2.『懇願』
テレーゼは愛情というものを知らない。
これまでずっと与えられてこなかったのだから当然だ。
そういった感情が存在することは知識としては知っているが、どんなものなのかはわからないし、必要だとも思っていない。
会話は必要最低限、朝と夜の食事の際に顔を見られればいい方である父親。
自らが腹を痛めて産んだ子だというのに、用は済んだとばかりに放置状態の母親。
時折可哀想にと世話を焼いてくれようとする使用人はいたが、彼らは皆当主の離婚及び再婚に伴って配置換えをされ、そのうち姿を見なくなってしまった。
そしていつしか彼女の部屋は邸の隅へと移動させられ、滅多なことでは外に出ないようにと言い含められて、そのまま放っておかれるようになった。
弁護するなら、デミオンはこの前妻との間に生まれた我が子を何も虐待しようとか、死んでしまえばいいとか、いなくなってしまえとか、そんな非道なことまで考えたわけではなかった。
ただ、愛した者との間に生まれた愛しい我が子と、義務感だけで産ませた己にそっくりな子では、持てる愛情が当然の如く違っていた……それだけだった。
だから彼は、テレーゼこそ嫡子だとして彼女を擁護しようとする使用人こそ解雇したものの、当初は邸の隅に追いやることまでは考えていなかった。
これまで通り放っておけばいい、そのうちある程度の年齢になれば政略の駒として使えるだろう、そう思っていた。
しかし……。
「旦那様……あぁ、デミオン。わたし、怖いの。あの子のあの目が。あの目は、前の奥様と同じだわ。わたし達を蔑み、邪魔者だと恨んでる……あの子の目を毎日見てると、気がおかしくなってしまいそうよ」
考えすぎだろう、と最初はデミオンもそう言って妻を宥めた。
テレーゼは確かに前妻の子だが、己と同じく義務感だけで子を生した前妻カリーナもまた、己の子に対して何の執着も抱いていなかった。
テレーゼも母よりはむしろ教育担当の祖母や祖父の傍にいる時間の方が長かったこともあり、己の両親に対して愛情や執着を持っているようには見えなかったし、故に今の妻であるこの異国出身の義母サヤカ・クリストハルトを蔑むなどありえない、そう言って。
しかしその後もあまりにサヤカが怯えるので、それならと彼はテレーゼを食事の場に呼ぶのをやめた。
「お前はこれから部屋で食事をとりなさい」
「はい」
何故、やどうして、といった言葉はなかった。
愛情一杯に育ったサヤカの娘であれば、なんで、どうして、いやよ、と食い下がってくるだろうに。
あまりに素直に、あっけなく受け入れた娘の態度を、それでもその時はまだ楽だとしか感じなかった。
だが次に訴えてきたのは、その娘……エリーゼ・クリストハルトだった。
そのエリーゼが6歳になった年から初等教育を受けさせるべく家庭教師を雇っているのだが、便宜上もう一人の娘に教育を受けさせないわけにもいかなかったため、二人は当初同じ教師につけてそれぞれ学ばせていた。
同じ部屋で一緒に授業を受けさせないあたり、さすがにデミオンも配慮した……はずだったのだが。
ある日、可愛い娘が泣いていた。
どうしたんだと尋ねてみると、どうやら勉強が上手くいかず注意を受けてしまったらしい。
「そのときにね、せんせいにいわれたの。テレーゼおじょうさまは、まだまださきにすすんでますよ、って」
当然、デミオンはこの教師を即刻解雇した。
教師曰く、エリーゼは集中力が長く続かずすぐに余所見してしまったり、飽きて眠ってしまったり、宿題を出しても難しいからとやってこなかったりと、中々に教師泣かせであったそうだ。
対してテレーゼは教えることを次から次へと吸収し、時には教師が答えに詰まるほど高度な質問をしてきたりするため、それに応えるべく教師の方でもどんどん先に進んでしまうほど、優秀な生徒であるのだと。
ならばと、デミオンは新しい教師を雇って今度は優しく、丁寧に、決して怒らないようにと言い含めてエリーゼの教育を任せた。
そして『デキる生徒』と太鼓判を押されたテレーゼには、邸の端の部屋に移って引きこもっていろと命じて、愛するエリーゼの心をこれ以上煩わせないように配慮した……というわけだ。
こうして、クリストハルト家の血を色濃く継いだテレーゼは、ひっそりと邸の隅へと移り住み静かに暮らすことになり、これでようやく侯爵家は平穏を取り戻せた、かのように思われた。
エリーゼは皆の愛情を受けてすくすくと、母親そっくりの愛らしい少女として育ち、多少我儘を言うことはあるがそれをひっくるめて素直で元気な子だと、周囲に認められていった。
分家の中には『愛人の子』『異国の娘』と蔑む声もあるにはあったが、そういった輩はデミオンが本家の権力をもって排除していったため、段々とこの異国風の顔立ちをした親子を噂する声も聞こえなくなっていった。
