妄執
「…」
正面からぶつけられた怨嗟にまみれた声を全く意に介さず許チョは腕を組んだまま動かない。
『私を騙したのか!』
「…」
「ちょ、ちょっと待ってよ!
許チョはあの腕が誰なのかを知らなかったはずじゃ」
馬超と共に許チョと取引をした武仁が思わず声を荒げる。
たまたま答えに行き着いたからいいようなもののあんな不確かな情報だけでは結局誰だったか分からなかった可能性も充分あった。
「足下を見られたのだろうな…
もし我らが答えに辿り着かぬようなら、何かを思い出したふりでもして更なる対価を求めるつもりだったのだろう」
成り行きを見守りながら答える馬超の奥歯が一瞬だけぎりっ!と音を立てる。
表情はたんたんとしているが、いいようにあしらわれた感を拭い去れないのだろう。
「でも許チョって虎痴って言われてるくらい武力自慢の脳筋のはずでしょ?
なんだかそれってとっても頭のいい人がやるようなことな気がするんだけど…」
武仁と馬超の話に割り込んだ茜の言葉は玄が今まで抱いていた許チョの印象とも一致する。
「い、今までの許チョ殿の言動を見る限り秋茜殿が言われるような部分は感じられません。
もし今の許チョ殿が虎痴と呼ばれていたとするならばそれは敢えてそう呼ばせていたのだと思います。
その方が曹操直近の護衛としていろいろ都合が良かったはずです」
ホウ統の口調はもはやそうであることを確信している。
「ふ、さすがは鳳雛と呼ばれし漢だな」
そのホウ統の言葉が聞こえたのか小さく肩を震わせながら許チョが口を開く。
「確かに俺はもともとはなんの学もない農民あがりの雑兵だった。
そのころについた呼び名が虎痴。
だが俺が何年も側で仕えていたのは誰だ?
この程度の策謀など嫌でも身につく」
許チョの言葉に同じように護衛につくことが多かった悪来が重々しく頷く。
自らにも思い当たる節があるのだろう。
「な、なるほど。
ですがそうであることを周囲に隠せと言ったのは曹操殿の指示ではないですか?」
「…ふん。
『鋭すぎる叡智は相手の危機感を煽る。
そういう人材を下に置いておけるのは俺のような大物だけだ』
我が主の言葉だ」
許チョの言葉はホウ統の問いかけの回答にはなっていない。
だが、玄はその言葉の裏の意味を自分なりに推測する。
「つまりホウ統の言うことはそのとおりで、今のやりとりからそれを見破ってしまうお前は危険な漢だって言ってるのか?
怖いな…悪来、許チョがホウ統に何かしないように注意を頼む」
「おう!まかしとけ」
軽いいななきと共に悪来が応える。
「でも曹操はなんでそんなことするの?
許チョが頭良くなったんならその方がいいんじゃない?」
「も、もちろんです秋茜殿。
ですが、曹操殿のように主に武力で大きな権力を持つようになると敵も増えます。
それは外だけに限らず内にもです」
あっと小さく声を漏らす孫仁。
「なるほど、そういうことなのですね」
「え?今のでもう分かったのレン」
ホウ統の短い言葉の中からホウ統の言いたいことを早々に理解する孫仁。
その理解の早さはもちろん孫仁自身の能力的な部分が大きい。
だが加えて同じ時代を生き、どちらかと言えば権力者側に属していたということも大きな理由だろう。
「はい、ちょっと想像してみてください。
曹操を暗殺しようと考えたならばあなたならばどうしますか?」
「え?
暗殺って言っても曹操は最後の方は実質皇帝みたいなものでしょ。
どっか外に出た時に襲うって言ったって外にいるときは警戒厳しいだろうし。
室内にいるときだって、食事に毒を混ぜるとか、寝込みを襲うとか方法は思いつくけど実行するのはほとんど無理よね…
曹操に疑われずに近くまで行ける人が味方にいないとはっきり言って不可能だわ」
茜の言葉に孫仁はにこりと微笑んで頷く。
「そのとおりです。
では、曹操の一番近くにいる人物があまり知恵が回らなそうだったとしたらどうです?」
「……あ!なるほど。
知恵に自信のある人ほどうまく騙せると思って話を持ちかけるかも」
茜の言葉通り、実際に許チョを侮り金や女、時には名誉を餌に寝返りを促す者は多かった。
だが、曹操への鋼の忠誠心と曹操の側に長年仕え続けたことで得た知はそういう者達を例外なく破滅へと追いやっていたのである。
「さ、さらに言えば密談の時などに人払いを求められても『こいつには難しい話は分からないから大丈夫だ』と断れます。
そうすることで誰かと2人きりになる場面を減らすことも出来たのではないでしょうか」
「…だが、そのためには曹操より絶大な信頼を受けていなければならないはずだ」
馬超は曹操が交渉中にもかかわらず激昂した時の許チョの姿を思い出す。
「つまりはあれも虎痴であることを演じていた訳か…
となればあの時の曹操の鷹揚ぶりも納得出来る」
呟いた馬超の表情が今度は悔しさに歪む。
そんなことをしていたということ自体は別に構わない。
当時の戦自体にそのことが全く関係ないということも分かる。
だがそれでも、なりふり構わずに戦っていた自分に対して本性を偽るだけの余裕がまだ曹操や許チョにあったのかと思うと僅かな怒りと共に悔しさがこみ上げてくる。
『えぇい!うるさい!お前らは黙れ!
