侵蝕
画面には先ほどまでと同じく過去の書き込みが表示されたままである。
「…別に何も…あ!」
『入室者 2』
「入室者の数が2に増えてる…
俺以外に誰かがここに入って来たんだ!」
玄は軽い興奮と共に何かを話しかけようかどうか迷いつつキーボードへと手を伸ばす。
「お待ちください!」
まずは挨拶から、とキーを叩こうとした玄を制止したのはまたしてもホウ統である。
「え?せっかくの関係者の入室なんだから情報収集のためにも話しかけた方がいいと思うんだけど…」
「はい、そのとおりなんですが…
その…うまく言えないのですが何か…嫌な予感がするのです」
自分が感じていることをうまく表現出来ないでいるホウ統に玄は力強く頷く。
「了解、ちょっと様子を見よう」
自らが感じた予感をうまく説明が出来ていないにも係わらず、何も聞かずに頷く玄にホウ統が驚きの表情浮かべる。
「ホウ統が言うような理由のない予感が無視できないものだってことは関羽との付き合いで充分過ぎるほど分かってるからね」
「そんな!関羽将軍のとぎすまされた感覚によるものと一緒にされては困ります。
私のは本当にただの…」
「良いよ。
それが単なる思いつきや、ただの勘だって構わない。
自分が認めた軍師の言葉が信じられないようなら君主なんてやる資格ない。
もちろん、俺は君主って訳じゃないけどホウ統のことを軍師として参謀として信頼してるってところは同じだから信じられる。
だから、ホウ統は思ったことを思った通りに話せばいい」
玄の迷いのない力強い言葉にホウ統は勇気づけられ、小さく頷く。
玄も応えるように小さく頷く。
そして、いつでも話しかけられるようにキーボードに手を乗せ、画面を注視する。
画面に動きがあったのはそれからすぐだった。
『入室者 3』
『む、ここは何処だ?』
『さあ、僕にもわかりませんよ。
とりあえず手始めに一番関係ありそうな所に移動したつもりですけどね』
入室者が3に増えると同時に新たに入室した2名が会話を始めたのである。
「また一人増えた!
会話の感じからすると2人は知り合いっぽいな」
「…」
『ふむ…この部屋の中に刻まれた文字達は?』
『ざっと見た感じはただの会話の記録ってところじゃないですかね』
『ほう…一つ一つは取るに足らぬが、内容としては面白いな』
『確かに、関連施設で間違いないみたいだね。
ていうことは、移動は問題なし…と』
「ん?何か…」
入室者2人の会話を読みながら玄は小さな違和感を感じていた。
その正体が分からぬままホウ統なら何かに気づいているのではと視線を移す。
「…」
しかし、その視線に気づかなかったのか、黙ったまま画面を見つめるホウ統。
そして、その表情がいつになく険しい。
『そのようだな、行き先はどうあれ外に出られることが分かっただけで今回の試みは価値があった』
『兄上も来れば良かったのにね。
生身じゃ絶対に出来ない、なかなか貴重な体験だったのに』
『我らは遊びに来ている訳ではないぞ子上。
子元を待機させていれば不測の事態にも対処出来ると思ったからこそ私自身が危険な賭をしたのだからな』
『分かってますよ父上、我らの情報共有能力を使えばこの複雑な世界でも帰る場所を見失うことはありませんからね』
「ほ、ホウ統!」
ここまでの会話を見れば先ほどの違和感の正体に嫌でも気づく。
ここで会話している二人はリアルタイムで書き込みをしているプレイヤーではないということに。
玄は自分でも動揺を自覚しながらもそれを抑えることの出来ぬまま、助けを求めるようにホウ統の名前を叫ぶ。
「落ち着いてください玄殿。
これほど早いとは思いませんでしたが、この可能性は示唆されていました」
「え?」
いつもはホウ統を落ち着かせることの多かった玄は、逆に落ち着くようにと諭されたことによる驚きとホウ統がこの状況をある程度予測していたという言葉に僅かながら落ち着きを取り戻す。
だが、この状況は玄が無意識に恐れていた事態だった。
すなわち…
『三国志武将達の現実への侵蝕』
関羽が張松を斬ろうとした行動をVSで完全に止めきれなかった時に玄が感じた不安。
それは漠然としたものだったが、ゲーム内で武将達がプレイヤーの意志に従わなくなるなるのではという危惧。
