2章
何か柔らかいものが、ぺちぺちと頬に触れる。その感触でシュエは眠りから覚めた。
「んあ。もう朝……?」
眠気を振り払って何とか瞼を開けたシュエは、視界一杯に広がった子供の顔に仰天した。宝石のように澄んだ黄金色が、シュエをじっと見下ろしている。
身体を起こしたシュエは、枕元に佇んでいた子供の姿を見て苦笑した。
卵から孵化して3日目。子供の姿はもう人間でいう4、5才児ほどになっていた。一晩で、いったいどれだけ成長するのか想像もつかない。
昨日読みふけった本によると、天使はある程度成長すると自然に発育が止まるとのことだった。個体差はあるが、見た目で言うと20才前後の姿を保つことが多いらしい。
「おはよ。今日は早起きですね」
猫の毛のような柔らかな髪を撫でながら挨拶する。子供はじっとシュエの顔を見つめた後、小さな声でつぶやいた。
「おなか、すいた」
「ああ、だよね……でもご飯用意したあげたくても、そのご飯が………って、はい?」
シュエはぽかんと口を開けた間抜け面で、子供を見つめ返した。気のせいか?いや、まさか。
「今、しゃべった……?」
「おなか、すいた」
「!!」
シュエはがばりと起きあがって、子供を凝視した。子供はどこか不思議そうな顔で、こちらを見上げている。
「も、もう一回お願いします」
「おなか、すいた」
「……しゃべった!やっぱりしゃべった!!すごい天才!」
記念すべき第一声としてはちょっと微妙な言葉だが、しゃべったことには素直に感動してしまった。本当の親だったら、もっと嬉しいものなんじゃないだろうか。
それにしても驚くべき成長速度だなぁと感心しつつ、シュエはできるだけ優しく尋ねてみた。
「お腹すいたの?ミルク、飲む?」
「ミルクは嫌」
小さいのに自己主張がはっきりしていらっしゃる。
「そっか。んじゃ何が食べたいですか?」
「ん……」
悪魔とか言われたら困る。まじで困る。それ以外なら何とか頑張って用意できるが、悪魔だけはどうしたらいいか分からない。
子供は少し考えてから答えた。
「わからない。でも、おなかすいた」
応じるように、子供の腹の虫が鳴った。小さな子がお腹をすかせている姿を見るのは、何となく切ない。
「どうしようか……」
途方に暮れてつぶやくと、子供が不思議そうに首を傾げた。
人で溢れかえった街中を、はぐれないよう子供の手を引きながらシュエは歩いていた。
店の客引きや、値段を値切る声があちらこちらから聞こえてきて、今日も活気がある。
シュエは子供に気を配りながら、辺りに注意を向けた。数日前に見かけたあの兵士たちは、まだいるのだろうか?
さりげなく様子を伺っていると、くいくいと手を引かれた。視線を落とすと、目立つ髪を布で巻いて隠した子供が、じっと見上げてきている。
「どしたの?何か食べたい物でもあった?」
「あれ、なに?」
子供が指さしたのは、大きな魚の解体と切り売りをしている出店だ。
「魚屋ですよ。魚、食べてみる?」
「ううん。いらない」
子供はふるふると首を振って、興味深そうに魚の解体を眺めている。
とりあえず子供が食べたくなるようなものはないかと街に出て、歩きはじめて約一時間半。
子供らしい好奇心でしょっちゅう足は止めるが、まだ食べてみたいとは言い出さない。
人間が雑食なのだから、天使ももしかしたら悪魔以外に食べれるんじゃないかと思ったのだが、考えが甘かったようだ。
今もぐるぐると聞こえてくる腹の音に、シュエは心底弱り果てていた。いっそのこと悪魔が売ってる店とかあればいいのに。
そんなことを考えながら歩いていたら、不意に誰かと肩がぶつかった。
「あ、すいません」
ぶつかった相手は、シュエと同年代くらいの若い男の子だった。彼は謝ったシュエをきょとんと見返した後、にこりと笑って手を振った。
「いーっすよ。こっちこそすんません」
それだけ言うと、颯爽と人混みの中に紛れていく。素晴らしい爽やかさだ。セイレンにも是非見習わせたい。
いつの間にか立ち止まっていたことに気づき「行こっか」と子供を促す。子供はじっと少年が消えた雑踏を見つめていた。
「? どしたの?何か気になる?」
「……いまの」
「え?」
「いまのは、なに?」
問うように大きな目が見上げてくるが、生憎シュエには子供が言っている『いまの』が分からなかった。
