5章
部屋に入ってきたのは、いかにも育ちが良さそうな男の人だった。
黄みがかった薄茶色の髪に、日に焼けていない肌。軍服を着ていて、年齢はシュエより少し上に見えた。手には書類の束を抱えている。
まずい。
シュエは焦り、視線をさまよわせた。
「あ、あのですね……」
「……」
青年はシュエとトールを交互に見つめると、おもむろに手の中の書類に視線を落とした。そこに書いてある何かを目で追うと、納得したように「ああ」と微笑んだ。
「フロールの子供か。そういえば今日来るんだったな」
「は?」
何を言われたのかが分からず、反射的に聞き返してしまった。トールは警戒心も露わに青年を睨みつけている。
その時、まるで計ったかのようなタイミングで真後ろの扉が叩かれた。心臓が凍り付く。
「レッカさま、少しよろしいでしょうか」
扉の向こう側から聞こえてきたのは、兵士の声だろうか。
思わず身体を強ばらせたシュエに、レッカと呼ばれた青年は唇に指を当てた。「静かに」と呟いた後、彼は部屋の隅に目配せをする。
「……?」
そちらに移動しろ、ということだろうか?彼の真意が分からないまま、ゆっくりと部屋の隅へ行く。その間もトールはずっとレッカから目を離さなかった。
シュエたちが大人しく移動すると、代わりにレッカが扉の前へ向かった。何の躊躇いもなくそれを開けられ、ひやりとしたが、内側に開いた扉のおかげで死角になっているようだ。
「お仕事中、申し訳ありません。レッカさま」
「いや、いい。それより何があった?ずいぶん騒がしいな」
「は。それが……今日到着した例の天使とその親が、逃げ出したようで」
「そう。それで?」
「この辺りで見失ったらしく、現在捜索中です。レッカさまもお気をつけください」
分かった、と穏やかに応じると、レッカはそのまま扉を閉めた。再び部屋の中が沈黙で満ちる。
「……」
トールはレッカを睨んだまま「どういうつもり?」と厳しい声音で問いかけた。
「どういうつもりって?」
「どうして今の奴に話さなかったわけ?ここにいるって」
するとレッカは肩をすくめて笑った。
「今の兵士に話しても、きみたちを捕まえられるとは思えないな。来たのが天使だったら別だろうけど」
それは確かにそうだろう。相手が人間である以上、トールは難なく振り切って逃げることが出来る。
それに、とレッカは笑みを含んだ目でトールを見やった。
「フロールの子供に興味があったから」
フロール?
聞き覚えのない名前に、シュエは内心で首を傾げた。さっきもそう言っていなかっただろうか。
「……フロールって、」
「ルピアから聞いてない?きみの隣にいる天使の卵を生んだ女のことだよ」
「!」
シュエはぽかんと口を開けると、弾かれたようにトールを見た。トールはかすかに顔をしかめただけだ。
トールの卵を生んだ女。
脳裏をよぎったのは、血塗れで倒れていた女の姿だ。お互いに名乗らなかったため、彼女がどういう名前なのかすら知らなかったけれど。
そういえば天使は軍属だとルピアが言っていたではないか。つまりあの女も軍属で、まだ逃げていなければここにいることになる。
どうして今まで思いつきもしなかったのだろう。
シュエは抑えた声で尋ねた。
「あいつ、ここにいるんですか?」
「……」
レッカはじっとシュエを見つめた。先ほどまで浮かんでいた笑みは消え失せ、なにを考えているか分からない表情が浮かぶ。
しばらくしてからレッカは目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「フロールはもういないよ」
「? いない?」
どういうことだろうか。もしかしてまだ逃げているとか。けれどシュエは彼が言った「もう」という一言がやけに気になった。
「……どういうことですか?」
「どういうことも何も、そのままだけど」
わずかに肩をすくめると、レッカはあっさりと告げた。世間話のような声音だった。