更には反旗を翻した武将達によって手痛いしっぺ返しを受けるのではないかという予感だった。
もちろんその時はそこまで深くは考えずにいたが、こうなってしまえばもはや自覚せざるを得ない。
しかし、まさかこんな形から現実の世界に影響を及ぼしてくるとは全く思いもつかなかった。
『子上、周囲の情報を全て記憶せよ。
ここに至るまでの道程も忘れるなよ』
『了~解、父上』
『…さて、次の一手はいかにするか』
『くくっ、楽しそうだねぇ父上』
『ぬかせ、お前とて同じであろう。
今の世に我らの知らぬことがなんとあふれていることか。
それらを吸収し、全く新しい策を以てこのふざけた世界を抜け出す。
そして我らを再びこの世に目覚めさせたことを後悔させてくれよう』
「な!」
次々と表示される2人の会話を食い入るように見ていた玄が思わず声を漏らす。
武幽電の武将達が現実世界へと影響を及ぼし始めたことだけでも驚愕の事実なのに、その武将達が復讐めいたことを企てている。
もし、玄が同じような状況に立たされていたとしたらそこから抜け出すことを考えもしなかっただろう。
仮に思ったとしても何をどうすればいいのかのとっかかりすら掴めず途方に暮れるだけだったはずである。
「やはり…出てきましたか」
「ホウ統?」
「…実は、今の現状を正しく把握出来る者ならこの武幽電の世界の外へと出られる可能性があることには容易に気がつくのです。
そして、それに気がついた者の中からは、このように復讐を目的とするような輩も出るかもしれないとは思っていました」
「え!そうなの?」
思っても見なかったホウ統の言葉に玄は目を見開く。
それはホウ統が簡単にと言うほど容易いこではないと思うからである。
「はい、あの世界は武将達を戦わせるためだけの限られた空間、言わば箱庭。
その世界の外にも世界があることは召還される場所が現実世界である以上、明白です」
「確かにそうだけど!
だからってどうやったら自由になれるかなんて現代に生きる俺たちにだって分からないのに、1800年も前の人達がそう簡単に出来る訳ないよ」
ホウ統の言うとおり現実世界で召還された武将達はその後に戦うために武幽電のフィールドへと転送されるのだからちょっと考えれば現実と武幽電の世界の関係に気付いてもおかしくない。
だが、普通ならそこまでが限界だろう。
ガスも電気もないような時代を生きた人間が突如現代に甦ったとして、そうなった理由にたどり着けるだろうか。
よしんば『肉体を完全にデータ化され電子の世界の中でだけ甦った』と誰かに教えてもらったとしても言葉の意味すら理解できないだろう。
「玄殿、私たちは人間なのです。
生物としては弱く愚かな人間がこうして大地の上で生きていられるのは考え、学び、工夫することが出来るからなのです」
淡々と語るホウ統の目には僅かながらも智者としての自負と誇りが感じられる。
それらは、ほんの少し前までホウ統に一番欠けていたものである。
だが、常識ではあり得ないはずのこの状況下で関羽と再会し、玄と出会い、大きな期待を寄せられ、それに応えようと必死に策を考え続けていることが彼を急速に成長させつつあるのかもしれない。
玄はそんなことを考え、大きく息を吐いた。
「…そうだね。
ホウ統を見てたらそんなこともあり得るって思えるよ」
「そそんな、私なん…」
玄の言葉に慌てて否定を返そうとしたホウ統の言葉が止まる。
呑み込んだ言葉を吐息と共に吐き出したホウ統は真っ直ぐに玄を見返す。
「私もまた高みを目指し考え、学び、工夫する者でありたいと思っていますから」
「うん、ホウ統なら出来る。
俺が保証する。
俺の保証なんてなんの価値もないけどね」
「いえ、とんでもありません。
とても心強いです」
玄とホウ統のそんな会話の間も画面では会話が進行していく。
『で、どうする父上。
このままもう一度どっかに跳んでみる?』
『…いや、それは尚早であろう。
今はこれでよしとする。
今回の経験とここでの情報を改めて検討した上で次の策を練るとしよう』
『相変わらず父上は慎重だなぁ』
『その慎重さこそが我らに天下をもたらしたものだということが分からぬお前ではあるまい』
