1-B 変わらない少年の街
退屈な入学式及び始業式が終わり、それぞれが新しい教室に入り、新しい担任教師からの眠たくなるお話が終わって各自下校となったところで香美奈は話し始めた。
「神隠しだと?」
まさか西暦2030年になってそんなオカルティックな話を聞くとは思わなかった。香美奈は、相変わらず口が重たい様子だ。
「本人の前では、あんまり言わない方がいいよ~。結構辛い思いしてたと思うし」
香美奈の話では、小学六年生のある日、突如として暁井明が“消えた”。
「ただの行方不明ではないのか」
「うん。本当に“消えた”の。こうちゃんは引っ越してきてまだ2年ちょっとだから知らないだろうけど、この街には伝説もあるし」
聞くと、二色町には古くから神隠しの伝説があるらしく、数年若しくは十数年おきに行方不明者が出るらしい。
そんな経緯もあり、暁井明もまた、神隠しにあったのではないかと思われたらしい。
「みんな悪気は無いんだけど、気味悪がっちゃって。あたしはそんなに仲良くなかったんだけど~。―――こうちゃん、聞いてる?」
謎のゴーストタウン、謎の少女、神隠しの伝説か。
「―――ククク」
「あの、大丈夫?」
ひょっとして、あの時間に入っちゃた?と、心配する香美奈の声も、最早届かない。
「うひゃひゃひゃ……」
「あちゃ~、始まっちゃったか~」
香美奈が観念したように言った瞬間、やおら晃陽が立ち上がった。
「面白くなってきた!!」
男子と女子が二人で話していることもあってある程度の数は注がれていたクラスメイト達の視線が、一斉に晃陽の方に集まっていったので、香美奈は勝手知ったる様子で宥めにかかる。
「はいは~い。大丈夫で~す。初めての子もいると思うけど、こうちゃんは少なくとも怖い人ではありません~。ちょ~っと妄想タイムに入っちゃっただけですから~」
その言葉に、昨年も同じクラスだった数人の生徒と晃陽の“生態”を知る者たちは「ああ、アレか」といった風情で各自のお喋りや読書に戻っていき、それを見た初見組も自分たちの世界に帰還していく。
―――東雲晃陽13歳。趣味・ゲーム。特技・妄想。
何か起こると自分の頭の中で勝手に妄想が膨らみ、爆発する。細身で、顔にも知的な雰囲気のある晃陽の、ある意味では中学生らしい悪癖だ。
しかし、この男の場合、周囲をすぐに巻き込むので性質が悪い。
「あの~、こうちゃん聞こえてますか~、あたしさっき引っ掻き回さないようにって言ったよね~」
「暁井……明はどこだ!?」
「さっき帰って行ったよ~。っていうか、暁井さんが帰ってからじゃないと話せないし~」
それほど広くない三十人学級を見回す晃陽に香美奈は穏やかに諭すように言う。
「ちっ、逃げられたか」
「ううん違う、帰ったの。ねぇこうちゃんてば―――」
「香美奈、ありがとう。行ってくる」
「どこに!?」
それには答えず、教室を飛び出そうとする晃陽を必死に呼び止める香美奈。
「こ、こうちゃん、待って、あたしも話があるの!」
「なんだ」
色白の顔を赤らめている香美奈が歯切れ悪く言う。
「いや、同じクラスになれたらって、さっき……嬉しかったって……」
「ああ、そのことか。もちろん嬉しかったぞ」
再び教室に残った生徒たちの好奇の目が降り注ぐのをまったく意に介さず、晃陽が柔らかな笑みとともに返答したので、微かなどよめきが起こった。
「そ、そう……、それって、その……」
「当然だ。友達だからな」
ロマンに溢れた何かを期待していたどよめきの波が、秒速で引いていく。一人の男子生徒など、あからさまに舌打ちをした。
「それだけか?俺は早くこの事実を“あいつ”に伝えたいのだが」
