2.『馬上』
裾にレースをあしらったデザインの、肌触りのいいフレアワンピース。
髪はゆるくハーフアップにしてバレッタで留め、余計な化粧は一切せず日焼け止めを塗るにとどめた肌に、朱色の口紅がよく映えている。
肘まであるレースの手袋を嵌めた手を、テレーズは恐る恐る差し出された手に重ねて「よろしくお願いいたします」と、まるでダンスを乞うように腰を折って一礼した。
「馬に乗るのは始めてか?」
「いえ。一人での乗馬経験はありませんが、以前何度かヴェゼルに乗せてもらったことがあって…………えぇと、その」
「…………そうか」
テレーズは基本的に邸に引きこもっていたが、時折こっそりとヴェゼルが馬に乗せてくれたことがあった。
移動は邸の敷地内と狭い範囲に限られてはいたけれど。
まだ彼女が社交界デビューする前の、まるで兄と妹のような戯れの延長線上。
勿論必要以上に密着することもなく、甘い雰囲気になることもなく、馬上で感じた風が心地よかったこと、いつもより高い位置から見渡した景色が綺麗だったこと、付け加えるならヴェゼルがちょっと緊張気味だったことくらいしか覚えていない。
それでも反射的に『ヴェゼルに』と答えてしまってから、彼女は内心慌てた。
それはテレーゼ・クリストハルトとしての記憶だ、今の彼女のものではない。
『出て行ってください』と言われ、それに応じてフリード伯爵家を出たあの瞬間から過去のものにしなければならない、きちんと捨てなくてはならないものだ。
(どうしよう……言わなくてもいいことだったはずなのに)
彼女のことを調べたのなら察しはつくだろうが、それでも口にすべきではない名前だった。
契約上のこととはいえ、これから彼の片腕として色々学んでいかなければならない身でありながら、捨てきれない過去の名前を口にしてしまう……己の迂闊さに顔色を変え、俯いてしまったテレーズ。
そんな彼女の手を、彼女のそれより一回り以上大きな手できゅっと、ほんの僅か力をこめて握られた。
恐る恐る視線を上げると、穏やかな光を浮かべる真紅の双眸。
下から見上げるようにして、初めて気付いた。
彼の耳に、あの時テレーズが魔力をこめた深い青色に輝く魔石のピアスがつけられていることに。
そして彼女の指にもまた、彼の瞳と同じ色の真紅の魔石が嵌った指輪が輝いている。
急に恥ずかしくなった彼女は視線を俯けたが、その意味をわかったのかどうなのかカーマインが小さく苦笑した。
「君が馬嫌いでなくて良かった。……では、行こうか」
こちらへ、とそのまま手を引かれて淡い灰色の毛並みが美しい馬の前へと連れ出される。
「彼女はアイーダ。アイーダ、彼女がテレーズだ。今日はよろしく頼むぞ」
言いながらぽんぽんと軽く鼻先を叩くカーマインに、アイーダと呼ばれたその牝馬はぶるるとまるで返事をするかのように鳴く。
さあ、と視線で促されたテレーズは戸惑いながらもおずおずと手を伸ばし、だが触れる手前でぴたりとその手を止めた。
人が馬を選ぶのではなく、馬が人を選ぶんだ……以前そうヴェゼルが教えてくれたのを思い出したからだ。
もしここでアイーダに気軽に触れてしまい、彼女の機嫌を損ねてしまったら?
そうなればせっかく遠出にと誘ってくれたカーマインの気持ちも無碍にしてしまうし、彼の愛馬との信頼関係にもなんらかの変化があるかもしれない。
そんなリスクを犯すより、ここは挨拶だけに止めておこう。
そう考えた彼女は、手を触れないままに柔らかく微笑んで「テレーズです」と自ら名乗った。
「今日はどうかよろしくお願いしますね、アイーダさん」
「…………」
馬にまで「さん」付けか、とその場の誰もがそう内心つっこんだことに気づかないのはテレーズとアイーダのみ。
いや、もしかするとこの賢い牝馬もまたそれに似た思いを抱いて呆れ返ったかもしれないが……それでも誠意は通じたのだろう、触れぬままに離れていこうとしている手のひらに、アイーダは己の方から鼻面を摺り寄せた。
「……っ」
「ははっ、『こちらこそよろしく』ということらしいな。どうやら君は気に入られたようだ」
「そう、なんでしょうか?」
「そうでなければアイーダの方から擦り寄ったりはしない。そうだろう?相棒」
悪戯っぽい主の問いかけに、賢い牝馬はもう一度ぶるると鳴くことで答えた。
出立前にあれやこれやはあったものの、その後ひらりと愛馬にまたがったカーマインとその手に掴まって馬上の人となったテレーズが、アイーダに揺られながらゆっくりと門をくぐって見えなくなった後。
いってらっしゃいませ、とほぼ総出でそれを見送った使用人一同は緩々と通常業務に戻って行った。
「やれやれ。旦那様もどういうおつもりかと気を揉まされたが……どうやら収まるべきところに収まってくれそうでホッとしたわい」