『確かにね、もっとも僕には慎重の権化みたいな兄上がいたからね。
おかげで僕は結構自由にやらせてもらったんだけどね』
『お前がそんなだから、子元が苦労して病を得たのではないか?』
『いやぁ、それはないって、父上。
兄上はあぁ見えても、僕の奔放ぶりを結構楽しんでたと思うよ』
『ふ、ぬけぬけとぬかしよるわ』
「会話を見られてることには気がついてないみたいだね…」
玄の言葉通り、画面上で交わされる会話には周囲に対する警戒心が全くない。
2人が今どのような状態にあるのかは全く想像もつかないが、少なくとも彼らの主観では周囲に人気はないのだろう。
「はい、おそらくまだこの『いんたぁねっと』という世界のしくみを完全には把握していないのでしょう」
「まだ…ね。
そんなに早く把握されちゃっても困るけどね」
玄はうんざりしたように呟くと、画面を見ながら躊躇うように口を開く。
「ホウ統、今までの会話からここにいる2人が誰だか分かる?」
「そうですね、何度か出てきた字等では私の生前の知識の中には該当する人物はいません。
ただ、ここに来てから玄殿に見せて頂いた文献と照らし合わせると浮かび上がる名前があります」
「うん…多分間違いない。
俺が抱いてるイメージでしかないけどそれなら今の状況もなんとなくあり得る気がする」
「司馬懿 仲達、そして司馬昭 子上」
ホウ統が導き出した答えに玄も小さく頷く。
「諸葛亮から最期まで魏を守り抜いた大軍師…」
「私にはあの孔明軍師が敗れるなど想像つきません」
ホウ統の言葉には諸葛亮に対する全幅の信頼が感じられる。
「しかし、歴史はそれを証明しています。
それに、この短期間にあの世界を抜け出す方法を見つけ出す智力、それを実行に移し成功させるだけの実行力。
確かに侮りがたい人物のようです」
ホウ統の心情としては認めたくない部分もあるのだろうが、相手を計る時に自らの感情を挟むのは愚の骨頂である。
「多分、司馬懿は諸葛亮の恐ろしさを良く知ってたんだろうね」
「はい、そして大国魏の臣であったことと守りの戦いだったということも大きな理由でしょう。
相手を打ち破れなくても追い返すだけで、2国間の国力の差が蜀軍に痛撃を与えることになります」
玄は先日ホウ統と出会う前に関羽が言っていたことを思い出す。
『蜀は物流や人口においては魏や呉に遠く及ばない』
『蜀の領土は荊州の数倍の広さがあったが、全てを合わせてもせいぜい10万程度の兵を要するのが限度』
『人口が少なく、硬い地盤と険しい地形が農耕に適さないが故に糧食の確保が難しい』
国土の北半分を支配していた魏と4分の1程しか領土を有していなかった蜀。
内政官としても優秀であった諸葛亮は様々な発明や知識を駆使し内政を充実させた。
それでも絶対的な国土の差は埋めることは出来なかった。
蜀が全力を振り絞って出撃しても魏は余裕を残したまま迎撃出来るだけの国力があったのである。
「攻めてこない相手と戦うにはどうしても力押しに頼らねばならない部分が出来てしまい、損害も大きくなってしまいます。
そんな戦いを繰り返していれば魏を打倒する前にこちらが力尽きてしまうのもやむを得なかったのでしょう。
…荊州さえ失わなければ」
ホウ統が唇を噛む。
「ホウ統…」
関羽はこうも言っていた。
『荊州は数十万の兵を持つことが出来る肥沃な土地』
『肥沃な荊州と連携を取り、荊州からは穀物や人材を蜀へ送り、その代わりに蜀に多くいた、林業や土木に携わる優れた職人や木材等の資源を荊州へと運ぶ。
そうして蜀と荊州は一体の国として強固な国へとなっていく計画』
『荊州構想の大きな枠組みを考え、実現可能なものにまで押し上げたのは士元であった』
本来であれば蜀の平定後、戦の経験を積んだホウ統は荊州に戻り関羽と共に荊州を統治し、入れ替わりに諸葛亮が蜀へと入り蜀の内政を整える筈だったのだ。
それなのに遠征の途中で世を去ることになったホウ統。
その結果、関羽は1人で荊州の全てを統括することになってしまった。
そのことが関羽の死に関係していない訳はない。
玄達と知り合い、ホウ統は初めて自分が世を去った後の歴史を知った。
そして、自らの死が残された仲間達にとって少なからず不利益になったのではないかと心を痛めた。
