乱入
『く…なんて殺気だ。父上、もっと下がって』
司馬昭がそう言うと同時に構えた剣を立てる。
キィン!
同時に甲高い音が響く。
どうやら黒づくめの漢の突きを司馬昭が剣で払ったらしい。
『むぅ!儂の眼には見えぬか…』
司馬昭に言われるがままに下がりながら司馬懿が呟く。
『なんて速さ…こいつも強化薬使ってるのか?』
かろうじて初撃は防いだもののその圧倒的な速度に司馬昭は驚愕し、自らも更に後退していく。
だが、ここは広いとは言っても四角い部屋、延々と下がり続けることはできない。
『子上、お前の時代にはいなかったかも知れぬが儂が若いころはそのくらいの武将はごろごろしていた。
魏だけでも夏侯惇、夏侯淵、許チョ、典韋、呉なら孫策、甘寧、太史慈、周泰、蜀の五虎将軍などその筆頭だ』
『冗談はやめてくださいよ、父上。
こんなのがごろごろしてたら天下統一なんて…』
『子上、正直に答えよ』
司馬昭の言葉の端に僅かな動揺が走ったのを見逃さなかった司馬懿が静かな声をかける。
『…』
『敵わぬか?』
司馬懿の容赦の無い問いかけにいつもならふざけた回答を返しかねない司馬昭も今回はおどける余裕などない。
『…悔しいけど多分ね。
まだ2割近く制限されてる今の僕じゃさすがに厳しいよ…完全に解放された僕と兄上2人がかりでよくて互角。
確実に勝つなら更に策を練る必要有り…かな?』
自分の力を過小評価も過大評価もしない司馬昭の言葉に司馬懿は僅かに笑い頷く。
『ならば正面から戦う必要など無いぞ、子上』
『そりゃ、そうしたいのはやまやまだけど…あっちはそうじゃないみたいなんだよね』
じりじりと殺気に気圧されながら後退している司馬昭には司馬懿の言葉通りに行くとは思えない。
(子上!落ち着くのだ!
敵に呑まれ、冷静さを欠くな!あの渦が出てから子元との連絡が回復していることにまだ気がつかぬのか)
『え!嘘?』
司馬懿からの特殊能力による脳内への激しい叱咤に思わず肉声を漏らした司馬昭が慌てて能力を発動する。
(兄上、聞こえる?)
(…ああ)
『わお!相変わらず無愛想』
危機的状況にも関わらず相変わらず冷静沈着で言葉少なな司馬師に思わず司馬昭は苦笑する。
だが、だからこそ司馬昭は急速に平静さを取り戻していった。
(兄上との連絡が回復したってことは…
あの黒い渦は僕たちが通ってきたのとはちょっと違うけど、あれも道の1種だってことだよね)
(ふん、いつものお前らしくなってきたな。
その通りだ、ならば我らのすることは一つしかない)
(なんとかあいつを足止めしてあの渦に飛び込む)
(うむ、確かにそうだが容易ではないぞ。
あいつがこうしている間にも攻めてこないのは何故だと思う)
司馬懿達が脳内で会話している最中も黒づくめの漢は黒槍を構えたまま動こうとしない。
(僕たちを渦に飛び込ませないために、渦から必要以上に離れようとしないから…だね)
油断なく剣を構えながら渦と黒づくめの漢を見て司馬昭が答える。
(……)
(あれ?違った?)
自信たっぷりに答えた回答に返答がないことに焦った司馬昭が疑問の思考を送る。
(いや、そうではない。何故やつは出てきたのかと思ってな…)
(え?そんなの僕らを殺すためでしょ?)
(だが、ああして渦を守っていては戦えぬ。
このままにらみ合いを続けるだけならそもそも出てくる意味などないではないか)
(確かにそうだね、戦わないならこの部屋に閉じ込めておくだけでいいのか…
となると考えられそうな理由は2つ…かな)
(ほう、言うてみよ)
(1つは援軍を待っている。
あと1人でもあの渦からやつと同じくらいの力量の敵が出てくれば僕たちがあの渦から逃げ出すことはほぼ不可能)
(うむ、もう1つは?)