私があいつに聞いているんだ!』
自分を無視して勝手に話をしていることに対してしびれをきらした蔡瑁がヒステリックな声をあげた。
「ふ、関羽め。
余計なことを吹き込んでくれる」
僅かに肩をすくめた許チョが小さなため息をつく。
「いいだろう。教えてやる」
一度言葉を切った許チョは冷めた目を蔡瑁へと向ける。
「確かにお前の姉と劉ソウは青州へ向かう途中で殺した」
『な!』
「実行部隊を指揮した干禁に主からの指示を伝えたのは俺だ。
そしてその首を確認したのも俺。
お前が期待していたという男はなぜ自分が殺されるのかもわからぬまま実に間抜け面で死んでいたぞ」
蔡瑁にとっての一大事を淡々と告げる許チョの口元は僅かに歪んでいる。
『…』
「ありもしない可能性の結末を思い知らされずに済んだのだから礼の1つも言って欲しいものだが…
まあいい。捨て駒に感謝されても不愉快なだけだ」
吐き捨てるように言い放たれた言葉を完全に理解するのに僅かに時間がかかったのか一瞬の沈黙の後、蔡瑁の形相が醜く歪んでいく。
『…ぅお、おおぉ』
低い唸り声を上げながら許チョへと向かっていこうとする蔡瑁の顔の両脇がごぼりと蠢き盛り上がる。
「う…う、腕が生えてきた」
茜がげんなりとした声をもらす。
張飛の右腕という限られたスペースの中から顔と両腕が生えてくるのは見ていて気持ちの良いものではない。
『許さぬぞ許チョ…
旗にされていた私を騙したことではない。
許し難いが劉ソウを殺したことでもない!』
「ほう、ではなんだ?」
『しらばっくれるな!
早々に劉ソウを殺害したということは、我らの降伏を受け入れたにもかかわらず最初から私を殺すつもりだったということだろう!』
「ふ、まんざら馬鹿でもないらしい」
「確かにそうだね…
蔡瑁の話す降伏の条件が本当で曹操に守る気があったなら劉ソウを殺す訳がないよね」
「い、いずれ劉ソウ殿が殺害されたことが露見すれば蔡瑁殿の恨みを買うことは必然です」
武仁の言葉にホウ統が続く。
「それなのに劉ソウを殺したってことは恨みを買う前に蔡瑁を排除するつもりだったってことか」
ホウ統の言わんとするところを納得した玄が頷く。
「お、おそらく曹操殿は周瑜殿の策に気づいていたと思います」
「え?それってもしかして蔡瑁が処刑されるきっかけになった離間の策のこと?」
「は、はい。
あの段階で曹操軍は既に水戦に必要な最低限の知識を学び終えていました」
「え?じゃあ、周瑜の策にはまったふりをして蔡瑁を処刑したってことなの?」
驚きを隠せない茜の言葉にホウ統は重々しく頷く。
「ふん、あとで難癖をつけて処断するより周囲の反感も買わずに済むし、何より手間がはぶけるという訳だな」
馬超の声には隠しきれない不快感が滲んでいる。
『…我が一族を弄んだ報いを受けさせてくれる』
憤怒の形相となった蔡瑁の顔に引っ張られるようにその身体は既に胸までが形を為している。
「う…お!
なんだこりゃあ…力が抜け…る」
「翼徳!」
蔡瑁が形を為す程に力を吸われているのか前のめりに倒れそうになった張飛が左手を地面に着く。
「くくく、笑わせるな蔡瑁。
お前こそが劉表の一族を弄んだ張本人だろう」
『な、なんだと?』
許チョの言葉に蔡瑁が怪訝な表情を見せる。
「我が主がその程度ことも知らなかったとでも思ったか?
我が軍の南下に合わせるように都合よく劉表が病に倒れたのは何故だ?」
『…な、何を言うつもりだ?や、やめろ』
「お前が奴に毒を盛ったからではないか!」
『ば、馬鹿な!でたらめを言うな!』
目を見開くかのように形状を変化させる蔡瑁。
「でたらめ?
それは違う。
お前はその毒をどこで手に入れた?」
『何?
