兄弟
そんな息詰まる攻防から場が膠着しかけたのを嫌った馬超が再び間合いを外した時武仁に対して玄達から依頼があったのである。
『張飛の右腕が元々は誰だったのかを許チョから聞き出して欲しい』と。
依頼を伝え更に馬超に無理はしなくても良いと言った武仁に馬超はあれでも双方共に本気ではないと言ったのだ。
「あぁ…そう…
あれでも本気じゃないんだ」
呆れたように呟く武仁。
「ふむ…その依頼、果たすには今が好機かもしれぬな」
「え?」
馬超の呟きに疑問符を漏らした武仁が理由を問う前に馬超は口を開く。
「許チョよ、お前はあそこの張飛と行動を共にしていかほど経つ」
「…」
激しい攻防を繰り広げ、更なる激しい攻撃を加えるべく仕切り直したはずの馬超が急にトーンダウンしたことを不審に思った許チョが眉を寄せる。
「どんな事情でお前が張飛の下にいるのかは知らんが曹操至上主義のお前にとって今の状況は決して良い状態ではないはずだ」
その言葉に許チョの全身から立ち上っていた闘気が薄まる。
馬超から戦意が収まりつつあるのを感じたため話を聞く気になったのだろう。
「私達が今回ここに来た目的は張飛を説得し味方に引き入れること。
そのための障害となるのであればお前と戦いを続け排除せねばならん。
それは私としてはむしろ望むところなのだが…」
馬超はくるくると長槍を回すと背中へと戻す。
「だが、お前は最初こそあちらの戦いに介入しようとしたがその後は時間稼ぎをしているように見える」
馬超の言葉に許チョの口元が僅かに弧を描く。
「そこでだが…取引をしよう」
「ほう…」
「もしお前が私達が望む情報を持ち、それを提供してくれるならば関羽殿と張飛の戦いが終わるまでこちらからは手を出さない。
無論お前も我らに手を出さないのが前提だがな」
「…決着がついた後はいかにする」
「そのまま立ち去るならば手を出さぬと約束しよう」
許チョは短く刈り揃えてあるみずからの顎髭をじょりじょりと撫でつけて考え込む。
「…何を知りたい」
「張飛の右腕が誰だったのかだ」
「ほう…いいだろう。
その取引受けてもよい。ただし!」
にやりと口元を歪めた許チョが腕を組む。
「条件がある。
私があの猪と行動を共にせざる得なくなった時にはあの軍旗は既にあった。
だから直接あの腕が誰なのかは知らん。
だが、その後に張飛と張松の会話からいくつか分かっている情報がある。
しかしその情報は限定的なもので答えそのものではない」
「それを聞いても全く役にたたんということもあると言う訳だな」
「まあ、早まるな。
確かにその通りだが、私なら分からぬことも、お前達なら答えに行き着くやもしれぬだろう?」
「…」
確かに許チョでは分からなくとも、こちらには優秀な軍師であるホウ統がいて張飛と共に長い時間を戦って来た関羽がいる。
手がかりさえあれば答えに近づける可能性はある。
「ただし、答えが出ても出なくても私がその情報を渡したと同時に取引は成立だ。
それで良ければ受けよう」
もしこの申し出を馬超達が受ければ許チョは役に立つかどうかも分からないような些細な情報1つで停戦を得られることになる。
「えっと、つまりその情報がどんなに役に立たないクズ情報でも僕たちは許チョに手が出せなくなるってことか」
「むぅ…」
「構いません!馬超殿、その取引受けてください。
今は時間がお、惜しいです!」
一瞬悩みかけた馬超の耳に常のホウ統からは考えられない程の大声がかけられる。
プレイヤーを経由して伝える時間をも惜しんだのだろう。
「承知。
許チョよ、その取引受けよう」
「よかろう」
そう言うと許チョは完全に臨戦態勢を解き後ろに下がる。
馬超との間合いを外したのだろう。
「私が聞いたのは断片的な言葉のみだ。
『あの野郎に荊州での借りを返した』
『むかつく』
『小心者』
『陰険野郎』
『今度は俺の手でぶっ殺してやった』
この程度だな」
「ホウ統!」
馬超がホウ統に視線を向けるとホウ統は頷きを返してくる。
しっかりと聞き取ったということだろう。
「ふん、これから面白くなるところだったのだがな」
許チョへと向かって言い放つ馬超に許チョは軽く肩をすくめて返し、そのまま更に距離を取った。
「でもどうして馬超は許チョが今なら取引に応じると思ったの?」
武仁の疑問に馬超は苦笑を浮かべる。
「あいつも私も同じだったからな」
「同じ?」
「ここが目的ではない。
あいつは曹操を探しに行きたいし私も劉備殿を探しに行きたい。
それなのにお互いに保身を考えたまま戦って勝てる相手ではなかったということだ」
「なるほどね。
お互いにその空気を感じていたからこそ相手を本気にさせない程度の攻防だけをしていた。
だから『あれでも双方共に本気ではない』か…」
「さ、武仁。
われらもホウ統の下に戻るぞ。
取引をしたとはいえ許チョの動きからも注意は逸らすなよ」
「了解」
「ホウ統!何か分かったのか」
玄には少し離れた所で戦っている馬超達の会話は聞き取れない。
唯一同盟プレイヤーである竹の声だけは聞こえてくるが、そちらに意識を集中している訳でもないので馬超達の戦いがどう推移したのかは分からない。
だが、突然叫んだホウ統の言葉から何かしら進展があったことは間違いなかった。
「はい。
馬超殿の戦いは一時休戦です。
それと引き替えに手に入れた情報は…
