2章
女は大人しく手当てを受けたが、名前を教えようとはしなかった。
シュエだって名乗っていないのだからおあいこだが、そういえば姉弟がドアの前で何度も呼んでいたのだから、とっくに知っているのかもしれない。
街中の様子がおかしいと気づいたのは、女を拾った二日後のことだった。
女の容態も落ち着いたため、その日シュエは食料などを調達するために、一番近い街に来ていた。
王都と比べれば小さな街だが、商人が多く出入りするため活気がある。常に客呼びの声が飛び交うような、そんな街だ。
だがこの日はいつもと違った。活気はあるものの、どこか妙な緊張感が漂っている。
シュエは眉をひそめつつ、屋台の店主に声をかけた。この街へ来たときは必ず寄る馴染みの店だ。
「こんにちはー」
「おお、シュエ。いらっしゃい。いつものでいいか?」
「うん、よろしくー」
店主が商品を袋に入れるのを待ちながら、シュエは顔を寄せた。
「ね、何かあったんですか?やけにみんな大人しいですよね」
「そりゃ大人しくもなるさ。ほら、あれ」
店主が顎をしゃくった方向に目を向けて、納得した。大通りを我が物顔で占領しながら歩いてくるのは、兵の集団だ。
総勢20人ほどだろうか。街の人々を威圧しながら進んでくる。腰に帯びた武器が物々しい。
「なんですか、あれ」
「見れば分かるだろ。軍の奴らだ」
「はぁ。なんでまたそんな人たちが?」
「おれたちもよく分からんが、どうも人探しをしているらしい」
シュエは目をまたたかせた。
「人探し?」
「ああ。昨日、おれのところにも聞きに来たんだ。何だったかな……そうそう、白い髪の女を見なかったかって」
「!」
思わずむせそうになってしまった。
「し、白い髪の女?」
「ああ。知ってるのか?」
知ってますとも。とは、さすがに言えなかった。あはは、と笑って誤魔化しておく。
「まっさかー」
「だろうな」
店主が袋詰めに意識を向けている間に、シュエはもう一度兵士を盗み見た。
見るからに威張りくさった態度で、とてもお近づきになりたい感じではない。
「……さっきの話」
「ん?」
「その人、なにかしたんですか?」
「さぁな。気になるなら聞いてきたらどうだ?もっとも下々のおれらに教えてくださるとは思えんがな」
皮肉たっぷりの口調で笑うと、店主は袋を差し出してきた。それを受け取って金を払うと、シュエは早々にその場を立ち去ることにした。
家へと戻ったシュエは、扉の前で呼吸をひとつした。鍵を外し、中に入る。
奥の布団の上には、噂の女が座っていた。女は壁にもたれて腹に手を当てていたが、シュエに気づくとこちらをじっと見つめてきた。
「ただいま。何か困ったことなかったですか?」
荷物を置きながら尋ねると、女はこくんとうなずいた。最初の頃のような敵意はなくなったが、やはり口数は少ないままだ。
うーん、とシュエは内心で唸った。
出会った初日の態度はともかく、今の女を見ていてもそんな悪事を働くような人間には見えない。この二日間で情でもうつったのだろうか。
いつの間にかまじまじと眺めてしまったらしく、女は眉をひそめた。
「……どうかしたのか?」
「ん?あーいや。何でもないですよ」
首を振って、シュエは買ってきた物の仕分けを始めた。女はその様子をまばたきもせずに見つめている。
「とりあえず適当に食べ物買ってきたんですけど」
「必要ない」
「あのねえ。そう言って、全然食べてないじゃないですか。失血死をまぬがれた後で餓死とか笑えないですよ」
「……本当に、必要ないんだ」
女はそう言うと、再びお腹に手を置いて目を閉じた。そのまま彫像のように動かなくなる。
シュエは嘆息した。
傷口を清潔な布を使って消毒し、包帯を新しい物に替える。
女を拾って四日目。まだまだ無理は禁物だが、傷はだいぶ塞がりはじめていた。
「はい終わり。タオルと着替え、ここに置いておきますから」
