1章
その日は、やけに騒がしい一日だった。
ひそひそと交わされる兵士たちの会話から察するに、どうやら新しく天使とその親が入隊するらしい。
噂話をするその声は、少しの興奮と好奇心、そして嫉妬が渦巻いていて、ローファは見苦しいなぁ、と欠伸をこぼした。
とにかくここではのんびりと休めそうもない。仮病でも使って医務室で休ませてもらおう、などとぼんやり考えていたら、誰かが後ろから呼び止めてきた。
「ロ、ローファさん」
振り返ると、そこには小柄な天使が立っていた。名前なんだっけ、と考えてからようやく思い出す。ルピアだ。
彼女はローファの前で立ち止まると、そっとうかがうような目を向けてきた。その目がローファは嫌いだ。
「こ……こんにちは。ローファさん」
「はぁ」
「あの、これからお夕食ですか?」
「いえ」
答えながら、面倒くさいな、とローファは思った。眠たいのに、どうしてこんなことに付き合わなければならないのだろう。
「ルピア。何か用があるなら、さっさと言ってもらえますか?時間の無駄なので」
「す、すみません……」
「謝れなんて言ってません」
「すみませ……」
ルピアはうつむいたまま再び謝ろうとして、慌てて言葉を呑み込んだ。この子はいつもそうだ。本当に面倒くさい。
「……あの、この間はご迷惑をおかけしました」
「この間?」
「任務の……悪魔を逃がしてしまって」
ああ、とローファは呟いた。
そういえば一昨日、やたら分厚い始末書を書けと言われた気がする。面倒だったので近くにいた兵士に押しつけたまま、ローファは一文字も書いていないのだけど。
「別に……どうでもいいです。そんなに期待もしてないですし」
「……」
「それだけですか?用がないのなら、ぼくは行きます」
「え……あ、あの!」
意を決したように、ルピアが顔をあげた。
「ロ、ローファさんに紹介したい方がいるんです」
「紹介?」
「はい。新しく軍に入られた方々なのですが……」
嬉しそうに説明され、ローファはうんざりと息をついた。
「まさか、そんなことで呼び止めたんですか?」
「え?」
「興味ないです」
ばっさりと切り捨てて、ローファは踵を返した。
ルピアが追ってくる気配はない。今度こそのんびりできそうだ。
「相変わらずだな」
そう言ってくつくつと笑ったのは、レッカだった。
今まさに仮病を使って医務室に入ろうとしていた直前に呼び止められ、ローファは軽く目を眇める。
「何のことですか?」
「ルピアのことだよ。可哀想に。もう少し優しくしてやればいいものを」
可哀想に、と哀れむ口調とは裏腹に、レッカはゆるく微笑んでいる。どうやらさっきのやりとりを見ていたらしい。
面倒な相手に捕まったな、とうんざりしつつも仕方なく言葉を返す。
「ぼくは正直なだけです。きみのように、心にもないことをつらつらと話す気にはなれません」
「おれだって正直だよ」
「そうですか。では、そういうことにしておきましょう」
ここで何か言い返せば、くだらないやりとりが長引くのは目に見えている。それが分かる程度には彼の性格は理解しているつもりだ。
ローファとレッカの付き合いは長い。ローファの家はいわゆる貴族の家系で、彼は五人兄弟の末っ子だった。
それなりに厳格な家の中、兄たちの跡目争いも我関せずで通してきたローファを、王城へと追いやったのは父だ。
曰く「王が王子たちの話し相手を探しておられる。家でごろごろするだけならば、いっそ城へあがれ」ということらしい。
王と父親がそれなりに交流があったことも幸い(ローファにとっては災難だったが)して、気がついたら彼は広い王城に出仕する羽目になっていた。
初めて会ったレッカは年齢にも関わらず優秀で、そして今と同じように面倒くさい性格をしていた。望まず幼なじみという役を押しつけられたローファは、多大な迷惑を被ったものだ。
それから約十年。
ひたすら流される毎日を送っていたら、いつの間にかレッカは軍務を任されることになり、いつの間にか自分はその軍隊に引きずり込まれていた。その元凶は言うまでもない。
そんなわけで、ローファはレッカがいかに面倒な相手であるか、一応は心得ているのだ。
ローファは眠たげに目をしばたたかせて、レッカを見やった。
「レッカ。ぼくは眠いんです。用がないのなら、行きますけど」
「行きますけどって、もう取っ手に手が掛かってるじゃないか」
「だって、どうせ用なんてないんでしょう?」
今にも医務室に引きこもりそうなローファの様子に、レッカは肩をすくめて見せた。
「残念ながら、用ならある」
「……他をあたってください」
「たまにはきちんと働くことも重要だよ」
そう言ってレッカが押しつけてきたのは、二つ折りにされた紙だった。
渋々それを受け取り、開いてみる。びっしりと書き込まれた文字に辟易した。
「……これは?」
「今日入隊した天使と、その親の個人情報」
またか、とローファはうんざりした。今日はやたらとその話題に絡まれる気がする。
面倒臭さと戦いつつ、それらに目を通していたローファは、ふとあることに気づいてまばたきを繰り返した。
「……フロールの子供、ですか」
「そうだ」
くすりと笑って、レッカが説明した。
「シュエという子が、フロールの卵を孵したんだ。天使の名前はトール。フロールに似て、生意気そうな天使だったよ」
そう話すレッカは楽しそうで、新しい玩具を見つけた子供のようだった。どうやら彼の悪癖が出たらしいが、自分には関係ない。
「そうですか。それで?この人たちがどうかしたんですか?」
言外に「ぼくに関係ありませんよね」と訴えると、レッカは笑みを浮かべたまま言った。
「そういうわけだ。ローファ、シュエの面倒をみてやってくれないか」
「……はぁ?」
ローファはじっとレッカの顔を見つめた。彼は相変わらずうっすらと笑んだままだ。
「どうしてぼくが?」
「トールのことはルピアに頼むことにした。だから、ローファはシュエを頼むよ」
「そんなの、ルピアに全部やらせればいいじゃないですか」
「そんなことしたらルピアが可哀想だろ」
相変わらず、ちっとも「可哀想」とは思っていなさそうな口振りで彼は言う。
「……」
ローファは手元の書類に目を落とした。
嫌だ。面倒くさい。断りたい。そんな感情が渦巻くが、レッカに何を言っても無駄だということは学習済みだ。
彼は昔から、一度決めたら他人の話など聞く耳を持たない。
「…………分かりました…………ぼくのやり方でいいのなら」
「ああ、もちろん」
当然のようにレッカはうなずいた。
それならローファのとる行動はただひとつ。適当に放置あるのみだ。自分のやり方でいいというのだから、レッカだって文句は言うまい。
「じゃ、そういうことで」
話は終わりだとばかりに引きこもろうとしたローファを、レッカが再度呼び止める。
「ああ、そうだ。ローファ、もうひとつ」
「……まだ、何か?」
「その子がフロールのことについて何か聞いてきても、話さなくていいから。というか、話すなよ?」
おそろしくいい笑顔でレッカが釘を刺した。
また意味の分からない命令だったが、別に異存があるわけでもない。そもそも『あの件』に関しては、既に箝口令がしかれているはずだ。
ローファは首を傾げて「はぁ」と曖昧にうなずいておいた。