「……うん、もういいよ、どこへでも行って。つーか行け、消えろ。お前も神隠しにあえ」
後半の罵詈雑言は聞かず、晃陽は出て行った。
「香美奈ちゃん……」
仲の良い女子生徒が、徒労感たっぷりといった表情の香美奈が座っている机にやってくる。
「なんていうか―――ドンマイ?」
「慰めはいらね~!」
机をバンバン叩きながら力の無い抗議を行う香美奈に、女子生徒は「ごめん」と呟くしかない。
「なんていうかさ~、びっくりだよね~。あんなに想像力逞しいのになんでこっち方面はああなのかな~」
女子生徒は、何も言えない。
「はぁ、今回はどれくらいで戻ってくるかな~」
給食も出ない始業式の午前11時まで居残っているような生徒はほとんどおらず、静寂が支配する北校舎の三階の角で聞こえた扉の開く音は、かなり大きく響いた。
「ここに来るのも、久しぶりだな」
浮足立つ晃陽を宥めるかのように鼻腔をついた香りは、古びた図書の紙のものだ。すっかり電子化の波に呑まれて久しい図書館の風景だが、電子書籍が増えた分だけ今まであった紙の本が消失してしまうなどということもない。蔵書はそのままに、読む者だけがいなくなったパルプの塊たちが少年を出迎えた。
晃陽は、この歳にしてはよく本を、しかも紙で読みたがる奇矯な人物ではあるが、今回の目的は半インテリアと化した資料棚の先にあるID認証型のドアにあった。
限られた人間にしか通行を許さないハイテクなドアには『図書準備室』と印字されているはずだったが、昨年からそこにはA4の紙に汚い字で『文芸部』と書かれた非常にローテクな物体がセロテープでとめられていた。
登録してある学籍番号と、その他いろいろな晃陽の頭では分からない情報の詰まったIDをリーダーにかざし、中に入る。
「黎、いるな」
八畳程度の広さしかない部屋の中央に、長机を二つ並べ四方形にした席の上座に位置する場所で、晃陽の呼びかけに答える声が上がった。
「よう晃陽。遅かったな、小説の手直し、済んでるぞ」
冷静さを窺わせる低音成分の多い声や切れ長の目には怜悧さを感じるが、薄く微笑を湛えた表情からは冷たさは感じない。晃陽も気の置けない感じでその声に応える。
「あ、それはもういいや」
「また途中で放棄するのか。いつになったら文芸部らしく活動できるんだろうな」
小暮黎は溜息混じりに言ったが、晃陽は気にしない。
「一応、書いてはいるんだし、部の活動としては大丈夫だろう」
「お前の大風呂敷を広げまくって収集がつかなくなった文章の残骸を小説と呼ぶのなら、そうなんだろうな」
「む……」
晃陽より年齢は一つ上なだけだが、それ以上に大人びた口調で黎が皮肉を言う。
小説は好きだが、自分で書くとなると全く勝手が違う。作者である晃陽でも畳み切れないレベルにまで設定を広げてしまうため、未だに完成の日の目を見た作品は一本もないという状況だった。
「大して根気も無い癖に、凝り過ぎなんだよ。短編を書いてみようぜ」
たとえ荒削りであっても一度完成させるのが大事なのだといつもアドバイスをしているが、晃陽は「分かっているが、どうしても長くなってしまうんだ」と言う。
「頭を使え、ちゃんと練ろ。大体話の詰めが甘くて挫折してるだろう。どっかの作家は、一気に9本も書くとか宣言して辛いことになってるらしい」
……。
「ああ、あれか。ちゃんと完結するんだろうな」と晃陽。
「本当に、大丈夫なのか」と黎。
……ごめんなさい。頑張ります。
「まぁ、小説は今年中に必ず書き上げる。そんなことより、今日はすごい話があるんだ。聞いてくれ」
「またか」
げんなりした様子の黎もまた、当然、晃陽の妄想癖は知っていて、その主な被害者でもあった。
