1章
シュエが『彼女』と出会ったのは、よく晴れた日の黄昏時だった。
「うーん。これで、何日持つかなー」
小屋へと続くあぜ道を歩きながら、シュエはひとり頭を悩ませていた。彼女の持つ革袋には、本日しとめたばかりの獲物が詰め込まれている。
数日降り続いた雨がようやく止み、今日は久しぶりの狩りだった。
シュエの家は代々猟をして生計を立ててきたので、雨が長く続くこの季節は、いつも頭を抱える羽目になる。
「保存用に干し肉を作るとしても、売る分がなぁ。あー、あの猪に逃げられなけりゃ……」
颯爽と弾を避けて逃げた猪の姿を思い出し、道端の石を蹴りとばした。石はきらきらと夕焼けの光を反射しながら転がり、そのまま道沿いの小川にぽちゃりと落ちる。
「シュエー!」
大きな声で呼ばれ、そちらを見ると、離れたところから顔見知りの幼い姉弟が手を振っていた。
「シュエ、今帰り?」
「うん」
「ちょうど良かった。お母さんが、たくさん穫れたから野菜持ってけって」
「わーありがとう!荷物片づけたら行くから」
「お礼にお肉とか貰えると嬉しいなー」
ちゃっかりと要望を主張した姉弟に、小さく笑ってシュエは手を振り返した。
「はいはい。ご希望は鳥?兎?」
「兎!」
「りょーかい」
うなずくと、姉弟は歓喜の声を上げた。「久しぶりのお肉だ!」と騒ぎながら手を叩き合っている。何とも賑やかなものだ。
それを微笑ましく見ていたら、姉のほうが思い出したように言い足した。
「あ、そういえばシュエ、セイレンが帰ってきてるって知ってる?」
「へ?そうなんですか?」
「うん、休暇もらったんだって。また前みたいに勉強みてもらいに行こうよ。シュエも一緒に」
「うーん、わたしはいいや。眠くなっちゃうし」
「ええーつまんない」
「ふたりで行っておいで」
そう告げると、姉弟は不満そうに口を尖らせながら去っていった。じゃれあうように手をつなぐ姿が微笑ましい。
ふたりの背中を見送ってから、シュエは担いでいた猟銃を抱えなおした。
夕焼けで赤く染まる乾いたあぜ道を、さくさくとひとり歩く。
シュエが暮らしている家は、街から少し外れた郊外にあった。
生活するにはやや不便な場所だが、狩り場が近いのだけは利点だ。
街とは反対方向へ進んでいけば、そこには豊かな山がある。獣はもちろん、食べられる果実や木の実も多い。まぁ、田舎と言えば田舎なのだけど。
家というには少々雑な造りの建物の前で、シュエは立ち止まった。
一見、小屋のような建物だが、これがシュエの家だ。この辺りは街中と違って、まだ木造の家屋が多く残っている。
とりあえず荷物を片づけておこうと、家の横にある納屋に向かったシュエは、そこで見た光景に目を見開いて立ち尽くした。
「……は?」
納屋はいい。朝、出かけた時と比べて変わった様子はなかった。
ただ問題なのは、その納屋の前に倒れている『誰か』だ。長い髪と華奢な身体から女の人だと分かるが……。
朝はいなかった。それは間違いない。だったら、いつからこの人はここに倒れていたのか。
「あのー、もしもーし?」
行き倒れか、それともただの酔っぱらいか。
おずおずと近寄ってのぞき込んだシュエは、倒れた身体の下に広がる不自然な染みに気づいた。
目を刺すような真新しい赤色は、決して夕焼けだけのせいではない。鮮やかな命の色。
「……血?」
一瞬、唖然とそれを見つめてしまったシュエは、我に返るなり持っていた荷物を全て投げ出した。
なんだか変なことになったなぁと、シュエはランプに灯りを灯しながら考えた。
お世辞にも広いとはいえない家の中、普段自分が使っている布団の中にいるのは、例の女性だ。
とりあえず運び込んだはいいものの、シュエは医学に明るくない。もちろん些細な手当ぐらいならできるが、あの出血量だ。当然医者を呼んだほうがいいに決まっている。
とにかく一度傷口を確認して、止血しておこうとシュエはそっと相手に近づいた。
ランプの仄かな灯りに照らされて浮かび上がるその顔は、この辺りでは見ないような造りをしていた。
髪は長く、しかも雪のような白色だった。肌も同じで、まるで日に灼けていない。
服装も少し変わっていて、ゆったりとした一枚布を重ねて帯で留めていた。着ていたその服さえも白色だったせいで、何もかもが白い印象を受けてしまう。