…ま、まさか!』
許チョは口元を歪ませて頷く。
「そのとおり。
お前が偶然出会ったと思っているその行商人は我が主の命により派遣された者。
お前にそれとなく毒を売り、口封じの為、お前に処分されるまでが仕事の密偵だ」
「劉表が蔡瑁に毒殺されてただって?」
今語られた歴史の真実に玄の全身には鳥肌がたっている。
「あのまま劉表が生きていれば、劉備を信頼していた劉表は劉備に荊州軍を預け我が主に抵抗しかねなかった。
そうなれば劉備は我が主が唯一危険人物だと一目置いていた漢。
戦の勝利自体は動かずとも我が軍の被害も大きくなる可能性は否定できなかった。
だが、劉表が死ねばその後の実権を握るのはお前だ。
劉備を危険視していたお前なら劉備を荊州から排除するだろうことは明白。
後は刃向かうなら潰し、降伏してくるようなら利用するだけのこと」
『さ、最初からお前らの手の上だった…だと?』
「そうだ。
そしてそんな姑息で底の浅い男を我が主が重用などするはずもない」
『…』
許チョにより自分の晩年が全て曹操に操られたものだったことを知らされた蔡瑁の動きが止まる。
おそらくあまりの衝撃に思考が止まってしまっているのだろう。
そして蔡瑁の動きが止まったことで張飛から何かを吸い上げていた力も治まったらしい。
幾分か余裕を取り戻した張飛がゆっくりと顔を上げる。
「大丈夫か、翼徳」
「ああ、なんとか。
それにしてもよ、劉表のおっさんが死んで俺らが逃げなきゃならなくなったのが全てこいつのせいだったとはな」
自らの右肩から生えている蔡瑁をぎらりとした眼で睨み付ける張飛。
「ふん、確かに曹操の進軍は天の時を得ていると思ったが…
まさかそれすら自らの力で作り出していたとはな」
関羽は言葉にやや呆れたものを滲ませながらも感嘆の声を漏らす。
関羽の言う「天の時」とは孟子の言葉の一節を抜き出したものである。
もともとは
天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず
という言葉で「天の与える好機も土地の有利な条件には及ばず、土地の有利な条件も民心の和合には及ばない」というような意味である。
だが、戦略の中では天の時を全体的な状況や時機、地の利を立地や気象条件、人の和を人脈や士気などに例えそれらが全て整っていることが望ましいとされている。
あの時、曹操は遠征により慣れない地へ赴くことで失う地の利、そして激しい戦いや長期の遠征になれば人の和の一部たる士気も失うことがわかっていた。
そこで戦わずして勝つ、もしくは苦戦をせずに勝てるだけの状況を自らの手で作り出した。
「だからあの時孔明の言うとおり兄者が荊州を奪っておきゃ良かったんだ!」
張飛が語調を荒げて悔しさを滲ませる。
「もう済んだことだ。
おそらく孔明は曹操の策略に気がついていたはずだ。
だが、あえてそれを見逃し利用するつもりだったに違いない。
だからお前の言うとおり劉表の死後すぐに兄者に荊州を奪るように勧めた。
しかし、あの時の孔明はわが陣営に来たばかりでまさか兄者がそれを断るとは思っていなかったのだろう。
その点は昔から兄者を知っていた曹操の方が兄者という人間を理解していたということだろうな」
「んぁ?どういうことだ?
いつも言ってんだろ、俺にも分かるように言ってくれ兄貴」
左手で頭をぼりぼり掻く張飛を見て関羽は苦笑しながら口を開く。
「おそらく曹操は劉表を排除しても兄者が同族の治めている荊州は奪わない、いや奪えないと分かっていた。
だからそれだけの思い切った策を打てたということだ」
「あ~なるほどな。
兄者は恩とか義理とか世間体とか好きだもんなぁ」
張飛の言い様は全く身も蓋もない。
「ま、そんな兄者だからこそ皆が好きになるんだけどよ」
にかっと白い歯をむき出しにして笑う張飛。
言葉遣いは乱暴ではあるがまっすぐに感情を表す張飛を見ていると確かに子供のようである。
関羽が稚気の固まりと言っていた意味がよく分かる。
そんな張飛の言葉に顎髭を揺らしながら頷く関羽。
その様子は本当に仲の良い兄弟のようだ。
『ひ…ひひひっ!
分かっていた!分かっていたよ!私が世の群雄達に比べて凡庸で取るに足らない人物だってことはな!』
そんな2人の会話など全く耳に入っていない蔡瑁が奇声をあげる。
『だが!どんなに取るに足りない人間だったとしても!
その生がどんなに醜くみっともないものだったとしても!
それは私のものであるべきだ!』
蔡瑁の叫びに関羽が思わずほうと呟き髭を揺らす。
『私は周りにどう思われようと私の持ちうる力で私なりに野心を持って生きた!
そのつもりだった!そうであるならばお前らに斬首されたことすら恨むつもりもなかっったのだ!』
そこまで言って蔡瑁は小さくため息を漏らす。
『今にして思えば私の側で劉備への警戒心を延々と説いていたあの男もお前らの差し金か。
そこからの劉表の暗殺、荊州の実権を握ったこと、降伏の後に水軍の大将になったこと、そして言われなき罪で私が処刑されたことまで全部!
それら全部がお前らに操られた行動だったなど認められる訳がない!』
「ふ、だからと言って歴史は変わらぬ。
お前は我らにとってそこそこ役に立った駒。
それ以上でもそれ以下でもない」
血を吐くような蔡瑁の言葉も許チョの心には僅かなさざ波すら立てられない。
『ならば私の最期をやり直すまでだ。
私らしく!無様で醜いと思われようが私なりの全力で劉ソウと私の恨みを晴らしてくれる!』
「よく言ったぜ!
小者なりのみみっちぃ覚悟見せてもらった。
漢ならそうこなくっちゃな。
正直おまえにゃ恨みしかねぇが、その意気に免じて手伝ってやらぁ。
ぎりぎりまで持ってけ!」
「おい!なにをする気だ翼徳」
「おおおおおおおぉぉぉぉぉ!」
蔡瑁の言葉に大きく頷いた張飛は一方的に宣言すると雄叫びを上げる。
『ぐ、おぉ!