『荊州での借りを返した』
『むかつく』
『小心者』
『陰険野郎』
『今度は俺の手でぶっ殺してやった』
です」
「秋茜さん!そのまま関羽に伝えて」
「了解」
ホウ統の言葉を関羽に伝える役目を茜に頼むと玄は考え込む。
「ホウ統分かる?」
「…す、すいません。
その言葉から考えると時期的には玄徳様達が劉表殿の庇護下にいた時ではないかと思います。
ですが私が玄徳様の軍に合流したのは赤壁の後ですので」
「そっか、そうだよな…
ていうことは劉備軍が新野にいた時代。
その頃に張飛がそこまで恨みを抱く人物か…」
呟いた玄が高速で脳内の三国志の知識を反芻する。
「劉備軍が荊州新野城にいたころから赤壁の戦いまでっていうと…」
曹操と袁紹の河北での争いから逃げ出してきた劉備はこの頃、劉表の庇護下にあり客将として曹操に対する防衛のため新野城という小城を守備していた。
そして河北を平定した曹操がついに荊州の牧であった劉表を攻めるため兵を率いて荊州へ南下を始めるのである。
曹操から荊州を守るべく戦の準備をする劉備だったがその直前に庇護者であった劉表が病没してしまう。
その劉表の跡を継いだのはやや病弱ではあったが長男で嫡子の劉琦ではなく異母弟のまだ幼い劉琮だった。
その劉琮は後見の者達のすすめにより戦わずして曹操に降伏。
劉備は最前線で事実上孤立してしまう。
さらに新野は攻めるに易く守るに難い場所であったため諸葛亮は新野の守備は不可能であると判断、新野を放棄し劉琮領へと撤退するのである。
劉備は劉琮の居城で荊州統治の拠点である襄陽へと向かうが、既に曹操に降伏していた劉琮軍の将、張允により矢を射掛けられ入城を拒否されてしまう。
進退に窮まった劉備は諸葛亮の進言によって江陵を目差す事になる。
しかし、このとき劉備軍は劉備を慕い曹操の統治を嫌った多くの領民を連れていた。
領民を連れて南下する劉備軍は当然進行に遅れが生じてしまった。
そして長坂という所で遂に曹操軍に追いつかれてしまうのである。
曹操軍の大軍の前に領民を守りつつ戦えるはずもなく劉備軍は敗退を余儀無くされる。
それでも優れた将に恵まれていた劉備は長坂橋でただ一騎で曹操軍を足止めした張飛。
混乱の中はぐれた参謀の糜竺や劉備の妻である糜夫人・甘夫人さらには嫡子である阿斗(後の劉禅)達を曹操軍の中を一騎で駆け抜け救いだした趙雲。
(ただし阿斗を抱いた糜夫人は重傷を負っており、趙雲の足手まといになるまいとして趙雲に阿斗を託すと、傍に在った井戸へと身を投げてしまっている)
2人の活躍もあり何とか曹操軍を足止めした劉備軍は虎口を脱し、跡目争いのため襄陽から遠ざけられていた長男の劉琦のいる夏口へと逃れることができた。
そこで劉備は後の呉の君主孫権と曹操を撃退するための同盟を結ぶのである。
「ここまでが荊州から赤壁まで…
この後は戦場が長江沿いに移るからおそらくこの間に張飛に恨みをかった人物。
可能性としては曹操に降伏して劉備達を締め出した劉表配下の誰かか、劉備軍を追撃した曹操軍の誰か」
「いえ、おそらく曹操軍の中の誰かである可能性は低いと思います」
「え?でも荊州での恨みなら曹操軍にだってあるんじゃ」
「今回得た情報の中には『むかつく』といった張飛殿のその人物に対する感情と『小心者』『陰険野郎』などといったその人物自身に関するものがあります」
ホウ統の言葉に玄は頷く。
「そこから分かるのは撤退戦などの慌ただしい場面での邂逅ではなく、有る程度その人物のひととなりを知っているということです」
「あ!なるほど…
確かに戦場でぶつかっただけじゃ陰険かどうかなんて分からない。
陣立てして長期戦でもしてれば戦術からのイメージで小心者や陰険って言葉が出てくる可能性はあるけど荊州ではそんな戦はしてない」
「はい、となれば残りは劉表殿に仕えていた方達の誰か…ということになります」
「劉表配下か…その辺はあまり詳しくないけど…
ぱっと思いつくのは蔡瑁、張允、伊籍、カイ越、カイ良、黄祖あたり…
確か黄忠も当時は劉表の下だよね。
…あとはメジャーとは言いにくいけど霍峻、王サン、向朗、傅巽、文聘なんかもいたはず」
「そうですね。
当時の荊州は人材が集まる場所でしたのでもちろんもっとたくさんの方がいらっしゃいましたが…
このげぇむが100人という枠で行われているのならば、現代を生きる玄殿がとっさに名前を挙げられない方達はおそらく採用されていないはずです」
ホウ統の言うことに玄も頷く。
三国志という物語の中に出てくる名前がある武将達の数は比較的著名な人物だけでも優に200人を超える。
さらに後世の書籍等に残されていない武将達を含めればその数は数え切れないだろう。
そんな中からゲームの為に100人を選ぶならプレイヤー達が当然知っているような、後世になっても超がつくほど有名な武将達を選ばなければならないはずである。
「その中で後に劉備様と共に戦われた伊籍殿、黄忠殿、霍峻殿、向朗殿は除いても良いと思います」
「そうするとかなり可能性は絞られるか…」
「玄徳水さん、伝えといたわよ。
なんか納得顔な感じだったから見当はついてるのかも」
「よし!
ホウ統、俺は関羽に今の名前を伝えてくる」
「わ、わかりました」
玄は手元のVSを操作して視点を関羽に近づけると激しく撃ち合っている関羽の斜め後方から声をかける。
「関羽!