「今回は何だ?」
よくぞ訊いてくれたと言わんばかりに、晃陽が机を両手で勢いよく叩き、黎の方へ顔を寄せると―――近い、と言われるのも構わず―――息をひそめて言った。
「実は、この学校に異世界からの侵略者が転校してきたかもしれないんだ」
「帰っていいか」
「だぁー!最後まで聞け。これは本当の話だ」
そして、今朝未明から始まった不思議な出来事について、順を追って話し始めた。
「―――その神社の中にいた女の子が、暁井明だったんだ」
話を聞き終えた黎は、しばらく思案するように腕を組んでいたが、やがて口を開き「で、それと侵略云々はどこから来てるんだ」と訊いた。
「俺が見た巨大な塔のあるゴーストタウンこそ、この世のものならぬ異界。暁井明は、あの影の塊たる侵略者が操る闇の傀儡―――っておい黎!」
「お前の妄想なんか聞いても時間の無駄だ」
晃陽が拳を振り回して熱弁を振るっている間に、黎はそそくさと帰り支度を始めていた。
「そんな穴だらけの脳内設定をここでこねくり回すより、やれることはある」
「設定とは何だ!全部本当のことだ。それに穴だらけとは―――」
後輩からの抗議は右から左で、春休み中に改稿した小説のゲラと簡易メモリチップを晃陽の通学バッグに無理矢理捻じ込んだ黎は、「いいから行くぞ」と、下校を促す。
「どこに行くんだ」
「三好神社……じゃない、二色神社だ。その神社の中を実際に覗かせてもらえば、分かるだろう」
「そんなこと、できるのか」
「何とかなるだろう。自転車を取ってくるから、校門で待ってろ」
徒歩通学の晃陽に合わせて徒歩で向かう不便を嫌った黎が「夏休みまではつけておいてやる」といって乗り込んだバスで神社に向かう途中、突飛な妄想の粗探しが始まった。
「暁井明って子が体を操られてるって、じゃあ、神社にいたのは誰だよ。それに、その子は転校してたんだろう。その間に転校先で何も起きていないのはおかしい。大体、女子中学生の体に乗り移ったくらいで何ができるっていうんだ?」
「う……」
淡々と入る的確な突っ込みに、反論する言葉もない。
「ゴーストタウンだって、きっと夢の中の話だ」
「―――いや、それだけはあり得ない。あれが夢だなんて」
妄想屋なことに多少の自覚はあると同時に、現実の虚構の区別はしっかりついているはずだと思っている晃陽が“塔のある二色町”に関しては頑なに真実だと言い張る。
≪次は、商店街アーケード前≫
いつになく真剣な様子の晃陽を見やりながら、黎が乗降ボタンを押した。
高性能な折り畳み自転車ととともにバスから降り立った黎が「お前が矢面に立つと話がややこしくなるから俺が先に行って神社の人間と話してくる」と言ったせいで一人残された晃陽は、とぼとぼと平日の昼間ながら多少の人出がある商店街を歩いていた。
やはり、今朝―――と言っていいのか分からないほど暗い時間帯だが―――に歩いていた場所ではないという確信が強くなる。。人が喋り、歩いていたり、陽が燦燦と当たっているとかいった些末なことではなく、あの場所と今こうしている場所では、纏う雰囲気や空気が、根本から違うのだ。
「あれは、間違いなく現実だ―――」
神社へ向かう道の途中で立ち止まり、そう呟いて目を閉じる。
(―――!)
ハッとなって目を開けると、そこはあのゴーストタウンだった。商店街の変わった模様の石畳や、シャッターの閉じた店の様子が分かるので、薄く光源はあるのだと思われるが、ほとんど暗闇に閉ざされている街。風の音すらも鼓膜が捉えられない完璧な静寂。そして、ガラス張りのアーケードを通して見える、天を衝く漆黒の塔。
―――いや、違う、ここじゃない。これこそ夢だ!