(もう1つは、あの渦が閉じるのを待っている。
僕たちを渦に逃がしたくないなら、さっさと渦を閉じてしまえばいいんだからね)
司馬昭は漆黒の渦を注意深く観察しながら更に続ける。
(それをしないのはあいつの退路を確保するため、もしくは閉じるのに時間がかかるのかのどっちかってとこかな)
司馬昭の軽い調子の思考に司馬懿は小さく頷く。
司馬懿も全く同じ意見だったからである。
(…だけど奴の力量からすれば、退路を確保する必要なんてないだろうけどね)
更に続いた司馬昭のその言葉には隠しきれない怒りが感じられる。
あの戦乱の世を統べた司馬一族を相手にしているにも係わらず、自分たちを完全に見下しているのが気にくわないのだろう。
(間違いあるまい。
やつはあの渦が閉じるのを待ち、それからわれらを追いつめるつもりだ)
司馬懿も司馬昭と同じような憤りを感じているはずだがその気配は微塵も感じさせない。
この辺りが勝敗どころか生死すら定かでない厳しい戦場をくぐり抜けてきた司馬懿と既に大勢の決した世で圧倒的な力を背景に戦っていた司馬昭の経験の差なのだろう。
(父上…こちらから『道』を開こうと試みていますがうまくいきません)
一つの結論が出たタイミングを見計らったように司馬師の淡々と事実だけを述べる思考がかすれがちに届く。
連絡が回復したことから考えても黒い渦は『道』であることは間違いないのだろうが、司馬懿達が作る『道』とはやはり同じものではないのだろう。
万難を排してことに臨みたい司馬懿にとってその不確定要素は本来なら見過ごせないレベルだが、現状では解消しうる手段はない。
司馬懿は内心で舌打ちをしつつも、今後の指示を飛ばす。
(…だろうな。
子元、我らはこれから敵の作った『道』を使って脱出をはかる。
飛び込んだ後は正直どうなるか分からぬ)
(承知しました。その後の誘導はこちらで)
常に冷静沈着で一を聞いて十を知るような司馬師の言葉はこういう時にこそ頼もしく聞こえる。
(よし、任せる。子上!)
(は~い、父上)
(聞いた通りだ、我らに残された時間は多くない、すぐに動くぞ)
司馬懿の決然とした言葉に司馬昭が頷く。
(よいか、2度までだ。
それでなんとか儂が渦に飛び込めるだけの隙を作れ)
(りょ~かい。
2回で足りるかは正直しんどいとこだけどね)
武幽電において司馬師、司馬昭は司馬懿の特殊能力である『司馬の血族』によって具現化されている。
そのため身体的損傷については司馬懿の体力を消費することで回復することが出来る。
それは死すら例外ではない。
だが、完全に蘇生させるとなれば司馬懿の消耗も激しい。
体力が万全だったとしても3回蘇生させればゲージは一気に瀕死レベル近くにまで減少してしまう。
そして、そうなってしまえば走ることすらままならなくなってしまうだろう。
だから司馬懿が司馬昭に告げた2回という回数は最大回数ということになる。
それを司馬懿が提示したということは司馬懿も相手の力に脅威を感じているということが理由の半分。
残りの半分は司馬昭に『2度までは死んでも良い』という言葉を伝え、力量差のある相手にも萎縮せず戦えるようにするためである。
そんな司馬懿の思惑を司馬昭も当然承知の上で軽口と共に頷く。
(じゃ、始めるよ父上。
他に気を回す余裕は多分ないから、いつ動くかはよろしく)
(よかろう)
『じゃ、ぼちぼち始めようよ。
あんたはまだそこから動きたくないんだろうけどね』
司馬昭が一歩前に出て腰を落とした構えを取る。
『……』
『あれ?だんまり?
ひょっとして図星だったりする?ひゃははは!
司馬一族を甘く見過ぎたんじゃない?』
自分の予想が当たっていたがために返答に窮していると判断した司馬昭が楽しげに笑う。
『……』
『ふん、この僕と会話を楽しむ気はないってことかい?』
全く反応を示さない相手に挑発は効かないと判断した司馬昭はつまらなそうに溜息を吐く。
『まあ、いいけど。
一応名乗りをあげとくかい?