張飛の右腕の候補が絞れてきたから、今から言うよ」
「…しばし待て」
玄の言葉に短く言葉を返すと関羽は張飛の蛇矛を連理で受けそのまま押し返すかのように押し込んで張飛の動きを止めた。
「ぬ!」
動きを止められた張飛はいらだたしげに呻くと蛇矛を引き再び攻撃を繰りだそうとする。
その僅かな動きに合わせて関羽は更に連理を押し込むと勢いに任せて右脚で張飛の胴を押し出すように蹴る。
「ち!」
関羽の脚力に押し出された張飛は体勢が崩れていたこともあり、堪えきれずに後ずさる。
関羽も張飛を蹴った反動を利用して大きく飛び退いて間合いを広げた。
「この間は長くは保たぬぞ」
「分かった。
こちらで可能性があると考えたのは蔡瑁、張允、カイ越、カイ良、黄祖、王サン、傅巽、文聘あたりなんだけど名前を聞いて思いあたる人はいる?」
関羽は並べられた名前を聞いてくっくと顎髭を揺らす。
「ならば間違いはあるまい」
「え!分かるの!」
「右腕の動きから荊州辺りに多い流派だということは分かっていた」
「そうか…
中国は広いから武術の流派とかも地方によってあるていど色が出るんだ」
関羽は小さく頷くと再び襲いかかってこようとする張飛に連理を向けて牽制する。
「そしてあの頃の翼徳がそこまで悪し様に罵るのは1人しかおらぬ」
ギィン!
関羽は答えながらいつの間にか間近にまで接近してきて繰り出された突きを連理で下から跳ね上げた。
「そうであろう、蔡瑁!」
関羽の突き刺すような視線と言葉に明らかに張飛の右腕がビクッと震えた。
「蔡瑁か!」
その一瞬の反応は張飛の動きとはあまりにも異質で右腕独自の反応であることを窺わせた。
そしてその動きに玄は関羽の言葉は正しいと確信する。
蔡 瑁字は徳珪
中国後漢末期の武将。
襄陽郡の人。
荊州の有力豪族の一人。
姉が荊州太守劉表の後妻として嫁ぎ、姪が劉表の次男である劉琮に嫁いだため姉と共にその勢力を増大させ劉表の側近として重用された。
蔡瑁は劉琮を後継者にするために張允や姉と共謀し長男の劉琦を暗殺しようとしたり、国を乗っ取られるのを怖れて劉備を暗殺しようとしたりするがいずれも失敗。
劉表は死の間際、劉備の助言に従い劉琦を後継者に指名するが蔡瑁は劉琮を後継者にすべく遺言を偽造し劉琮を後継者とすると荊州の実権を事実上握った。
だが、ほぼ同時に曹操が大軍を率いて南下してきたため蔡瑁は戦わず降伏することを決める。
その後、蔡瑁は赤壁においての孫権との決戦に際し自軍に水上戦に長けている将がいない曹操から水軍都督として指揮を任される。
だが、蔡瑁の水上戦の知識と能力を侮りがたしと判断した呉の周瑜の策により、曹操に離反の疑いをかけられ張允と共に処刑される。
「確かに蔡瑁なら張飛の言葉は全部当てはまるし、張飛が嫌悪している理由も分かる!」
「蔡瑁殿ですか…
確か烏林の戦いで周瑜殿の離間の策で曹操殿に処断されたのでしたね」
成り行きを見守っていたホウ統が確認するように呟く。
「うん、三国志演義では赤壁の戦いって言う有名な一戦の中の出来事なんだけど…
たしか周瑜の旧友だった蒋幹が魏の密偵として呉の陣営に訪れたときに偽造した蔡瑁からの密書をわざと盗ませてそれを見た曹操が怒って蔡瑁達を処断した。
ってことになってる」
「は、はい。概ねその通りです。
そのことで水軍を指揮する者がいなくなってしまったからこそ私の連環の計に曹操殿は頼らざるを得なくなってしまったのです」
赤壁の戦いとは大河を挟んだ水上での大合戦である。
それまで陸上で騎馬を用いて戦ってきていた曹操軍は、慣れない船上での戦と長期の遠征での疲労から船酔いや疫病に悩まされていた。
それでも大兵力による優位と水上戦に明るい蔡瑁や張允の力で水上戦巧者の呉軍との戦いを優位に進めていたのである。
しかし、周瑜の策により曹操軍は蔡瑁と張允を処刑してしまった。
これにより曹操軍は水上戦の指揮がおぼつかなくなってしまう。
そして指揮の不安は瞬く間に兵士達にも伝播する。
士気が落ち不安に駆られれば更に兵士達の体調が崩れていくという負の連鎖に陥っていたのである。
そんな時に曹操軍に現れたのが鳳雛として名が知られつつあったホウ統だった。
そしてホウ統が曹操に請われ進言した策が船と船とを鎖で繋いで1つの要塞のようにするという連環の計。
船同士を鎖で繋ぐことで揺れを抑えられるため兵士達の船酔いを抑え士気を保つことが出来ると説明された曹操軍はこれを採用した。
しかし、これが原因で曹操軍は呉軍の火計に対し即座に船を切り離すことが出来ず壊滅的な損害を被るのである。
「でも、関羽と出会う前で自己暗示も出来なかった時期だったはずなのによく曹操を説得できたね」
「は、はい。
自分の言葉で話そうとすると、だ、駄目なので…
あらかじめあらゆる状況を想定した問答集のようなものを作成したのです。
わ、私は書を諳んじることは得意でしたから後は状況に合わせて暗記した部分を言葉にするだけで良かったのです」
「え?
それって想定外の成り行きになったらいつものホウ統になるってことでしょ?」
「お、おそらく」
玄は絶句し大きな溜息をつく。
つまりホウ統はありとあらゆる状況を想定した自作の本を全て暗記し相手の言動に合わせて暗唱していたということだ。
「い、一応聞くけどその問答集ってどのくらいの量があったの?」
「た、確か全部重ねると私の背丈ぐらいだったかと」
「げ!