突如頭にこびりついたヘドロのような思考を振り払うように頭を左右に振り、今一度大きく目を見開くと、音と光、そして現実が戻ってきた。
「はぁ……はぁ……」
思わず膝に手をつきそうになるほどの疲労が遅い、数回、大きく息を吐くと、晃陽は走り出した。
確かめなければいけない。あの神社には、確実に“何か”がある。
その頃、黎は神社の裏手にある『三好』と書かれた純和風建築の家の中にいた。
「本当に久しぶりねぇ、黎君。元気だった?」
「はい。おばさんも、お元気そうでなによりです」
黎はそういって居間で出されたお茶に口をつける。
本当は、そろそろ変な奴が神社の中に侵入してくるので、こんなところで呑気に緑茶など啜っている暇はないのだが、黎がおばさんと呼ぶ、40代くらいの女性の柔和な笑みに懐かしさがこみ上げ、ついついお邪魔してしまったのだ。
「それにしても、あの引っ込み思案な子が別の小学校の男の子とお友達になって遊んでたなんて、今でもちょっと信じられないわねぇ」
「人見知りだったのは、俺も同じですから。同じ波長を感じたのだと思います」
「そんなものかしらね。それにしても黎君、カッコ良くなったわねぇ。あの子もそれなりに可愛いと思うけど、どうかしら、黎君?」
「それは……知りませんね」
突如として親から娘を薦められた黎は苦笑するしかない。
「お父さんも、黎君だったら大丈夫だと思うんだけどねぇ」
話がどんどん危ない方向に行っていることを感じた黎は、急いで話題を切り替えにかかる。
「あの、おばさん。その話はとりあえず娘さん抜きで進めるのは良くないと思うので、俺の話を聞いてもらってもいいですか」
「あら、なにかしら」
「はい、実は、神社の中―――社殿を見せて頂きたいんです」
「ええ、いいけど……なんで急に?」
「実は、ちょっと変な奴がウチの学校に居まして、今こっちに向かっているんですが、一度社殿を見せておかないと厄介なことになりそうなんです」
我ながらとんでもない説明だと思ったが、幼馴染の娘同様おっとりした性格のおばさん―――三好恵那は「それは大変ね」と、一言で済ませた。
「ええ、早くしないと―――」
黎が言った瞬間、神社の境内の方から女性の叫び声が聞こえた。
「―――もう遅かったようです」
やっぱり、茶など飲んでいる場合ではなかったようだ。
境内には、誰もいなかった。賑やかな商店街を抜けてきてから感じる神社の静寂は、神秘性より不気味さが勝っていた。
先に行くと言っていた黎はいない。もしや、神社に潜む“魔”に呑まれたのかと警戒心を強くして、晃陽は木造の大きな社殿へと歩を進めた。五段ほどの階段を上り、扉に手をかけるが、開かない。鍵がかかっているようだ。
「どうしたものか」
「どうかしましたか」
突然耳に声が届くことに、体が恐怖心を覚えてしまったのか、晃陽は社殿の階段から派手に転げ落ちてしまった。幸い外傷は無く、すぐに立ち上がった。
「ごめんなさい。大丈夫ですか」
晃陽に声をかけてきたのは、地元の女子高の制服を着た女子だった。癖の無い黒のロングヘアに収まった顔は、ややふっくらとしていた。太っているわけではなく、全体が柔らかい曲線を持った大和撫子といった雰囲気の美人だった。
「ああ、平気だ。それより、あんたはこの神社の人間か」
少女が、困惑した様子で頷くと、晃陽の手がその肩を掴んだ。
「この扉を開けろォ!誰を隠している!!」
「ええ!?」
少女が恐怖に身を固くするのもお構いなしに、晃陽は言い募る。
「俺は知っているんだぞ、ここにこの街の闇の根源を匿っていることを!この神社が、邪な神を奉る邪神殿であることをォ!!」
「え、じゃ……なんですって?」
「この期に及んでしらばっくれるなーーーぐはぁっ!!」
喚き散らす晃陽の側頭部に、飛び膝蹴りが炸裂した。
「何をやってんだ、この中二野郎が。大丈夫でしたか、先輩」
強烈なフライングニーを見舞った黎に先輩と呼ばれた少女は、人間が真横に吹き飛んでいくのを見るのが初めてだったからか、口をぱくぱくさせながらこくこくと頷いた。
「あの、あの人、すごい飛んで行ったけど、大丈夫なの?」
「いいえ、元々大丈夫じゃないありません。むしろ、一度頭を打って正常になったかも知れません」
「そうなんだ。うふふ」