姓は司馬、名は昭、字は子上 ってことでいくよ』
『……』
一騎打ちの名乗りにしてはあまりにもおざなりな名乗りを上げた司馬昭が低い姿勢でゆっくりと左へと回っていく。
黒ずくめの漢は司馬昭の名乗りに応えることなく自らの黒槍の先端を司馬昭の眉間に定めたまま司馬昭の動きに合わせて向きを変えていく。
あくまでも渦の前から離れるつもりはないらしい。
じりじりと移動しているにもかかわらず何かで繋がっているように自らの眉間から一瞬たりとも離れない黒槍。
その先端から迸る殺気は司馬昭の眉間をぴりぴりとひりつかせている。
そんな相手に今の司馬昭が正面からかかっていくのは無駄に死ににいくようなものである。
出来れば少しでも敵を動揺させてから勝負に出たい。
そう考えた司馬昭は時間が無いのを承知の上であえて言葉を紡いでいく。
『なんで君はそんな格好してるんだろうねぇ』
『…』
『この世界でそこまで隠さなきゃいけないものがあるとは思えないんだよね。
どっかの国に属してる訳じゃないから顔を見られて身元が割れたからって不都合がある訳じゃない』
『…』
『じゃあ、なんでかな?
そこまで顔を隠す意味も分からないし、その黒い服。
その黒衣を巻き付かせるように纏うことで僅かだけど体格すら偽装してるね』
司馬昭の呟くような問いかけにも、黒ずくめの漢が動じる様子はない。
『見られたくないものねぇ…
想像がつかないなぁ、それにちょっと思ったんだけどさ』
そう言って司馬昭が止まる。
その位置は司馬懿と黒ずくめの漢を結んでちょうど正三角形を形成する位置である。
司馬昭にしてみれば司馬懿が倒されてしまえば自らも終わりなのだから、無防備な司馬懿から離れるのはかなりのリスクである。
だが、司馬懿と司馬昭のその関係を知られていないのならばこうして2人が離れることには意味がある。
1人も逃がしたくないと相手が考えているのならば渦から離れてどちらかと戦闘に入ることはもう1人に逃げられてしまう可能性が高くなるからだ。
2人を逃がすまいと思えば思うほど黒ずくめの漢はますます渦の前から動けなくなる。
そうすれば渦が閉まるまでという時間制限はあるが、司馬昭は自分の好きなタイミングで相手に攻めかかることが出来る。
もちろん黒ずくめの漢が司馬昭に逃げられるリスクを犯して攻めに転じ、先に司馬懿を攻撃されたらそこで全ては終わる。
しかし、司馬懿を黒ずくめの漢との戦闘に巻き込ませない為、戦闘中の敵の注意を司馬懿からそらす為にはどうしても必要なリスクだった。
リスクと必要性を考えた上で司馬昭が決めた位置取りがこの位置だったのである。
『あんたさ、こっちが名乗ってるってのに名乗り返さないよね?
確かに戦場での慣習だから強制されるべきものじゃないけどさ。
ひとかどの武人なら名乗られて名乗り返さないなんて考えにくいよ。
…よっぽど小者ならまだしも、ね』
ぴくっ
司馬昭の探るような言葉にほんの、ほんの僅かだけ黒槍が司馬昭の眉間からずれる。
『ふふん…ちょっと動揺したね。
今の言葉に憤るってことは名乗りたくても名乗れないってこと?
…もしかしてそもそも話せないのかい?』
『…』
黒ずくめの漢は司馬昭の小馬鹿にするような言葉に今度は全く反応しない。
ただ、静かに槍先を司馬昭の眉間へと戻しただけである。
『図星♪』
だが、その動きと唯一確認できる黒ずくめの漢の目を見ていた司馬昭が嬉しそうに笑って断定する。
『さて、ではではそれってどういうことだろうね?
名乗りたいのに名乗れないから揺らぐ。
もともと先天的に話せないなら揶揄されたところで気にはしないよねぇ。
なら後天的な病?