だよなぁ、あの曹操を説き伏せようと思ってありとあらゆる可能性を考えたらそのくらいの量はむしろ当然だよ…
それを全部暗記して状況に応じて回答するって教科書を丸暗記するテスト勉強じゃあるまいし」
「玄殿!あれを」
歴史的な転機とも言える出来事が膨大な努力と才能に裏付けされた壮大な『一夜漬け』だったことに微妙な驚きを感じていた玄が我に返る。
「腕が…」
関羽の言葉に反応を示してから、その後は沈黙を保っていた腕がゆっくりと蠢きだしていた。
その蠢きの速さが徐々に速くなっていくと同時に腕の色が変わっていく。
今までは浅黒い腕だったものが今や完全に腕の形をした黒い物になっている。
それは単純な濃淡だけの問題ではない。
肌の質感までをも黒く塗りつぶし、てらてらと光を反射する。
その異様をもし例えるなら腕の形をしたコールタールというのが最も近いだろうか。
『くくく…』
異様な光景に眼を奪われていた玄達の耳に低く掠れて聴き取りづらい不気味な笑い声が聞こえてくる。
もちろんそんな笑い方をするような人物は玄の知る中にはいない。
「なにこの声…気持ち悪い」
茜が不安気に呟き、玄に身を寄せてくる。
『よく分かったではないか』
「腕が喋ってるんだ…」
聞こえてくる声の不気味さに玄も恐怖を感じない訳ではない。
だが近くに感じる茜の体温に男として不甲斐ないところを見せる訳にはいかない。
「ふん、久しいな蔡瑁」
言葉面とは裏腹に関羽の言葉は殺気によって薄く研ぎ澄まされている。
『くくく…相変わらず怖いなぁ、関羽』
その声はどこか狂気を感じさせる雰囲気を漂わせている。
「お前は見る影もないがな」
『くく、これは失礼した』
揶揄するような関羽の言葉にそう答えると再び黒い腕が蠕動を始め、肩の辺りが人の顔の形に盛り上がっていく。
それはまるで大きな風船の中から顔を押しつけて突き破ろうとするかのような光景。
誰しもがその様子に眼を奪われる中、ただ一人ホウ統だけは張飛の状態に危機感を強めていた。
張飛は自らの右腕でそんな異常な出来事がおこっているにも係わらず虚ろな眼のまま抵抗らしき行動を一切取ろうとしていない。
(…あまり時間はかけられません)
かと言って具体的な対処方法が分からない以上は今しばらく成り行きを見守るしかない。
『これで少しはマシになったかね?』
そんなホウ統の視線の先で空に向かって顔の形に盛り上がっていた塊がゆっくりと向きを変え関羽を見た。
にぃと口を歪めて笑うその顔はまるでデスマスクのようで一層不気味さが増す。
「確かに比翼や連理からも意志のようなものは感じられるけどあそこまで完全な自我はきっとない」
「はい、蔡瑁殿も従前の旗のままだったならばこのように話したりすることはおそらく出来なかったはずです。
推測に過ぎませんが、華佗殿の術により一度定められた道具から再び変質させられたことで蔡瑁殿を拘束して縛っていた何かが緩くなってしまったのかもしれません」
「…アイテムとして変化させていたものを再び変化させたことでシステムにバグのようなものが起きたってことか。
確かに試作品として銘打ってるんだからバグくらい出るのは当たり前だけど…」
俗にいう試作体験版やβテストというものは開発者とは関係のない不特定多数にソフトを操作してもらってゲームバランスや操作性の不備、システム的なバグ等を発見してもらうためのものである。
だから試作体験版であるこの三国志武幽電にもシステム管理者が想定していなかったようなバグが起きることも当然考えられる。
だが問題なのはそれがシステムとして規定されているものなのかバグなのかを玄達が判断する術がないということである。
このゲームにはシステム管理者への要望や苦情を出す機能は付いていない。
「ふむ、お前の権勢欲にまみれた顔は今も昔も変わらぬな」
『ふくく、よいのかなそんな口をきいて。
お前はこの力だけの馬鹿を助けたいのでは無かったかな?』
そういと蔡瑁は張飛の身体へと自らの身体を構成する黒い物体をじわじわと張飛の右胸辺りへと拡げていく。
『ふん、意外と粘りよる。
だが私がこいつの身体を完全に奪い取るのも時間の問題だ』
「お前こそ勘違いするなよ蔡瑁」
『な、何を勘違いするというのだ。
あ、こいつを人質にしている私の方が明らかに有利ではないか!』
関羽の冷たい殺気を正面から当てられながらもそれだけ言い返せるのは有る意味賞賛に値する。
「それが間違いだと言っている。
人質というのは無事でなければ意味などない。
お前が完全に張飛を乗っ取るのなら最早それは張飛ではない」
『む、ぐぅ』
淡々とそれでいて強く鋭い関羽の言葉に蔡瑁は完全に気圧されている。
「我が義弟ならばそんな状態でおめおめと恥を晒すことを是とするはずがない。
だが、もしお前ごときに乗っ取られるほど落ちぶれるようならば義兄であるこの関雲長自ら斬って捨てるまでのことだ」
「あれが関羽雲長なんだね…
蔡瑁ごときとはモノが違いすぎるよ」
馬超がホウ統の下に戻ったことで関羽達の動向を共に見ていたのだろう武仁の呟きが聞こえる。
「確かにな。
結局我ら五虎将は一堂に会することはかなわなかったがその筆頭として関羽殿が指名されたのも頷ける。
いや、関羽殿以外にはつとまらなかったであろうな」
答える馬超の声にも関羽に対する賞賛の響きがある。
関羽と出会ってからまだ日は浅いがそれでも感じるものがあったのだろう。
五虎将は正式には五虎大将軍という。
これは漢中を平定し、漢中王となった劉備が諸葛亮の進言により信頼と功績のある武将5人に授けた称号である。
この時、選ばれたのは関羽を筆頭に張飛、趙雲、馬超、黄忠の5人であった。
「五虎将の称号自体は後世では架空のものだとする説が主流だけど、本当にあったの?」
武仁の問いに馬超はふ、と自嘲の笑みを浮かべると誰にともなく呟く。
「架空のもの…か。
確かにそうかもしれんな。
五虎将が揃っていた時は余りにも短い」
「…そっか」
馬超の言葉から言いようのない寂しさのようなものを感じてしまった武仁はそれ以上馬超へ問い返すことができなかった。
馬超の言うとおり5人の英雄達は五虎将の称号が与えられた後、立て続けに不遇の死を遂げる。
まず筆頭であった関羽が魏を攻めている最中に同盟を一方的に破棄して後背から攻め寄せた呉との戦で戦死。
その弔い合戦の準備中に張飛が部下の謀反により世を去る。
更に呉への遠征中に黄忠が無謀とも言える突撃を敢行して戦死。
そしてその戦の敗戦後まもなく馬超自身も病没していた。
蜀が誇る五虎大将軍は僅か3年程の間に趙雲を除く4人全てが立て続けに欠けてしまったのである。
そのため五虎大将軍という称号は蜀内においてすら定着しなかった。
それゆえに確たる資料も残されておらず、その存在を歴史家達が証明することが出来なかったとしても無理はないだろう。
『な、ならば!