なにより劉備陣営にとって『これから』というときにあっけなく戦線を離脱してしまった自分を不甲斐なく思い、強く悔やんだ。
自分なんかがいても何も変わらなかったかもしれないが、荊州が陥とされるような事態になったのならば、その時はせめて自分もそこにいたかった。
それでこそ、自分を信じて荊州という要地を任せてくれようとしてくれた劉備や諸葛亮に応えたことになるはずだった。
「ホウ統、過去を悔やんでも仕方ないよ。今だから出来ることもあると思う」
「…はい」
ホウ統も頭では良く分かっているのだろう。
だが、ホウ統の自虐的なまでに強い責任感は自らの失態で仲間達に迷惑をかけてしまったことを許さない。
そんなホウ統をなんとかしてあげたいと思わなくもないが、そのホウ統の責任感こそが今ホウ統をめまぐるしく成長させているのだろうとも玄は思っていた。
生前は自らの重要性を信じ切れていなかったため自信が持てずにいたホウ統。
しかし、自分の死が少なからず歴史に影響を与えたことを事実として知ったことは、逆に自分が頑張って成長すれば少しは何かを変えられると自覚することにも繋がった。
それが今、少しずつ自信としてホウ統の中に育ちつつある。
玄はそんな気がしていた。
『記憶もしっかりしたし、ひとまず戻ることにするよ。父上』
『うむ、子元と連絡を取り確実にな』
『わかってますよ』
「ホウ統、どうする?」
2人の会話の流れがこの場から立ち去ろうとする流れになってきたのを見て玄が問いかける。
司馬懿達と何らかの接触をするなら今しかない。
ここで彼らを見逃せば、次に会うときはゲーム内しかないだろう。
彼らが再びネット上に出てきたとしてもその場に偶然玄達が居合わせる確率は限りなく低い。
「…すいません、どうしても嫌な感じが拭えないのです。
ここで話しかけることは私たちにとって悪いことではないはずなんですが…」
確かにここで話しかけたとしてもこちらの情報が相手に漏れる訳ではない。
逆にこちらは相手の素性が分かっているのだから会話の持っていきかた次第では一方的に有益な情報を得られる可能性もある。
だが、こちらから話しかけるという行為自体が司馬懿達にネット世界でのしくみについての新しい情報を与えてしまうことは避けられないだろう。
しかし、その程度のことはホウ統も当然理解している。
そして、それを考慮したとしてもここで何らかのアプローチをすることがこちらにとって有益だという判断も出来ているはずである。
それでも話しかけることに踏み切れないのはホウ統だからこそ気づき、ホウ統ですら言葉に出来ないほどの僅かな違和感があるということなのだろう。
『あれ?』
『どうした子上』
その違和感の正体がディスプレイに表示された司馬昭の言葉から、徐々に明らかになっていく。
『戻れない』
『なんだと?』
『ここに来たときの道が開かないんだよね』
『子元と意識の共有をして道を繋げぬのか』
『ん…ちょっと難しい。
何か妨害されてるみたいで兄上と意識が繋がらないみたいだよ父上』
『むぅ…確かにお前の意識としか繋がらぬ。
一体どうしたことだ?』
『まぁたまたぁ、分かってるくせに相変わらず父上も思わせぶりだなぁ。
僕らは罠に嵌ったんでしょ』
『ふ、相変わらず遠慮の無い奴め。
しかし少々やっかいな状況になったようだな』
罠に嵌ったと言いながらも焦った素振りを見せない司馬懿、司馬昭の親子の会話を食い入るように見ながら玄は湿った手のひらを膝で拭う。
「ホウ統…これって」
「おそらくは…
管理者側が彼らをここに誘いこんだということでしょう」
「…てことは司馬懿達が武幽電の世界を飛びだそうとしてることも、その方法も、そしてそれがいつかってことも全部お見通しだったってことだよね…」
「はい、予測はしていましたが…
私たちはまだまだ管理者の手の上で踊らされているに過ぎないのでしょう」
ホウ統の言葉からは僅かな悔しさが滲む。
「ホウ統はそれが分かってたから話しかけるのを躊躇ったの?」
「いえ、そこまで分かっていた訳ではないのですが…
私達の推測ではどれだけ貪欲に知識を吸収しても、あの世界から抜け出せるようになるにはもう少し時間がかかると思っていたのです」