かれこれ二年越しの会話にしては、随分と間の抜けたものだったが、幼馴染の再開に、少女が口に手を当てて笑みを浮かべた。
すっかり不審者扱いの晃陽がのっそりと立ち上がって反論の声をあげる。
「何を言うか。俺は正常だ。大体、正常と異常を隔てる壁なんてものは―――」
「久しぶりですね、三好先輩」
「俺の話を聞け!」
「ふふ、“先輩”はやめてよ。貴江でいいよ、小さい頃みたいに」
色白で上品そうな顔立ちの三好貴江は眼を細めて笑った。黎はその要望には応えず、あくまで先輩後輩という立場を崩さず、晃陽を紹介する。
「三好先輩、こいつ、文芸部の後輩です。ひがしくもあきひと言って」
「訓読みはやめろ!東雲晃陽だ」
二人のやり取りに、また「ふふ」と控え目に笑った貴江も自己紹介する。
「この神社の娘で、三好貴江と言います。高二で、黎の二年先輩。東雲くんの、三年先輩ね」
「お前が入学する前の部長だよ」
そうか、と頷くと、晃陽は貴江に向き合う。
「先ほどはすまなかった。“向こう”の瘴気に当てられて、取り乱してしまったようだ」
「はぁ……」
困り顔の貴江に「話は半分くらいで聞いてやってください」と、黎が助け舟を出す。
「改めて尋ねたいのだが」
「ごめんなさい先輩、こいつ敬語使えない病なんです」
別にそういうわけじゃないと晃陽が言いかけるのを制して、貴江は「別にいいですよ」と温厚そうな口調で言う。
「この中はどうなってる?」
晃陽の問いかけに首を傾げる貴江。
「どうって、何もないですよ」
「本当か。“魔”を放置しておくと、つまらないことになるぞ」
「え、マ……?」
「ああ、本当にごめんなさい。ちょっと中二特有の病気も持ってて」
そういう黎が晃陽の頭を押さえつけて無理やり謝らせる。
「やめろ、黎」
「こっちのセリフだ」
貴江は穏やかな微笑を絶やさず後輩同士のやり取りを見守っている。晃陽がやっとこさ黎を振りほどき、さらに訊く。
「じゃあ、中についてはいい。神隠しについて、何か知らないか」
“神隠し”という言葉に、細められていた目が、少しだけ開かれた。
「知っている……というほどではないですけど、確かに、この神社には神隠しの伝承と、記録が残っています」
「本当か!?」
「でも、記録は本当に旧い物だし、父はただの行方不明だと言っていましたし」
返答に窮している様子の貴江だったが、晃陽はなおも言い募る。
「実際にあったんだろう。二年前に」
「二年前?ああ、あれは―――」
「俺がこの街に来たのは神隠しが起きた後だから何も知らない。居たんだろう。俺と同い年の、神隠しにあった人間が」
「うーん、本当のところは、本人にしか分からないと思います」
「そうですよね。よし、晃陽、帰るぞ」
黎が不満げな晃陽にいう。
「む―――」
「訊きたいことは全部訊いただろ。これ以上先輩に迷惑はかけられない」
「仕方ないな。今日、の、ところ、は―――」
言いながら、晃陽の身体が、ゆっくりと倒れていった。
「どうした!?晃陽!」
「やっぱりどこか打ち所が悪かったんじゃない!?」
二人が大騒ぎしているのを見上げながら、晃陽が弱々しく言った。
「いや、朝から何も食べていなかったことを、身体が思い出しただけだ……」
急な来客、しかも一人娘の家に男子中学生が二人来たにも関わらず、貴江の母である恵那は楽しそうに三人分の昼食を用意してくれた。
「おばさん、すみません。騒ぎ起こした上にお昼まで」
出されたうどんを猛烈な勢いで啜っている晃陽を横目に、黎が頭を下げる。
「いいのよこれくらい。それにしても貴江ちゃん、やっぱり年下の子が好きだったのね」
「ち、違うよお母さん!変なこと言わないで!」
貴江の怒ったような声に動じる様子もなく―――実際、まったく怒気が伝わらないおっとりした声色だったので―――恵那は嬉しそうに台所へ戻っていった。
「ふー、ごちそうさまでした」
生き返ったといった表情で、晃陽が言った。
「現実に腹が減って動けなくなったやつを、俺は生まれて初めて見た」
黎の茶化した声に、晃陽は真面目に頷いて見せる。
「俺もだ。恐らく、寝不足+空腹と魔物の瘴気のせいだな」
貴江の母親に礼を言ってくる、といって食べ終えた食器を持って行った晃陽が居間を出て行くと、貴江が黎の傍まで寄ってきた。