おぉぉおぉぉぉぉ』
それに呼応するように蔡瑁が喜色に満ちた呻き声を上げる。
と、同時に上半身だけ飛び出していた身体がみるみると伸びていく。
腹から腰、腰から腿、腿から膝、そして…
『ふひゅう…』
張飛から膨大な力を吸い上げた蔡瑁はとうとう一人の人間としての形を取り戻し地を踏みしめていた。
『礼は言わぬぞ張飛』
背後で荒い息を吐きながら仰向けに倒れ込んだ張飛に背中越しに声をかける蔡瑁。
「け!お…まえに礼なんざ、言われる筋合いはねぇ。
ついでにこれも持ってけや」
自らの腰にあった初期装備の剣を左手で抜くと蔡瑁の足下に放り投げる。
蔡瑁は黙ってその剣を拾うとゆっくりと許チョへと向かって歩き始める。
その様子を固唾を飲んで見守っていた玄達にホウ統が僅かに緊張を解いて口を開く。
「おそらくこれで蔡瑁殿はもう張飛殿に戻ろうとはしないはずです」
「うん、なんとなく俺もそう思う」
ホウ統の言葉に玄も頷く。
現代に生きる玄にはぼんやりとしか理解することは出来ないが関羽達や蔡瑁が生きた戦乱の世は今とは比べものにならないほど誰もがいつ死んでもおかしくない時代だった。
だからこそ彼らは『どう生きたか』を自分達よりもはるかに大事にしていると玄は感じていた。
蔡瑁はその大事なものを曹操に都合のいいように弄ばれたと感じたが故に激しい怒りを覚えているのだろう。
そして蔡瑁は決断したのだ。
その怒りのままに曹操の側近であった許チョと自らの意志で戦うことを。
戦っても許チョに勝てないことは蔡瑁も十分承知しているはずである。
それでも自らで選んだ道を行きたいのだろう。
「自分の最期は自分で選ぶ…か」
「はい…そして自らで最期と決めた以上は再び張飛殿に戻るつもりはないはずです」
「最初はどうなるかと思ったけど…
なんとかなりそうで良かった」
戦場の空気は未だ予断を許さないが玄達の目的は関羽と張飛の再会、そして仲間への勧誘である。
その目的の最大の障害と懸念されていた右腕の件がなんとか解決に向かったことで目的はほぼ達成されつつあった。
「…まだ分かりません。
誰も通さないと言ってあの関を築いたのは右腕が蔡瑁殿になる前の張飛将軍です」
「確かにそうよね…
戦いが終わっても一悶着あるのかしら」
ホウ統の言葉に対して嫌な可能性を指摘する茜だったがその声にあまり不安はない。
おそらく今の関羽と張飛のやりとりを見ていて多少揉めても命の取り合いになるようなことはないと思っているのだろう。
「まあ、あの調子なら関羽がうまく説得してくれるんじゃないかな?」
茜と同じように考えていた玄も楽観的な意見を述べる。
「だといいのですが…」
ホウ統は戦場から目を逸らさぬまま眉を寄せる。
何かを見落としてるような気がして、もどかしさのような小さな不安が消えないのだ。
だが、そんなホウ統達の会話を尻目に蔡瑁は鬼気迫る顔で許チョへと向かっていく。
人の形を取り戻したとはいえ蔡瑁自体は未だに黒い粘着質な固まりである。
真っ黒で極薄なラバー状の全身タイツを着込んだかのような気味の悪さである。
『許チョ、覚悟するがいい。
この身体ならお前相手と言えどもそう簡単には殺られん』
そう言うと歩きながら張飛から預かった剣を許チョへと向ける。
「…くくく」
しかし許チョは堪えきれないのか小さく肩を震わせる。
『…何がおかしい?』
蔡瑁の声は鋭い殺気をはらんでいる。
この戦いに文字通り全てを賭けている蔡瑁にしてみれば当然だろう。
「お前がここまで優秀な駒だとはな。
そこそこ役に立つ駒だなどと言ったことを撤回しなくてはならんな」
『な!なんだと?』
意味不明なことを口にしながらも許チョは感極まったのか組んでいた両手を大きく開いて大笑している。
『ま、まさか…』
蔡瑁の表情が恐ろしいほどの恐怖に歪む。
いいように弄ばれた自らの最期を今度こそ自分の意志で締め括ろうとしていた蔡瑁。
だが、今の許チョの言葉でこの行動すらも許チョの意のままなのではないかという考えが脳裏をよぎったのだ。
一度そう思ってしまえば、もはや何をしても許チョの思い通りに思えてしまう。
またしても自らの意志を操られてしまうという恐怖に縛られ蔡瑁は身動き一つ取ることが出来なくなっていた。
「これでやっと曹操様を探しに行ける」
そう呟いた許チョは歓喜に身を震わせるとゆっくりと蔡瑁へ向かって歩き出す。
そして固まったままの蔡瑁の脇をゆっくりと抜ける。
どちゃ
汚らしい音と同時に蔡瑁の首が地面に落ちる。
おそらくすれ違いざまに許チョが斬り落としたのだろう。
「は、速い!」
思わず叫んだ玄の目には許チョが剣を抜くところも首を斬ったところも捉えることはできなかった。
ただ、今の蔡瑁はこの程度で死ぬことはない。
その証拠に既に足下に落ちた首だったものが足から吸収され、それと同時に首から蔡瑁の頭が盛り上がってきている。
「いかんな…どうも浮かれているようだ。
どうでもいいものをつい斬ってしまった」
確かに許チョの声や表情は高揚感を抑えきれていない。
軽い足取りで首を斬り落とした蔡瑁を歯牙にもかけぬままさらに歩を進める。
「待て!」
寡黙な武人であった許チョのあまりの変貌ぶりにその場に居合わせた者は等しく呆気に取られていた。
しかし、関羽達との距離を無造作に詰めてくる許チョにさすがに関羽が制止をかけた。
だが、許チョは僅かに口の端を上げたのみで止まらず小さく呟く。
「今、この時より『反逆』する!」
ガシャァン!