い~や違うね、病や自己責任によるものならあんた程の人が憤りを漏らすなんてしないはずさ』
司馬昭が黒ずくめの漢と対峙しはじめてからまだ僅かな時間しか経っていないが、司馬昭はこの相手に高潔な武人の印象を得ていた。
自分たちが天下を牛耳った頃に腐るほど見てきた権力に尾を振る卑屈な者達とは完全に一線を画していると直感的に理解していたのである。
『っていうことは…
自分の意思に反して声を奪われたってことだよね~』
そういうと司馬昭は完全に構えを解いて顔を伏せると肩を奮わせ始める。
驚異的な敵を前にしてあまりにも無防備だが、黒ずくめの漢は相変わらず微動だにせず司馬昭を睨み続けている。
といっても司馬懿への注意が疎かになっている訳ではなく、しっかりと司馬懿の動きにも注意を払っている。
迂闊に司馬懿が渦に近づこうとすればあっという間に一突きにされてしまうはずだ。
『う、君ほどの武人が…おそらくは僕たちにとって未知の方法で、為す術もなく声を奪われ支配されてるなんて…うぅ』
理不尽な支配に対する怒りなのか、それとも声を奪われた黒ずくめの漢に対する憐憫なのか、肩を小刻みに揺らして嗚咽する司馬昭の身体がだんだんと前屈みになっていく。
『う、くくっ、なんて…なんて哀れなんだ。
くくくっ』
呟くようにそれでいてはっきりと言葉を紡ぎながら徐々に司馬昭の身体の揺れは大きくなっていく。
『ははは!
大笑いだね!あまりにも滑稽過ぎて腹わたが捩れる!』
弾けるように顔を上げた司馬昭が邪悪な笑みを満面に浮かべて哄笑する。
『なんて情けない!
自らの声を奪った相手に唯々諾々と従っているなんて!
所詮はあんたもちょっと牙が鋭いだけの駄犬に過ぎないよ!あははは、は?がぁ?かはっ!』
…カラァン
司馬昭が握っていた剣が妙にゆっくり床へと落ち甲高い音を立てた。
…まさに瞬速。
司馬昭は黒ずくめの漢を挑発しながらも決して油断はしていなかった。
にも係わらず、気がついたときには目の前に黒ずくめの漢の顔があり喉元を黒槍で貫かれていたのである。
『……』
司馬昭の甲高い笑い声はもちろん止まっている。
間違いなく即死である。
そのためか黒ずくめの漢も司馬昭の生死確認をすることなく黒槍を引き抜き、すぐさま司馬懿の方へ振り向くべく踵を返す。
『!!』
その時、今まで感情を微塵も表さなかった黒ずくめの漢の目に初めて驚愕の色が浮かぶ。
振り向こうとした自らの身体が何者かによって抱きすくめられたからである。
『そうは行かないんだよね~』
明るい口調で黒ずくめの漢にしがみついていたのはもちろん司馬昭である。
槍を持った黒ずくめ漢を両腕の上からしがみつき、しっかりと自分の手を組んでいる。
『でかしたぞ!子上』
そう叫んだ司馬懿は既に渦に飛び込む寸前だった。
その位置は黒ずくめの漢が動くと同時に動き出していなければ到底あり得ない位置。
伝達能力により司馬昭がしようとしていることを正確に把握していた司馬懿はその瞬間を見逃さずに行動を起こしていたのである。
純粋に戦えば勝ち目がないと悟っていた司馬昭はまず相手の動揺を誘い、あわよくば挑発して自分を攻撃させようと画策した。
ただ、力量差を考えると流動的な戦いの流れの中では命を2つ使ったところで司馬懿を逃がせるだけの隙を確実に作ることは難しい。
そこで司馬昭はあえて自らの命を餌にすることで相手を懐に呼び込んだ。
そして、司馬昭を仕留めたことで出来る一瞬の気の緩みを利用して動きを止めようと考えたのである。
司馬昭の行動は全てがそのための布石だった。
相手を小馬鹿にした会話も、今の立ち位置を選んだ本来の理由も、隙だらけの動作も全ては黒ずくめの漢に自分を殺せると思わせるため。
たわいもない会話から相手の弱みを探り出し挑発。
黒ずくめの漢が司馬昭に攻撃しても、司馬懿が渦に飛び込むまでにぎりぎり対処が出来ると思わせるための位置取り。
そしてあまりにも無防備な行動による隙。
それだけの条件が揃ってようやく黒ずくめの漢は司馬昭を攻撃しても命じられた任務を遵守出来ると判断したのだろう。
司馬昭の予測した黒ずくめの漢の任務は『司馬懿、司馬昭の2人を逃さず始末する』
というものであった。
そしてそれが正解だったとすれば、黒ずくめの漢の判断は間違ってはいない。
彼の武をもってすれば隙だらけの司馬昭を瞬殺した後に司馬懿の逃走を阻止することは赤子の手を捻るように容易だったはずである。
彼の唯一の誤算それは…
『あんたは確かに強いよ。
今の僕じゃ逆立ちしたってかないっこないくらいにね。
でも、あんたはこの世界の理を知らなすぎた。
だから僕が不死身だってことを考えもしなかった!