作り物めいた人形のような女性に、唯一人間らしさを与えているものといえば、右肩から肘まで広がった赤い染みくらいのものだ。
「さてと」
シュエは血塗れになった右腕に軽く触れた。意識がないはずの女性が、低くうめき声をあげる。
乾いた血が袖の辺りで固まり始めていた。女性の服を破るのは気が引けたが、脱がすのは難しそうだ。
すみません、と一応詫びて、持ってきた鋏で生地を裂こうとした時だった。
何の前触れもなく、閉ざされていた相手の瞼が開いた。獣のような黄金の目が、シュエを射抜く。まぎれもない殺気が閃いた。
「っ!」
気がついたら、背中を強かに打ちつけていた。腹を膝で押さえつけられ、喉にはひんやりとした細い指が絡まってくる。
「ひいぃぃ!ちょ、ちょっと!ストップ!待って!」
「何をしようとした」
低い声とともに、喉にかかった指に力がこめられる。シュエは息苦しさを覚えながらも必死に声を上げた。
「何って、手当てですよ!!」
「手当て?」
「そう!」
「誰の」
「あんたのですよ!あんたの!他に誰がいるって言うんですか!」
自棄になって怒鳴ると、相手は少しだけ驚いたような顔をした。喉にかかる力は弱まったが、まだ身体の上からどくつもりはないらしい。
女はシュエに警戒しながら、視線を周囲に走らせた。
「ここは、どこだ?」
「わたしの家ですけど!」
「家?これがか?」
「ぼろくて狭くて悪かったですね!つーかいつまで乗ってんですか!!重い!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐシュエの口を、女の掌がふさいだ。氷のように冷たい手に、思わず身震いしてしまう。
「んんー!!」
「静かに」
抑えた声で、女がつぶやいた。緊張感に溢れた声音につられて、シュエも口を閉ざす。
しばらくして、外へと続くドアが乱暴に叩かれた。
「シュエー?いる?」
この声は先ほど会った姉弟の弟のものだ。シュエを押さえつけている女が身構えたのが、指先から伝わってくる。
とにかくこれは絶好のチャンスだ。何がなんだか分からないが、助けを呼ばなければ。
がむしゃらに暴れれば、声を上げる一瞬の隙くらい作れるかもしれない。
そう思ったシュエは、そっとうかがった女の表情を見て眉をひそめた。
女は真っ青な顔をしたまま、気丈にも扉のほうをにらんでいる。冷たい指が、死人のようだった。鮮やかすぎる血の色が目に痛い。
今にも死にそうな風情だったが、それでも目だけは爛々と輝いているのが不思議だった。
この目をシュエは知っている。手負いの獣の目だ。狩りをしていると、時折こういう目をした獣がいる。死の淵に追い込まれた目。
「シュエ、いないね。せっかく野菜持ってきてあげたのに」
「仕方ないよ。また後で来よ?」
ドアの向こう側でそんな囁き声が聞こえてきた。去っていく足音とともに、シュエの口を押さえていた掌が離れていく。
憮然とした表情でにらんでやると、女は再び少し身構えた。無理に動いたせいか、出血が酷くなっている。
「止血」
「……?」
「ぐらいさせて下さいよ。そのままじゃあんた、本当に動けなくなっちゃいますよ」
女は顔をしかめたまま、シュエを凝視した。
「……なぜだ」
「はい?」
「どうしてそんなことが言える?わたしがどんな相手なのかも知らないくせに」
「はぁ。それ、重要ですか?」
「もちろんだ」
面倒くさいな、と思いつつ、シュエは答えた。
「1、成り行きとはいえ拾ったから。2、とりあえず止血しないと、家の中が血塗れになりそうだから。3、あんたが獣みたいだったから。以上」
「獣?」
「そう、獣」
「意味が分からない」
「分かんなくていいですよ。わたしだって、なんでこんな世話焼こうとしてんのか、自分で分かんないですし」
関わりたくなければ、さっきの姉弟に助けを求めれば良かったのだ。そのつもりでいたのに、気がついたら全く真逆のことをしようとしている。
自分でも相当お人好しだと呆れているくらいだ。
「あんたが何か事情がありそうだってのは分かりました。だけど、その辺のことは面倒だから聞きません。とりあえず、大人しく手当てさせて下さいよ」
女は黙り込み、動かなくなった。その顔が痛ましいほど青白い。
しばらくして、女はそっとシュエの上から退いた。一歩後ずさり、こちらをじっと見つめている。
シュエが近づいてみても、もう拒絶はなかった。