8章
あのー、とシュエが声をかける。最初に振り返ったのは、小柄な天使の少女だった。
間近から見て、シュエは思わず感心してしまった。天使という生物は、やはりどいつもこいつも見目麗しく出来ているらしい。
まるでお人形さんのような天使だった。金の髪は長く、肌は透き通るように白い。手足はすんなりとしなやかだ。
大きな目が驚いたようにこちらを見上げてくる。
「……あ、あの、あなたは?」
「えーっと、その家の者なんですけど……っていうか、ドア壊すのやめてもらえません?」
「え?あ、す、すいません!」
少女はうろたえたように言うと、慌てて扉を壊していた兵士を止めた。兵士はどこか不満そうな顔をしている。
シュエはちらりと目をやって、ドアの被害を確認した。木の扉が割れて、隙間から少しだけ中が見える。あーあ……。
「それで、なんなんですか?軍人さん。いきなり人の家壊すとか、ちょっと酷いと思うんですけど」
「す、すみません。人が住んでる家だなんて思わなくて…その、納屋なのかと」
おまえもか!とつっこみたくなる。どいつもこいつも人の家をなんだと思っているのか。
「これでも立派に家なんですよ。……確かにちょっと古いけど」
「すみません。きちんと弁償します」
しおれた様子で少女は頭を下げた。……これは本当に天使なのだろうか?シュエと面識がある天使は今までにふたりだけだが、どちらとも似ていない。
ぶっちゃけると普通にいい子に見える。
「いや、まぁ、別にいいんですけど」
答えながら、シュエは割れたドアへと目を向けた。中の様子を確認するには、穴が小さすぎる。物音もしない。
ヤンは中にいるのだろうか。それとももうトールと一緒に逃げたのだろうか。
内心はらはらしていたシュエに、少女が「あ、あの」と声をかけた。
「わたしたちは、ある悪魔を探していたんです。数日前、もう少しで捕まえられそうだった所を、逃がしてしまって……」
「へ、へーえ。それは大変ですねー」
「はい。それで痕跡を追っていたのですが、この納屋……ではなくて、家から少しだけ悪魔のにおいがするんです」
言い直したよこの子。
じゃなくて、どうやら本当にヤンを追っているらしい。
トールもヤンを拾った時に「血のにおいが違う」と言っていた。もしかしたら悪魔の血は特有のにおいなのかもしれない。シュエには全く分からないけれど。
少女は軽く首を傾げた。
「あの、あなたはこの家に住んでいるんですよね?心当たりはありませんか?」
あります。大ありです。
とは、とても言えない。
「さ、さぁー?ちょっと分かんないですけど……」
「その、よければ中を確認させてもらえませんか?潜んでいるかもしれません」
「え、ええー。それはちょっと。その、散らかってて」
少女はそれはとても綺麗に微笑んだ。こんな時でなければ、見惚れてしまいそうなほどの微笑みだ。
「気にしないでください。それより、もし悪魔がいたらあなたが危ないですから。わたしたちに任せてください」
これを断れば逆に不審なのは分かっている。分かっているけれど、さすがに「はいどうぞ」とは言えなかった。
ヤンはトールと逃げたのだろうか。せめてそれが分かっていれば。
「……ど、どうしたんですか?」
少女が気遣わしげに、シュエを見上げた。
「顔色が悪いです」
「ちょっと風邪気味で。熱があるんですかね?うん」
「でも、そんなに汗が」
「あー、じゃあ熱が下がってきたんですよ。うん」
焦りながら弁明していると、不意にガチッという硬質な音がした。
シュエにとっては馴染みの音だ。銃に弾を装填した時の特有の音。
おそるおそるそちらを向くと、兵士のひとりがシュエに向けて長銃を構えていた。真っ黒な銃口が空恐ろしい。
「な、何をしているんですか?その人は一般人ですよ!」
少女が非難に満ちた声で抗議すると、銃を構えた兵士が冷ややかに答えた。
「ですがルピアさま、この者は何かを隠しています。おそらく家の中を荒らされては困るのでしょう」
素晴らしい観察眼だと思ったが、おそらく誰が見てもシュエの対応は怪しかっただろう。ルピアと呼ばれた天使が、素直に信じたのが不思議なくらいだ。
ルピアは困惑した様子で、兵士とシュエを見比べている。兵士が更に言い募った。
「ルピアさま。家の中にいるものが悪魔だとすれば、この女も仲間です」
「まさか」
「仲間でなければ匿ったりはしません」
兵士の断言にルピアは困惑した表情のまま、シュエを見つめた。
「い、今の話は本当ですか?……あなたは悪魔なんですか?」
「い、いやいやいや!まさか」
シュエは慌てて両手を振った。
「どこからどう見ても普通の人間じゃないですか。っていうか、ルピアさんだっけ。天使だったらそれくらい分かるんじゃないんですか?」
あえて軽い口調で言うと、ルピアはじっとシュエを凝視した。
「……悪魔のにおいは、血のにおいです。でもあなたは怪我をしていませんから」
「血を流させれば分かります」
感情を殺した声で、兵士が言った。
もう一度、今度は別の方向から銃の音が聞こえる。もうひとりの兵士も長銃をこちらに向けて構えていた。
照準器を通して、視線がシュエに突き刺さる。
まさか、本気で撃つつもりか。シュエは呆気にとられたが、兵士から伝わってくる敵意は本物だ。