その言葉に応じて力強い剣戟の音が鳴り響く。
同時に張飛と許チョの中間地点に2本の剣が交わった画像が一瞬だけ表示される。
「え?何々?何がどうなった!」
突然現れた初めて見るグラフィックに玄が叫ぶ。
しかし、玄達には許チョが何をしたのか全く意味が分からない。
混乱のさなか唯一現状を全て把握しているであろう許チョだけが迷いのない動きで一直線に張飛へと向かっていく。
しかし、ライフのほとんど全てを蔡瑁に分け与えてしまった張飛は身動きが取れない。
「ふん!」
その張飛をかばうように一歩前に出た関羽が連理を下から振り上げて許チョを牽制しつつ自らの背後に張飛を隠す。
許チョは敢えてその一撃を剣で受けるが、キィンという音と共に剣が弾かれる。
軽い剣で関羽の下からの斬り上げを上から抑え込むのは例え許チョと言えど無理がある。
「やった!」
弾き飛ばされた剣を見て思わず喝采をあげる玄。
「くっ!」
「え?」
しかし、続いて漏れた関羽の呻きに慌てて視線を二人に戻す。
「関羽!い、いつの間に!」
困惑した叫びを上げる玄。
その視線の先では関羽の身体の至るところに小柄が刺さっている。
しかし、速度はともかく威力はどれもたいしたことはなかったようで関羽の筋肉に阻まれ深くは刺さってはいない。
「は、弾かれた剣へ一瞬気を取られた隙に許チョ殿が投擲したのです」
視界の全てを認識出来るホウ統が一瞬の空白に何があったのかを教えてくれる。
「でも関羽がそれぐらいで」
「き、許チョ殿は関羽将軍の気を一瞬だけ逸らし、速度だけを重視した技で全て張飛将軍を狙ったのです」
「そうか!今の張飛はちょっとでも攻撃がかすればやばい状態なんだ…
だから関羽は全ての攻撃を完全に防がなきゃならなかったのか」
玄の言葉に頷くホウ統。
「や、やべぇ!
…あの野郎そこまでよんでやがったな。
兄貴面倒かけてすまねぇ」
一連の許チョの言動を解明する糸口となったのは倒れたままの張飛の悔しげな一言だった。
「なんだと?翼徳!どういうことだ!
説明しろ!」
許チョへと注意を払いながら背後の張飛に説明を求める関羽。
いきなりの関羽の剣幕に一瞬ぎょっとした張飛も事態が切迫していることは理解しているようですぐさま自分の特殊能力の説明を始める。
「俺の特殊能力に『蛮勇の代償』てのがある。
これは俺がぶっ倒した相手を3人まで強制的に部下にすることができるってもんだ」
「あ、だから張松や華陀が張飛の言うことをきいていたのね」
茜が呟くが同盟していない張飛にはその声は聞こえないため張飛はそのまま言葉を続ける。
「そいつらは基本的になんでも言うことをきかなきゃならねぇんだが、そいつらにはある力が与えられてんだ」
「その力とはなんだ」
関羽が張飛を促す。
「やつらは俺に対していつでもどこでも『反逆』することができる」
「さきほど許チョ殿が呟いていた言葉の中に確かに反逆という言葉がありました」
「裏切った野郎はどこにいようと常に俺と戦闘状態になるらしいぜ」
「え!ちょっと待って!
それっていつ解けるのか聞いて関羽」
張飛の言葉に嫌な予感を感じた玄が慌てて関羽に依頼する。
「あぁ?そんなのどっちかが死ぬまでに決まってるじゃねぇか」
関羽の問いかけにさも当然のように答える張飛に玄は思わず頭を抱える。
「ってことは許チョを倒すまで張飛は待機状態にも戻れないし、誰かと同盟を組んだりすることも出来ないってことになる」
「た、確か戦闘状態のままでいると体力が減るのではなかったでしょうか?」
「あ!確かに…戦闘状態の相手とある程度距離が離れるとそれだけで体力は減っていく。
けど死ぬまでには至らな…」
「それはねぇぜ士元!
確か疲れるのは相手だけだって言ってた気がすっからな」
ホウ統の問いかけに答えていた玄の言葉にかぶせるように張飛が答える。
玄への問いかけを自分に向けてのものだと勘違いしたのだろう。
「な、なるほど…張飛将軍の能力がなんとなくわかりました」
「…ですから張松殿も戦うしか無かったのですね」
孫仁が悲しげに目を伏せる。
「レン、悲しむのは後よ!」
茜の言葉に小さく頷くと孫仁は再び前を見据える。
何があっても前に進むこと。
それこそ張松が孫仁に教えてくれたことである。
「こ、この場はなんとしても張飛将軍を守り、許チョ殿を退けなくてはなりません」
「よし!悪来はホウ統を守りながら張飛の側へ。
孫仁も怪我をしてる上に許チョとは相性が良くないから悪来とホウ統の護衛について下さい」
「おう!じゃ、いくぜ軍師」
「は、はい!」
「悔しいですが玄殿の言うとおりです。
わたくしも張飛殿と軍師殿の守りにつきます」
玄の指示に三者三様に答えながら3人はすぐさま行動を開始する。
ホウ統は悪来の影に隠れるように進み、そんな2人を守るように孫仁が許チョを警戒しながら走っていく。
それを見て玄はその場に残された馬超に、正確にはその操者である武仁に向かって声をかける。
「竹さん、馬超に今の関羽の位置を任せてもいいですか?」
「…なるほどね。
つまり関羽が許チョを倒すために動けるように残りのメンバーで張飛を守るってことか。
馬超、それでいい?」
武仁にしてみればその提案は馬超にあまり危険がない布陣のためあえて断る理由はない。
だが、最終決定権を全て馬超に預けている武仁はどんなときでも馬超の了解を求める。
「…承知した」
武仁の問いかけに頷くと馬超もすぐさま悪来達の後を追って走り出す。
しかし、その返事にはやや苦いものが混じっている。
馬超にしてみれば今の事態を招いたのまぎれもなく自分の責である。
劉備との再会を優先するあまりにリスクを避け許チョを倒さなかったことが劉備の愛する兄弟達をこの上ない危険に晒している。
もし、自らの目の前で張飛を死なせるようなことでもあれば劉備と再会できたとしても合わせる顔などない。
(私は一体何をしている!
