3.『交渉』
「ダメだ、認められない。待遇に関しては専属の使用人を雇って、お前に服従するように命じよう。待遇が改善されれば、文句ないはずだ」
「いいえ。例え最初は改善されたとしても、やはり使用人同士のネットワークというものがありますし、もし繋がりを断ったところで『当主にどう扱われているか』を察したら、また同じことになるでしょうから」
「…………」
「ですから、私を絶縁して家から出してください。この髪の色が問題なら染めますし、目の色なら眼鏡をかけます。……幸い私は殆ど外部の方にお会いしていませんから、最初から娘は一人だったことにしてもらえればいいでしょう?いずれそうするつもりだったのなら、それが早まっただけだと思っていただければ済む話です」
愛して欲しい、とは決して乞わない。
エリーゼと同じように【娘】として扱って欲しい、とも言わない。
彼女が願うのはただ、『外に出たい』『家と縁を切って欲しい』そして『生きたい』という本当に最低限の望みだけだ。
まもなく10歳になろうとしている【娘】の初めての懇願、その内容にデミオンは絶句した。
確かに愛する妻と愛娘を家に迎えてからは、前妻の子であるテレーゼを放っておきすぎたという自覚はある。
それどころか妻や娘から遠ざけるために邸の隅に軟禁までして、使用人達が実際どう接しているのかも確認せずにいた。
親……否、保護者としての責任怠慢だと言われても仕方がないとも思う。
だがしかし、この娘に対して真っ先に抱いた感情は紛れもない『恐怖』だった。
彼も子供の頃は、このクリストハルト侯爵家の跡継ぎとして厳しい教育を受けさせられてきた。
組まれた教育計画だけを見るなら、テレーゼとほぼ変わらないだろう。
とはいえ、まだ10歳の頃といえば遊びたい盛りだ……実際エリーゼも同様の教育を施してはいるが、長時間授業に集中できずすぐに飽きてしまうのだと、そういう報告も受けている。
なのにこの娘は、彼の幼い頃とも、ほぼ同年の義姉とも違う。
確かに彼は義務感だけで娶った妻との間に生まれた子に、わざと恋人との間に生まれた子「エリーゼ」と響きが似た名前……「テレーゼ」とつけた。
これは将来的に、クリストハルトの嫡子は「エリーゼ」なのだと示すために、そしてわずか9歳の娘に見抜かれた通り『テレーゼではなく元々エリーゼ一人しかいなかった。聞き間違いだろう』と主張しても通るように、と考えたのは事実だ。
まさか真正面から当人に指摘されるとは思ってもいなかったが。
これが、クリストハルトの血を濃く継ぐということなのか……呆然とそんなことを思う傍ら、これは中々使えそうな駒だと喜ぶ自分も否定できない。
これだけ賢しいのだ、ただ縁を繋ぐためだけに嫁がせることを考えるよりも、今よりもっと成り上がるためにより上質の相手と縁組ませることだって可能なはずだ。
そのためなら、愛情はなくとも名目上【娘】として面倒をみてやることも吝かではない、のだが。
待てよ、と彼はそこで思考を巻き戻した。
そもそもどうしてテレーゼがこうして直訴しに来ているのか、その発端は彼女を邸の隅へと追いやったことで使用人達にも侮られ、虐待のような扱いを受け……挙句殺されかけたことにある。
そしてどうして邸の隅へと追いやったのかと考えたところで、彼は壁に行き当たってしまった。
テレーゼが使える駒だとわかり、ならば世話をしてやろうかと考えたまでは良かったが、もし彼女を以前のように邸の中央にある部屋に戻し、娘としての扱いをしてやったとしたら……そうしたらまた、妻やエリーゼが気に病んでしまう。
かといってこのまま邸の隅に追いやったままでは、彼女も訴える通りいくら使用人を変えても結局同じ扱いに戻ってしまう、ということにもなりかねない。
じゃあどうすればいいのか、何を優先すべきなのか。
よくよく考えた彼は、ようやく顔を上げてボロボロの格好をした娘を見返した。
「わかった。お前をこの家から出そう」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、縁は切らない。分家筋の娘という名目にして、いずれこちらに戻ってもらうことになるが……社交界デビューまでは、適当な分家に行儀見習いという名目で預けることにする」
「…………」
喜んだらいいのか、残念がったらいいのか、どうしたいいのかわからないといった途方にくれた表情のテレーゼを見下ろし、彼はもう一言。