その数年後……エリーゼの10歳の誕生日から数ヶ月経ったある日のこと。
これまで大人しく従っていたと思われていたテレーゼが、とうとう父であるデミオンの執務室へ直訴にやってきた。
てっきり邸の隅で大人しくしているものと、その存在すら忘れかけていた薄情な父親はしかし、その姿を見て目を見開いて驚きを示した。
それはそうだろう。
入ってきた娘は、以前から決してふっくらした体型ではなかったが今は益々やせこけてガリガリになり、髪は艶もなく傷んでボサボサ、肌も荒れ放題でガサガサ、着ている服も背丈が全く合っておらず、その服に隠れていない範囲だけでも紫色や赤黒く変色した痣がいくつも見られるという凄惨さだ。
しかも恐らく骨折しているのだろう、片腕はだらんと垂れ下がり同じ側の片足も引きずっている。
さすがに邸の警備にあたっている者も最初こそ不審者だ、浮浪者だと追い出そうとしたのだが、それでもデミオンにそっくりな元の顔立ちのお陰で「もしかして」と疑問を持つ者が現れ、身分照会にとデミオン付きの執事を呼んで確認させたところ、邸の隅でその存在すら忘れ去られていたもう一人の娘だとわかったことで、その娘の希望通りデミオンの執務室へと通したというわけだ。
「…………何があった?」
動揺を表に出さないようにしながら問いかけた父に、テレーゼは淡々と己の受けた扱いを語った。
食堂に行かなくなってからも日に三度、必ず決まった時間に差し入れられていた食事が日に二度になり、そのメニューも当初は他の家族に出すものと同じだろうものだったのが、まずはデザートがつかなくなり、果物の絞り汁がただの水になり、スープの具がなくなって上澄みだけになり、挙句温かみがなくなった。
毎日朝晩に出されるそれは冷え切ってしまった薄いスープと、カチカチに硬くなったパン一個。
使用人でももっといいものを食べているだろうと思われるだろうに、テレーゼはそれでも食べられるだけマシだとして何も文句を言わなかった。
言っても無駄だと思った、と表情を変えずに彼女は父にそう語る。
定期的に部屋掃除に来ていたメイドも来なくなったため、やむなく自分で掃除するようになり。
部屋についた風呂もわかしに来ないため、知識として学んだだけだった水と火の魔法を使って風呂を沸かし。
当然新しい服も与えられることがないため、丈が合わなくなってもそのまま着続けるしかなく。
「そのうち、何をしても私が根を上げないので、使用人達のいいストレス解消の道具として暴力を振るわれるようになりました。……今日はバルコニーから突き落とされたので、その隙をついてここまで来られましたが」
「…………そうか」
本来使用人が主の娘をないがしろにするなど、しかも暴行するなどあってはならないことだ。
しかしこの家ではエリーゼ一人が娘として認知され、テレーゼはこの家の厄介者として当主にすら邪魔にされている。
それならいくら痛めつけてもいいだろう、主はきっと気にもとめないだろう、そう言い出したのは誰だかわからないが、恐らく彼女の暴力を振るった使用人全員がそういう認識をしているはずだ。
テレーゼは、初めて真っ向から父を見据えた。
そして生まれて初めて、お願い事を口にした。
「お願いです、どうか私を絶縁してください。貴族としての贅沢も生活費すら望みません。望まれて生まれてきたわけではないのなら、せめて最低限生きさせてください。私はまだ死にたくない……でもここにいたら、そんな小さな願いすら叶いそうにありません」
ここにいたら死ぬ……否、殺されるのだと言外に彼女はそう告げる。
「ですから平民街でも貧民街でもいいので、私を捨ててください。そしてそのまま、最初からいなかったものとしてください」
「……それは」
「元から、そのつもりで私と彼女の名を似せたのでしょう?エリーゼとテレーゼなら、聞き間違いで誤魔化すこともできますから。いないものとして扱われるくらいなら、本当にいなくなった方がましです」
ぞくり、とデミオンの背筋に悪寒が走る。
従順だ、賢い子だと聞かされてきたし、愛妻には何度も『あの目が怖い』と訴えられてきた。
何を大袈裟なとさして気にも留めていなかったが、しかしデミオンとサヤカくらいしか知らない事実を、隔離されて育ったはずのこの娘がはっきり言い当てたことで、彼は初めて己の血を分けた娘であるはずの……まだ10歳にもならない少女を怖いと感じた。
そんな父の内心を知ってか知らずか、テレーゼは祖母から文字通り叩き込まれた淑女の礼をとる。
「どうかお願いします、侯爵閣下」
顔を上げ真っ直ぐに血縁上の父を見つめるその深い青の瞳には、まるで見知らぬ他人を見ているように何の感情も宿っていなかった。