引き金にかかった指が、躊躇いもなく動くのを見て、シュエはとっさに目をつぶった。
バン、という音がして、ヤンは死ぬほど驚いた。
飛び跳ねた心臓を押さえながらそちらを見ると、天使の子供が裏口のドアを勢いよく開けたところだった。
「って、びびらせんなよ!怖ええ!」
あまり大声を出すこともできず、小声で抗議する。子供はすごく不本意そうな表情のまま、ぶっきらぼうに言った。
「逃げるよ」
「はぁ?」
「逃げる」
「……助けてくれんの?」
「勘違いしないでよ。自分はあなたなんかどうでもいいんだけど、シュエが逃がせって言うから」
ずかずかと家の中に足を踏み入れながら、子供はいかにも面倒くさそうに説明した。
「シュエは?」
「表で兵士と話してる。あなたなんかのために時間稼ぎだって」
「いちいち毒づくなって」
呆れながら言うと、子供はふっと肩をすくめ「ほら、さっさと行くよ」と促した。
ヤンは表の様子をそっとうかがう。
「ちょっと待てって。下手に出たら、あっちの天使に気づかれるだろ」
「気づかれたって、捕まらなきゃいいんだよ」
「おまえアホか?それって、ヤバくなるのはシュエだぞ?」
ずばり言うと、子供は押し黙った。状況は把握したらしい。
「とにかくもうちょい様子見ようぜ。隙があれば……」
そこでヤンは、鼻をひくつかせた。吸い込んだ空気の匂いに、反射的に眉をひそめる。
この匂いは。
「……おい、あんた。もしかして怪我でもしてる?」
問いかけると、子供は怪訝そうな顔をした。
「してない」
「でも、血の匂いがすんだけど」
「気のせいじゃない?」
一刀両断の返答に、おかしいな、とヤンは首を捻った。
表の様子をうかがおうとしたのか、子供がヤンの隣に来た。空気が動き、血の匂いが一層強くなる。
「……?」
訝りながら子供に視線を向けたヤンは、相手の背中をふと見て驚愕した。
「おまえ、背中!」
子供の背中、ちょうど肩甲骨。その辺りの服が、血らしき色で汚れている。
ヤンの指摘に、思い当たることがあるのか、子供が「ああ……」とつぶやいた、その時だった。
外から聞こえてきた、かすかな金属音。
ふたりは同時に表に意識を向けた。耳を澄ますと、研ぎすまされた聴覚が会話を拾ってくれる。
……仲間でなければ匿ったりしません。
……あなたは悪魔なんですか?
「っ、シュエ」
いまにも飛び出しかけた子供の腕を、慌ててヤンがつかんだ。
「バカ!待てって」
「離せ」
黄金の目が居抜くような鋭さを持って、ヤンに向けられる。ヤンは舌打ちした。
「落ちつけって!あんなん脅しだ!」
「離せ!」
腕をふりほどこうと子供がもがく。結構な馬鹿力にヤンは再び舌打ちした。このやろう。
「ああもう、落ちつけって言ってんだろ!?」
その時。
……血を流させれば分かります。
ふっと聞こえてきた、その一言。
その一言で、天使の子供の目の色が変わった。
光を帯びていた黄金色が、ふっと暗くなる。まとわりついていた空気が、一瞬で豹変し、ヤンは思わず息をのんだ。
容赦ない強さで、腕が振り払われる。
「っ、待て!バカ!」
声をあげても遅かった。
撃たれる、とシュエは思った。
けれど、その時その場に響いたのは銃声ではなかった。
ものすごい破壊音とともに、兵士たちが背にしていたドアが吹っ飛んだ。
一瞬の風。その直後に、兵士の太い絶叫が響きわたる。
目を開けたシュエは、そこで見た光景に、先ほどとは比べものにならないほどの空恐ろしさを感じた。
粉々に砕かれた家の扉。腕がおかしな方向にねじ曲がった兵士たちが地面に倒れ、耳をふさぎたくなるような悲鳴を上げている。
片方の兵士の身体を、まるでゴミのように蹴り飛ばしたのは、トールだった。
トールはその細い腕に持っていた長銃を、紙切れのようにふたつに引きちぎる。破壊音とともに、いとも簡単にバラバラになった銃の残骸が地面に落ちた。
「トー、ル?」
かすれてひきつった声が、シュエの喉からこぼれた。
トールはこちらを見向きもしない。黄金の目が、激しい怒りで暗く染まっていた。めくれあがった形のいいくちびるからは、獣のような唸り声。
初めて見るトールの姿に、シュエは言葉を失った。誰だこれは。
いつもの皮肉屋の子供ではない。生意気なことを言っていても、なんだかんだ可愛いところもある子供でもない。
卵から生まれ、小さな身体でシュエにすがりつき、ひんやりとした手を温めるようにつないだ子供ではなかった。
誰だ、これは。
「シュエ!」
強ばっていたシュエの身体を、誰かが引き寄せた。首をなんとか動かして、そちらを見る。
そこにいたのは、ヤンだった。
「ヤン」
ヤンは辺りの惨状に顔をしかめると、小さく舌打ちした。
「っ、あのバカ。切れやがって」
つぶやくと、ヤンはシュエの身体を荷物のように肩に抱えた。
一瞬の浮遊感に、はっとシュエは我に返る。
「ヤン!トールが」
「ちょっと黙っとけよ?舌かむぞ」
そう言うなり、ヤンは地面を蹴った。重力が絡みつくような感覚とともに、周りの景色が一瞬で流れる。
強烈な目眩に顔をゆがめたシュエは、家から見る見る間に離れているのに気づいて慌てた。
「ちょ、待って!ヤン!」
「待てねーっての!話は後だ。今は逃げる」
ヤンはそう言って足を踏み出した。目にもとまらない早さで周りの景色が過ぎ去っていった。