こいつを完全に支配しない程度に操って攻撃させれば、お前は私にとどめをを刺せないということだろう』
関羽の威風に押されつつも自らの信じる優位を盾に強気の発言を続ける蔡瑁。
「ふん、かもしれんな」
連理を構えたまま蔡瑁を見据え不敵に笑う関羽の顎髭がふわりと揺れる。
いざとなれば本気で張飛を斬る覚悟がある関羽にとって蔡瑁の指摘は余りにもぬるい。
無論関羽とて張飛を救うためにあらゆる手だてを尽くすつもりだが、蔡瑁が操る張飛の攻撃ならばいつまででも凌ぎ続ける自信がある。
そうであるならば蔡瑁に張飛への乗っ取りを思いとどまらせただけで関羽にとっては十分だった。
関羽は時折聞こえてくる玄や茜の声、そして2人と話しているだろうホウ統を思い僅かに口角を上げる。
(次はお前達の仕事だ)
知らぬ間に関羽から解決を託された玄達はそれぞれでどうすればよいかを思案しているところだった。
「玄殿!
今の蔡瑁殿の言葉を聞きましたか?」
だが、今の関羽と蔡瑁のやりとりを聞いたホウ統が急に顔を上げ声を張り上げる。
「え?
う、うん、聞いてたけど?」
急に大きな声を出したホウ統にびくっとしながら玄が答える。
「今まで蔡瑁殿が変化していた腕をどんなに攻撃しても効果は有りませんでした。
その様子から蔡瑁殿を物理的な攻撃で退けることは出来ないと私は思っていました。」
「そうだね確かに…それが?」
「だとすると今の関羽将軍と蔡瑁殿の会話は些か不自然です」
「不自然?…あ!」
そこまで聞いてホウ統が言わんとするところを察した玄が声を漏らす。
「はい、今の蔡瑁殿の言葉は明らかに関羽将軍の攻撃を恐れています。
あれだけの攻撃を受けても全く傷を負わなかった蔡瑁殿ですが、それでもまだ関羽将軍を怖れる理由があるということです」
「なるほど…確かに。
じゃあ蔡瑁は一体なにを怖れてる?」
「今の話の流れから言えば、蔡瑁殿が怖れているのは腕部分の自らの身体への攻撃ではなく張飛殿への攻撃だと思われます。
あくまでも推測ですが蔡瑁殿は既にこの世界においても死者。
故に自分への攻撃は効きませんが、意志を持ち存在しつづけるためには張飛将軍の身体が必要なのではないでしょうか」
「そうか!
蔡瑁は寄生虫と同じなんだ。
だから宿主である張飛が死んでしまえば自らも存在することは出来ない」
玄が頷く。
しかし、その玄の袖をくいくいと茜が引っ張る。
「ねぇ、でもそれってレンの比翼や関羽さんの連理なんかも同じことよね。
持ち主がこのゲームで負けてしまったらその人が勝利してアイテム化したものも消えちゃうんだから」
茜の言葉に玄は再びあ、と声を漏らす。
「そっか…確かにそうだった。
蔡瑁の異様さに惑わされてたけどそれなら本来の持ち主である張飛が倒されることを怖れるのも理解出来る」
「ですが、私達は張飛将軍を倒してしまう訳にはいきません」
「もちろん分かってる」
いくら蔡瑁を倒す方法が分かっても、そのために張飛を倒してしまっては本末転倒である。
玄は武幽電のシステムをもう一度よく思い出しながら良い方法がないかと思考をフル回転させる。
「確かにアイテムは所有者が死んだら消える。
それは孫策が装備していた武器や防具が消えていたから間違いない」
玄が呟いている間に関羽は再び張飛(蔡瑁)との打ち合いを始めている。
「でも張飛を倒せない俺達はどうする?
