重ねていくことで体力づくりをして、彼女は少しずつ痩せぎすの子供から女性らしい緩やかな曲線を描く体型へと変化していった。
「今日は敷地の外に出てみようか?」
庭歩きにも大分慣れた頃になって、彼はそう言ってテレーゼを邸の外へと誘った。
街歩きなどしたことがなかった彼女は興味津々といった様子で瞳を輝かせ、ヴェゼルはそんな彼女を優しくエスコートしながら治安のいい貴族街をゆっくり見て歩く。
時にカフェに寄って休憩したり、テレーゼに似合いそうだとアクセサリを買い求めたり、そうやって彼は彼女の狭い世界をどんどんと広げていってくれた。
「ヴェゼル、ねぇ……そう毎回何か買ってくれなくてもいいのよ?街を見て歩くだけでも、充分楽しいのだし」
「うーん、テレーゼはそれでいいかもしれないけど。これはほら、視察も兼ねてるんだ。街の人達への挨拶という意味合いもあるし、店に入るのは『領主の息子が見て回ってる』っていうことで、悪いことができないようにという牽制もあるからね」
「それはわかるけど……」
彼がエスコートしてくれる店はどこも品があり、雰囲気も落ち着いていて決して悪くないところばかりだ。
とはいえ商売が絡むとライバル店との諍いがあったり、時には後ろ暗いことに手を染めたりする者もいないわけではないため、彼はできるだけ多くの店に顔を出しては『ちゃんと見回ってるぞ』と牽制して歩いている。
そのことはテレーゼにもわかるし、彼女が居ない時は他の雑然とした雰囲気の店にも顔を出しているだろうことも想像はつく、のだが。
だからといって、毎度毎度外出するたびにお土産と称して視察した店の商品を買い与えられては、さすがに物申したくもなってしまう。
しかし彼は、領地の経済に貢献するのも仕事だからと笑って、彼女の不満を受け入れることはなかった。
あれから三年。
その頃にはテレーゼも今の生活にようやく慣れて、ヴェゼルや彼の信頼する使用人達ともどうにか上手くやれるようになってきた。
そんなある日、彼はいつものように手を取って庭歩きをしながらぽつりとこう呟いた。
「もうすぐ、僕も成人する。そうなれば就職だってしなきゃいけないし、この家を長く空けることになる。こういう時間を取るのも、難しくなるだろうね」
この国での成人年齢は18歳だ、ヴェゼルはテレーゼよりも5歳年上なのだから確かにこの年彼は成人を迎える。
高等教育を受けるのに年齢制限はないが、通常の貴族子息であれば大体成人年齢までに必要なことを学び終え、それから王城なり高位の貴族の家なりに働きに出ることになるのだ。
年の離れた彼の兄は騎士として主に仕えているが、気の優しいヴェゼルは文官として務めたいと思っているようで、もし採用試験に受かれば彼もまた兄と同じように王城で働くことになる。
テレーゼを誰よりも気にかけ、守ろうとしてくれたヴェゼルが傍からいなくなってしまう……そう考えると、テレーゼの胸がちくりと痛む。
いつの間にか、彼の存在にすっかり依存してしまった自分に気づき、彼女は顔を伏せて表情を探られないようにして、「そうね、でも仕方ないわ」と返した。
少しだけ声が上ずってしまったが、幸いヴェゼルは気づかなかったようだ。
「仕方ない、か……寂しいとは言ってくれないの?」
「……え?」
思わず、といったようにテレーゼが顔を上げると、悪戯っぽく微笑んだスカイブルーの双眸とかちあった。
「テレーゼとこうして出かけられなくなるなんて、僕は寂しいよ。本当なら連れて行きたいほどだけど、さすがにデビューもまだのご令嬢を同伴するわけには、ね」
「え、あの、私」
「わかってるよ、君が感情表現を苦手にしてるってことくらい。……大丈夫、寂しいけどちゃんとやるから。休暇には戻ってくるから、その時は僕の相手もして欲しいな。そのくらいの予約はさせてくれるね?」
勿論、と頷いた彼女を彼はそっと抱き寄せた……が、周囲の目を気にしてかすぐに離し、ふわりと波打つプラチナブロンドを撫でるだけにとどめた。
フリード伯爵家令息ヴェゼル・フリードの成人の儀が無事終了し、彼は採用試験を受けるため王都へと旅立った。
その1ヵ月後、採用の通知が届けられたことで彼は名残惜しそうにしながらも荷物をまとめ、直属の使用人達にくれぐれもテレーゼをよろしくと言い含めてから、王城へと向かって行った。
ヴェゼルが傍にいなくなってしばらく、塞ぎこんでいても仕方がないからといつものように庭を散歩していたテレーゼは、これまで自分に関わってこようとはしなかった当主……フリード伯爵に呼び止められた。
どうやら本家であるクリストハルト侯爵家から、そろそろテレーゼに淑女教育を施せと命じられたらしく、明日から教師を寄越すので勝手に部屋から出ないように、ということらしい。
ああそうか、と彼女は幼い頃に学んだ貴族社会について思い出していた。
6歳から初等教育を受け始め、男子は成人年齢の18歳までに高等教育を終了させて、成人と同時に働き口を探すことになる。
対して女子は15歳で社交界デビューを果たし、そこから正式に婚姻の申し込みを受け始めることになり、大体遅くとも20歳までには嫁いでいくのが常識とされている。
つまりあと二年でデビューの年齢を迎えるテレーゼにも淑女教育を施し、デビューした時点でさっさとどこかメリットのありそうな貴族の家に嫁がせてしまえ、と父はそう考えているということだ。
元々予想できていたため、ついに来たかとそう思っただけだった。
ただひとつ……ヴェゼルと過ごせるこの優しい時間のリミットもあと二年だと思うと、ぎゅうっと胸が締め付けられてしまうというだけで。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、ヴェゼルは約束どおり休暇ごとに帰ってきてくれた。
そして、慣れた仕草で彼女を外に誘ってくる。
以前と違うのは、今度はテレーゼが淑女教育などで忙しくしており、中々彼との時間がとりにくいということ、そして時折ヴェゼルが切なそうな眼差しで彼女を見つめることが増えたこと、それくらいだ。
基本、テレーゼは覚えが悪くないため淑女教育もあっという間に終わってしまった。
元々侯爵家にいる時に祖母の厳しい躾によりほぼ完璧な淑女マナーを学んでいたこともあり、そこに貴族の妻としての心得や身の振り方、社交スキルやもてなし方などを加えただけなのだから、彼女にとっては覚えていることの延長線上というだけに過ぎなかったからだ。
それでもまだ足りないとばかりに高度なダンスや刺繍などの授業を追加されたことで、彼女の二年間は忙しないままに突然終わりを迎えることとなる。
「……テレーゼ、君のデビューの日が決まったよ」
ヴェゼルからのこの言葉が、彼女にはまるで死神からの余命宣告のように聞こえた。