「えっーと、いまのって?さっきの男の子のこと?」
尋ね返しても、子供は不思議そうにしきりに首をかしげるだけで、要領が得ない。
そうこうしているうちに、不意に辺りの空気が変わった。にぎやかだった路地は一瞬静まり返り、空気は緊張を帯びた。
この感じには覚えがある。シュエは自分たちが目立たないよう人混みの奥へと下がり、子供の身体を引き寄せた。
周りの人々の視線を追うと、やはり数日前と同じように兵士たちが姿を現した。人数は10人ほどだ。
それらを遠目に観察しながら、シュエはそっと顔をしかめた。
なぜまだ兵士がいるのだろう。あの女は兵士が自分を捜しに来たと言っていた。だとしたら彼女はまだ逃げているのだろうか?それとも……。
考え込んでいると、誰かが「天使だ」と小声で囁いた。ギクリとして顔をあげる。傍らの子供のことかと思ったが、どうやら違ったらしい。
「天使?あれが?」
「そうそう。あの一番後ろの。王都じゃ有名らしいぞ」
「へぇー初めて見た。すげぇ可愛い」
シュエの斜め前で話している男たちの視線を追うと、兵士の集団の一番後ろに、小柄な女の子がいた。
あの女かと思ったが別人だ。光を弾く金の髪が美しく、明らかに兵士の集団からは浮いて見える。
傍らの子供はまだ両性具有だが、その天使は明らかに女性だった。しかもかなり可愛い。姿を消した女といい、天使というものはどれも綺麗な顔立ちなのだろうか。
まじまじと見つめていると、不意にその女の子がこちらに視線を向けてきた。目が合ってしまい、慌てて顔を逸らす。しまった。不自然だっただろうか。
そんな状況だったので、いきなり背後から声をかけられた時には死ぬほど驚いた。
「シュエ」
「うわぁっ!」
奇妙な叫び声をあげたシュエに、相手は怪訝そうな表情を浮かべた。シュエの幼なじみ、セイレンだ。
「……すごい声だな」
「って、セイレン!びっくりさせないでよー」
「普通に声をかけただけだ」
「だからその声のかけ方がびっくりしたんだってば!無駄に気配を消さないでよ」
「気配って……なんだそれは。シュエの注意力が散漫なだけだろう?」
言い返そうとしたシュエは、ふと自分たちが視線を集めていることに気づいた。
へらっと愛想笑いを浮かべて誤魔化すと、慌ててその場を離れる。セイレンは少し後ろをついてきた。
「……なんでついてくんの?」
「書庫に用事があるだけだ」
公共書庫なら確かに同じ方向だ。思わずため息をついたシュエの手を、子供がくいくいと引いた。
「ん?どしたの?」
「だれ?」
「ああ、この仏頂面のことですか?」
「誰が仏頂面だ」とセイレンは顔をしかめている。あんたのことですよ。
仕方なく立ち止まり、シュエはふたりを引き合わせた。
「この人はセイレンっていって、わたしの幼なじみ。幼なじみ分かる?」
「わからない」
正直でよろしい。
セイレンを見ると、彼は困惑した顔で子供を見下ろしていた。ああ、そういえばこいつは小さい子供が苦手だ。
「……シュエ、この子は?」
「え?あー、わたしの子供」
「…………………」
「……冗談だってば。本気にしないでくれる?」
相変わらず冗談が通じないと呆れれば、セイレンは「おまえの冗談は分かりづらい」とぶっきらぼうに反論した。いや、絶対こんなのに引っかかるのはセイレンだけだ。
「それで、結局どこの子なんだ?」
「えーっと、この子は……そう。近所の子で」
「近所?」
まずい。適当に答えたものの、近場に住んでいた幼なじみには、苦しい言い訳だ。
あはは、と笑って誤魔化しておく。
「セイレンは王都に行っちゃったから知らないだろうけど、この間引っ越ししてきた子」
「そうか。名前は?」
「な、名前?」
まずい。とっさに何も思い浮かばない。
口ごもりながら、思わず子供を見つめる。子供はじっとまばたきもせずにシュエを見上げていた。
その、黄金色に透きとおった目が。
ふと言葉がぽろりと口をついて出た。
「トール」
「トール?この子の名前か?」
「へ?……あ、あーうん。そう。うん」
挙動不審なシュエに眉をひそめつつも、セイレンは膝を折り、子供と視線の高さを合わせ、挨拶を交わす。
「よろしく、トール」
「とーる?」
子供は首を傾げていたが、やがて嬉しそうに笑った。花が開くような綺麗な笑顔だった。