3章
『悪魔
人間に寄生することで半永久的に生き続ける生き物。
天使は悪魔を喰らうが、悪魔は人間を喰らうことで命の糧にする。
寄生した人間になりすまして生活するため、外見上で悪魔かどうかを判別することは難しい』
再び訪れた公共書庫で借りた『悪魔のことが分かる本』を読んでいたシュエは、ううーんと唸りながら本を閉じた。
どうやら人間と天使、そして悪魔は捕食関係にあるようだが、肝心の悪魔が普段どこにいるかは全く分からなかった。
それどころか羽のある天使と違って、身体的特徴すらもないようだ。
ぐごごごご、という腹の音が聞こえてそちらを見ると、空腹のあまり子供が机に突っ伏していた。
孵化から4日目。最初は小さな赤ん坊だった天使は、今や見た目10才ほどの子供になっていた。
身長はシュエの肩ほどもあるし、すんなりと伸びた手足はいかにも俊敏そうだ。
「……おなかすいた」
「そりゃ4日間、何も食べてないですもんね……」
子供は顔を上げ、シュエをじっと見つめてきた。以前と比べて丸みがなくなったその顔立ちは、やはり綺麗な造りをしている。
「ねぇ、おなかすいた」
「だよねぇ……」
「その辺の人、試しにかじってみてもいい?」
「だめです」
すると子供はチッと舌打ちし「けち」と呟いた。
教えてもいないのにぺらぺらしゃべれるようになったのは喜ばしいが、ちょっと口が悪くなってやしないだろうか。空腹のせいだと思いたい。
しかし、一体どうすればいいのだろうか。このまま子供を飢え死にさせるわけにはいかない。
うんうんと唸っていたシュエは、ふと視界の端っこで子供が身じろぎをしたのに気づいた。
目を向けると、しきりに背中を気にするような仕草をしている。
「どしたの?」
「……背中が痛い」
「背中?見せて」
シュエは立ち上がり、子供の側へと近づいた。服の襟元をゆるめ、広げてみる。
子供の背中を見て、眉をひそめた。
前からあったコブの表面に、小さな亀裂ができている。これは痛そうだ。
「どう?」
「背中のコブが割れかけてる」
「コブ?ふぅん。じゃあ羽でもはえてくるのかな」
あっさりと他人事のように子供は言うと、乱れた服を整えた。
そういえば、とシュエは気になっていたことを口にした。
「もう大分大きくなったけど、性別分かれてないですよね?」
天使は両性具有で生まれ、成長と共に男女に分かれるという。昨日までは確かにまだ両性具有だったが、今はどうなのだろう。
子供は興味なさそうに肩をすくめた。
「まだだと思うよ。ついてないし、出てこないし」
おそろしく直球な答え方だ。恥じらいも何もない。育て方を間違えたのだろうか?
一瞬、本気で悩んでしまったシュエを、子供がまっすぐに見据えた。
「性別なんかより、自分は気になることがあるんだけど」
「はぁ。何ですか?」
「どうして、名前を呼んでくれないの?」
静かな声に、シュエは思わずまばたきを繰り返した。
昨日セイレンに名前を問われ、誤魔化すためとはいえつけた名を、子供はずいぶん気に入ったようだった。
あれから何度もしつこく名前を呼ぶよう頼まれているが、シュエは一度も応じていない。
シュエは苦笑した。
「あれはその場しのぎでつけただけですよ。言ったでしょ?」
「その場しのぎにしなくていい」
「なんで、そんなこだわるんですか」
「こだわってるのはそっち。どうしてそんなに頑なに嫌がるわけ?」
問い返され、シュエは口をつぐんだ。そんなシュエを、子供は見つめている。
「名前は誰にでもあるんでしょ?すごくどうでもいいけど、昨日の男がセイレンってことは知ってるし、全然教えてくれるつもりがなさそうだけど、あなたがシュエって呼ばれてたことも知ってる」
「……よく覚えてますね」
「天使の記憶力、バカにしないでくれる?」
不機嫌そうに、子供は言った。
「それで、思ったんだ。どうして自分は名前を呼んでもらえないんだろうって」
真っ直ぐな目は真剣な光を帯びていて、シュエは内心で顔をしかめた。これは迂闊に下手なことは言えない。
どう答えるべきか。思いあぐねていると、不意に子供の肩がぴくりと揺れた。黄金の目がふっと逸れる。
子供の目が向かったのは、玄関の扉だ。
「どしたの?」
「……何かいる」