「面白い子だね」
「相変わらず大らかな人ですね。普通は、“アレ”を面白いの一言では済ませられませんよ」
貴江が垂れ目がちな目元を細めてクスリと笑ったので、黎も表情を和らげる。久しぶりの会話にある緊張が、ほんの少し、ほぐれていく。
「文芸部、続けてたんだ」
「はい、俺たちが始めた部ですから」
綺麗に正座をしている貴江の腿が、胡坐を掻いていた黎の膝に当たった。随分距離が近いなと思って黎が貴江の方に首を向けると、貴江もこちらを見つめていた。
「ねぇ、黎、ずっと訊きたかったことがあるんだけど、いいかな」
囁くような声で話しかけられる。黎は眼だけで頷く。
「私、何か黎にしちゃったかな。何か、怒らせるようなこと」
黎は無言で首を横に振る。
「じゃあ、どうして二年間、連絡もしてくれなかったの?」
黎は、目を逸らした。この心境を言葉にするのは、とても難しい。だが、何とか絞り出す。
「先輩は、何もしていません。ただ、変わっただけです。いろいろなことが」
「もう私たち、友達じゃなくなったってこと?」
寂しそうな声に、応えることができない。貴江の放った言葉の、想いの、深いところは分かっているつもりだ。だから、それに応えられない自分が居ることも、分かっている。
もう、お互いに、幼い頃のままではいられなくなったのだ。
「そんなことは無いぞ」
沈黙を破ったのは、勢いよく開いた襖と、教師からも実直過ぎると称される声だった。
「友達は、お互いがそう思っている限りずっと友達だ。黎、お前は貴江のことが嫌いなわけじゃないのだろう」
いつからこちらの話を聞いていたのかと問い詰める暇も与えない晃陽の言に、黎は「ああ」と曖昧な返事を返す。晃陽はそれをイエスと取ったらしく、満足気にうんうんと頷いた。
「こうして久しぶりに会って、仲良く話をしていられるんだ。何の問題もない。黎と貴江は、友達だ」
それは、ある程度の年齢の男女間に生じる当たり前の複雑さとか、心の機敏を読む繊細さとかを強引に蹴り飛ばしていったような力技の言葉だったが、それ故に、一切の誤魔化しを拒む強さがあり、黎も貴江も、「その通りだ」と、相好を崩すしかなかった。
「黎と俺だってそうだ。そうだろう、黎?」
「それはどうかな」
「これだ、貴江。どうもこの男は問題を難しく考えすぎるところがある」
「そうね。ふふ」
貴江の上品な笑いを呼び水に、今度は三人で笑い合った。
結局、なんだかんだと長居してしまい、三好家を出るときには既に夕刻となっていた。春先の肌寒い空気の中を歩きながら、黎が晃陽に問う。
「気が済んだか?」
「何がだ?」
「妄想は収まったかって訊いてる」
「妄想じゃない。それに、神隠し伝説は本当にあったんだ。貴江の母親も言っていただろう」
「おばさん……先輩のお母さんの適当な相槌を真に受けてたら地球の滅亡説だって真実になる」
しかし、すっかりその気になってしまっている後輩は聞く耳を持たない。
「古くから伝わる、神隠しの伝説に異様な街と謎の転校生か……。うひゃひゃひゃ、面白くなってきた!」
「その妄想時特有の気持ち悪い笑い方は何とかならないのか。あと、その話の中で今朝死にかけたことを忘れてないか」
黎が力無く言った言葉は受け流され、晃陽は興奮気味に言う。
「黎、こういうのはどうだ?あの暁井明は、異世界からの使者で、本物の暁井は、俺がゴーストタウンで見た子」
「使者って、何のだ?」
「それはもちろん、世界を暗黒面に落とすために―――」
「わざわざ当時小学生の女子に化けたわけか」
「う……」
「毎回そうだけど、設定が雑なんだよ、お前の妄想は。どうせお前の言う異世界ってのも、中二病を拗らせた奴が見る夢だ」
「う、うむ……」
ここで分かれ道に差し掛かった。押していた自転車に跨り、黎がとどめの一言を放つ。
「じゃあな、できるだけ早く現実に戻って来いよー!」
「……」
暮れていく陽の方へと消えていく友の背中を無言で見つめていた晃陽だったが、ややあって歩き出した。その足が向く方向には夕闇が広がっていたが、それと同時にやがて陽が昇る場所でもあった。
※※
≪このとき、彼はまだ気付いていなかった。もう戻ることのできない物語が、動き出してしまったことを。
少年は暁闇に包まれた街への扉を、再び開く≫