そして何より…僕たち司馬一族の知謀を甘く見過ぎたんだよ!』
司馬昭は笑いながら、更に手を固く組み黒ずくめの漢の動きを拘束する。
その間に司馬懿はまんまと黒い渦に飛び込んでいる。
しかし、その様子を視界の端で確認した司馬昭も自らの認識の誤算に気付く。
(父上、もっと早くならないのですか?)
(むぅ、無理だな。
この渦に触れたと同時に身体は全く動かぬ。徐々に呑み込まれていくだけだ)
そう、渦に飛び込んだはいいが黒ずくめの漢が出てきた時と同様、渦への出入りは飛び込んだ姿勢のままゆっくりと進行していくだけだった。
司馬懿のどこかのんびりとした回答を脳内で受け取りながら司馬昭は自らの腕の中で増していく圧力を必死に抑え込んでいた。
(ちょ、ちょっと父上。
こいつ凄い力なんだよ!長くは保たないよ)
(ええい!情けないことを言うな!
ここに入ってから子元との連絡状態は良好だ。これなら確実に帰り着ける。
今しばし、耐えんか!)
叱咤する司馬懿の身体はようやく半分程が渦の向こうに消えている。
司馬懿は渦に飛び込む際にこうなることを想定していたのだろう。
少しでも早く渦に入りこめるように自らの身体がもっとも薄くなる体勢で飛び込んでいた。
つまりほぼ直立の姿勢である。
渦に触れたと同時に固定され身動きが取れなくなり、徐々に渦の中へと取り込まれる。
ということは仮にヘッドスライディングのように飛び込んでしまうと身長に手の長さを加えた長さが呑み込まれるまでの時間がかかってしまうが、直立なら鼻先から後頭部程度ですむ。
この追いつめられた状況でそこまで判断して行動しているのはさすがに抜け目がない。
(はいはい、なんとかやってみますよ)
これならばなんとか司馬懿を無事逃がすことが出来る。
そう判断した司馬昭は内心で安堵しつつ今度は自らの脱出の算段を練り始める。
だが、1対1での戦いに勝機が見いだせない以上、状況は厳しい。
司馬懿のように黒い渦に飛び込んで完全に脱出するという形は望めないだろう。
ならばどうやってこの場を逃れるか。
死んでも生き返れるというとっておきのカードは既に切ってしまったため、適当に戦って殺されたまま死んだふりをして相手が去るのを待つ方法は通用しない。
黒ずくめの漢は司馬昭を倒した後、その死体を縛り付けるなりどこかに閉じこめる等の対策を取るはずだった。
具現化された身体だということを考えれば、ここに取り残されても司馬懿が能力を解除後に再度能力を発動すれば復活出来る可能性はある。
だが以前能力の検証をした時、復活場所は能力解除の時と同じ場所だった。
能力解除により黒ずくめの漢から逃れられても、復活先が隔離されたこの部屋では意味がない。
『あんまりやりたくないけど…』
小さな吐息と共に呟いた司馬昭は今にも振りほどかれそうな腕に最期の力を込めてじりじりと黒い渦へと近づいていく。
(父上、兄上)
(…子上、こちらはなんとかなった。
後はお前だけだ)
司馬昭の呼びかけに司馬懿の思念が届く。
渦のサイズがやや小さくなってきているためか若干雑音混じりだが、意思の疎通はまだ出来るらしい。
(そりゃ、良かった。
こっちはちょっと厳しいんだよね。
最期の手段を使うことになりそうだから回収よろしく)
(そうか…
意識が残せれば引っ張るが?)
(う~ん、厳しいかも?)
(…いいだろう、子元。行けるか?)
(問題ありません。
先ほど父上を捉えた場所で待機します)
(うむ、深入りはするなよ。
どうやらこの世界での我らはまだまだ力及ばぬようだからな。
最悪の場合子上は見捨てよ)
(承知)
(ありゃ、やっぱそうなる?
