2-B 謎の少女と少年の部活動
肉体的な疲労はないものの、精神的にはかなり摩耗していた晃陽だったが、黎が帰宅した後の二度寝は三時間ほどで覚めてしまった。
寝覚めは悪くないが、頭には若干の違和感が残る。外からは車が往来する音、中では両親がパタパタと家の床を鳴らし、東向きの窓からは、三時間前までの探索が夢幻だったかのように陽光が注いでいる。
黎が言っていたように、少々臆病になっているのだろうか。悔しいが、否定できない。自分はずっと、こんな冒険を望んできたはずだったのに、いざ目の前に差し出されると、足を竦ませてしまう。
だが、それだけではない。頭の片隅に残ったしこりは、もう少し些末で、これもまた、自分に対して失望を感じざるを得ないことだった。
そんなことを考えながら、着替えを済ませ、リビングへと向かった。今日も今日とて、夜勤明けの父と、朝食の準備に勤しむ母が居た。変わらぬ日常だ。変わってしまった日常だ。
「あらあら、どうしたの、二年生になっただけで急に早起きさんね」
「どうしたのはこっちのセリフだ。どうして俺の目玉焼きに綺麗な穴が空いているんだ」
「今日の卵ね、双子だったの。あんまり珍しいから、一つ食べちゃった」
「どんな思考回路を持っていればそうなるんだ!っていうか、父さん、この40手前の天然を止めようとはしてくれなかったのか」
テーブルの反対側に座る父は、謝りながら「父さんにとってもまさか過ぎて対応できなかったんだ」と言った。
晃陽はため息をつきながら思った。そう、これが日常だ。常識外れの、常識的な日常だ。
「ため息なんかついて、幸せが逃げちゃうわよ」
「そうだな」
目玉焼きの兄弟を引き裂いた母に反論をしない晃陽に、父が目を向けてくる。
「どうしたんだい、晃陽、本当に元気がないのか」
「いや、そんなことはないよ。ただ、最近、己の小ささを感じる出来事が多くて」
そう言うと、今度は母親もこちらにやってきて、息子と向き合う位置に座った。やや居心地の悪さを感じた晃陽だが、どうやら話さなければ視線を外してもらえないことを悟って、口を開いた。
「この街の闇を探求する過程で、余計な涙を流させてしまったんだ」
「そうか」
「そうなの」
たった二言に、大量の突っ込みどころを持たせる子供の言葉も、勝手知ったる両親の手にかかればこの通りだ。晃陽は、神妙に頷くと、言葉を続ける。
「覗き込んだ深淵に毒されていたようだ。傷つけてしまった。情けない」
父、東雲輝と、母、真由は、息子の話を聞き終えると、互いに視線を交わし、微笑み合った。
「晃陽、自分を責めるな、とは言わないけど、これだけは言わせてほしいんだ」
父が再び晃陽の方を向いて、伝えるべきことを伝える。
「自分の小ささというか、弱さをちゃんと自覚できている晃陽は、えらいと思うよ」
「そうね、泣かせちゃったことは残念だったわね。だけど、今日、何をすればいいのかは、分かるでしょう」
母の言葉を受けた晃陽が、その大きな瞳をさらに見開き、首肯した。
「そうだな、ありがとう、少しだけ、気が楽になった」
「それは良かったね」
両親が破顔一笑する様子を見て相好を崩しながら、晃陽は言った。
「ところで母さん、今日の朝は目玉の欠けた目玉焼きだけなのか。パンだとかご飯だとかは無いのか」
「あら、ごめんなさい、食べちゃったかも」
慌てて確認に向かう母親を、晃陽は微笑みながら見ていた。だって、笑うしかないじゃないか。
放課後、明け方に目覚めてまた眠るという、中学生にあるまじき不規則な睡眠が祟った晃陽を、「東雲ぇ!仕事ぉ!」という大きな声が呼び止めた。
「月菜か。どうした」
体操着姿の女生徒に晃陽が訊く。
「グラウンドが水たまりだらけになってるから、ちょっと手伝え。どうせ暇だろ」
藤岡月菜とは昨年からの付き合いだ。ソフトボール部に所属しており、やることのない文芸部に部の雑用を手伝わせている。
晃陽は頭一つ分小さな顔に向き合うと、言った。
「別に手伝うのはやぶさかじゃない。が、お前の言い草が気に喰わない」
「じゃあ、いつもみたいに勝負するか?」
思えば最初に会った時から、同じようなやり取りをしていた覚えがある。
「さぁ、ちゃんと真っ直ぐ肘立てな」
男子のような口調で言う月菜が、教室の椅子を一つ拝借し、晃陽と対面する形で座る。
「少しは俺を本気にさせろよ」
晃陽は言いながら、肘を机に立てて迎え撃つ。つまり、腕相撲の勝負である。
「よーし、今日は勝つぞ。レディ……ゴッ!!」
―――数秒後。
「あーあ、負けちゃった」
月菜がうなだれる。
「よし、じゃあ行くぞ、月菜。何をすればいいんだ」