「フロールはもういない。4日前に死んだからね」
「……!」
シュエは愕然と目を見開いた。
さすがのトールも驚いたらしく軽く眉をひそめている。
「……死んだ?」
「ああ」
表情ひとつ変えずに肯定したレッカは、やっぱり何を考えているか分からないような無表情だったが、少なくとも嘘をついているようには見えなかった。
死んだ、のか。
本当に。
フロールの穏やかに微笑んだ顔を思い出すと、どうしようもなく胸が締め付けられた。
「なんで……どうしてですか?」
疑問がぽとりと唇から落ちる。レッカはそれを聞くと、綺麗な笑みを浮かべた。
「どうして、ね……。それを聞いて、どうするんだ?」
「どうするって」
「理由を聞いても、フロールが生き返るわけじゃない。ただ、きみたちの好奇心が満たされるだけだろ?」
レッカは笑みを浮かべたままだったが、どこかひやりとする声音だった。動揺していた思考回路に、冷たい刃物を入れたような錯覚を覚える。
「……嫌な奴だね」と、そう呟いたのはトールだった。トールは嫌悪を滲ませた様子でレッカを睨んでいる。
「おれは事実を言っただけだよ」
「事実?よく言うよ。……シュエ、もう行こう?この人に付き合う時間がもったいない」
促すようにトールが腕を引いた。
まだ色々と聞きたいことはあったが、確かに今は逃げるほうが先だ。シュエは躊躇いつつも頷いた。
扉に向かった二人の背中を、レッカの穏やかな声が追ってきた。
「逃げるの?」
「……そりゃ逃げますよ」
「逃げて、戻る場所があるとでも?」
どういう意味だと問い返そうとしたシュエを、トールが呆れたように再度促した。確かにこんなところで押し問答をしている場合ではない。
レッカの視線を振り切って、ドアノブに手をかける。力を入れてドアを開け、トールが一歩足を踏み出したその瞬間だった。
目の前にいたトールの姿が消えた。
シュエがまばたきを繰り返した直後に、派手な物音がした。目を向けて息を呑む。
少し離れたところで、トールが誰かに押さえつけられていた。暴れる子供を細腕で床に抑え込んでいたのは、ルピアだ。
「トール!」
「だから言ったのに」
すぐ側で声が聞こえ、シュエは肩を跳ねさせた。勢いよく振り返ると、レッカが柔和な笑みを浮かべて立っている。
綺麗な笑顔だったのに、何故か鳥肌がたった。
「諦めろとは言わないけれど、受け入れることは必要だと思うよ。シュエ」
「……なんで、名前」
「きみたちのことは、少し調べたから」
「調べた?」
「そう」
レッカは肩をすくめると、手にしていた書類をシュエに押しつけた。躊躇いがちにそれに目を通して、すぐに後悔した。
その書類には、シュエやトールのことが事細かに書かれていた。文字になった自分の情報に気持ちが悪くなる。
「きみが猟師だってことも、一人暮らしだってことも、ご両親が亡くなってるってことも知ってる。……さっきの話」
レッカは微笑んだまま続けた。
「きみたちに帰る所なんてないんじゃないかな。明日からは晴れておれたちの仲間だ。戸籍も全てこちらに移してしまうから、帰った所であの村にはもう住めないよ?」
「な……」
シュエは絶句した。それから強い憤りが湧いてくる。
「なに勝手なこと言ってんですか!」
「だから、おれは事実を言ってるだけだって」
「事実って、」
「それからもう一つ。ご両親が亡くなった時、面倒をみてくれたのは幼なじみの一家らしいね」
「…………」
シュエは今度こそ本当に言葉を失った。頭に浮かんだのはセイレンと、その両親の顔だ。
こいつは、一体何が言いたいのか。目を見開いたまま相手を凝視すると、レッカはわずかに目を細めた。
「そこの一人息子が王都で勉強中だってことも知ってるよ。確か名前がーー」
「……何が言いたいんですか」
レッカの言葉を乱暴に遮って、シュエは相手を睨みつけた。得体の知れない恐怖がじわじわと足下から浸食してくるようだった。