ま、そんときはそんときってことでよろしく)
言葉を紡ぐ必要のない彼らの会話は恐ろしく滑らかに進む。
実際に実現は不可能だが音として発せられたとしたらそれらの会話は重なり合い耳で識別するのは難しいだろう。
『それにしても…あわよくばと思ったけどやっぱり無理か』
思考での会話の間もじりじりと渦への距離を縮めていた司馬昭だったが、いよいよ腕の中の圧力に抗しきれなくなっていた。
黒ずくめの漢の向こうに見える黒い渦までの距離はおよそ3メートル、邪魔さえ無ければあっという間に飛び込める距離である。
だが、黒ずくめの漢がその間にいるというだけでその距離は無限大にも等しい障害になる。
動きを拘束したまま少しでも有利な位置を取ろうと奮闘していた司馬昭だったが、結局は僅かばかり渦までの距離を縮めるのが精一杯だった。
黒ずくめの漢は司馬昭と黒い渦の間に自分を置き続けることだけは決して譲らなかったのである。
『く、もう限界』
呟いた司馬昭が自ら手を放して飛び退く。
飛び退くと同時にすぐさま黒い渦を中心に円を描くように走る。
接近した状態で黒ずくめの漢を解放してしまえば、漢が振り向くまでに槍の間合いから逃れるのは不可能である。
そもそも間合いから逃れるために後ろに下がってしまうのも渦からの脱出を考える司馬昭にしてみれば論外。
ならば的を絞らせないように常に動きながら戦うしかない。
だが司馬昭は自らの剣を落としてしまっているため、黒ずくめの漢の槍を防ぐ手だては何もない。
『さてさて、こんな武器で一体何が出来るのやら』
走りながら右手を懐に入れ司馬昭がずらりと取り出したのは開始時に付与される小柄だった。
この小柄は本来は司馬懿に与えられたものだが、戦いにおいてはあまり役に立たない司馬懿はそれを戦巧者である司馬昭に預けていた。
『この小細工がうまく行くかどうかはやってみてのお楽しみ…ってね』
あわよくば渦に近づこうとする司馬昭を細かな槍の動きで牽制しながら黒ずくめの漢も同じように渦の周りを走る。
だが渦から離れた位置を走る司馬昭は当然ながら黒ずくめの漢よりも長い距離を走る。
そうである以上いくら走り続けても常に黒ずくめの漢に先回りされる形になりその背後にある渦に飛び込むことなど出来ない。
司馬昭よりもはるかに少ない動きで先回りすることが出来る黒ずくめの漢はその余力を司馬昭の足を止める為の攻撃へと回す。
その攻撃は司馬昭の必死の回避行動により直撃はなんとか避けているものの、完全回避は出来ず司馬昭の身体の所々から赤い血の花が散る。
『ちょ、これはきついね。
これ以上は無理か…位置的にぎりぎりだけど…うまくいったら拍手ものだね』
自嘲気味に呟きながら司馬昭右手に持った小柄を走りながら2本投擲。
走りながらとは言え、その速度と精度は決して侮れない威力である。
しかし黒ずくめの漢がそれをなんなく黒槍で叩き落としたのを確認すると司馬昭は今度は足を止め、更に力を重視して3本を投擲する。
先ほどよりも威力は増したが精度の落ちた小柄を黒ずくめの漢は命中コースに来た2本を同じように軽々と叩き落とす。
残りの1本には見向きもしない。
『さすがだね、じゃあこれならどうだい!』
司馬昭は一瞬だけ脚を止めて腰を落とすと全身の力を込めて残りの5本を全力で放つ。
最速で放たれた5本の小柄のうち1本は逸れたものの残りの4本は見事に黒ずくめの漢の頭部、右肩、胴、腰へと向かう。
『…』
ほぼ同時に身体の4カ所を襲う司馬昭の全力の投擲は並の武将なら身をかわすこともままならずに刺し貫かれてもおかしくない威力である。
キキキキン!
だが、重なり合うように響いた四つの金属音に司馬昭はその攻撃が防がれたことを悟った。
『ち、1本くらい受けてくれてもバチは当たらないってのに!』
毒づいた司馬昭が悔しげに右手を振り上げる。
司馬昭の全力を込めた小柄を全て黒槍で叩き落とした黒ずくめの漢はそんな司馬昭には全く構わず、投擲の為に動きを止めた司馬昭を仕留めるべく黒槍を正眼に構える。
『こ、これって絶体絶命?』
焦った素振りを隠そうともしないまま司馬昭は再び走りだすため体勢を変えようと身体を捻る。
しかし、自らの槍の間合いで動きを止めた敵を簡単に逃がすような相手ではない。
司馬昭が逃げようとする方向へ一気に踏み込むと神速の突きを放つ。
シャ!
