5.『接近』
時は少し遡る。
男の手がいよいよもって妖しげな動きをし始めたところで、テレーズはゆっくり魔力を練り上げ始めた。
慣れてしまえば魔力を練り上げる時間など必要ないのだろうが、残念なことに彼女の受けた教育に『魔法』の実践訓練といったものがなかったため、未だこうして体内の魔力を練り上げてからでないと魔法を放つことができない。
この時点で魔法の使える者であれば彼女が何をしようとしているのか気づくのだろうが、幸いなことにこの国に魔法がそれほど浸透していないというのは本当であるらしく、この男もテレーズが無抵抗なのをいいことに服のボタンを外し始めている。
殺さず、だがある程度のダメージを与えられる魔法……彼女の得意属性は水と風だが、水では攻撃力に欠けるし風だと逆に殺傷能力が高すぎる。
【ブリザード】ではこの男を凍らせてしまう危険性があるし、【ウインドボール】ではダメージを与えられない可能性もある。
ならば火はどうだろう?
火属性の指輪は今彼女の指に嵌っている、火単体では大火傷を負わせてしまうだろうがそれを水で緩和し、風で包み込んでしまうことができれば、あるいは。
ここで、彼女があらゆるジャンルの本を読み漁っていたことが吉と出た。
魔法の教本では『ひとつの魔法につきひとつの属性が基本』と書かれてあるのだが、とある冒険者の手記には複数の属性を上手く混ぜ合わせて威力をコントロールした、という記述が載っていたのだ。
(できるかしら……ううん、やらなきゃいけないのよ……)
怖がっていても何も始まらない。
ここで失敗してしまったらこの男に魔法の存在を気づかれてしまうが、それでももしかしたら魔力の反応を感知してシルヴィが来てくれるかもしれない。
シルヴィには好かれてなどいないだろうが、それでも主の『守れ』という命令を疎かにするとも思えないので、きっと助けに来てくれるとテレーズは信じている。
だからといってただ待っているだけの無力な自分はもう嫌だ……せめて、助ける価値があるんだとそう思われたかった。
「…………」
シルヴィは、伏し目がちになりながらその長い睫毛を震わせて、視線を俯けた。
正しいことをしたとは思っていない、端から主に叱責されるだろうことは覚悟していた、だが……あまりに穢れを知らない護衛対象の真っ直ぐな気持ちに、胸の奥がキリキリと痛む。
『隠し通せ』
護衛の任を一時と言えど放棄した部下に、カーマインは真紅の双眸を冷ややかに細めてそう命じた。
『聡い娘だ、お前の意図を察してきっと勝手に傷つく。だからお前は隠し通せ。どんなに疑われても決して認めるな、頷くな。そして今度こそ完璧に守り通せ』
それが出来ないようなら外れろ、と彼は言う。
少し前のシルヴィなら暗部に戻してくださいと申し出たかもしれない、小娘の護衛などといった仕事は御免だ、と。
だが今は…………。
『承知いたしました。今度こそ、主命を違えることなく守り通すことをお誓いいたします』
魔人族の誇りにかけて、そして彼自身の心の求めるままに、今度こそ彼女を守ることを誓ったのだった。
「…………お嬢様は……」
長い長い沈黙の後、ぽつりと漏れた声にテレーズは「なんですか」と聞き返す。
「……あの男のことについて、お聞きになりたいですか?」
あの男、というのはテレーズを攫って闘技場の地下に閉じ込めた彼のことだ。
テレーズが慎重に練り上げて放った術は、指輪に宿った火の力を一回分だけ借りてそれを風のボールで包んで放つ、という合わせ技だった。
水の力で威力を落としてからと考えてはいたのだが、何しろ不埒な手に体中をまさぐられていたため集中することができず、とにかく風のボールで包んでしまえば焼け焦げることもないだろうと考えた結果だった、のだが。
確かに焼け焦げることはなかった、にしても暖められた空気をパンパンに詰め込んだボールが腹にクリーンヒットした男は、あばら骨を数本犠牲に捧げたらしい。
というところまでは彼女もぼんやりと報告を聞いていたため、シルヴィが言うのは素性や処分についてだろうとわかったテレーズは、いいえと首を横に振った。
「本当なら聞いておいた方が今後のためにいいんでしょうが……」
「いいえ。お嬢様が望まないのであれば、お耳汚しになるだけです。今後あのような変態は決してお傍に近づけませんので、どうぞご安心を」
「え?……はぁ、そうですか」
あれ、とテレーズは違和感を覚えて2,3度パチパチと瞬いた。
シルヴィがカーマインの部下であり、テレーズの護衛兼監視役としてつけられた、ということは既に彼女も承知している。
彼女が従うのは護衛対象のテレーズではなく、雇用主のカーマインのみ。
そのカーマインの命令だからとこれまで傍付きとして街を案内したりしてくれていたが、それでも引かれた一線は頑なに越えないようにしていたように感じられていた。
しかし今、その一線が取り払われたような……相変わらずの無表情でありながら、そこに感情が寄り添ってくれているような、そんな印象を受けたのだ。
ただの護衛対象ではなく、テレーズのことを一個人として尊重してくれているような、そんなニュアンスがあったと感じたのは果たしてただの気のせいか。
(魔人族は感情が希薄だという話だけど……いえ、確かに希薄かもしれないけど)
この邸に戻ってすぐ、シルヴィが魔人族であるということは本人の口から聞いた。
彼は彼女でもあり、どちらにもなれるのだと。
これまではテレーズの傍付きということで女性体でいることも多かったが、いざとなれば男性体の方が立ち回りに向いているため、見られないようにこっそりと姿を変えてはまた戻っていたのだ、と。