…確か初期装備の剣以外は原則フィールドから自動で戻ってこないはず。
ならアイテム扱いの蔡瑁を切り離して張飛にフィールドから離脱してもらえば…」
「なるほど…で、ですが、そのためにはどうしても張飛将軍自身の協力が必要です」
玄の考えにホウ統からの適確な指摘が入る。
確かにフィールドから離脱するとなればその操作はプレイヤーに委ねられる。
張飛が今、操者とどういう関係にあるのかは分からないがいずれにしても張飛本人がその気になってくれなければ玄の案は難しいだろう。
「ね、意志があるって意味じゃ悪来も一緒じゃない?」
「そうですね…今までの流れから行けば悪来殿と蔡瑁とやらは同じような状況なのではないでしょうか」
茜の言葉に孫仁も同意する。
「あれと一緒ってのはいい気はしねぇな」
うげ、と嫌そうな顔をする悪来に孫仁は慰めるような笑みを浮かべる。
「ちょ、ちょっと待ってよ…
もし、悪来と一緒だとしたら生物系のアイテムは武将が戦場から帰ると一緒に帰ってくるから斬り離してフィールド離脱の方法は使えない」
「となればやはり今は華佗殿の言葉を信じて動くしかありません。
第一は張飛将軍に正気に戻って頂くこと。
もう一つは蔡瑁殿の心を折ること」
「どっちも人の心に関する部分で難しいわね」
「…うん、でもとにかくやるしかない。
関羽には苦労をかけるけど戦いながら張飛と蔡瑁二人にいろいろ話しかけて貰って情報を集めて貰おう」
玄の言葉にホウ統も頷く。
「関羽将軍にお伝えください。
この世界に呼び出された武将達の中でこの世界に執着する者はなにかしら生前にやり残したことがあるはずです」
「わたくしや関将軍のように…ですね」
「はい、それを知ることが張飛将軍や蔡瑁殿に訴えかけるためには必要だと思うのです」
「了解」
すぐさま玄は視点を調整して蔡瑁と激しく打ち合っている関羽に近づくとその旨を告げた。
「ふん、雛とひよこではまだまだその程度か」
張飛が張飛であった時はほとんど会話をする余裕もなかったが今はこうして玄やホウ統に皮肉を返す余裕もあるらしい。
同じ身体でもそれを使う魂が違えばこうまで違うらしい。
「ごめん、せっかく関羽が頑張ってくれてるのに…」
「ふん、とは言え翼徳を救いたいというのは我の望み。
多少は仕事が増えるのもやむを得まい」
不敵に笑う関羽からは怒りの気配はない。
蔡瑁を斬り離し張飛を元に戻すということが容易ではないことは間近で戦っている関羽が一番よく分かっているのだろう。
「それにおまえ達の話で分かったこともある」
「え?」
「ようはわが愚弟にきつい灸を据えて正気に戻せばよいということだ!」
そう言って勢いよく踏み込んだ関羽は張飛の蛇矛を強く叩く。
その連理を今度は素早く引き戻すと
ぶぉん!
まさに渾身と言わんばかりに鈍い風切り音をさせながら右から横凪ぎに振るう。
蛇矛を弾かれ体勢を崩していた蔡瑁はその迫力に押されたのか僅かな反応すらできなかった。
ごん!と思わず耳を塞ぎたくなるような鈍い音と共に張飛の左側頭部に連理の刃のやや手前の柄が叩きつけられる。
「うっわ!」
「嘘でしょ!」
玄と茜がほぼ同時に驚きの声を漏らす。
なぜなら視点を関羽に寄せていた2人の目の前で連理の一撃をもろに受けた張飛がその場で回転していたからである。
さすがに一回転までするようなことはなかったがその場で200度余り回転しうつぶせに地面に落ちたときには本来関羽から見て左を向いているべきであろう頭頂は右を向いていた。
「ちょ、関羽!さすがにやりすぎじゃ…」
「ふん、翼徳は我が唯一我より強いと認めた漢。
この程度でなんとかなるはずもない」
関羽は小さく鼻を鳴らす。
「そうであろう、翼徳!」
地面に倒れ伏す張飛を見下ろして一喝する関羽。
その左足が張飛の右手首をしっかりと踏んでいるのは蔡瑁に不意を突かれるのを警戒してのことだろう。
『ば、馬鹿な…
あんな一撃を側頭に打ち込むなど死んで当然だぞ!
しょ、正気か貴様!』
その足の下でもがきながら叫ぶ蔡瑁を関羽は完全に無視。
だが、その言葉を聞いた玄も蔡瑁の言い分に同意である。
いくら張飛が歴史に名だたる豪傑だったとしても鍛えようのない側頭部に関羽の力で、おそらく鋼よりも堅い連理の柄を叩きつけられれば普通は頭蓋が陥没する。
そうなれば悪くて即死、運良く一命を取り留めても重大な障害が残る可能性が高いだろう。
「…っつつつ」
そう思って肝を冷やした玄の眼前で張飛がぴくりと動き声を漏らす。
「え?」
しかし、その声は苦しげにうめくようなものではない。
「いってぇ…」
左手で殴られた箇所をさすりながら痛みを訴える張飛。
だがそれはせいぜい柱の角に頭をぶつけた程度のものであり、とても常人なら死に至るような一撃を受けたとは思えない。
もろに顔面から地面に落ちていた張飛は地面にめり込まんばかりだった顔を右に向け横目で上を見る。
「う、ん?あぁ兄貴か…どうりで痛ぇ訳だ」
「私が誰だか分かるな?」
「あぁ?
あたりまえじゃねぇか。しばらく会わないうちに惚けたんじゃねぇだろうな兄貴」
どこかぼ~とした眼を向けながら張飛は呆れた口調で答える。
「ふん、惚けているのはお前だ!
今がどういう状況で、どうしてここにいるのか分かっているか」
「ん?確か…」
『きひぃぃ!