包帯を巻き終えたシュエは、洗濯したばかりのタオルと着替えを布団の側に置いた。女が小さくうなずく。
傷口以外を触れられるのを何故か女は嫌がった。
腕の包帯を替える時はされるがままだが、その他のことは自分でやろうとする。シュエもそこまで強要するつもりはないのでいいのだが。
汚れた布や包帯をひとまとめにしているシュエを、女はじっと見つめていた。
前々から口数の少ない相手だが、シュエといると、こうしてこちらの行動を、見守っていることが多い。
最初の頃は警戒して監視するような顔つきだったが、近頃はただ単に、動きを目で追っているだけのようにも見える。
「さてと。今日の夕飯、どうしようかな。何か食べたい物ありますか」
「必要ない」
「……いい加減にしないと、まじで餓死ですよ!飢え死にですよ!もしかして変な遠慮とかしてるんじゃないですよね!?」
「していない。大丈夫だ。……ありがとう」
「それならいいんですけど。って、ええ!?」
買ってきた物を取り落とし、勢いよく振り返ったシュエを、女は怪訝そうに見た。
「なんだ?」
「今、ありがとうって言いました?」
「……言ったら、いけないのか」
「全っ然いけなくはないんですけど!むしろそれが普通なんだけど」
「なにが言いたい」
「……ちょっと、びっくりした。うん」
驚きをそのまま正直に伝えると、女は心外だと言わんばかりに眉をひそめた。
「わたしだって、お礼くらい言う」
「そりゃそうですけど。まさか自分が言われるとは思わなかったもんで」
思ったことを素直に口にすると、女はますます渋面した。
「おまえだから言った」
「はい?」
「わたしを助けてくれた、おまえだから言ったんだ」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、シュエは目をまん丸にした。とっさに返す言葉も思いつかなかったが、純粋に嬉しいと感じたのは確かだ。
へへ、と満面の笑みを浮かべると、女も表情をゆるめた。
どこか穏やかな顔で、女が問う。
「ひとつ聞いてもいいだろうか」
「何ですか」
「なぜ、何も聞かない?」
シュエは女を見やった。彼女はいつものように壁にもたれ、腹に手を置いている。
肩をすくめて答えた。
「最初に約束したじゃないですか。事情は聞かないって」
「では質問をかえる。なぜ、わたしを兵に突き出さない?」
シュエは女の目を見据えた。黄金の瞳は、初めて会った時のような苛烈さは微塵もない。ただ穏やかに凪いでいる。
「兵が女を捜していたはずだ。おまえは、それがわたしのことだと知っている。なのになぜ、黙っている?」
「……それも、重要なんですか?」
「不思議なんだ。わたしにはおまえが何を考えているのか分からない。だから教えてほしい」
まるで子供のような真っ直ぐな問いかけだった。答えを求める視線に、シュエは内心考え込む。
「……わたしはそんなに頭よくないんですよ」
「ああ」
「ちょっと、そこは否定するところじゃ……」
「頭が良ければ、そもそもわたしを匿ったりはしないだろう。……それで?」
シュエは息をついた。
「とにかく、わたしはバカだからそう難しいことは考えられないんですよ。あなたが怪我してたから助けただけだし、一緒にいて、あなたが悪い奴にも見えなかったから、兵にも突き出さなかった。それだけ」
「それだけか」
「そうですよ。単純でしょ?」
「単純だ。だが、理解するのは難しそうだな」
女はそう言うと、どこか慈しむような目で、己の腹を見つめた。そこに当てた手が、ひどく優しげだった。
後から思い返せば、その時にシュエは気づくべきだったのだ。彼女がよく、腹をかばうような仕草をしていたことに。
「……選べるのなら、おまえのような人間が良かったのにな」
ぽつんとつぶやかれた言葉は、小さすぎて聞き取れない。聞き返しても女は「なんでもない」と答えるだけだった。