6章
セイレンがその子供を見つけたのは、入り浸っている公共書庫の帰りのことだった。
もうすぐ休みがあけ、王都に戻ることになっていたセイレンは、適当に土産を見繕おうと、繁華街まで足を延ばしていた。
考えるのも面倒くさいので、店主が勧めるものでいいから買おうとしていたセイレンは、ふとそこで隣の店の軒下にうずくまっている子供を見つけた。
短く切りそろえられた白い髪。白い肌。子供らしい肢体はすんなりとしていたが、男か女かは判別できない。
背中に何かあるのか、時々気にするような仕草をしていて、それが妙に気になった。怪我でもしているのだろうか。
「……大丈夫か?」
声をかけると、子供が顔をあげた。じろりとにらみつけられる。
その苛烈な黄金の目に、セイレンはまばたきを繰り返した。この顔は。
「……トール?」
数日前、シュエと一緒にいた子供の名前を呼ぶと、相手は目に見えてうろたえた顔をした。
印象的だったその目は、間違いなくトールと同じものだったが、いかんせん身長が違いすぎる。
シュエと一緒にいた子供は4、5歳に見えたが、今目の前にいる相手は、シュエや自分とそう変わらないように見えた。血縁者だろうか。
「トール、じゃないな。あいつの親戚か?」
「……ああ、誰かと思ったらあなたか。セイレン」
得心がいったように、子供はつぶやいた。落ち着いた綺麗な声だ。
「おれを知ってるのか?」
「はぁ?なに言ってるの?この前会ったばかりで……ああ、そっか。そうだよね」
子供はひとり納得したようにうなずくと、気だるそうに立ち上がった。身長はセイレンよりも少し低い。シュエと同じくらいだろうか。
子供は少し首をかしげて言った。
「あなたのことはシュエから聞いてるから。幼なじみなんだよね?」
「そうだが……おまえは?」
「自分?自分は……トールの親戚?で、いいか」
「どうして疑問系なんだ?」
怪訝そうに問うと、子供は肩をすくめた。
「詳しく説明するの、面倒くさかったから。別に間違ってもいないし」
そういう問題だろうか。でもシュエのことも自分のことも知っているのだから、親戚というのは本当だろう。
しかしトールはおとなしい素直な子供だったが、目の前の相手はどこか皮肉屋の雰囲気があった。顔の造作はともかく、性格はあまり似ていなさそうだ。
「おまえは?」
「うん?」
「名前」
「名前?自分の?ああ……」
子供は視線を横にさまよわせた後、ぽつりとつぶやいた。
「トール」
「は?」
「は?って、失礼だね。あなたが聞いたのに」
不服そうに子供が告げる。
「悪い。だが、同じ名前なのか?」
「まぁ、そうだね」
あっさりと子供ーートールが答える。同じ名前なんてややこしい。というか、普通身内で同じ名前をつけるだろうか?
「間違えたりしないのか?」
「間違えられないよ。そもそも名前なんて呼ばれないんだから」
どこか腹立たしそうに、そしてどこか寂しげにトールはつぶやいた。
何か含みのある口調だったが、待ってみてもそれ以上トールは何も言わない。気のせいだったのだろうか。
無意識にか、再びトールは背中を気にした仕草をした。手を軽く当て、顔をしかめている。
「……怪我でもしているのか?」
「はぁ?」
「さっきから気にしているだろう。背中」
ああ、とトールは冷めた顔で言った。
「別に。少し痛いだけ。……それより聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「あの人って、どういう人?」
投げかけられた質問は非常に唐突で、セイレンは眉をひそめた。
「誰のことだ?」
「あなたの幼なじみ」
簡潔な答えで、誰のことを聞いているのかが分かった。シュエだ。
セイレンはますます眉をひそめた。
「なぜ、そんなことを聞く?」
「なぜって……」
トールは少し躊躇った後、小さな声で答えた。
「あの人の考えてることって、全然分からないから」
「……」
その声は静かで、トールがただ興味本位に聞いているわけではないと分かる。セイレンは小さく息をついた。
「……幼なじみだというが、おれだってずっと一緒にいたわけじゃない。最近は特にそうだ。おまえのほうが知っているんじゃないのか?」
「知らないよ。あの人に会って、まだ10日も経ってないし」
確か近所に引っ越ししてきたのだとシュエは言っていたが、そんなに最近のことだとは思わなかった。
「だからあなたのほうが知ってる」
「……まぁ、そうだな」
「あの人の親ってどうなってるの?一緒に暮らしてないよね」
いきなりトールは深いところを尋ねてきた。セイレンは渋面する。