そして今後は、もしテレーズが嫌でないのなら極力男性体でいたいと申し出られた彼女は、支障ありませんと即座に答えたことで「今回のことといい、貴方は異性に対する警戒心が足りませんね」とお説教を受けてしまった。
思えば、その時からシルヴィの様子が前とは変わっていたような気がするのだ。
そしてそれは、テレーズにとっても悪い変化ではない。
結局、彼女は聞かなかった。
ならず者を雇い彼女を闘技場の地下に監禁させた男が、何者なのか。
魔石がらみでも軍部がらみでもない、ただ毎日のように中央広場を通って図書館へ通っていたテレーズに運命を感じ、後をつけようとして毎度毎度それを察したシルヴィに撒かれてしまい、ならばと街をぶらぶらして情報を集めてその時を待ち、そして雇った男達から連絡を受けてついに念願のご対面を果たした……といっても目隠しされたテレーズにとっての彼は、息が妙に生臭く加えて香水臭いいやらしい男という印象しか残らなかったのだが。
彼は、ごくごく普通の勤め人だった。
そして誘拐と監禁、強姦未遂、ついでに公共の場への不法侵入の罪などで牢に入れられ、職を失い、信用も失い、家族にも見捨てられ、居づらくなって国外に逃げ出したのだという。
軍部の下した処分は牢に入れること、そして鞭打ち百回だけだったが……社会的に制裁を受けたことで充分、と上はそう判断したそうだ。
「……楽しそうだな?」
「そうでしょうか?」
「あぁ。以前より少し表情が柔らかくなった気がする」
その日の夜遅くに帰宅したカーマインは、書斎で定時報告を聞き終えると紅茶を所望してそれをシルヴィにも勧めた。
話に付き合えという合図だと気づいた彼も、大人しくそれを受け取る。
「それにしてもテレーズの魔法はどれだけ常識はずれなんだ……不得意な属性の魔法すらコントロールしてしまうなんて……しかもまともに教育を受けていないというのだから」
「それについてですが閣下、花嫁教育が行われる前に魔法の訓練を始められた方がよろしいのではないでしょうか。恐らくお嬢様も今回の件でご自身の魔力について学ぶ意思をお持ちになったようですし、今後のことも考えればむしろ遅すぎるくらいかと」
「そうだな。しかし魔法か……彼女の生い立ちを考えるとアクセラ王国の出身者を呼ばない方がいいのだろうが。さて、他に魔法が得意な者を探すとなると……」
軍にも魔法を使う者はいるが、カーマインは基本的に信頼できる直属の部下以外をテレーズにつけるつもりはない。
皇帝に仕える魔法使いもいるにはいる、とはいえその殆どがアクセラ出身となればやはりテレーズに近づけるのは危険な気がする。
魔人族は魔力を持つが魔法は使わず、竜人族や獣人族は魔力自体を持たない。
人族以外で魔力を持ち、魔法を使うのに長けているのはエルフ族くらいだろうか。
「エルフ族には知り合いもおりますが…………少々癖のある者なので、お嬢様付きにできるかどうか交渉する時間をいただけますか?」
「それは構わないが、どの程度かかる?」
「何しろ筋金入りの人嫌いなもので……何とも。その間、魔力の扱い方だけでしたら私の方でお教えすることもできますが」
「わかった。任せよう」
「ありがとうございます。では早速使いを出しますので、御前を失礼いたします」
一礼して、シルヴィは忽然と姿を消す。
主に対する態度としては不敬に当たるかもしれないが、瞬間移動は魔人族の特殊能力だと知っているためカーマインは特に咎めず、他に部下がいない時に限り好きにさせている。
さて、と彼も立ち上がった。
そのまま寝室に向かっても良かったが、彼はふと思い立って客間の方へと足を向ける。
扉の前に立っていたメイドが一瞬ぎょっとしたように目を剥き、そして慌てて主への礼をとったのを見て、彼は「何もしない。少しの間だけ目を瞑ってくれ」と苦笑しながら、静かに客間の扉をくぐった。
ベッドの上には、静かに寝息を立てる少女。
始めて言葉を交わした時の、あのぼろぼろに傷ついた少女はそこにはもういない。
今もまだ彼女の中に傷は残っているだろう、ふとしたことで思い出しては泣いているかもしれない、だがそれでも必死で前を向こうとしている彼女をこのまま見守ってやりたい、とそう思う。
(本当なら、まだ教育途中の年齢であるのだが…………許せ)
花が咲き誇る前の蕾の状態で己が手に入れてしまう、それは決して無理やりではなかったけれど逃げ道がなかったのもまた事実である。
ずっと見つかることなどないと思っていた、半ば諦めかけていた【唯一】が彼女だと気付いた時は気分が高揚し、これが竜人族の血の為せる業かと恐ろしく感じたほどだ。
半分は人なのだから、感情のセーブくらいできる。
彼女は仮成人を迎えたばかりでまだ幼い、大人である自分がリードしてやらなければ、今はまだ見守りの期間中なのだからと己に言い聞かせ、優しい兄のように距離を置いて導いてやるつもりだった、のに。
近づけば、言葉を交わしたくなる。
会話をすれば、触れたくなる。
触れれば、もっと知りたくなる。
竜人族としての本能の所為か、それとも人としての感情が引きずられているのか。
そのどちらであっても、もう彼女を手放すことなどできないところまで来てしまっている。
愛や恋といった甘く切ない感情とは、また違うもののようだが。
「…………おやすみ。私の【唯一】」
これくらいなら、と髪をひと撫でしてから名残惜しそうに踵を返し、彼はきょとんとしたままのメイドの横をすり抜け、自分の部屋へと真っ直ぐに戻っていった。