やめろやめろ!この身体は私のものだ!』
張飛が正気に戻りつつあるのを繋がっている蔡瑁は敏感に感じたのだろう。
焦りを隠せない金切り声を上げる。
「黙れ」
関羽は無表情に言い放つと張飛の右肩辺りに顔の形で浮き上がっていたものの中心を連理で突き刺す。
『うぎぃぃぃ!』
くぐもった悲鳴と共に蔡瑁の顔が歪む。
ぐにょぐにょと蠢きながら連理の刃を避け別の場所へと移動していく蔡瑁にふんと鼻を鳴らした関羽は再び張飛へと視線を向ける。
「ああ…そうだった。
確か、馬超とやってる最中にじじいが余計なことして…
あぁ?それからどうしたんだっけな」
まだ頭がはっきりしないのか眠たげな声で張飛は呟く。
「や、やはり右腕が蔡瑁殿になってからの意識は大分影響を受けてるみたいです」
張飛の記憶が曖昧になっている時期と右腕に蔡瑁を付けた時期は一致している。
「思い出せなければ教えてやろう。
お前は蔡瑁ごときにまんまと意識を乗っ取られた上にこの兄に向かって本気で刃を向けたのだ」
「…馬鹿言うな。
俺が兄貴に本気で刃を向ける訳ねぇ。
あの時に約束したんだからな」
だんだんとはっきりした口調に戻ってきた張飛のその言葉を聞いた関羽の髭がいつもより大きく揺れた。
「ふん、覚えていたか」
その声が今まで聞いた関羽の声の中で一番嬉しそう聞こえたのは玄の勘違いだろうか。
「忘れる訳ねぇ…
俺が兄貴との約束を忘れる訳ねぇよ」
「あれは、徐州で曹操に捕らわれていた私が兄者の所在を知り曹操に別れを告げ兄者のところへと戻る途中だったな」
関羽が静かな口調で張飛に語りかけるのを聞いた玄があ、と声を上げる。
「そっか…千里行の時か」
「え?それって確か関羽が劉備の奥さん連れて曹操のところから逃げる話よね」
「演義だとそうかな。
実際は1人だったって説もあるけどね」
199年頃、呂布に奪われていた徐州を曹操の手を借り奪い返すが徐州は実質曹操のものになっていた。
だが劉備は曹操の部下で徐州刺史であった車冑を斬り徐州を奪う。
しかし、すぐさま東征してきた曹操の攻撃を受け敗北。
劉備と張飛は命からがらちりぢりに逃走する。
その後劉備は河北の雄、袁紹を頼るが張飛は行方知れずになってしまう。
そして別の城を守っていた関羽も曹操の大軍の前に捕虜となってしまう。
だが優秀な人材を愛する曹操は関羽を非常に手厚く遇する。
だが関羽は劉備を裏切ることはせず、曹操への恩返しが済んだら立ち去るつもりだった。
その後、曹操と袁紹が戦争(官渡の戦い)になると関羽は曹操軍が手こずってた袁紹軍の猛将顔良を討ち取る。
そして、この時の戦で袁紹軍に劉備がいることを知った関羽は顔良を討ち取るという恩を返したことで曹操に手紙を送り別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の下へ去るのである。
この時、曹操の「行かせてやれ」という指令を受けなかった、または無視した曹操麾下の者達の妨害をはねのけながら劉備の下へと向かう関羽の道程を三国志ファンの中では関羽の千里行と言うのである。
「確かその道の途中で山賊まがいのことをしていた張飛と関羽は再会したってことになってたはず」
その辺りの話は三国志関連のゲームでもシナリオに取り上げられやすい場面なので茜もよく知っていたので静かに頷き成り行きを見守る。
「私が兄者を裏切ったと勘違いしたお前は私を斬ろうとしたんだったな」
「あぁ…懐かしいな。
すぐに勘違いだと分かった俺は速攻で土下座したっけなぁ。
そんときに兄貴と約束した。
もう二度と兄貴を疑わない。
今後は何があっても兄貴に本気で刃を向けることはしねぇって」
張飛の力の籠もった言葉に関羽は満足気に頷く。
「そうだな。
おまえは馬鹿だが、私と兄者に嘘をついたことはなかった。
まぁ、嘘はつかなかったが気に入らないことがあると暴れたり泣いたりすることはしょっちょうだったがな」
苦笑気味な関羽の下でぼんやりと上を眺めていた張飛が小刻みに震えていた。
「……」
「まさに今のようにな」
「……あぁ、兄貴だ。本当に兄貴が目の前にいやがる」
張飛は大粒の涙を惜しげもなくこぼしながらゆっくりと身体を起こして胡座をかく。
もちろん右腕は地に縫いつけられたままのため若干右に傾いている。
「こんなことになって、もしかしたら会えるかもしれねぇ。
死ぬほど会いてぇと思った!
けどよぉ…もう二度と会わねぇ、会わす顔なんてねぇと思ってたのによぉ」
「……」
「俺が…俺が馬鹿だったせいで兄者を1人にしちまった!
あれほど酒を飲んで部下に暴力をふるうなって言われてたのに。
死んじまった兄貴の分まで俺が兄者を助けなきゃいけなかったんだ!」
涙を流しながら左の拳を地面に何度も叩きつける張飛。
関羽の死後、あまりの悲しさと怒りを忘れるために酒量が増えていたこと。
さらに蜀漢皇帝の立場から出兵を渋る劉備を強引に説き伏せ呉への侵攻が決まったことで気合いが入り過ぎてしまっていた。
そして酒の勢いにまかせ部下に無理難題を押しつけた。
結果として張飛は懲罰を恐れた部下の張達と范彊に殺害され、劉備は失意の中で呉へと侵攻し敗北してしまうのである。
「だから玄徳様がこの関の先にいると知っているのに会いにゆけなかったのですね…」
自らも劉備に顔向け出来ないと思っている孫仁には張飛の気持ちがよく分かる。
今まではどこにいるのかすら分からなかった為あまり深く考えずに進んでこれたが、いざ居場所が分かっていたら最後の一歩を踏み出せたかどうかは分からない。
「翼徳……兄者に顔向け出来ないのは私とて同じこと。
敵を侮り後方への注意を疎かにして、退路を断たれるなど愚将もいいところだ」
関羽の最後の戦いは魏への侵攻戦の最中、呉への警戒を怠り背後から崩されたことによるものである。
「兄貴…」
「都合の悪いことを隠そうとしたり誤魔化そうとするのはお前の悪い癖だ」
泣きながら身体を震わせる張飛に関羽は優しく諭す。
「我ら兄弟、2人揃って兄者に叱られにいこうではないか。
我ら義兄弟が再び3人揃うことが出来るなら叱られることなどむしろ喜びではないか」
関羽の言葉にはっとしたように顔を上げた張飛の顔がゆっくりと喜色に満ちていく。
「あぁ…ああ!そうだ、そうだな!