「……亡くなった」
「死んだ?ふたりとも?」
「そうだ」
「どうして」
セイレンは無邪気に聞いたトールを、軽く見据えた。
「他人が軽々しく話していいことじゃない。知りたいなら、シュエ本人に聞け」
「けち」
「けち?」
その単語に渋面していたら、ふとトールが顔をあげた。人通りの多い道へと目を向けている。
その視線を追うと、人混みに紛れて歩く兵士の姿にたどり着いた。ここ数日、この街に逗留しつづけている兵だ。
「……あれは?」
「兵士だな」
「見れば分かるよ。あれは何をしてるのか知ってる?」
問われ、セイレンは一昨日のことを思い出した。兵士たちはそこら中で聞き込みをしているらしく、セイレンがそれに捕まったのが一昨日だった。
確か……。
「悪魔を探しているらしい」
記憶を掘り返しつつ答えると、トールは一瞬驚いたような表情になった。それから目を細めて聞き返してくる。
「悪魔?」
「ああ」
「この街に悪魔がいるの?」
さぁ、とセイレンはそっけなく言う。
「いるから探しているんじゃないのか?」
「……ふーん」
トールは目を細め、何かを考えている様子だった。それを見下ろし、セイレンは口を開く。
「気をつけろよ」
「……は?何に?」
「悪魔だ。あいつらは人間を喰うからな」
トールは華奢で、いかにも腕っ節が弱そうだ。捕食者からしたら、格好の獲物なんじゃないだろうか。そういえば男か女かもよく分からないけれど。
一応気を使ってそう言ってみると、トールはきょとんとした顔をした。それから愉快そうに微笑む。こう言っては何だが、悪い顔だ。
「……なにを笑ってるんだ?」
「ああ、ごめん。あなたがあまりにもおかしなことを言うから」
「何か変なことを言ったか?」
眉をひそめて聞き返すと、トールはゆるく微笑した。
「心配しなくてもいいよ。クソ悪魔なんかに喰われるほど、弱くないし」
「クソ悪魔?」
「うん」
綺麗な顔立ちをしている割に毒舌らしい。親の顔が見てみたいものだ。
「とにかく自分は大丈夫。心配するなら、あの人に言ってよ」
「あの人?シュエか?」
「そう」
「あいつは心配するだけ無駄だ。人の言うことなんて聞かない」
ため息混じりにつぶやくと、トールも思い当たる節があるのか「本当だよね」と力強くうなずいた。
待っても待ってもなかなか帰ってこない相手に痺れを切らして、シュエは家の外に出た。
一体どこまで行ったのだろうと探してみても、なかなか見つからない。
焦ったシュエが街のほうに足を伸ばしてみると、子供があぜ道をひとりで歩いてくるのが見えた。
「あー、もうやっと見つけた」
息を乱したシュエに気づくと、相手は一瞬だけ目をみはった。
「……探しに来てくれたの?」
「そーですよ。全くもう、全然見つからないし。どこに行ってたんですか?」
子供は「街に」と、ぽつりと答えた。
「街に?なんでまた」
「なんでって別に……そこしか思いつかなかったから」
そういえば子供が外に出かけたことがあるのは、そこだけだ。シュエは息をついた。
「まぁ、いいや。帰ろ?」
踵を返そうとしたシュエの腕を、子供がつかんだ。
振り返ると、首もとに腕が伸びてくる。と思ったら、次の瞬間、べろりと襟元を広げられた。
「こらこらこら」
呆れながらその手を叩くと、今度はその手をとられ、裏表ひっくり返しながらまじまじと見つめられた。仕方なくシュエは子供の好きにさせる。
やがて満足したのか、子供は手を離した。
「噛まれなかったんだ?」
「当たり前。ってか、あんたが釘さしていったんですよ?」
「あなたたちにその分別があるとは思わなかった」
あなたたち、と一括りにされ、シュエは憮然とした。どうやらふたりとも信用がないらしい。
「ヤンが言ったんですよ。『腹は減ったけど、あいつに切り刻まれるのはやだから、もう少し我慢する』って」
「ふぅん?せっかく正当な理由がもらえると思ったのに」
「切り刻むための?」
「うん」
真面目に答えられ、シュエは小さく吹き出した。
子供はこんなことを言っているが、そもそもシュエとヤンをふたりきりにした時点で、ある程度ヤンのことを信用している証だと思う。
笑うシュエを見て、子供が不機嫌になった。
「……なに笑ってるの?」
「いや、別に。さ、そろそろ帰ろ?」
促してみるが、子供が歩き出す様子はない。
視線を向けると、どこかふてくされた顔をしていた。そういう表情をしていると、本当にまだ幼いのだと実感する。
「ほら」
手を差し出すと、子供はそれをじっと見つめた。しばらくすると、ひんやりした掌が握り返してくる。