錦馬超と呼ばれていた頃の私は戦いを避けるためにあんな小手先の取引をするような漢ではなかったはずだ!)
自分自身の中にある馬超の像にうまく現実が当てはまらないもどかしさを感じて馬超は
内心で苛立ちの叫びを上げる。
「…だが今は張飛殿を守るのが先だ」
過ぎてしまったことを悔いるより今すべきことをなす。
小さく呟いた馬超は関羽の背後に滑り込むように入り込むと長槍を構える。
と、同時に関羽がゆっくりと歩き出す。
「関羽、後は任せる」
全幅の信頼を込めた玄の一言に関羽は何も返さない。
ただゆっくりと許チョへと向かうその背中が答えだった。
「ふ、自らの身体で止めることを毛ほども躊躇わぬとはな。
僅かでも躊躇えば張飛は死んでいたものを。
手間をかけさせてくれる」
「曹操の脇にいたころは無口な漢だと思っていたがよくしゃべるではないか許チョ」
関羽は連理の間合いのやや外で立ち止まると許チョへと語りかける。
その口調はいつもと変わらない。
張飛を殺されかけたことによる怒りなどはないようだ。
「すまんな。
わが主に再び会えると思えば多少饒舌にもなろうというもの」
「ふん、贅沢な奴め。だが翼徳はやらせぬぞ」
関羽が悔しげに鼻を鳴らす。
最後は劉備と離ればなれになったまま死んだ関羽にしてみれば曹操が病死するまで側で仕えることが出来た許チョの生涯は贅沢過ぎるものなのだろう。
「…確かにな。
お前と戦いながらあの守りを突破するのはしんどそうだ」
関羽の背後で自分を睨み付けている面々を見て僅かに口角を上げる。
「ここは退かせて貰うとしよう」
さらりと言い放った許チョは本当にくるりと踵を返す。
「みんな気をつけて!
許チョは今も体力が減り続けてるんだから本当に撤退は出来ないはずだよ!」
だがそんな玄の言葉が空しく聞こえるほどにあっさりと許チョは綿竹関を挟む山の中に消えていく。
「…」
玄の注意喚起が無くとも既に許チョに猶予がないことを武将達も承知している。
それぞれが周囲への警戒を解かないまま静かな時間が流れる。
「え?…まさか本当に?」
「こ、ここで張飛将軍を倒さずに去るということは曹操殿と再会することを諦めるということです。
今までの許チョ殿の言動からそれだけはあり得ません」
「そうよね…ちょっと怖いくらい執着してたものね」
玄の横で茜が僅かに身震いをする。
「関羽、許チョの気配はもう感じない?」
「あやつは曹操の脇に木偶のように立ち続けるのが仕事。
主の邪魔をしないように近くにいても気づかぬ程に気配を断つ術に長けている。
我の視界から消えた時点で既に気配は探れぬ」
連理の石突きを地に着けゆったりと立つ関羽が答える。
「許チョが向かって来ぬのならこのまま張飛殿を連れてこの場を離れた方がよいのではないか」
「い、いえそれは得策ではあありません」
馬超の言葉にホウ統は小さく首を振る。
「許チョ殿の体力が尽きるまで張飛将軍は待機状態には戻れません。
そ、そんな状態でよく知らぬ道を移動するのは危険が大きすぎます。
ならば、見通しのよいこの場にいる方がい、いいと思います」
「下手に動いて死角を増やすよりは…ということだな」
眼前に敵がいない状態では緊張は長続きしない。
周囲を警戒しつつも今後の対策を協議し始める。
(昔はどうであったかわかりませんが、少なくとも私がここで見た許チョ殿は1手2手先を見通せるだけの知謀がありました。
だから、武力でまともに戦っては不覚を取る可能性があると読んであえて張飛将軍に降っていたのでしょう。
そんな許チョ殿が満を持して宣言した『反逆』。
それはかなり高い勝算があったはずです)
そんな中ホウ統は現状を正確に把握し許チョの真意を探るべく深い思考に入っていく。
(おそらく蔡瑁殿を腕にして張飛将軍に付けるように華陀殿を唆したのは許チョ殿です。
それはいつか蔡瑁殿と張飛将軍の間で力の奪い合いが起こり張飛将軍が疲弊するのを待つため。
そのために旗に変えられた後の蔡瑁殿に甘言を吹き込み続けた)
ホウ統は無意識に頬の傷を撫でながらさらに黙考する。
(しかしそれはおそらく許チョ殿が張飛将軍を倒すために仕込んでいたいくつかの罠の内の一つ。
今回はたまたま蔡瑁殿を使った罠がうまくはまっただけ…なのではないでしょうか。
ならば、この場で退くと見せかけられるのはここで無理に張飛将軍を狙い続けるよりももっと効果的な罠がまだあるから。
そして、それは張飛将軍が疲弊していればいるほど確実性が増す策…
そこまでの条件を整えられたのなら今、この場を離れるのはむしろ必然です)
そこまで考えてホウ統は僅かに首をかしげる。
(ですが、疲弊したからと言って何をするか分からない『あの』張飛将軍を確実に倒せるとは思えません。
窮地の時の張飛将軍は正直言って,人の力でどうにか出来るとは…)
「あ!」
そこまで考えたホウ統の目が一気に見開かれる。
「張飛将軍!
