3.『差別』
お待たせしました。改稿が終わりましたので、更新を再開します。
「泥棒ぉっ!」
ふと通りかかった町の方からそんな物騒な声が聞こえ、カーマインは手綱を引いた。
心得たとばかりにお行儀良く歩みを止めるアイーダからひらりと飛び降り、しかし駆け出すのを少し躊躇っている様子の彼に、テレーズがどうしたんだろうと首を傾げたその時
びゅん、と一陣の突風が吹いた。
否、誰かが凄まじい勢いで駆け抜けて、通りに倒れこんだ老婆の傍に膝をついた。
遠くて顔までは良く見えないが、着ている服は軍の下級兵のもので恐らく間違いない。
明るい茶色の髪はふわふわと柔らかそうで、その頭の上に……ピンと立った犬の耳のようなものが見える……ような気がする。
見間違いかしら、と何度か瞬いてみても犬耳らしきモノは消えることなく、更にその背のあたりでわさわさと忙しなく動いているのが立派な尻尾だとわかると、彼女はそれを認めるしかなかった。
(彼は獣人、よね?……でも獣人族は人と関わることを嫌う、と本に書いてあったわ)
獣人族は魔力こそ持たないが身体能力に優れ、何より仲間を大事にする種族である。
しかし外見が獣寄りであることから昔から迫害されたり、軽視されたり、愛玩動物のように飼われたり、奴隷としてこき使われたりすることもあったそうで、それを嫌って彼らは人族から離れた場所で独自のコミュニティを形成して生活している。
ここアルファード帝国にも彼らのコミュニティは存在しており、そこには基本異種族は立ち入り禁止とされている、のだが。
稀に今の彼のようにコミュニティから出た獣人族もいるらしい、とテレーズの読んだ本には書いてあった。
それは何も本人の意思とは限らず、親に育児放棄された子供や、運悪く獣人族マニアに目をつけられて攫われた被害者など、大きなトラウマを抱えている者も少なくない。
とはいえ、見ている限りでは下級兵の格好をしている青年は人を嫌っている様子もないし、深刻なトラウマを抱えているようにも見えないが。
「婆ちゃん、大丈夫!?」
「あ、あぁ……でもあたしの今日の売り上げが……旦那の形見のバッグが」
「旦那さんの形見のバッグだね?わかった、オレが取り返してくる!」
青年は勢いよく顔を上げ、何かを探るように顔を2,3度左右に振ってから、ハッと何かに気付いたように疾風の勢いで駆け出した。
彼が向かう先……と言ってものんびりとした田舎町だけあって人通りも少なく、特に不審な格好をした者も見当たらないのだが、それでも彼にだけは犯人が見えているのか、そこに迷いはない。
上手に通行人を避け、ステップを踏むようにトントンと何度か方向を微調整し、そしてついに見つけた獲物に向かって彼は体ごと、文字通り飛び掛かった。
「見つけたっ!婆ちゃんのバッグ、返せ!!」
動きは素早いが、青年はかなりの長身で体格もいい。
そんな彼に背中から飛びつかれたのはどこにでもいるような細身の男で、当然その重みに耐えられるはずもなく「ぐえっ」とカエルが潰れたような声をあげて、べしゃりと地面にのびてしまう。
その手に握られていた古めかしい茶色のバッグを奪い返すと、彼は得意げに高々とそのバッグを宙に掲げた。
「婆ちゃーん!!これかぁ!?」
老婆からの返事はない。
だがその代りに、周囲を行きかう町の人達が口々に「なぁ、あれあの婆さんのだよな?」「ボロボロのカバンだから盗まれる心配はない、とか言ってたんだけどなぁ」などと噂し合い、それが老婆のものであることを教えてくれる。
「すごい……」