促すように引くと、今度は子供も大人しく一緒に歩きだした。
ほんの数日前もこうして手を引いて歩いたのに、今は少し妙な感じだ。背丈だけなら、もうシュエとほとんど変わらないせいかもしれない。
無言のまま歩いていると、少しして子供がぽつりとつぶやいた。
「……セイレンに会ったよ」
「セイレンに?」
シュエは笑った。
「どうせ書庫にでも入り浸ってるんでしょ?あいつらしー」
「もうすぐ王都に戻るって」
「あー、そうなんですか?休暇、もう終わりなんだ」
答えながら、セイレンとこの子供が会話するのを想像してみるが、なんだか不思議な感じだった。ちゃんと会話が成り立つのだろうか。
そこまで考えたシュエは、あることに気づいた。
「っていうか、セイレン、あんたのこと分かったんですか?」
以前会ったときは、まだ小さかったはずだ。
尋ねると、子供はこくりとうなずいた。
「たぶん別人だとは思ってるけどね。トールの親戚かって聞かれたよ」
トールという名前に、無意識に緊張する。
子供が、つなぐ掌に力をこめた。
「だから、親戚だって言っておいた。名前もトールだって名乗っておいたから」
「……」
探るような視線を感じ、シュエは苦笑した。
「親戚同士で同じ名前って、なんかおかしいですね」
「自分は気にしないよ」
「いや、世間一般的にね。どうかな」
「世間一般なんて関係ない」
穏やかな、けれど揺るがない口調で子供がつぶやく。
日に日にーーというか、少し目を離した隙にどんどん頑固になっていっている気がして、シュエはまたおかしくなってしまった。
ひんやりした手に力をこめたまま、子供が尋ねてきた。
「あなたの親は、死んだって聞いた」
「……セイレンめ」
「どうして死んだのかは教えてくれなかったよ。自分で聞けって。だから聞くことにする」
「えっと、そんな面白味のある話じゃないですよ?」
「知りたい」
変なことを知りたがるなぁと思いつつ、シュエは答えることにした。別に隠すようなことでもない。
「うちは代々猟師なんですよ。もちろんわたしの親もね。それで、わたしが13の時だったかな…山で獣に襲われて。ふたりとも。それだけ」
「……」
「ね?面白味のある話じゃないでしょ?」
「……それで?」
子供が手を引いた。
「それでその後はどうしたの?」
「その後?その後はわりと大変だったなぁ。半年くらいセイレンの家にお世話になって。ちょっと落ち着いてから、家に戻ったんですよ。それからずっと猟で一人暮らし」
「……」
黙ってしまった子供の姿に、少し焦ってしまった。やはりあまり楽しい話ではなかったようだ。
「まぁ、でも昔のことだから」
「……今でも、親に会いたいと思う?」
目が合い、そう尋ねられた。一瞬、答えに詰まる。なぜか慎重に答えなければいけない気がした。
「……そりゃ会いたいですよ。でも」
「でも?」
「昔のことだからさ。正直に言うと、顔もぼんやりとしか覚えてないんですよ」
シュエの家は裕福ではないので、写真はおろか絵姿さえ残していない。記憶の中の両親は、すでに朧気だった。
快活だった父の大きな手。優しく、厳しかった母の声。そういった記憶が、時間が経つごとに薄れていく。同時に、ふたりを失った時の悲しさも。
「だから会いたいような気もするし、会わなくてもいいような気もするんですよ。会ったって前の生活が戻ってくるわけじゃないしね」
不意に握りしめてくる掌の力が強くなった。子供を見るが、うつむいていて表情は見えない。
「なに。どしたの?」
「……別に、何でもない」
抑えた声で、子供が告げた。すがりつくように握られる掌の力が、更に強くなる。
シュエは思わず笑い、空いた手で子供の頭をぐしゃぐしゃにかきまぜた。
「……ちょっと。何するの?」
「いや。反抗期は終わったのかなーって思って」
「終わってないし」
「あ、終わってないんだ?」
それは残念、とつぶやくと、子供が急に立ち止まった。
シュエが乱したぼさぼさの頭のまま、子供はじっとこちらを見つめてきていた。
黄金の光が、不安そうにゆらゆらと揺れている。
「……名前、呼んでよ」
子供が囁いた。いつもの自信満々の声ではない。シュエは困ったように眉尻を下げた。
「あんたの親は生きてるんですよ?わたしとは違う」
「違わない」
「違うってば」
「違わない!」
声をあげた子供を、シュエは驚きと共に見つめた。子供は不安を必死に表情の下に隠しながら、言葉を続ける。
「あなたがそうだったように、自分も今が大切なだけ。見たこともない親を待つより、あなたに名前をつけてほしいし、呼んでほしい」