腕を軽く回しながら晃陽が言う。
「え、いいのか?あたし負けたのに」
「女に勝ったって別に嬉しくない。それに、別に手伝うのは構わないと言っただろう」
晃陽の言葉に、月菜の浅黒い顔がパッと晴れた。
「おお、東雲!男になったなお前!」
「ふん、余計な一言があるが、俺は気にしない。さぁ行くぞ、俺の力をもってすれば、地獄すら生ぬるい」
月菜の満面の笑みを見て満足げな表情の晃陽は、勇んで校庭に向かった。
―――が。
「はぁ……はぁ……、地獄か、ここは」
「あ~、やっぱり体力は女並みのままか」
「うるさい。俺は頭脳労働派なんだ」
昨夜から今朝にかけて降り続いた雨は、ソフトボール部の練習場所に大きな水たまりを作っていた。晃陽の仕事は、それをスコップで埋める作業だ。
「あたしらが外周終わるまでになんとかしとけよ。あと、スコップは持って帰ってもいいぞ」
「いらん!」
こんなことならカッコつけるんじゃなかった、という後悔は既に遅く、晃陽はせっせとスコップを動かし続ける。
「あれ、月菜。また勝ったの?」
ランニング中の女子たちの声が聞こえる。
「ううん。負けたけどやってやるってさ」
「へー、良かったね。これで東雲くんの5勝?」
「それくらいかな」
「で、30敗くらいだっけ?」
「それくらいだな!」
そして笑いが起こる。―――クソ、怪力女め。絶対にいつか勝ち越してやる、と晃陽は固く誓う。
「精が出ますな。晃陽くん」
汗ばんだ顔を上げると、黎がにやにや笑いながら立っていた。隣には、暁井明。
「黎も手伝え」
「駄目だ。今は部活見学中で、案内をしなきゃいけない」
「見学するところなんてないだろう。部室で本読んでるか、今日みたいにほかの部活を手伝ってるか―――」
「さっき教室で喋ってた人、東雲くんの彼女?」
明が口を挟んできた。晃陽は「え?」という顔になった後、首を振る。
「違う、友達だ。あと、ライバルだ」
「滅茶苦茶負け越しておいて何がライバルだ。藤岡とライバルという言葉に謝れ」
「うるさい。今日から俺の連勝記録が始まるんだ」
「でも、月菜って名前で呼んでるし。特別な関係なんじゃないの?」
結構詮索する子だな、と、横で聞いている黎は思った。
「友達は全員名前で呼ぶようにしてる。名字呼びは、よそよそしいからな」
「……何がよそよそしいのか、よく分からない」
「大丈夫、こいつのは単に『俺は他人とは違うんです』アピールだから。そのせいで俺も先輩なのにタメ口叩かれてる」
「さっきから変な口を挟むなよ、黎。―――まぁ、そういうことだから、お前が文芸部に入ったら……いや、今からだ。今から明と呼ぶ」
「え!?」
晃陽の宣言に、明が狼狽えてしまう。
「嫌か?」
「はーい先生、そりゃ嫌だと思いまーす」
黎の茶々に渋い表情をしながら、晃陽は続ける。
「まだ転校してきたばかりで、クラスの連中ともあまり話して無いだろう。幸い、同じクラスだし、部活も一緒なら、その、色々と、助けてやれないことも無い―――」
中途半端なところで言葉を切った晃陽の通訳を求めるように、明が黎を見る。
「ん~、多分、お友達になりましょうって言いたいんじゃないかな?」
「黎、うるさいぞ。いや、何も強要はしない。それに、部に入りたければ入ればいい。ただ―――」
晃陽は明の目を見つめ、言った。
「―――昨日はすまなかった」
また妙な間が空き、明が黎を見るが、今度は口出しせず、にやにやと笑うばかりだったので、「なんのこと?」と訊く。
「会って早々、おかしなことばかり訊いて、嫌なことを思い出させて、悪かった」
頭を下げる。
「言動の割には、結構繊細なところがある奴だからな。許してやってくれないか」
困り顔の明に、黎が助け舟を出す。それを聞いた明は、目の前で泥だらけになっている同級生に「ふふっ」と笑い、「東雲くん」と声をかけた。
「こらぁ!東雲ぇ!なにサボってんだぁ!!」
しかし、次の言葉は続かなかった。ランニングを終えた月菜の怒号がかき消したからだ。
「全然終わってねぇじゃねぇか!あ、小暮先輩、もうちょっとコイツ借りますね」
「いいよ。擦り切れるまでご自由に」
黎からの冷酷な許可と共に、再び強制労働に従事させられ始めた晃陽を眺めながら、明は言った。
「小暮先輩、私、部活入ります」
「そうか。ただ―――」
「はい?」
「ラブコメはほどほどにな」
※※
≪少女は少年を見つけ、少年は少女の手を取った。物語は、また一つ進んでいく―――≫
第二話終了です。如何だったでしょうか。
この話を書いて、晃陽くんが好きになってきました。
なお、ラブコメに路線変更する気は、今のところありません。テコ入れにはまだ早い 笑