『!!』
『うっ…』
低く呻いて蹲る司馬昭。
その足下にみるみる赤い斑点が出来ていく。
それは司馬昭の左脇腹から生えているかのような黒槍の柄、そこを流れ落ちて出来たものである。
『く…
ちぇ、やっぱり避けられたか…』
突きから逃げ切れずに受けた脇腹の黒槍を左手でしっかりと握りしめながら呟く司馬昭の顔には苦痛と共に何故か笑みがある。
『へぇ、そんな顔してたんだね…
でも、残念だけど見覚えないなぁ』
司馬昭と3歩の位置で向かい合った黒ずくめの漢、その顔を覆っていた黒い布が半分ほど斬り裂かれている。
そこからかいま見える素顔は誰が見ても端正に整っていると答えるだろう。
だが、データ化され病気などとは無縁なはずにもかかわらず顔色は悪く頬が削げている。
それにもかかわらず司馬昭が脅威に感じたその目には力強さがある。
『ていうことは僕よりももっと前の人間なのかな?
父上なら分かったかもしれないなぁ…残念』
楽しそうに笑う司馬昭の右手には何故か自らの剣が握られている。
『ま、後で似顔絵でも描いて父上に聞いてみるさ。
絵には自信あるんだよね。
…え?この剣のこと?』
黒ずくめの漢の視線から疑問を感じ取った司馬昭が右手の剣を振りながらにやりと笑う。
『いいよ、教えてあげるさ。
実はさ、ちょっと前に剣に紐つけて飛ばすっていう面白い技を使うのがいてさ、なんかの役に立つかもと思って小柄に1本だけ細工をしといたんだ』
司馬昭が言っているのは少し前に倒した曹丕の飛剣の技のことだろう。
『司馬の血族』で具現化された司馬師と司馬昭は他武将を倒した後、糧として吸収することで本来の身体能力が解放されていく。
その際に吸収した武将の身につけていた技についての記憶も僅かながら引き継ぐ。
だが、それは技術としてではなく、あくまでも記憶、言わばコツのようなものがなんとなく分かるようになるだけであり、それを自らの技として使うためにはそれなりの訓練が必要になる。
司馬昭はたまたま曹丕の技に興味を覚え、独自に小柄で訓練をしていたのである。
それが今回は功を奏した形になる。
『僕が放った10本の小柄は1本たりとも狙いを外してなかったってことさ』
つまりこういうことだ。
司馬昭は3回に分けた投擲の中で徐々に威力を上げた。
そして威力を上げることで精度が落ちたと思わせ糸を細工した小柄こそが本命だということを偽装したのである。
そうして黒ずくめの漢の注意外になった小柄は床に落ちたままになっていた司馬昭の剣を絡め取った。
司馬昭が悔しげに振り上げた手は剣を呼び戻すためのもの。
逃げるために動きだそうとした方向は戻ってくる剣の前に黒ずくめの漢を誘導するため。
そして脇腹を刺し貫かれたことすら相手の武器を封じるための捨て身の行動だった。
あわよくばと狙った剣での攻撃こそ寸前で察知した黒ずくめの漢に避けられ、布を裂くにとどまってしまったが本来の目的であった剣を取り戻すことには成功していたのである。
『さて…無駄話はこの辺にしとこうよ。
この傷もいつまでも笑っていられるほど浅いもんじゃないしね』
腹部の槍を引き抜こうとする黒ずくめの漢に対し、そうはさせまいとする司馬昭。
必然的に刺さった槍を自らに押しつける形になり、常に激痛に耐えている状態である。
武幽電の世界を飛び出している司馬昭にライフゲージは表示されていないがこうしている間にもライフは削られているのだろう。
『よっと』
状況的に追いつめられているにもかかわらず軽い調子の司馬昭が右手の剣を横薙ぎに振るう。
間合いとしては黒ずくめの漢の顔に届く距離だが、無論そんな攻撃が当たる筈もなく軽くかわされる。
『ならこっち!』
司馬昭は返す剣の狙いを黒槍を握る黒ずくめの漢の持ち手へと変える。