「獣人族の中でも、彼は特に嗅覚や聴覚といった感覚に優れているらしい。お蔭で彼の所属する支部の担当地域では犯罪検挙率がかなり高いと、民衆には評判がいい」
「……民衆には、ですか」
ほんの少し強調されたその単語をテレーズも復唱してみて、そしてなるほどとどこか寂しい気持ちになりながらそれを受け入れる。
彼らの視線の先には、犯人を捕まえたと得意げに報告する青年……その報告を聞いているのかいないのか、イライラとした様子を隠そうともしない上司らしき中年の男がいる。
男は控えていた部下に青年が捕まえていた犯人らしき男を引渡し、一礼して去って行こうとする青年の襟首をつかんで引き留めると、大きな声で怒鳴り始めた。
「貴様は何度言ったらわかるのだ!何か起きたらまずは上司である私に報告し、私の指示を受けて動けと言ってあるだろう!!貴様の上司は誰だ!?貴様、自分勝手に決定を下せる立場だと思っているのか!?」
「でも……早くしないと婆ちゃんのバッグが捨てられちゃうかもしれないし。犯人の臭いが薄れないうちにと思って」
「口答えとは随分偉くなったものだな!!大体、なんだその言葉遣いはっ!?上司をバカにするにもほどがある!このことは上に報告するからな!今度はどこに飛ばされるのか、楽しみにしていろ!!」
獣人ごときが、と吐き捨てられた声をテレーズの耳が拾い上げる。
彼女に聞こえるということは、すぐ近くにいて更に不運なことに人より何倍も聴力に長けたあの青年にも、はっきりと聞こえたということだ。
(これが……獣人族の現実……。彼らが人を嫌う気持ちがわかるわ。こんな扱いを受けたんじゃ、関わりたくなくなるもの)
軍人といえど一個人だ、人としての好き嫌いもあれば気分が仕事に現れる日もあるだろう。
しかし、これはない。
散々検挙率向上のためにこき使っておいて、目障りになったら放り出すというのは、相手が獣人族でなくてもやってはならない最悪の手だ。
青年はあの老婆の声にいち早く駆け付けられた、それはきっと普段から頻繁に見回りをしているからだろう。
そしてコトが終わってからやって来たあの軍人たちはきっと、見回りや警戒やことによっては夜勤といった面倒事まで全て青年一人に押し付け、犯人逮捕や上への報告といったおいしいところだけ横取りする、という仕事ぶりであるに違いない。
「…………テレーズ、すまないが少し待っていてくれ」
カーマインの声が、いつもより低く威圧感を含んでいる。
彼はきっと、あの支部の兵達に対し相当憤っているのだろう。
本来なら軍の総司令官という高い地位にある以上、支部内部での諍い事にいちいち首を突っ込むのは得策ではないし、それがただの諍いであったなら彼も黙って通り過ぎたはずだ。
しかし、さすがにあの発言は種族同士の軋轢を生むきっかけになりかねない上に…………それ以前の問題として、軍人としてのモラルに反する。
故に、彼は視察途中で偶然通りかかった上官として、支部の抜き打ち視察に向かうつもりなのだ。
「『御挨拶』ですね。いってらっしゃいませ」
「……あぁ。いってくる」
本音を言えば辛いだろう彼の気持ちを労いたかったが、そうするには彼女はまだ軍のことをよく知らない。
だから彼女は労うことも宥めることもせず、あえて一歩引いて上官を送り出す部下のように声をかけた。
何より、今の彼が優しい言葉を望んでいないことがわかったので、これ以上踏み込むべきではないと思ったからだ。
険しい表情で足早に町の方へ向かっていった背中を見ながら、
「……私は、あの方の片腕になれるんでしょうか……」
ぽつりと零された寂しそうな弱音は、アイーダだけが知っている。
(…………かすかに聞こえるこれは……泣き声、かしら?)