「まずはそのみすぼらしい格好を整えて、怪我も治さねばな。信頼の置ける使用人と口の堅い専属医師を用意してやる、受け入れ先が決まるまでの間に準備を整えさせるからそのつもりでいなさい」
分家筋、といっても彼には絶対に避けねばならない行き先がある。
それは、絶縁を言い渡して去っていった前妻の実家、ならびにその家と繋がりのある分家全てだ。
数多くある分家筋からまずは前妻の実家と繋がった家を除き、そしてできるだけ本家に逆らえない何か弱みを持つ家を探す。
いずれ政略の駒として使うのだ、押し付けられた厄介者を虐待しないで適度に構ってやれる家の方が望ましいに決まっている。
ひとまず、テレーゼの出身だということにする分家はすぐに見つかった。
既に成人した跡取りがおり、しかしさほど家族仲がいいというわけでもないごくごく普通の下級貴族の家、という条件で絞り込んだ上で話を持ちかけ、わずかばかりの領地と資金援助と引き換えに、名前を貸すことを約束させたのだ。
とはいえ引き取り先はなかなか見つからず、試行錯誤すること7日……ようやく見つけた分家筋に連絡をして申し入れをすれば、すぐさま肯定の答えが返された。
それもそのはず、申し入れた先はこの本家から領地経営の資金を貸し出していることもあり、決して逆らうことなどできない家なのだ。
しかも地位だけは伯爵位にあるため、侯爵家の娘を行儀見習いとして出すにもそう悪いわけではない。
彼は、念のためにと妻と娘が買い物に出かけたその隙をついて邸の隅の部屋へと出向き、そしてまたしてもポカンと間抜け面でしばし固まった。
「御用と伺いましたが。……閣下?」
「あ、あぁ……」
丁寧に手入れされたのだろう、髪は元通り……否、それ以上につやつやのサラサラ。
さすがにつけられた痣は完治することこそなかったようだが、それでもある程度は薄くなってきているように見えるし、肌も年相応の滑らかさを取り戻している。
子供であるからか怪我の治りも早かったのだろう、だらんとぶら下がっていた腕も引きずるように歩いていた足も、見た目問題なく治っているようだ。
家を出すとはいえある程度荷物を運び込む必要があるため、買い揃えさせたドレスや普段着などのお陰もあって、棒切れのように細い身体も充分カバーされているし、食事も三食きちんと摂ったのか血色も悪くはない。
なんだ、磨けばマシになるじゃないか。
そう言ってやるつもりで足を運んだというのに、マシどころかかなり上質の部類だったとわかった彼は、纏まらない思考をどうにか落ち着かせてから、受け入れ先が決まったのだと本題を切り出した。
「このクリストハルト領の東方を任せているフリード伯爵家に、お前のことを頼んでおいた。荷物は纏まっているな?なら馬車を出してやるから、すぐに向かいなさい。今から向かえば、夜までには着くはずだ」
「…………はい」
これまでお世話になりました、とは彼女は言わなかった。
お元気で、などという空々しい社交辞令すら口にせず。
ただ、ぺこりと頭を軽く下げただけで、すぐに手荷物を取りに部屋の中へ戻っていってしまった。
そうして向かった、東方の伯爵領。
途中魔物に出くわすでもなく、夜盗に襲われるでもなく辿り着いたその地で彼女を待ち受けていたのは、柔らかな黒髪にスカイブルーの双眸、整った顔立ちに優しそうな笑みを浮かべた少年。
彼は幼子を下ろすなり一礼してさっさと戻っていってしまった本家の馬車を苦笑しつつ見送り、「ごめんね」と第一声は謝罪の言葉を紡いだ。
「本当ならうちの両親が出迎えるべきなんだろうけど……二人とも忙しくてね」
「いいえ、どうかお気になさらず。厄介事を引き受けていただいただけでも、きっと大変なのだと思いますから」
「へぇ……賢いとは聞いてたけど、まさかここまでとはね。まぁそのくらいはっきり物を言える方が、僕は好きだけど」
テレーゼより5歳か6歳ほど年長に見えるその少年は、ヴェゼルと名乗った。
「ヴェゼル・フリード。フリード伯爵家の次男で、上に年の離れた兄がいる。今年15歳になるから、君とはえーっと」
「5歳違いです、ヴェゼル様」
「呼び捨てでいいよ。僕も遠慮なくテレーゼと呼ばせてもらうから」
妹が欲しかったんだよね。
そう言って屈託なく笑うヴェゼルに、テレーゼも少しだけ表情を緩めた。
これが、彼女の最初のターニングポイント……運命の分岐点であったことを知るのは、まだずっと先の話だ。