6.『覚悟』
「【ウインド・ボール】」
差し伸べられた手の先から、ふわりと風が巻き起こる。
それは彼女の目の前……まるで挑発するようにぴょんぴょんと軽快に飛び跳ねている魔物、ウォーターゲルの周囲を包み込むように展開し、そして逃がさぬようにその柔らかな体を風の玉の中に閉じ込めてしまう。
ゲルという魔物にはいくつか派生した種類がいるが、その殆どが属性違いというだけで倒し方にさして変わりはない。
大きさは生まれたばかりの赤子ほどと小さく、体の殆どがねっとりとした水分で構成されていることから、冒険初心者向けの魔物と思われがちなのだが……実はこの魔物、真ん中の核の部分を壊さない限り何度でも復活する。
しかもある程度時間を置くと分裂まで始めてしまうのだから結構厄介で、確実なのは一気に核を潰してしまうことだ。
だから彼女……テレーズは風のボールを作ってその中にゲルを閉じ込め、身動きが取れなくなったところでパンッ、と手を打ち合わせた。
それと同時に一気にボールの中の空気が抜け、中のゲルも核もろともぺしゃんこになってべちょりと地に落ちる。
今回の場合相手は水属性のウォーターゲルだったので、本来なら火属性の魔法で水分を蒸発させてしまうのが最も効率的なのだが、テレーズは火属性の魔法を上手く扱えない。
精々で、お風呂のお湯を沸かすくらいだ。
先日立ち寄ったあの村でカーマインから貰ったあの指輪を使えばそれ以上のこともできるだろうが、回数制限のある魔石をこんなところで無駄に使ってしまいたくはなかったのだ。
(落ち着いたら魔法の訓練もさせてもらえたらいいんだけど……)
ふぅ、と息をついたところで彼女はそれまでつかず離れずのポジションにいた男がいないことに気づき、少し離れたところから剣を打ち合わせるような金属音がすることで、そちらへ足を向けた。
もしかすると新手かもしれない、それなら何か手助けしなければ。
そう思いながら向かった先……森の中の少し開けた場所で戦っていたのはカーマインと魔物、ではなかった。
(……耳は丸い、動物の特徴もない、なら彼らは……もしかして刺客!?)
いかつい体躯にこれ見よがしなムキムキの筋肉、旅人にありがちな簡素な服装だが手に提げる得物は大剣や斧、20人はいるだろう彼らはそれを一人の華奢な体格の青年に向けている。
彼らが『森の主』と呼ばれるエルフであれば耳は長いはずだし相応の美貌を備えているはずだ。
もし獣人であればどこかに動物の特徴があるはずで、魔族であるならそもそも多勢で一人を襲ったりするような、そんなプライドのない行動は起こさない。
孤高の変わり者と呼ばれる竜人族ならなおのこと。
ならばあれは紛れもなくテレーズやカーマインと同じ、人間。
であるなら、もしかするとテレーズを始末しそこなったと気づいたフリード伯爵家から、刺客が放たれたかと彼女は身を硬くした。
が、それなら全員でカーマインを襲うのではなく、数人はテレーズ捜索に回っていてもおかしくはないはずだ。
(刺客じゃないとしたら……山賊、かしら)
まだ刺客の可能性も捨てきれないが、もしかすると旅人を狙った山賊という可能性もある。
カーマインはいかにもいいところのお坊ちゃまという容姿だし、アクセラ国にいた時のように軍服でも着ていれば襲われもしないだろうが、今は彼らとさして変わらない簡素な旅人の服装をしているので、到底腕の立つ軍人とは見抜けはしないだろう。
そうやって彼女が状況を分析している間にも、カーマインはいとも容易く筋肉だるま達の攻撃を受け流し、確実に一人ひとり地に這わせていく。
殺してはいないようだが、かなり深手を負わせていることは間違いないだろう。
山賊も好きで賊などやっているわけではないだろうし、完全に身動きが取れなくなるまで必死で食らいついてくるのがわかっているからだ。
手伝わなければ、とそう思うのにテレーズの身体は動いてはくれない。
魔法を使おうにも声が出ず、無詠唱で簡単な術を放とうと思っても精神の集中ができず、男達に向かって伸ばそうとした腕はみっともなく震えてしまっている。
怖いのだ、彼女は…………自分と同じ『人間』に攻撃を向けるのが。
もしあそこにいるのが彼女を処分しようと企んだフリード伯爵家の執事であっても、身勝手な感情から貴族の義務を忘れ彼女を見捨てた父親であっても、あの家に乗り込んできて女主人を気取っていた義母であっても……彼女の心の拠り所を奪ってしまった義姉であったとしても、きっとテレーズは攻撃することなどできなかったはずだ。
魔物なら倒せるのに、人は傷つけられない。
もう彼女は貴族令嬢でもなんでもないのだ、そんな甘ったるいことを言って許されるはずもないことは、理屈ではわかっているのだが……それでもまだ、彼女にはそれだけの覚悟がなかった。
(私は甘い……自立して見返すなんて粋がってても、こんなにも甘い)
実力主義の国において軍の総司令官の地位にあるカーマイン、その片腕として隣に立つのだと決めたはずの彼女はしかし、必要ならば同じ人であっても攻撃を向けなければならない、そうしなければ護りたいものは護れないのだとわかっていたはずなのに、いざとなると覚悟が全くできていなかった己の甘さを思い知らされてしまった。
「テレーズ」
彼女が煩悶している間に全ての賊を倒してしまった彼は、振り返って彼女の名を呼ぶ。
反応がないことに気づき、一歩近寄ってもう一度。
「テレーズ?」
ビクリと肩を揺らした様子で何かを悟ったらしい彼は、それ以上近づかずに手振りだけでついてこいと示して、ゆるりと足を昨夜野営をした場所へと向けた。
昨夜煌々と燃えていた焚き火はすでに焼け焦げた跡だけになっていたが、複数の大きな足跡が周囲を踏み荒らした痕跡が残っているため、男達はここを頼りに周囲を探して襲ってきたのだろうと推察できる。
もし最初に見つかっていたのがカーマインではなくテレーズだったら……そう考えると、恐ろしさでぶるりと身震いしてしまう。
そうなっていたら、自分は抵抗できただろうか?