あそこの綿竹関は誰がどのように作ったのですか!」
「あぁ?
ありゃあ華陀が組み立てたぜ」
「ですが華陀殿は医者のはずです。
本当にあれだけの建築物を造れたのですか?」
「まぁ、確かにな。
だが関になるだけの材料があれば、それを本来の形にするのは考えようによっちゃ『治療』だろ」
「…解釈を広げて能力の枷を外したということですね。
張飛将軍、その『治療』を言い出したのは許チョ殿ではないですか?」
「おう!よく分かったじゃねぇかホウ統」
「張飛将軍、もう一つだけ。
その材料をあの山から調達してきたのも許チョ殿ではないですか?」
そう言ってホウ統が向けた指の先にはつい先ほど許チョが消えていった山がある。
「ああ、あいつが全部準備してたぜ」
「やはり!
関羽将軍!急いで張飛将軍を反対側の山の中へ移動します」
「む、分かった」
ホウ統の焦った口調に関羽もただならぬものを感じたのだろう。
すぐさま張飛を背中に担ぎ上げるべく移動する。
「す、すまねぇ兄貴」
「ふ、謝罪はこの場を切り抜けてからにしろ」
うっかり張飛にダメージを与えないように気をつけながら関羽が張飛に手をかける。
「奥方様は悪来殿に乗って先に移動してください」
「よろしいのですか?
私にも何か…」
しかし、孫仁の言葉を遮るように足下が僅かに震える。
「ま、まじぃ!
そう言うことか!姫さん、とにかく今は乗れ!
こりゃ落石の計だ」
足下の揺れと低く伝わってくる地鳴りの音にホウ統の言わんとするところを察した悪来が孫仁の脇に屈む。
「士元!お前も悪来に乗れぃ!」
「は、はい!」
同じくして状況を理解した関羽の、恫喝にも似た命令に反射的に頷いたホウ統も颯爽と悪来に跨った孫仁の後ろにのそのそと座る。
「行くぜ!」
「わわ!」
二人分の体重が乗ったのだけを確認した悪来はホウ統がしっかり座るのを確かめもせずに走り出す。
今はまだ山の中腹あたり聞こえる地鳴りもこれから斜面を滑り落ちてくる間にどんどんと速度を増してくる。
見た目の距離感でまだ大丈夫だと思っていると逃げ切れなくなってしまうことを武将達はよく知っているのだ。
その辺の感覚に唯一疎い孫仁が全力で走る悪来の背で背後を振り返り言葉にならない声を漏らす。
その視線の先ではみるみる砂煙が広がり広範囲にわたって山が崩れていく。
「なんて規模だ!
これを一人で仕込んだというのか許チョは!」
馬超が叫ぶ。
「この規模でこの崩落の速さ、逃げ切れぬな。
なるほど、これに翼徳が僅かでも巻き込まれれば奴の目的は果たされるという訳か…
やってくれる」
関羽は不敵に笑むと担ぎかけた張飛を再び地面に降ろす。
「兄貴!このまま俺を置いていけ!
兄貴1人ならまだ逃げ切れる」
泣き出しそうな顔で叫ぶ張飛に関羽の顎髭が揺れる。
「馬鹿を言うな。
我らが桃園で交わした誓い、2度は破らせぬ。
誰であろうと!何が起ころうともだ!」
「あ、兄貴…」
さらに何かを言い募ろうとした張飛が言葉を詰まらせ目から大粒の涙をこぼす。
本当は関羽の身を案じさらに関羽にこの場から離れるように言うつもりだった。
だが、関羽の言葉に何も言い返せなくなってしまった。
なぜなら張飛もまた逆の立場だったなら関羽と同じように逃げるという選択肢を選ばないことに気づいてしまったから。
『死すときは共に』と誓った『桃園の誓い』は今も2人の心に深く刻まれているのだろう。
「だが関羽殿、そうは言ってもこの場をどう切り抜けるのだ?」
馬超のもっともな問いに関羽は鼻を鳴らす。
「知れたこと。
あの土砂を我が前で断ち割ってくれるわ」
「関羽!そんなの無茶だ!」
悲鳴を上げる玄の言葉に関羽は応えず、隣に立つ馬超へと視線を向ける。
「馬超、お前は逃げてもよいぞ」
静かに告げたその言葉に馬超は即座に首を振る。
「それは出来ぬ。
もとはといえば私が許チョめを倒さなかったことが原因。
これで張飛殿を失えばここで生き延びたとて劉備殿に会わせる顔などない」
馬超の言葉に通じるものがあったのだろう。
関羽は僅かに顎髭を揺らすと山肌を滑り降りてくる土石流に向かって連理を構える。
「ならば、とくと励めよ」
「おう!」
逞しい返事と共に馬超も長槍を構える。
その馬超の動きが不自然に乱れる。
「ば、馬超!そんなの無理だよ!」
同時に聞こえてきた武仁の狼狽した声から推測するに武仁が思わずVSを操作して馬超を逃がそうとしたのだろう。
「あんなの人の力でどうにか出来るようなものじゃない。
ましてや後ろの張飛を庇いながらだなんて!