三国時代の武将達が生きた時代と現代との時の長さを思えば『もう少し』もどうかと思うが、彼らの常軌を逸した能力に驚き続けてきた玄はそこには触れない。
「んと…ホウ統が思っていた以上にそれが早かったってことは司馬懿達が予測の範囲を突き抜ける程に優秀だったか、もしくは…誘導?」
「はいおそらくは。
彼らを自らの手の内で踊らせる為にあえて自分達に都合の良い情報だけを彼らにそうと気付かれぬように取得させたのでしょう」
管理者は司馬懿達を監視している内にいずれ彼らが武幽電の世界を抜け出す方法を見つけ出すと判断したのだろう。
しかし、司馬懿達の導き出す方法が現代の知識で対応出来るものかどうかは分からない。
彼らの思考は三国時代の世界を素としている。
そこから産まれる思考パターンはしばしば現代を生きる自分たちとは大きな隔たりを見せる。
それ故に辿りついた独自の方法で勝手にどこかに飛び出されるよりは、自らで管理出来る方法をあえて彼らに気付かせることによって彼らの行動を自らの監視下に置いた。
だからこそ司馬懿達は最初にこのサイトにたどり着いたのだ。
「…あの司馬懿仲達を手玉に取ったってこと?」
玄はその事実に思わず唸る。
現代の人間が三国時代の軍師達と知恵比べをして勝てるとは正直思っていなかった。
「彼らを弁護するわけではありませんが、やはり1800年という時間はあまりに長すぎます。
現代の知識を用いた頭脳戦では未だ勝負にならないのが現状でしょう」
『どうする?父上』
『…そうだな、罠に嵌ったとはいえ今の段階で何も起きていないのならすぐに危険があるようなものではなかろう』
『じゃあ、兄上との連絡を取るように尽力しつつ、更に詳細な調査をするってことだね』
『ふ、周囲の警戒も怠るなよ』
『りょ~かい』
「この辺はさすがだよ…
罠に嵌って閉じこめられたのに全く動じてないんだから」
画面に映し出される文字だけでは本当にどうじてないのかまでの判断はしにくいが、玄の見る限り冷静さは失っていない。
「全く動じていないわけではないでしょう。
ですが、ここで慌てたところで事態は好転しません。
出来ることをするしかないと分かっているのだと思います。
私はつい狼狽してしまいがちなのですが…」
苦笑気味に答えながらもホウ統の視線は画面から離れることはない。
現状を把握しつつ、状況の変化に即座に対応するためだろう。
「…玄殿、この状況ではこちらからは手を出さない方が良いと思います。
むしろいつでも撤退出来るように準備をお願いします」
「撤退?りょ、了解」
「私の推測ですが、管理者側がこのまま彼らを放っておくとは思えません。
このままここに幽閉するというのもあり得ますが、おそらくは…」
ホウ統が自らの推測に眉を顰めた頃、ネット内に閉じこめられた形になっていた司馬懿と司馬昭の2人もホウ統と同じ結論にたどり着こうとしていた。
『やっぱり、兄上との連絡は難しいみたいだよ父上。
それに出口らしいものも全くないね』
玄とホウ統は2人の会話をディスプレイで文字として読むだけだが、この場にいる司馬懿達にとってここは現実と変わらない四角い部屋だった。
一面が30畳程度の大きな立方体の部屋。
窓や扉は無く、通気口のような類のものも全くない。
周囲に照明設備らしきものはないが全体として明るいため視界に不便はない。
つまり、部屋の内部は床、壁、天井に至るまで全くの平面だった。
その平面上に無数の書き込みが表示されているのである。
この書き込みの数々こそが玄達が見ているものだった。
司馬懿達がもう少し室内を注意深く確認していけば、いずれ自分たちが発した言葉がリアルタイムで室内の床の一部に表示されていくことに気付くだろう。
ここに至るまでの彼らの行動は驚くほどに迅速かつ的確。
ホウ統は司馬懿達が武幽電の世界を抜け出すまでの時間が早いことを管理者側の作為があったせいだとしたが彼らで無ければ今日ここにいることは無かったはずである。
彼らはまず情報収集の為に、人心操作の術で意のままに操っている自らの操者にVSとインターネット接続環境にあるPCを有線で繋がせた。