しばらくそのまま待っていた彼女の耳に、風の音とはまた違う小さな声が届く。
最初、猫の子が鳴いているのかと気にも留めなかったテレーズはしかし、風に乗って聞こえてくるそれが人間の子供の声ではないかと、段々気になり始めた。
他者の意見を聞こうにも、カーマインはまだ戻ってこないしアイーダはどんなに賢くても馬だ。
様子を見に行きたいが、一人で馬を駆ることができない彼女がアイーダを走らせるのは無理だし、かといって今恐らく緊張の真っ只中にあるだろう軍の支部に入っていくのも躊躇われる。
考えている間にも途切れ途切れに聞こえる泣き声は、助けて、助けてと悲痛な救難信号を出し続けているというのに。
(助けて、なんて泣いたこと、そういえばなかったわね。泣いてもどうにもならなかったもの)
幼い自分は、最初から全てを諦めてしまって泣くことすらしなかった。
だからこそ、生を諦めずに泣きじゃくっている子供を助けず放っておくなど、彼女にはできない。
「アイーダさん、ここにいてくださいね」
よいしょ、とその背から滑り降りたテレーズはカーマインの真似をして軽く鼻面を撫で、そして声のする方へ向けて駆け出した。
声は町とは反対の方向、街道を外れた先の雑木林のまだ奥から聞こえる。
乗馬用ということで普段より柔らかな動きやすい靴にはしてもらったが、それでも全力で走るのには向いていないのだろう、かかとの辺りがひりひりと痛む。
それでも彼女は走った、まだ声が聞こえるのだからと息を切らせて。
「はあっ、はぁっ、はぁっ、…………みつ、けた……っ」
「っ!?」
雑木林の更に奥、真っ白な野の花が一面に咲き誇る草原の片隅で、蹲って泣いている5歳か6歳くらいの少女。
息を切らせて駆けつけたテレーズに、少女はびくりと大きく肩を震わせたものの、怪我をしているのかその場を動こうとはしない。
だが必死で己を守ろうと警戒している気配だけは伝わってきて、テレーズはひとまず元気で良かったとほっと肩の力を抜いた。
と同時に、足の痛みがぶり返してきてその場にへたりこんでしまう。
「え、っ?」
「だいじょうぶ、です。ちょっと疲れただけ、ですから。それより、貴方の怪我は、どうですか?痛く、ありませんか?」
「え、と……ちょっとだけいたい、けど。もしかしておねえちゃん、たすけにきてくれた、の?」
「はい。声が、聞こえたので」
どうにか息を整えたテレーズがにこりと笑って見せると、少女はようやく警戒を解いて片足を引きずりながら近づいてきた。
「あのね、いもうとがね、びょうきでねてるの。ここのおはな、すきだっていってたから、つんでみせてあげようとおもって。けど、ころんじゃってうごけなくなって…………ごめんなさい」
「その『ごめんなさい』はおうちに帰ってからにしましょう。それにしても、いいお姉さんなんですね。……羨ましいです」
「えっ?」
「ああいえ。私、姉がいませんから」
一瞬、サファイアブルーの瞳が曇ったことに、しかし少女は気付かずにいてくれた。
6歳だという少女の身体は驚くほど軽く、テレーズでもどうにか抱えることができた。
そうして来た道を今度は慎重にゆっくり歩いて戻っている途中で、突然目の前に現れる茶色の物体……否、ふわふわの明るい茶色の髪をなびかせた、獣人の青年。
反射的に少女を庇おうと一歩下がるたびに、青年は距離をつめてくる。
その顔は先ほど遠くから見えた人懐こい優しげな表情ではなく、今にも唸り声を上げそうなほど警戒心に満ちた、まるで威嚇するようなものだった。
もしかして誤解されているのでは、とテレーズが弁解すべく口を開こうとするその前に、青年は彼女の腕から素早く少女の身体を奪い取ってぎゅっと抱き寄せ、テレーズに向かってぐわっと牙を剥いた。
「お前がマナを誘拐したのかっ!!ちょっと綺麗な顔してるからって、オレは絶対騙されないからなっ!覚悟しろ、変態誘拐魔め!!」