「そうねぇ。最初はさすがに、あんな小さなお嬢ちゃんを連れてくるなんて、ご趣味を疑ったものだけど。さっきのあのお二人見てると、微笑ましいやらじれったいやら」
「もう!旦那様は押しが弱すぎますよぉ~。ああいう控えめなお嬢さんには、もうちょっとぐいぐい行かないと!」
「おいおい、それで逃げられちゃったらどうすんだよ」
飛び交う好意的な声の合間に、普通なら聞き逃してしまいそうな小さな声も混ざっている。
「あんな子供……いっつも自信なさげに俯いてばっかりで。あの方の隣には相応しくないわ」
「閣下の目は曇っておられるんだ。あんな貧相なガキ、俺は認めない」
「逃げ出して、そのままいなくなっちゃえばいいのに」
聞かれているとは思っていないだろうその呟きを、唯一拾い上げたシルヴィは素早く声の主を確認し、その顔と名前を記憶にしっかりと刻み付ける。
(今はまだ何もしないでおきますよ。けど、もしもあの方になにかあったら、最重要容疑者として告発させてもらいますが)
『もしも』なんて来ない方がいいけれど、でもそれをきっかけにテレーズに反感を持つ者達を一掃できるのなら、それもいいかもしれない。
彼女のことは、エヴァと二人で必ず守りきる。
例え、どんな手を使っても……テレーズが知れば顔を曇らせるような汚い罠を張ってでも、必ず。
自分が、魔人族の『普通』から大きく外れてしまっていることに、シルヴィはとうに気付いている。
その上で、それも悪くないですねと納得しているのだ。
エヴァもまた、エルフ族のはみ出し者。シルヴィも、魔人族の変わり者。
ついでに雇い主であるカーマインもまた、ハーフであるが故に竜人族とも人族とも呼べない中途半端な位置づけに居る。
ここにいるのは……そしてテレーズを囲んでいるのは、異種族の変わり者ばかり。
足りないのは獣人族くらいですね、と何気なくそう考えた彼はこの時まだ知る由もなかった。
近い将来、この面子の中に獣人族のはみ出し者が加わるということを。
さて、生温かく見送られた二人と一頭は、ゆっくりと道なりに進んでいた。
真っ直ぐ道を突っ切るとテレーズがほぼ日参していた中央広場に出るが、人で溢れかえるその道はあえて通らず一本脇道に逸れ、忙しなく人の行き交う様子を横目で見ながらのんびりと馬を歩かせる。
そうしてカーマインは、色々な話を語って聞かせた。
中央広場の成り立ちから、意外と穴場な小料理屋の話、この街に住む様々な種族とその交流、珍しい香辛料の話まで。
「そういえば、先ほどからいい匂いがしますね」
「そうだろう?あれは北海の幸、ビエラの串焼きだ。ここアルファード帝国は大陸でも最北端に位置するから、海の幸など珍しいと思われがちなんだが……そうだ」
少しここで待っていてくれ、とカーマインは突然手綱を引いて歩みを止めたかと思うとそのまま飛び降り、アイーダの首の辺りをとんとんと軽く叩いてから街の方へ駆け出していった。
その背を戸惑ったように見送るテレーズの耳に、やがて街の人達の賑やかな声が飛び込んでくる。
「あー、閣下だぁ!」
「閣下、先日は盗賊の摘発をありがとうございました。お陰さまで商品も大方戻ってきましたし、どうにか商売を続けていけそうです」
「ちょうど良かった!閣下、これ南から仕入れた栄養価の高い果物です!お邸に届けておきますから、是非皆さんで召し上がってください!」
なんということのないシャツとスラックスという私服であっても、やはりカーマインは目立つのだろう。
あっという間に街の人達に取り囲まれ、口々に礼を言われたり商品を勧められたりしている。
直接関わりはしなくとも道行く人は一瞬足を止め、年頃のみならず女性は大体ぼうっと頬を染め、男性であっても憧れの眼差しを注ぐ。
カーマイン・ヴァイスクロイツ軍部総司令官という存在は、つまり民衆にとって模範とすべき、そして敬愛すべきものなのだ。
ややあって、足早にカーマインが戻ってきた。
手にはどうにか無事購入できたらしい、いい匂いのするビエラの串焼きが握られてある。
「一本は先ほど店先で食べてきた。だからこれは、君に」
「……ありがとうございます」
受け取って、じっと串を見つめる。
縮んでしまわないように一度じっくり蒸してから焼き色をつけたオレンジ色の切り身に、スパイシーな香りの濃厚ソースを絡めてあるその食べ物は、街歩きをしている時に何度か見かけた屋台で売られていたのだが、買い食いははしたない行いだと教えられて育ってきたため、結局横目でちらちら見ながらも口に出来ていなかったものだ。
小さく口をつけると、じゅわりとした甘辛いソースの味と共にほのかに甘いビエラの味が口いっぱいに広がり、彼女は思わず「美味しい……」と呟いてもう一口また一口と口に運び続ける。
それをただ黙って見つめるカーマインの優しい眼差しに彼女が気づくのは、すっかり食べ終わって「ごちそうさまでした」と告げた後のことだ。
ビエラ=エビみたいな甲殻類




