彼の名は
男は苛立っていた。
ただでさえ残業が続いてしまっていて疲れているのに、上司の尻拭い的に得意先に頭を下げて回ったからだ。定時退社の予定がずいぶん遅れてしまった。
今日は結婚記念日だった。彼が結婚して二年になる。結婚して五年、十年と過ぎていつまでも新婚の時のように甘い生活を続けることは難しいだろう。いわゆる“マンネリ”というやつだ。
だがまだ二年。まだ新婚の内だ。記念日にはそれなりにお祝いをしないと細君は機嫌を損ねてしまうことだろう。だからこその定時退社だったのだ。
それが。
無能な上司のせいで。
この事態だ。
「くそっ……!」
彼はハンドルを軽く叩き悪態をついた。
すでに辺りは夜闇が支配している。まだ日の長い時期、定時だったら夕闇程度だっただろう。普段通りの帰宅時の情景を思うとますます苛立ちが募る。
その苛立ちのせいで男は気づけなかった。
普段どおりに走っているその住宅街。やや狭いその路地は、ある程度の明るさのある時に比較してその速度では速すぎることに。
この速度では視界が狭く、注意力が散漫になってしまうことに。
「あっ!!!」
丁字路に差し掛かったとき、それは起きた。
キキューーーーーーィッ!!
耳障りな音を立てて車が急制動する。男が急ブレーキを掛けたのだ。
「……! 今……子供が……轢いちまった……?」
男はハンドルに額を押し付けブツブツと呟きだす。
丁字路に差し掛かったとき。彼の視界には影から飛び出す一つの影が見えていた。丁度子供くらいのサイズだ。
散漫になっていた彼の注意力ではギリギリまで気づけなかったのだ。慌ててブレーキを踏んだものの、恐らくは間に合っていない。
「でも……、衝撃もなかったし大丈夫なんじゃ……?」
男は震える声で呟いた。
「降りて確認に……」
シートベルトを外して外に出ようとする男。しかし彼はこうも思った。
“さっさと逃げれば大丈夫なのでは?”
「いや……、でも助ければ間に合うかも……」
悪魔の声との葛藤に揺れる男。
やがて彼はシートベルトを外した。彼はもう数ヶ月もすれば父になる。その想いが彼の悪魔を振り払った。
ドアを開ける。少し蒸し暑さの残る外気が流れ込み肌を蒸す。果たしてこの汗は気候のせいだろうか?
「あれ……?」
しかし、覚悟を決めて外に出た彼が見たものは、いや、違う。彼は何も見ることができなかった。
「誰もいない?」
確かに子供の影を見たのだが。そう思う彼は辺りを見回しようやく“彼”を見つける。
「飛び出し注意の看板か……」
安堵した男はその場にへたり込んでしまった。
彼が見たのはどこの町にも一つはあるだろう“飛び出し坊や”だった。見通しの悪い交差点などに設置されドライバーに注意を促す子供をかたどったアレだ。周囲が暗く、焦りのあった男には正に“飛び出し坊や”だった訳だ。
「おじさん。どうしたの? そんなところで」
男の背後から声が聞こえる。見ると塾帰りらしい少年がこちらを見下ろしている。
男は慌てて立ち上がり、愛想笑いをしながら答える。
「あ、あはは……。実は子供が飛び出したように見えてね。確認してみたらこの看板だったんだよ。驚いちゃって、ついね。ははは……」
「ああ、これね。これってね、ここで事故があったから置いてあるんだよ」
「え?」
「ここって公園が近いし、車もたくさん通るんだ。前に同じ小学校の子が事故にあったんだ。その子は怪我で済んだけど危ないからって、学校の先生たちが立てたんだって」
その少年はじゃあねと言うとその丁字路を曲がり、行ってしまった。
再び車に戻った男は静かに車を走らせた。先ほどよりゆっくりと走らせるように。
男は思った。もしかしたら自分はあの少年を轢いてしまっていたかもしれない、と。ただタイミングが良かっただけだと。
ようやく家に帰った男を、少しお腹の大きくなった妻が出迎えた。
「ただいま。遅くなって済まない」
「お帰りなさい。いいのよ、お仕事だもの。この子のためにも頑張ってもらわないとね」
そういって妻は自分のお腹をなでる。
「ああ、そうだな。父として恥じない男にならなきゃな」
「なぁに? 急にそんなこと言って」
クスクスと笑う妻に、男は今日のことをポツポツと語っていった。
それ以来、男は交通事故はおろか交通違反をすることもなくなったという。
そして。
危険な路地の事故の魔の手から、子供たちを守るため。
今日も“彼”は飛び出すのだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
このお話は飛び出し坊やを見かけたときにふと思いついた話だったのですが、交通事故に対する教訓的なものになればと思って投降いたしました。
お車を運転される方も、そうでない方も、暗い路地や交差点等、事故が多発するようなところではくれぐれもお気をつけ下さい。起きてからではもうどうしようもありませんから。
では、ご意見やご感想ありましたら御遠慮なく仰ってください。大変に喜びます。また、他の作品も読んでいただければ幸いに存じます。