囁く声は小さく、頼りなげだった。数日前までシュエの膝にすがりついてきた小さな身体を思い出す。
やっぱり、ちょっとは可愛いなと思うくらいには情がうつっているのだ。厄介なことに。
「……名前って、わりと重要なことだと思うんだけど。わたしが決めていいんですか」
「あなたがいい」
躊躇いもせずに、子供は答えた。その躊躇いのなさに、逆にシュエは不安を覚えてしまう。
子供から向けられる感情は、すべて天使の刷り込み現象の一端なのだ。そう思うと、シュエにはなかなか次の一歩を踏み出すことができない。
『あなたがいい』と『思いこんでいるだけ』なのではないかと。
そう思うのだ。
「あなたが何かにこだわってるのは知ってる。理解はできないけれど、それが自分のためだってのも分かる」
子供がたどたどしく告げた。
「でも、そんなの必要ないよ。あなた、頭はよくないんだから、もっと単純に考えたら?そんな面倒なことに悩まないでよ」
「……簡単に言ってくれちゃって」
「言うよ。言わないと全然伝わらなさそうだし」
子供は真面目な顔をしたままつぶやいた。その目は不安そうにしながらも真っ直ぐで、折れる様子はない。
それを見て、綺麗な目だな、と場違いなことをぼんやりと思った。
黄金の目は、あの日とっさに名前をつけた時と同じように透きとおっている。
そーゆー面倒なこと置いておいてもさ。
唐突に、ヤンの言葉を思い出した。
ふつうに、名前ないのって可哀想じゃね?
そうだろうか、と心の中で問いかける。すると意外なほどあっさりと「そうかもしれない」と答える声があった。
自分だって、まだ覚えている。
父の、そして母の呼ぶ声を。
温かく、優しく、そして厳しく名前を呼ぶ声を、まだ覚えているのだ。
「……」
シュエはつないだままの掌に視線を落とした。
白くしなやかなそれは、緊張のせいか少しだけ強ばっている。
シュエはそっと息をつくと、もう片方の手で軽くその掌を叩いた。
緊張した様子で、子供が顔をあげる。
「これだけは聞いておいてほしいんですけど」
視線を絡ませたまま、シュエはつぶやいた。
「わたしはあんたをお腹痛めて生んだわけじゃないし、親になる覚悟があったってわけでもない」
子供は一瞬傷ついたような表情を浮かべたが、それでも黙って話に耳を傾けている。
「ぶっちゃければ、わたしは偶然あんたの孵化に立ち会っただけの人間なんですよ。分かる?」
「……分かるよ」
「それでもいいの?」
その言葉に子供は目を見開いた。そのまままじまじと凝視してくる。
「……いいの、って……」
「そういう相手に、名前をつけてもらっていいのかってことですよ」
「……」
子供はシュエを真っ直ぐ見つめた後、ゆっくりと目を伏せた。考え込むような間の後、再び顔をあげる。
「あなたなら、いいよ」
「……」
「どうでもいいことにこだわって、名前すらなかなかつけてくれなくて、そういうのすごく面倒くさいとか思うけど」
「おい、こら」
「でも、あなたがいいんだよ。シュエ。そういうことにきちんとこだわってくれる、あなただから」
そっと囁くように呼ばれた自分の名前に、シュエは少しだけ動揺した。子供が名前を呼んできたのは、初めてのことだ。
不思議と呼ばれ慣れているはずの自分の名前が、違った響きで聞こえた気がした。それはじんわりとシュエの身体の中に沁みてくる。
なんかもうかなわないなぁと、そう思ってしまった。
「……シュエ?」
不安そうにこちらをうかがってくる子供に小さく笑うと、シュエはつなぐ掌に力をこめた。ぐいと引き、そのまま前を向いて歩き出す。
「さ、いい加減帰ろう?遅くなっちゃうし」
「……ちょっと。まだ話は終わってない」
「終わりましたって」
「終わってないよ」
「終わったんだってば。……その、トール」
ぼそっと最後に付け加えると、急に子供が立ち止まった。つないでいた掌を通してシュエも立ち止まるしかない。
「…………シュエ、今の」
背後からかけられた子供の声は、ひどく間抜けなものだった。相手の驚きが伝わり、シュエは心の中で唸る。何これ。なんかすごく恥ずかしいんですけど!!
「シュエ」
「な、なに?もしかして、もっとカッコいい名前のほうがいいとか?」
照れくささからぶっきらぼうに尋ねると、トールは慌てて首を振り「それでいい」と早口で告げた。
そっと後ろを振り返って様子を見ると、照れているのか、俯いた子供の耳元が赤くなっている。
「あー照れてるー」
「……うるさいな。あなただって照れてるくせに」
ぶっきらぼうに呟くと、トールはずんずんと歩きだした。
掌をしっかりとつないだまま。