兄貴も一緒なら兄者に叱られるのも悪くねぇ!」
「だが、翼徳。
お前も分かっておろう。
その前になんとかしなければならんぞ」
ようやく本当の張飛と再会したことでいつになく穏やかだった関羽の周囲がピンと張り詰める。
「ああ…わかってる」
そう応える張飛には先ほどまで号泣していた素振りなど全く感じられない。
その眼から剣呑な光を放ちながら地に縫い止められた右腕を睨み付ける。
「あのじじい!
余計なことしやがった上に厄介なもん押しつけていきやがって。
おら!蔡瑁!さっさと出ていかねぇとまた刻むぞ!」
『ひ、ひぃ!…ひひひ、や、やれるものか!
この身体になってからはほとんど痛みも感じぬ!
お前らの脅しなどいかほどでもないわ!』
張飛と戦った時に余程手酷く痛めつけられたのだろう、強気の言葉とは裏腹に蔡瑁は明らかに怯えている。
「っの野郎!蔡瑁ごときが生意気な口ききやがんじゃねぇ!」
「待て」
かっと目を見開き、歯を剥き出しにし今にも噛みつかんばかりの張飛を関羽が制止する。
「おう」
関羽の言葉に即座に反応した張飛は面白いくらいに素直に頷き大人しくなった。
おそらく関羽に全幅の信頼を寄せているせいだろう。
「蔡瑁、お前はなぜここにいる?」
静かに問いかける関羽に右腕の肘あたりに顔を移動させていた蔡瑁が怪訝な表情を浮かべる。
『なんだと?』
「そんな姿になってまでこの世界にとどまろうとする理由はなんだと聞いている」
『……』
「お前は大それた野心を抱くような器ではあるまい。
せいぜい一州の統治を任されるようになれば充分。
その程度であろう?」
(うわぁ、身も蓋もないな関羽)
堂々と相手の器の小ささを指摘する関羽に内心でひやりとする玄のことなどお構いなしに関羽の言葉は続く。
「であるならばこのような世界に来てまで生に執着することはない。
ここには富も名声もないのだからな」
確かに関羽の言うことは正しい。
この世界で戦わされている武将達はどんなに勝ち続けても富も名声も得ることは出来ない。
データ化された霊魂である以上当然飲食も出来ず、食の楽しみもない。
そのくせ傷の痛みだけは本物同然。
しかもどんなに深い傷を負っても死にさえしなければすぐに回復してまた戦わされるのである。
そんな世界に好きこのんで残りたい人は普通はいない。
だが、このゲームではプレイヤーに強制されて無理矢理ここで戦わされるということはあり得る。
しかし蔡瑁はすでに一度敗北し、自らはアイテム扱いになっているためプレイヤーの支配下にはない。
関羽は蔡瑁に自分達のような個人的かつ強い望みがあるとは思えなかったのだろう。
『…くくく、確かにな。
私の器など所詮その程度のものだ。
だが私の甥は違う!』
「甥?」
『そうだ!荊州の真の主である劉ソウのことだ』
「ふむ、確か劉キには異母弟がいたな」
『ひひっ、あんな病弱な奴と一緒にするな!
そこそこ目端は利くが病弱で凡庸だったあいつとは違い劉ソウは幼い頃から才気に溢れていた』
(演義だと劉ソウの能力的な話は出てこないんだよな…
それに確か劉ソウは…)
蔡瑁の話を聞きながら玄は自らの知識から劉ソウのことを掘り起こす。
『曹操に降伏したため荊州こそ明け渡しはしたが、青州で刺史として経験を積み大成した劉ソウをこの世界で見つけ我らを見下していた奴らに復讐するのだ。
劉ソウに今の私の力があれば出来るに違いない!』
「関羽。確か劉ソウは ― ― ― はずだよ」
ひゃははと笑声をあげる蔡瑁を冷たい視線で見下ろす関羽の背中に玄は声をかける。
関羽はその言葉に右の眉を一瞬だけぴくりと動かすと小さくふ、と息を吐いた。
「蔡瑁、劉ソウが青州で大成したというのは誰に聞いた?
そのころお前はすでに呉との戦の中で死んでいたはずだ」
『なに?
そ、それは……曹操の近くに仕えていた者からの信頼出来る情報だ!』
僅かに歪んだ蔡瑁の表情を見ながら関羽は更に続ける。
「曹操の近くに仕えていたということと情報の信頼度とは全く関係ない」
『う…あ、いや!
そんなはずはない!劉ソウをいずれ荊州の刺史とすることが荊州を明け渡す時の条件だった!
曹操は確かにそれを認めた!』
右腕から飛びださんばかりに顔を露出させながら叫ぶ蔡瑁。
「蔡瑁、曹操はそんな甘い漢ではない。
そんなことは分かっているはずだ。
あの漢が後の禍根となるような者を生かしておく訳などない」
『な、ならば劉ソウはその後どうしたというのだ!
青州の刺史にならずどこか僻地に追いやられたとでも言うのか!』
関羽が暗に示していることに気づかないのかそれとも認めたくないのか蔡瑁は自分からは決定的な一言を言おうとしない。
「蔡瑁、劉ソウはお前の姉と共に荊州から青州へと向かう途中に暗殺されている」
だが、そんな蔡瑁を気遣うことなど微塵も無しに関羽は玄から聞いた言葉をはっきりと告げた。
『ば!そ、そんな馬鹿なことがあるか!
ならば私は既に劉ソウが殺されていたにもかかわらず曹操の為に呉との水戦をやらされていたのか…』
関羽の言葉に瞬時に激昂した蔡瑁のトーンが徐々に下がっていき表情に剣呑なものが混じる。
『どういうことだ。
お前の言っていたことは全て偽りだったということか!』
今までの狼狽した声ではなく腹の底に響くような怒りを含んだ重々しい声を漏らした蔡瑁の顔がぐりんと向きを変える。
その先には…
『答えろ許チョ!』