「分からない?」
「もしかして脅迫のつもり?」
「そうだよ」
レッカは小さく笑って、シュエを見下ろした。
「脅迫してる。だから逃げるだなんて馬鹿な真似は止めたほうがいいんじゃないかな。ーーお世話になった人たちに迷惑をかけたくないのなら」
後から来た天使たちに連れて行かれる二人の様子を、ルピアは立ち尽くしたまま見つめていた。その横顔に声をかけたのはレッカだ。
「ルピア」
「……レ、レッカさま」
振り返ったルピアは驚いて目を見開いた後、緩やかに微笑んだ。
「お怪我は、ありませんでしたか」
ああ、と頷くと、レッカは軽く肩をすくめた。
「フロールの子供に会ったよ。生意気そうな所がよく似てる」
「……」
ルピアは黙ったまま目を伏せていたが、やがて意を決したように顔をあげた。
「あ、あの。レッカさま」
「なに?」
「その……フロールさんのことは……本当なんでしょうか?」
一瞬の間の後、レッカは小さく笑った。
「おれが嘘をついているとでも?」
「ち、違います!でも……急で」
ルピアがフロールと最後に会ったのは、任務でシュエの街に出発する直前だった。
その街はフロールの目撃情報もあり、ルピアは悪魔討伐も兼ねて、彼女の捜索任務も命じられていた。
だが、それより早くフロールは戻ってきたのだ。それも自主的に。
軍から逃亡したフロールが、何を考えて戻ってきたのかは分からない。ルピアは言葉を交わすこともないまま、追われるように任務へと出てしまったから。
戻ってきてからでも面会できる機会はあると、そう考えていた。聞きたいことは山のようにあったが、帰ってきてからでもいいだろうと……。
「ルピア」
思考の海に沈みかけていたルピアは、名前を呼ばれて我に返った。慌てて顔をあげると、レッカが振り返ってこちらを見つめている。
その凪いだ瞳に見据えられると、自然と背筋が伸びた。
「は、はい」
「ルピアがフロールに肩入れする気持ちは分かる。きみたちは親しくしていたようだからね」
けれど、とレッカは抑揚のない声で続けた。
「けれど、それはルピアの立場を危うくするだけだ。きみだけじゃない、ローファの立場もね。もちろん、それで構わないのなら良いんだけど」
「……」
ルピアはくちびるを震わせ、俯いた。両手をぎゅっと握りしめる。
黙り込んだルピアに「いい子だ」とレッカは穏やかに微笑みかけた。
「ルピア。それからもう一つ」
「……はい」
「きみが行っていた任務だけど。報告では、悪魔があの子を……シュエだったかな。彼女を盾にして逃げたんだったね」
「はい」
「で、トールも親を騙されていて、手出しできなかったと」
重なる確認に、ルピアは戸惑いながらも「はい」と肯定した。レッカが何を尋ねたいのかがよく分からない。
けれど、次いで出てきた言葉は、身を竦ませるほど冷たい響きを帯びていた。
「それで、きみはそれを信じたのか」
「え……?」
困惑するルピアを見つめた後、レッカはため息をついた。
「もういい。時間の無駄みたいだ。……そもそもルピアを一人で行かせたローファにも責任はある。二人にはきちんと処分を受けてもらうよ」
そう言って、レッカは再び背を向けた。そのまま歩きだした足音に、半ば呆然としていたルピアが我に返る。慌てて後を追った。
「ま、待ってください!レッカさま」
「まだ何かあるのか?」
「任務をこなせなかったのはわたしです。ですから、処分を受けるのは……」
「自分ひとりでいい?それなら、ルピア。どんなことをしても任務だけは遂行しないと駄目だったね。天使の失態は、親の責任でもある」
突き放すように言われ、ルピアは言葉を失った。必死で追いかけていた足が止まる。
立ち止まったルピアを肩越しに振り返ると、レッカは優しささえ感じる口調で告げた。
「処分については追々通達する。戻ったばかりで疲れているだろう?今日は休むといいよ」