キンッ
持ち手を狙われた漢はこれに対しても焦る素振りは全く見せず、一瞬だけ槍から手を離して攻撃を避けると即座に掴みなおした勢いで黒槍を突く。
『んぐぁ!』
思わずのけぞって苦痛の声を上げた司馬昭の背中から黒槍の先が飛び出す。
『…く』
腹部を刺し貫かれ、のけぞっていた司馬昭の頭が力なく前方へと落ちる。
『く、くくく…はははははは!』
だが、次の瞬間には軽く吐血し赤く染まった口腔を開き哄笑しながら前へと踏み出す。
ズブッ
『くは!…でも、まだまだぁ!』
ズブブ
鬼気迫る形相で一歩、また一歩と前へと進む司馬昭に黒ずくめの漢は槍を揺さぶることで痛撃を与えているが司馬昭の足は止まらない。
剣を振り回しながらじりじりと前に出る司馬昭の背中から突き出た黒槍は少しずつ長さを増し、まもなく半ばに達しようとしている。
さすがにここまで強引に迫られてしまえば黒ずくめの漢も後退せざるを得ない。
司馬昭の我が身を省みない前進はとうとう黒ずくめの漢に黒い渦を背負わせるところまで到達していた。
『さあ、どうする?
僕が死ぬのが先か、それとも渦に到着するのが先か…我慢比べをする気はあるかい?』
司馬昭は苦痛に顔を歪めながらも楽しげに笑う。
だが、黒ずくめの漢は司馬昭の言葉に反応を返そうとしない。
先ほど僅かとは言え心情を表に出し、それを看破されてしまったことが黒ずくめの漢の態度をますます硬化させたのだろう。
さりとて、黒ずくめの漢もこのまま押し込まれたままでいる訳にはいかない。
何もしなければ司馬昭が黒い渦に到達してしまい逃げられる可能性がある。
なにより黒槍を維持したまま司馬昭の剣を避け続けるには間合いが近くなりすぎていた。
『いっそ、僕に殺されてくれると助かるんだけどなぁ』
やや足下がおぼつかなくなってきた司馬昭が呟きながら無茶苦茶に剣を振り回す。
そんな攻撃が当たるような相手ではないが、めちゃくちゃな攻撃だけに予想がつけにくく確実に避けようとするならば大きくかわしていくしかない。
しかし、ここに来て黒ずくめの漢は明らかに今までよりも動きのレベルを上げた。
司馬昭のがむしゃらな攻撃に一時後退しても絶妙な足捌きと黒槍の扱いで必ず司馬昭を押し返し、黒い渦までのあとほんの少しの距離を決して詰めさせない。
黒ずくめの漢はまだしも、槍に貫かれたまま無理な動きをしている司馬昭にそんな状態が長く続くはずもない。
『く…も…う少しだっ…てのに…』
かすれた声でつぶやいた司馬昭の視線が焦点が定まらなり、剣を持つ右手が力なく垂れ下がる。
『い…痛い…もういいや…や~めた』
こぼれるような吐息と共に脱力した司馬昭が最後の力を振り絞るように右手の剣を持ち替えて黒ずくめの漢へ柄を向けた。
『もう…限界、ひと思いに…やってよ』
ゆっくりと剣を受け取った黒ずくめの漢に対し司馬昭は自らの頭頂付近の髪を鷲掴みにして持ち上げる。
『あんた程の武人なら、スパッといけるだろ?』
あまり日にも焼けていない白い首筋を露わにしながら司馬昭は黒ずくめの漢に問いかける。
『…』
黒ずくめの漢はそんな司馬昭の様子を静かに観察する。
ここまで単純な武では全く適わない相手に対して特殊能力や策をフルに活用し、我が身すら削りながらも結果的に目的を達成してきた司馬昭がここへ来て諦めるということに警戒心を抱いているのだろう。
おそらくこのまま見に徹していても遠からず司馬昭は絶命する。
黒ずくめの漢にとってはここで不可解なものを感じながらとどめをさす必要は全くない。
『た、頼む…よ。
もう…楽にして…くれ』
がくがくと震える膝を気力でねじ伏せ、黒ずくめの漢の眼を真っ直ぐに見据える。
『…』
…ュン