彼ら相手に、攻撃を向けられただろうか?
人の形をしているというだけで魔力を操ることすらできなくなる臆病者に、これからの『仕事』が務まるのだろうか?
カーマインは昨日と同じように焚き火跡の前にどっかりと腰を下ろし、倒れた木の太い幹部分を手で指し示して、彼女にも座るようにと促した。
「先日君に話したことが、もしかしてプレッシャーになっているのではないか?」
「……えっ?」
「確かに『覚悟は必要だ』とは言ったが……私は君に、人を殺す覚悟をしろとは言っていない。むしろそんな覚悟はない方がいいに決まってる。ただ……君はこれから多くの悪意に晒されるだろう、謂われない敵意を向けられることだってある。だがそれを決して当然だと思わないで欲しいんだ。言い返してもいい、反抗してもいい、立ち向かってもいい、その覚悟をして欲しいと……そう言ったつもりだったんだが」
小国がいくつか集まってできたアルファード帝国、人種のみならず生物としての種族も生まれも出身国も主義主張も違う、そんな国のトップに立つのは今年25歳となる若き皇帝。
その皇帝を政治面で支える宰相は、先代皇帝の時代から仕えてきたというそろそろ50代も半ばにさしかかろうという、鶏がらのように痩せ細った中年紳士。
実力主義を掲げる帝国で長年宰相職を務めているだけあって、未だ彼の計略や政治手腕に敵うツワモノは現れないのだそうだ。
そして、軍事面で皇帝を支えているのがカーマイン・ヴァイスクロイツ……皇帝とは幼少期から幼馴染として過ごしてきたという、彼より2歳だけ年上で現在27歳になったばかりの軍部総司令官である。
皇帝は既に妻を迎え子も成しているが、カーマインは浮いた噂もなく未だ独身。
と、そこにポッと出の『妻』が現れたとなれば、彼狙いのご令嬢達はもとより彼を慕う部下達などの反感も買うだろうし、場合によっては直接命を狙われてしまう危険性もある。
そうならないよう護衛はつけるが、いずれは片腕として軍の仕事もしてもらう以上は荒事にも慣れておいて欲しい、妬み嫉み敵意殺意といったものを受ける覚悟はしておいてくれ、と彼はそう言ってテレーズに注意を促した。
何しろテレーズは、家族から冷遇されていったとはいえ紛れもなく貴族令嬢だ。
荒事の世界など知る由もなく、使用人から虐待されていたとはいえそれに反抗する意思も見せなかった、と聞く。
だがそれでは、カーマインの妻としても片腕としても失格だ。すぐに潰されて終わってしまう。
「母が竜人族だという話はしたと思うが……父は母の【唯一】ではなかったそうなんだ」
「そう、なのですか?」
「ああ。【唯一】とわかる前に死に別れたか、それとも気付かなかっただけか。【唯一】でなくとも子は成せるからな、それなりの名家の出だった母は政略の相手として勧められた父と家庭を持った。が、上手くいかなかった……」
生まれた子供は女子ばかりで、そして末子として彼が生まれた。
貧乏貴族の息子だったという父は、婿入り先で遊び暮らしていたため早々に愛想を尽かされており、約束の男子が生まれるとお役御免とばかりに家を出され、やがて風の噂で病に倒れたと聞かされても、母はもう関係ないとばかりに放っておいたのだそうだ。
そんな父に、カーマインは良く似ているのだという。
「この容姿だ、幼い頃から母や姉に軟弱者、出来損ないとバカにされていてな。……ぐうたらと遊んで暮らして、守られることにどっぷり浸かりきっていた亡き父にそっくりだと……だから、馬鹿にされぬように剣を取り、必死で学び、そして10歳で軍に入った」
「そう、だったのですか」
「あぁ。そうして無我夢中で上り詰めたのが今の地位だ、当然敵も多い。と同時に、君も妬まれる地位につくことになる、ということだ」
「そうでしょうね……」
見た目王子様然としていて、その実軍の最高幹部。
となれば敵は勿論多いだろうが、慕う人間、なんとしても関わりを持とうとする人間、恋焦がれる人間、などの数もまた多いだろう。
『妻』として名乗りを上げれば、そんな者達を一様に敵に回すことになるのだ。
直接嫌味をぶつけてくる、嫌がらせを仕掛ける、噂を流して孤立させる、などという貴族令嬢の心得は恐らく生温すぎる。
決闘を申し込まれるかもしれない、闇討ちされるかもしれない、暗殺者を送り込まれるかもしれない、毒を盛られるかもしれない、女性としては耐え難い屈辱を与えようと仕掛けられるかもしれない。
カーマインが言っているのは、そういった敵意・悪意を受け流したり耐え忍んだりするのではなく、立ち向かうための覚悟をしろということだ。
「覚悟、ですか……」
(私にも何かできることはあるはずだわ。……一度ならず窮地を救ってもらったんだもの、ちゃんと考えなきゃ)