逃げていいって言ってるんだから逃げればいいじゃないか!
こんなの自殺と同じだよ」
「武仁!」
馬超の一喝に身体をびくんと震わせた武仁は反射的にVSから指を離す。
「ご…ごめん」
「漢には逃げてはならぬ時もあるのだ」
馬超の諭すような声に思わず玄が口を開く。
「ちょっと待って!竹さんは悪くない!
あんなの人の力で防ぎようが無いのは誰が見たって分かる。
馬超に死んで欲しくないって思う竹さんの気持ちの何が悪い!
関羽!残るって言うからには勝算はあるんだろうな!」
「…」
怒りを含んだ声で武将達に堂々と抗議する玄の行動に武仁の心がざわつく。
武仁が馬超に魅せられたのは鍛えた己の力だけで困難を打ち砕いていく力強い姿である。
これは武仁がいつか身につけたいと思っている強さであった。
そして、今玄が見せたものは自分より強い相手であろうと正しいことを貫いていく強さ。
他人のために我が身を省みず怒れる優しさ。
それらは武仁が昔は持っていたもの。
しかし、周囲の目や大人達の圧力に負けていろんなものを諦めた武仁が失ってしまっているものだった。
そんな武仁の心中を余所に事態はどんどん切迫していく。
玄に厳しく問い詰められた関羽はそれでも全く動じた様子もなく静かに髭をしごく。
「…ふむ、ないな。
ただ己の力を信じ全力で立ち向かうのみだ」
「関羽!真面目に考えて!
このままじゃ本当に張飛もろとも死んじゃって劉備に会えなくなるんだぞ!」
「まあ策があるとすれば…」
「あるの!?」
「玄、おまえが考えよ」
「だぁ!もう!
あんなのにすぐ対処出来る方法なんてないよ!」
そう言いつつも玄は脳が蒸発するのではないかというぐらいの勢いで考え始める。
土石流は既に麓近くまで来ていて残された時間はあと僅かである。
(あんな質量とまともにぶつかってなんとか出来る訳がない!
いくら関羽達が超人的な力を持っていたってそれは変わらない。
ならなんとかしてあれを避けるしかない!
でも横も後ろも上も前もどう考えたって逃げられない。
じゃあ後は…)
そこまで考えて玄は叫ぶ。
「関羽!下は!下に穴は掘れる?」
「出来なくはないが我らが避難するほどの物を作るには時間が足りぬな。
それに直撃を避けたとて上にのしかかられれば張飛は保つまい」
「そっか、くそ!」
思わず頭を掻きむしった玄の視界にある物が飛び込んでくる。
「関羽!堀だ!」
玄のその言葉に関羽の目が一瞬満足げに細められる。
「…だがぎりぎりだな。
馬超、先行し堀の側壁に穴を開けよ」
「承知」
一目散に走り出した馬超があっという間に堀の中に飛び込んでいく。
「翼徳、行くぞ。
しっかり捕まっておれ」
続いて関羽も連理を投げ捨て張飛を肩に担ぎ上げると走り出す。
「関羽急いで!」
その頃には既に土石流の先端は平地部分に到達していた。
もちろん土石流は堀の中にも流れ込んでいる。
だが堀の中の空間分だけ他の地点よりも速度が遅い。
その結果、土石流を横切る形で走る関羽の背後を土石流が次々に通過していくが目的地である堀の中にはまだ土石流は到達していない。
だがその速度は想像以上に速い。少しでも関羽の走る速度が鈍れば瞬く間に土砂に飲み込まれるだろう。
「跳ぶぞ!」
そのため関羽はその速度を全く緩めることなく一言張飛にそう告げると堀へと飛び込む。
深さ3メートル程の堀、張飛ほどの偉丈夫を担いだまま飛び降りるのはかなり危険な行為だが関羽は僅かに顔をしかめただけで着地に成功する。
そのすぐ後ろでは馬超が長槍を振るって壁を削っている。
関羽が素早く視線を巡らせると既に堀の中を埋めながら迫る土石流と関羽の背後を追って堀へと流れ込んで来た土石流が3人を飲み込むべく迫っているのが見て取れた。
「関羽殿、ここまでしか掘れなかった。
とにかく張飛殿を奥へ!」
馬超が必死で掘った横穴はせいぜい大人一人がぎりぎり立って入れる程の窪みだった。
「うむ!」
だが、あの短時間でそれだけの物を造り上げた馬超に文句などあろうはずもない関羽は小さく頷くと、この場に及んでこれ以上無いほどに繊細に張飛を穴に押し込む。
「馬超!先にお前が覆い被され」
「それでは関羽殿が!」
「構わぬ!」
関羽はそう叫ぶと馬超の動きを待たずに身体ごと馬超を穴に押し込む。
残された関羽は頭だけを何とか穴に押し込み、自分が流されないよう穴の縁に手を突っ込んで身体を固定。
そこまで見届けたところで玄の視界は土石流の波に覆われていった。