そのことで膨大な知識に触れることが出来るようになった司馬懿達は3人の記憶の共有能力があったことも拍車をかけ、驚くほどの速度で現代の知識を吸収していった。
その課程で自分達が集めた(と思っている)情報を基に道を作ることに成功。
その道が自分たちの思い通りに開閉が出来ること。
そして、武器に変えられてはいても自分たちと同じ魂から出来ている武将を変化させた装備が道を出入りしてもなんら問題がないことなどを様々な方法と状況でしつこいくらいに検証した。
その上で、司馬懿達は実際にその道を使用したのである。
不測の事態に備え司馬師をその場に残し、飛び込んだ細い光の道を流されるように移動して、最終的に放り出されたのがこの部屋であった。
もちろん行き先の選定についても適当に選んだ訳ではない。
操者に慎重に慎重を重ねさせた上で武幽電に関連しそうな場所を選ばせたのである。
それだけの準備をしてきたにもかかわらず、結果として今、2人は罠に嵌っている。
ホウ統の言うとおり動じていない訳がなかった。
『ふん、この司馬仲達を罠に嵌めるとはな…あの忌々しい孔明以来か…』
『まぁ仕方ないよ父上、どんなに司馬が優秀でも1800年を追いつくにはまだもう少しかかるってことでしょ』
周囲をくるくると見回しながら軽い口調で返す司馬昭ですら、内心は穏やかではないだろう。
『ふん、そんなことは言い訳にならん。
それよりも子上。
このまま幽閉されるだけなどとは思うなよ。
我らよりも周到に準備をした上で我らをここに誘い込んだ以上はなんらかの交渉若しくは実力行使をしてくるはずだ』
厳しい表情で司馬昭へと注意喚起をする司馬懿ににやけながら頷きを返そうとした司馬昭の表情がすっと固まる。
『父上…父上の後ろのあれってさっきは無かった気がするんだけど?』
『ん?なんだ?』
『な!危ない!』
『ぐ!』
司馬昭の言葉に後ろを振り返ろうとした司馬懿は全身に激しい衝撃を受け、何かと絡まるように地面に吹っ飛ばされる。
『く、し、子上…』
苦痛に顔を歪めながら目を開けた司馬懿の視界に後ろ手に自分を押す司馬昭の背中が映る。
『父上!僕の後ろへ』
更に司馬昭の前方にはどす黒く渦を巻く円形の何か。
そしてその渦の中心から漆黒の槍が突き出されていた。
司馬昭はこの槍から司馬懿を守るため、とっさに司馬懿へ体当たりをしたのだろう。
司馬昭は司馬懿を背後に庇いながらじりじりと後退し、黒い渦から距離を取っていく。
その表情からはいつもの軽薄な雰囲気は微塵も感じられない。
もし、司馬師がこの場にいたとしたら常に冷静沈着な彼ですら思わず驚愕の表情を浮かべたかもしれない。
そして、なによりもその事実に司馬昭自身が驚愕していた。
司馬昭は生前はもちろんのこと、武幽電に参加することになってからも含めてどんな敵を目の前にしても、どんな危地に陥ってもそんなことは一度たりともなかったのである。
『…たかが槍のひと突きでこの僕が笑えなくなるなんて』
司馬昭は自嘲気味に呟きながら手の平を裾で拭うと腰の長剣を抜く。
本来、この身体では汗をかくことはない。
どんなに緊張しようと手に汗をかくことなどあり得ない。
だから、司馬昭の取った行動は極度の緊張から無意識に取ってしまった行動なのだろう。
そうしている間にも司馬昭が剣を向けた先では黒い渦から飛び出た槍が徐々にその長さを増していく。
『子上、出てくるぞ。油断するな』
『分かってるよ父上。
…でもなんだこいつ?』
司馬昭が知らず知らず後ろに後ずさりながら呟く。
黒い渦の向こうから突きを繰り出した人物が次第に渦の外へとまるで染み出てくるように現れる。
槍を掴む手、しなやかな腕、踏み出した形のままの右足、そして全身。
『むぅ…』
司馬懿の唸り声と同時に完全にその姿を現したのは全身黒づくめの漢。
司馬懿達の会話しか見ていない玄達がもしその姿をみれば、先日関羽達と一戦を交えた漢だとすぐに気付いただろう。
槍を突き出した姿勢のまま宙に現れた漢は全身が現れると同時に重力に引かれるように床へと落ちる。
どうやら渦から抜け出す途中の経過においては完全に硬直していたらしい。
それを知っていれば司馬昭にとってはまたとないチャンスだったが、それに気がついた時には黒づくめの漢は腰を落とし黒槍を正眼に構えていた。