そう子供がつぶやいた直後、大きな物音がした。家の裏側あたりからだ。何かが崩れるような派手な音の後、再び静かになる。
「? 何の音?」
「あなたはここにいて」
「ここにいてって、ちょ、どこに行くんですか!?」
シュエの制止もきかず、子供は家を飛び出していった。
慌てて外に出て、物音がした方向へシュエも向かう。
辺りは日が沈みはじめたせいで薄暗く、かすかに雨の匂いがした。明日は天気が崩れるかもしれない。
建物沿いにぐるりと回り込んで、裏側に向かったシュエは、積んでおいた薪が散らかっているのに唖然とした。どうやらさっきの音は、この山が崩れた音らしい。
それで子供はと目を向ければ、薄闇の中、白い姿がぼんやりと浮かび上がって見えた。何をしているのか、こちらに背を向けて、壁と向き合っている。
「いた。もー、いきなりどうしたんですか」
声をかけながら近寄ると、じろりと子供が横目でにらんできた。
「どうして来るの?」
「どうしてって……いきなり飛び出していったら、びっくりするじゃないですか。何かあったのかと思って」
子供の側まで来たシュエは、そこでようやく子供が誰かを壁に押さえつけている事に気づいた。ぽかんと口を開ける。
「……え、なに?どういう状況?」
「見れば分かるでしょ」
「分かんないですよ!って、ちょっと……この人すごい怪我してんじゃないですか!」
シュエは慌てて膝をついた。
子供が押さえつけていたのは、同い年くらいの少年だ。どこかで会ったことがあるような気がしたが、少年が負っている怪我のほうに、どうしても意識が向く。
一体何があったのか、少年はあちこち怪我だらけだった。
服は血で汚れ、打撲のような痣もある。ぐったりとした様子で瞼が閉ざされ、意識がないことが分かった。
押さえつけられた首に、子供の指が食い込み、少年が小さく呻いた。
思わずシュエは子供の頭をはたく。
「いたっ」
「怪我人相手になにしてんですか!ほら、手を離して」
「なんで離さないといけないの」
子供は不機嫌そうにそっぽを向いた。シュエは呆れてしまう。
「なんでって……あのねぇ。そんなこと言ってる場合じゃないでしょ?」
「あなたは心配しすぎ。たぶん、これくらいじゃ死なないよ」
子供はどこか冷ややかに少年を見下ろした。黄金の目が猫のように鋭くなっている。
「こいつ。悪魔だし」
「……は?」
「だから、悪魔」
「はぁっ!?」
シュエは思わず少年の顔をまじまじと見つめた。
思い描いていたような凶悪な顔立ちではない。爪もないし牙もなかった。どこにでもいそうな、本当に普通の男の子だ。
だからつい確認してしまう。
「……ほんとに悪魔?勘違いとかじゃなくて?」
「ほんとに悪魔だよ」
「ってか、何で分かるんですか?」
「逆に聞くけど、どうしてあなたは分からないの?」
「分かるわけないでしょーが!」
子供は小さく肩をすくめると、血だらけの少年を見下ろした。
「血の匂いが違う。どうして昨日気づかなかったのかな」
子供のその言葉で、どうして少年に見覚えがあったのかを思い出した。昨日、シュエがぶつかった男の子だ。
シュエは目眩を覚え、こめかみを手で押さえた。
「なんですかそれ。どんな偶然?」
それともシュエが知らないだけで、世間には悪魔がそこら中に紛れ込んでいるのだろうか。それも怖い。怖すぎる。
「ってゆーか、なんでこんなところに悪魔が……」
その時、場の空気を壊すかのように、子供のお腹の虫が鳴った。
「………………」
「………………」
ちらりと子供の顔を見ると、その口元がむずむずと動いている。
「……美味しそう」
「って、ヨダレ!垂れてる!」
「垂らしてないよ」
子供は慌てて口元を拭うと、真顔でシュエに言った。
「そういうわけで、あなたは家の中に戻っててよ。自分はちょっと食事していくから」
「ちょーっと待てー!!」
「なに?スプラッタ見たいの?」
「そんなわけあるか!そうじゃなくて、まさかその人食べる気ですか?」
「もちろん」
清々しいほど迷いがない。即決力があって素晴らしいとは思うが。
シュエは天を仰いで息をついた。こんな目立つ場所で、しかもまだ明るいうちからスプラッタなんて、冗談じゃない。
「……とりあえず、その子中に運びましょうか」
「えー」
「えー、じゃない。話はそれから。ね?」
強く言い聞かせると、子供は渋々うなずいた。